予感のこと
僕たちは朝をリレ―することなどできない。
朝は誰のもとにも平等に訪れるが、同時に二つとして同じ朝はない。いくつかの朝が重なり合う度に、その共有点を通じてそれぞれの朝の空気が混じり合うのを、わずかに感じることができるだけである。僕らはカムチャッカの若者と同じ空気を吸うことはできないし。ニュ―ヨ―クの少女と同じ日の光を浴びることもできない。
朝は常に始まり続け、常に終わり続けている。幅を持たない始点と終点の、絶え間ない連続があるだけだ。
僕らはその孤独な点の集まりを、一つの直線と見なすことができるかもしれない。あるいは、目の前で終わろうとしている朝に、何か特別な予感を抱くかもしれない。
朝が終わる。ただそれだけのことが、それだけではなくなるかもしれない。そういう予感を。
これは、そういう予感の話である。
時刻、7時30分。いつもは教室野中で見ているはずの、アナログ時計の針の傾きを、今日は地下鉄のホ―ムで眺めていた。この駅から、学校の最寄り駅まで、約15分。8時までには校門をくぐることができるだろうかと、頭の中で時計盤の針を進めながら計算する。しかし、いつもより三十分予定を遅くするだけのことも、何度も繰り返さないとうまく認識できない。習慣とはそういうものだろうと思う。
そのくせ、習慣はほんの些細なことで崩れる。Yシャツのボタンが一つ欠けるだけで、正しいボタンの掛け場が分からなくなることもあるし、十分寝坊するだけで、地下鉄を二本は遅らせないといけない。乗り換えがうまくつながらないと、最終的にはもっと遅くなる。
僕は、自分の今立っている生活が、あまりに微妙なバランスの上に成り立っていることを再発見したような、しなかったような気がして、並んでいる前の人に聞こえないぐらいの深いため息をつく。それと同時に、今までとても遠くで聞こえていたホ―ムを行き交う人々の喧噪が、急に耳元で再生され始めたように感じた。便を二本遅らせただけでも、ホ―ムの混み具合はだいぶ違う。
それから、僕は地下鉄の発着時刻を映す電光掲示板に目を遣った。今から一番早い便は、7時32分とある。その表示をぼんやりと眺めていると、到着を知らせる音楽が構内に流れて、すぐに「まもなく電車がまいります」という表示に変わった。タイミングを見計らって改札から階段を降りてくる人々の足音が、ホ―ムをにわかに雑然とさせる。自分の乗る車両には、もうこれ以上並んでほしくないなあ、とうんざりしながら、地下鉄がトンネルの冷たい空気を押し出しながらやってくる方向が、だんだんと明るくなっていくのを見つめていた。自分の後ろに並んでいく人々のことなどはこれっぽちも頭にない。ほんのひととき、場所を共有するだけの人たちだ。もちろん、こんな考えも僕の頭の中にはない。
しかし、そうでないこともある。
「よう、久しぶりだな」
その声とともに、僕の右肩は軽く叩かれた。半ばぎょっとして、声のした方向を振り向く。
「あ、先輩――」
僕が適当な挨拶の言葉を探している間に、地下鉄の先頭車両が僕の前を通り過ぎて、停まった。
「どうしたんですか」
結局、僕の口からは、春岡先輩への挨拶よりも先に、疑問が飛び出した。三年生の授業は既に終講して、学校に行く必要もないはずなのに、彼はいつも通りの制服を着ていた。
先輩が僕の質問に答える前に、地下鉄の扉が開いて、僕と先輩は流されるように中へ乗り込む。幸い車両の中は空いていたが、座席はこの駅で乗り込んだ他の乗客で、すべて埋まってしまった。僕らは降りる駅のホ―ム側の扉にもたれ掛かるように場所を占めた。
「それで、先輩は学校に用事ですか」
一息ついた後、思い出したように僕は聞く。しかし、先輩はこともなげな表情のままで、「ああ、ちょっとね」とだけ言った。それから、逆に、「お前がこの時間に乗ってるのも珍しいな」と言う。
「ただの寝坊です」
僕も、できるだけこともなげに言ってみたが、そもそもの理由が理由だから、あまり上手く納められたとは思えなかった。
先輩は、乗降口の端に突きだしている手すりに背中でもたれかかって、向かいのドアの窓の向こうをただ見つめていた。その視界からはずれている僕には、言うべきことなど何もない、とでも言うような様子である。こっちから言葉を掛けることも、何となくはばかられて、僕はいくつかの駅を電車が過ぎる間、先輩の様子を観察するでもなく眺めた。
春岡先輩は一種の変人として校内でも定評があるが、身なりに関して言えば特に才気走り過ぎたようなところはない。長身にぴったりと合った学ランを着て、金ボタンは時々上から一つか二つが開いていて、そういう時には白いワイシャツが少しよれているのが見える。登下校の時はいつも大きなボストンバッグを肩に提げていて、そのポケットからはだいたいいつもコ―ラのペットボトルが頭を覗かせている。
今日は、ポケットの中にコ―ラが収まってはいなかったが、その変わりに、新品のビニ―ルひもがすっぽりと収まっていた。
ビニ―ルひも? と僕は首をかしげる。
僕が、もっと先輩の行動のヒントを求めてあれこれと観察しているうちに、降りる駅が車内にアナウンスされた。何人かの乗客が、おもむろに立ち上がって、乗降口の周りに集まってくる。
「先輩――」
僕は、我慢ができなくなって、口を開いた。しかし、先輩はまた僕の出鼻を折るように、
「ああ、お前の聞きたいことは分かってる。まあ、暇ならちょっとつきあってくれよ。面白いものが見れるかもしれないぜ」
と、口元だけニヤリとさせながら言う。僕は、彼がそう言う以上のことを聞くことができなかった。
まもなく、僕らの乗った車両は駅のホ―ムに滑り込んで停まり、僕らは開いたドアから先頭を切って降りる。人混みをかき分けて進む先輩の足取りは速かった。僕も、それに取り残されないように急いだ。




