ちょっと危ないこと
「待たせたな」
春岡先輩の声がした方を振り向くと、人が一人分くらいはすっぽり入ってしまうぐらいの大きさのキャンバスを両手で抱えた先輩が、器用な足取りでこちらに近づいてきていた。僕はやむなく目を丸くする。
「どうしたんですか、それ」
僕は聞いた。しかし、やはり先輩は「まあ見てろよ」としか言わずに、そのキャンバスを僕の目の前に立て置いた。特別棟のテラスは、それが置かれるだけで、ひどく窮屈になったように感じられた。
僕は気圧されたようになって、一歩後ろの欄干にもたれかかる。冷たい風が、テラスの周りを緩く渦巻いているのが肌に感じられた。
呆気にとられている僕を後目に、先輩はキャンバスを壁に立てかけると、バッグのポケットから例のビニールひもを取り出して、手際よくキャンバスを巻き、ひもの続きを自分にも巻き付けしっかり固定する。その作業が、ほんの数分で終わった。僕には、先輩がこれから何をしようとしているのか、うすうすわかり始めた。けれど、しかしそれが本当に実行され得ることなのか、まったく予想ができなかった。
「さて、と。じゃあ、行くか。足下には気をつけろよ」
そう言うと、先輩は鍵の錆び付いたフェンスを無理矢理押し開けて、校舎の周りを巡る細い足場の、中庭とは反対側の方へ踏み込む。慣れた様子で、何のためらいもなかった。そしてすぐに、先輩の姿は壁に対して斜めに向けられたキャンバスに隠れてしまう。
「ちょっと、先輩、本当にどうするつもりなんですか」
僕は、開けられたキープアウトのフェンスの前で、ひどく心を波立たせながら先輩に言ったが、白いキャンバスの裏から答えは返ってこなかった。
きっと、頭が混乱していたからだろう。ものの勢いで、先輩の後を追って、僕もその足場に踏み込んでしまった。
当然、すぐにそれを後悔することになった。今両足を置いているのは、肩幅ほどの幅しかない細い足場で、しかもここは校舎の三階で、もちろん命綱もない。身軽な人ならば、これくらいのことはなんとも思わないかもしれないけれど、僕にとっては冷や汗どころじゃない。
校舎の壁から目を離すと、いつもは窓の内側から見ていた緑地公園の雑木林が、目の前に迫っている。見上げると、四階にも巡らされた足場が切り取る、静かな青空。
先輩とは2メートルぐらいの間を保ち、足下を見ないようにしながら、そして急に風に吹かれたりしないことを願いながら、壁を這うパイプや窓枠にしがみついて足を進める。行き止まりのようなキャンバスに先輩の姿が隠れているのが、やけに心細い
。この様子を校舎の中から誰かに見られたりしたらどうしようかと思ったが、幸い誰も三階の廊下を歩かなかった。
すると、突然、目の前で先輩の担ぐキャンバスが、足場から浮いた。僕はぎょっとしてその場に硬直するが、すぐ、そこの壁にハシゴが据え付けられているのを見つけた。ハシゴのある部分だけ足場が途切れていて、他の階の周りに巡らされている足場とも行き来ができるようになっているらしい。
キャンバスの向きが変わって、先輩がハシゴを登っていく姿が露わになる。二念なく、ただハシゴの行く先を見つめて手と足を動かしていた。ハシゴの先は、四階の足場を抜けて、――たぶん、屋上まで続いている。
「俺が上り終わってから登れよ。だいぶボロくなってるから」
既に体が四階の足場に隠れてしまってから、先輩の声が聞こえてきた。
僕が後について登るのはもう決まっているんだろうか。引き返すなら今しかないと、僕の理性は懸命に退避指令を出し続けていたけれど、結局、「登っていいぞ」と先輩の声が聞こえたときには、僕の両手は錆びが覆ったハシゴの段を握っていた。
ギシリ、という、重い歯車が動き出したような音が、僕の手のひらで響いた。




