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a.m.7:30-8:10  作者: 春井 武修
2月中旬
23/95

嘘のこと その3


「ずいぶん青っぽい文章を書いたね」

 僕は言った。いつものように、金森から渡されていた原稿のファイルを、彼の座っている目の前に置く。それから、彼の前の席に座り込む。この繰り返しも、これでもう一月以上続いている。相変わらず、金森が一番乗りで窓を全開にする教室は目が覚めるほどに寒い。しかし、一ヶ月前、一月の朝に比べれば、同じ時間でもいくらかは教室の明るさが増しているように思う。本当のことを言えば、そんなことを覚えてはいないけれど、おそらく重要なのは、そういう風に感じることなのだ。


「やっぱり、こういうのは俺らしくないか」

 金森は、いつもよりも僕の表情を伺いながら聞く。そういう彼の視線を、僕は珍しいと思った。

「いや、別に、らしくないって言ってる訳じゃないけどさ、どういうつもりで書いたのかな、って思ってさ」

 僕は言った。特にどうということもない、という顔で。

「どうするつもりもないさ。そうなるべきだからそう書いてるだけで」

「ふうん。じゃあ、君が気にすることなんて何もないじゃないか」

「まあ、そうだけどさ、あれだよ、産みの苦しみみたいな」

 金森は片肘を机につき、その手のひらに頬を乗せて、自嘲めいたため息をつく。まあ、あれなのだろう。

「つまり、君の文章にも青っぽさが必要な時期が来たってことかい?」

 僕はにやりとしながら聞く。

「さあね。そのことを考えながら書いてる訳じゃないから。そういう風に見えるならそれでもいい」

 金森は更に深く頬を手のひらに押し当てて、机に横たえられたファイルを手に取り、透けて見える原稿の文字を、つまらなそうに目で追い始めた。心なしか、彼の様子には普段の彼にはない気だるさがあるように見えた。


「そういえば、今日は来てないんだね、椎名さん」

 僕は、わざと大げさに教室中を見回しながら言った。

「うん。たぶん、図書委員の当番なんだろう。今日は」

「ふうん」僕は言った。ふうん。

「なんだよ。まあ、もともと来るって決まってる訳じゃないんだし、とやかく言うようなことじゃないさ」

 金森は言う。なんでもないという言い振りを繕おうとする様子がおかしかった。あるいは、僕がそういう風に邪推しているだけかもしれない。

 どちらにしても、ここのところ毎朝、シャンプーさんが金森の教室へ行って、談笑するなりしているのは事実である。はたから見れば、仲のお宜しいこって、というところだが、かといってことはそれほど単純でもないらしい。なんせシャンプーさんは五角関係の渦中の人である。そしてそれはまだ、六角関係にはなっていない。まあ、あれなのだろう。

「それにしても、椎名さんだって、理由もなく来る訳じゃないんだろう。それともあれか、人徳ってやつかい?」

 僕はにやりとしながら聞く。しかし、金森は頬杖を深々とついたまま、口をゆるりとも曲げずに言う。

「さあ。理由なんて知らないな。きっと宗教みたいなもんだろう。しっかりとした根拠はどこにもないけど、ぼんやりと何かいいものがありそうに見える。気がついたら、その何かがあることを前提に全部が動いてる。人徳なんかよりよっぽどたちが悪い」

「心配しなくても、ヒロにはあるって。あー、つまり、それが」

「どうも。そうだといいけど。だけど、別に俺は慰められたい訳じゃないんだ」

「ふうん」僕は言った。ふうん。


 それから僕らは、暫く沈黙した。文字通り、黙って、下を向いていた。そうなるときだってある。よそ目には、シュールな哀愁の漂う光景にしか見えないだろうけれど。幸いなことに、僕らがそうしている間、誰もこの教室を訪れなかった。時刻は、7時50分。時計から目を離すと、再び顔を下げる。

 風はなかった。やけに、しんとした冷たさが、僕らの足下で滞っていた。僕は、それがいやにあからさまに思えて、何か口を開くきっかけを探した。

 ガタン、と、どこかの側溝の蓋を、自転車が乗り越える音がした。


「それで、結局君は、満足してないのかい」

 僕は言った。答えが返ってくるまでには、また少しの間があった。

「満足してることもあるし、してないこともある。”すべては相対的問題です”」

 金森はそう言って、ようやくにやりとした。僕もにやりとする。

「そう。でも、満足してない割には、君は何かを望んでもないように見えるけど」

 僕が言うと、金森は口元を曲げたままで、ふうと深い息をついた。

「どうもそう見えるらしいね。それならそうで、別にいいさ。それに、本当にそうなのかもしれない。何も望みがないことが不満っていう可能性もある」

「ずいぶん幸せな不満だね」

「そんなものが本当にあれば、な。本当のことを言えば、何かを欲しがる方法ってのを持ってないんだよ。」

「それもずいぶんイヤミな理由に聞こえるけど」

「ああ、泣けるぐらいにイヤミだぜ。まあ、泣いて済むんなら安いもんだ」

「君は、江戸時代にでも生まれてれば、ひとかどの思想家にでもなれたかもしれないな」

「うむ。ストレートに時代遅れだと言ってくれてありがとう」

 金森は笑った。僕も笑った。




 永久に嘘をつき通すためには、永久の記憶力がなければいけない。馬鹿らしいとは思うが、こんな言葉も名言集に乗っていた。誰の言葉だったかは覚えていない。

 僕は記憶力がいい方である。いつどこで誰と何を話したか――そこまでは覚えられやしないが、誰と何について話したかぐらいならたいてい覚えている。同じ人に同じ話を二回することはほとんどない(むしろ一回もしないことの方が多いかもしれない)。したがって、僕がついた嘘のことも、嘘をついたという事実なら、いじましく記憶されている。そしてそうである限り、嘘は嘘としてあり続ける。

 金森に言わせれば、あるいは、小説を書くという行為それ自体も、嘘をつくことと全く変わらない。もちろん、どこまでを嘘と定義するかにも依るだろう。嘘とフィクションは違うというなら、それでいい。それか、文化的嘘つきとでも言えば多少は見栄えするかもしれない。いずれにしても、小説家とは、彼らが神様でない限り、永遠に嘘をつき続ける人々のことを指す。だからどうしたということもないけれど。



「まあ、何だっていいんだけどさ、もうそろそろ、話を前に進めてくれないかい。今まで伏線をばらまいただけで、少しも回収してないじゃないか」

 僕は、金森の手から原稿のファイルを引ったくって言った。

「ああ、うん。あんまり考えないようにしてたんだけど、まあぼちぼち始めるよ」

「そう」


 僕は、適当に一言二言何かを言って、金森の教室を出た。時刻は8時10分。僕とすれ違いに、賑やかな一団が教室の中へ入っていった。


 朝が、終わる。


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