嘘のこと その3
「ずいぶん青っぽい文章を書いたね」
僕は言った。いつものように、金森から渡されていた原稿のファイルを、彼の座っている目の前に置く。それから、彼の前の席に座り込む。この繰り返しも、これでもう一月以上続いている。相変わらず、金森が一番乗りで窓を全開にする教室は目が覚めるほどに寒い。しかし、一ヶ月前、一月の朝に比べれば、同じ時間でもいくらかは教室の明るさが増しているように思う。本当のことを言えば、そんなことを覚えてはいないけれど、おそらく重要なのは、そういう風に感じることなのだ。
「やっぱり、こういうのは俺らしくないか」
金森は、いつもよりも僕の表情を伺いながら聞く。そういう彼の視線を、僕は珍しいと思った。
「いや、別に、らしくないって言ってる訳じゃないけどさ、どういうつもりで書いたのかな、って思ってさ」
僕は言った。特にどうということもない、という顔で。
「どうするつもりもないさ。そうなるべきだからそう書いてるだけで」
「ふうん。じゃあ、君が気にすることなんて何もないじゃないか」
「まあ、そうだけどさ、あれだよ、産みの苦しみみたいな」
金森は片肘を机につき、その手のひらに頬を乗せて、自嘲めいたため息をつく。まあ、あれなのだろう。
「つまり、君の文章にも青っぽさが必要な時期が来たってことかい?」
僕はにやりとしながら聞く。
「さあね。そのことを考えながら書いてる訳じゃないから。そういう風に見えるならそれでもいい」
金森は更に深く頬を手のひらに押し当てて、机に横たえられたファイルを手に取り、透けて見える原稿の文字を、つまらなそうに目で追い始めた。心なしか、彼の様子には普段の彼にはない気だるさがあるように見えた。
「そういえば、今日は来てないんだね、椎名さん」
僕は、わざと大げさに教室中を見回しながら言った。
「うん。たぶん、図書委員の当番なんだろう。今日は」
「ふうん」僕は言った。ふうん。
「なんだよ。まあ、もともと来るって決まってる訳じゃないんだし、とやかく言うようなことじゃないさ」
金森は言う。なんでもないという言い振りを繕おうとする様子がおかしかった。あるいは、僕がそういう風に邪推しているだけかもしれない。
どちらにしても、ここのところ毎朝、シャンプーさんが金森の教室へ行って、談笑するなりしているのは事実である。はたから見れば、仲のお宜しいこって、というところだが、かといってことはそれほど単純でもないらしい。なんせシャンプーさんは五角関係の渦中の人である。そしてそれはまだ、六角関係にはなっていない。まあ、あれなのだろう。
「それにしても、椎名さんだって、理由もなく来る訳じゃないんだろう。それともあれか、人徳ってやつかい?」
僕はにやりとしながら聞く。しかし、金森は頬杖を深々とついたまま、口をゆるりとも曲げずに言う。
「さあ。理由なんて知らないな。きっと宗教みたいなもんだろう。しっかりとした根拠はどこにもないけど、ぼんやりと何かいいものがありそうに見える。気がついたら、その何かがあることを前提に全部が動いてる。人徳なんかよりよっぽどたちが悪い」
「心配しなくても、ヒロにはあるって。あー、つまり、それが」
「どうも。そうだといいけど。だけど、別に俺は慰められたい訳じゃないんだ」
「ふうん」僕は言った。ふうん。
それから僕らは、暫く沈黙した。文字通り、黙って、下を向いていた。そうなるときだってある。よそ目には、シュールな哀愁の漂う光景にしか見えないだろうけれど。幸いなことに、僕らがそうしている間、誰もこの教室を訪れなかった。時刻は、7時50分。時計から目を離すと、再び顔を下げる。
風はなかった。やけに、しんとした冷たさが、僕らの足下で滞っていた。僕は、それがいやにあからさまに思えて、何か口を開くきっかけを探した。
ガタン、と、どこかの側溝の蓋を、自転車が乗り越える音がした。
「それで、結局君は、満足してないのかい」
僕は言った。答えが返ってくるまでには、また少しの間があった。
「満足してることもあるし、してないこともある。”すべては相対的問題です”」
金森はそう言って、ようやくにやりとした。僕もにやりとする。
「そう。でも、満足してない割には、君は何かを望んでもないように見えるけど」
僕が言うと、金森は口元を曲げたままで、ふうと深い息をついた。
「どうもそう見えるらしいね。それならそうで、別にいいさ。それに、本当にそうなのかもしれない。何も望みがないことが不満っていう可能性もある」
「ずいぶん幸せな不満だね」
「そんなものが本当にあれば、な。本当のことを言えば、何かを欲しがる方法ってのを持ってないんだよ。」
「それもずいぶんイヤミな理由に聞こえるけど」
「ああ、泣けるぐらいにイヤミだぜ。まあ、泣いて済むんなら安いもんだ」
「君は、江戸時代にでも生まれてれば、ひとかどの思想家にでもなれたかもしれないな」
「うむ。ストレートに時代遅れだと言ってくれてありがとう」
金森は笑った。僕も笑った。
永久に嘘をつき通すためには、永久の記憶力がなければいけない。馬鹿らしいとは思うが、こんな言葉も名言集に乗っていた。誰の言葉だったかは覚えていない。
僕は記憶力がいい方である。いつどこで誰と何を話したか――そこまでは覚えられやしないが、誰と何について話したかぐらいならたいてい覚えている。同じ人に同じ話を二回することはほとんどない(むしろ一回もしないことの方が多いかもしれない)。したがって、僕がついた嘘のことも、嘘をついたという事実なら、いじましく記憶されている。そしてそうである限り、嘘は嘘としてあり続ける。
金森に言わせれば、あるいは、小説を書くという行為それ自体も、嘘をつくことと全く変わらない。もちろん、どこまでを嘘と定義するかにも依るだろう。嘘とフィクションは違うというなら、それでいい。それか、文化的嘘つきとでも言えば多少は見栄えするかもしれない。いずれにしても、小説家とは、彼らが神様でない限り、永遠に嘘をつき続ける人々のことを指す。だからどうしたということもないけれど。
「まあ、何だっていいんだけどさ、もうそろそろ、話を前に進めてくれないかい。今まで伏線をばらまいただけで、少しも回収してないじゃないか」
僕は、金森の手から原稿のファイルを引ったくって言った。
「ああ、うん。あんまり考えないようにしてたんだけど、まあぼちぼち始めるよ」
「そう」
僕は、適当に一言二言何かを言って、金森の教室を出た。時刻は8時10分。僕とすれ違いに、賑やかな一団が教室の中へ入っていった。
朝が、終わる。




