漠然としたこと
「ヒトの価値を決めるものは何か」花田は言った。「十五字以内で答えろ」
とりあえず、僕は眉間に皺を寄せた。
教室に行くと、そこには実に珍しい光景があった。一瞬、入るところを間違えたかと思うぐらいである。教室の前の方にある僕の机には金森が座り、その横には花田が(いや、そこは彼の席だから、別におかしいことはないのだが)座って、互いに顔を寄せ合っている。そしてその一列後ろではたいやきさんが、机に両手を突いた姿勢で二人の様子を眺めている。僕が戸を開けた途端に、三つの顔が思い思いの速さでこっちを向いて、おう、だのうっす、だのおはよう篠原君、だの言った。僕はそれらの間をとって、やあ、と返す。
「今ね、花田君と金森君が世界史対決してるの」
僕が聞く前に、たいやきさんが言う。
「世界史対決?」
僕は、聞き返しながら、二人が顔を寄せ合っているところをのぞき込む。
何のことはなかった。二人は、金森のスマートフォンのアプリを使って、世界史のクイズをやっているようだった。そういえば、金森も花田も、世界史が得意だ。もちろん、だからといってこの二人が突然僕の席でクイズ勝負をしている理由は分からないのだけど。
そしてもう一つ、今日から学年末テストのテスト週間だったことも思い出す。どおりで花田が朝早く来ている訳だ。たぶん、僕も何かしら焦り始めないといけないのだろうが、僕の中にあるのはただの漠然とした不安だけである。現代文の資料集の芥川龍之介だったかに、括弧抜きで「『漠然とした不安』にから自殺」とかと書いてあったのがやけに頭に焼き付いているが、僕のそれはもはや不安なのかどうかも分からないほど漠然としているから困ってしまう。たぶん、実際のところは何にもないのだろう。
「コーランか剣か」
いきなり、花田が大声で言った。「オレこの言葉好きだわ。この有無を言わせない感じ」
「コーランか貢納か剣か、な。そこは重要だぞ」金森が言う。
「あ、そんなのあったね。えっと、イスラームに改宗するか、税を納めるか、戦うか、だっけ」たいやきさんも間に入る。
「そうそう。コーランと剣で有無を言わせないっていうだけで覚えてると、いろんなとこから怒られることになるぞ」
「いろんなとこってどこだよ」花田が言う。
「いろんなとこはいろんなとこだよ」金森は、そう押し切ってニヤリとした。金森が言うのならそうなのだろうと、花田は納得したような顔をする。しかし彼は知らない。金森が何かを話すうち、純粋に正しいことはたった一割ぐらいで、残りの九割は冗談と出任せであるということを。まあ、意図的に嘘をつかないことは、彼の良心かもしれない。
「あのさあ、盛り上がってるとこ悪いんだけど、自分の席を使わせてもらっていいかい」僕は自分の机を
こつこつと叩きながら言った。しかし、なぜかそこに座っている金森ではなく、花田が「ダメ」と簡潔に拒絶する。金森は、出掛かった言葉を飲み込んで苦笑いした。
「コーランか貢納か」花田が言う。あらがう余地はないということか。余計なお世話だ。
「そもそも、どうしてヒロとゴリラが?」僕は聞いた。二人にはほとんど接点がなかったような気がするが。これにも花田は即答する。
「こいつはオレの永遠のライバルだからな」
「はあ?」
「なんか、そういうことになったらしい。まあ、俺は別にいいんだけど」金森が説明ともつかない説明をする。たいやきさんは、話に入れなくてとりあえずにこにこしている。
「あ、そう。ずいぶんと面倒な奴にからまれたな」
ゴリラと永遠のライバルになる可能性もあるということである。
「そうだ、カズもやろうぜ。何人でやったっていいんだから」
そう言って、金森はスマートフォンを僕に差し出す。画面に映っている問題文がちらりと見えた。『スコラ学における実在論と唯名論との争いは――』
「あー、いや、まだそこらへん勉強してないからいい。来年は世界史選択しないし」僕は言った。社会の選択科目の話だ。僕は日本史と倫理をとる。
「あ? んなこと言ったら俺も世界史はとらねーよ」花田が言った。「やっぱり甘いなあシノちゃんは」
坊主頭がにくるりと回って、花田のにやけた顔がこちらを向く。花田の選択も日本史と倫理である。
「うるさいな。そもそもゴリラが倫理っていう時点で間違ってる」
僕は言った。花田と会話していると、つい悪態をつくばかりになってしまう。別に反省はしていない。
「はは、ゴリラに思想があったらたまったもんじゃなねーな。それはそれでおもしろそうだが」金森が言う。「要するにテロリストだな。バナナか剣かの」
それは確かにたまったもんじゃないが、つまりそれはいつもの花田である。餌を出しておけば静まるっていうのなら、随分楽な話だ。
「おう。破壊するにも思想があるんだよ」花田は言う。
「たとえば?」
「じゃあ、シノに問題。ヒトの価値を決めるものは何か。十五字以内で答えろ」花田は妙に改まった口調で言った。
「はあ?」僕は眉間に皺を寄せる。「いきなりなんだよ」




