軟弱なこと
「よう」僕は言った。
「よう」金森は言った。
金森の教室には、彼の他に数人が、それぞれの席に散り散りで座っていた。僕がしゃべったことのない人ばかりだ。彼らは僕が入ってくると一斉に顔を上げ、そして下げた。
「風邪はもう治った?」僕は聞く。
「ああ、もうすっかり大丈夫だよ。一晩ですっかり収まった。何だったんだろうね、あれは」金森はそういいながら、机の上に広がっている勉強道具を片づける。
「そう。ならいいんだけど。で、はい、これ」僕は、例のピンク色のファイルを金森の机に置いた。パサリ、という音がする。
「……これって?」金森は、きょとんと首をかしげる。
「ん、こっちもよく知らないけど、椎名さんから。ヒロに渡してくれって」僕が言うと、金森は、ああ、と諒解したようなため息をつき、ファイルの中から紙を取り出す。
「それで、何なんだい、それは」僕が聞く。
「これね……まあ、要するに、持ち込みってやつ?」
「持ち込み?」僕は聞き返す。ここのところ聞き返してばかりだ。金森は、説明するまでもないという風に、その紙を僕へ見せる。その上の方には、二重鍵かっこ囲みで『図解・美術部五角関係騒動』と書かれていた。
「五角関係騒動?」僕は、もう一度聞き返す。そんなものは本当に成り立ち得るのだろうか。
金森は、やれやれという表情で紙に視線を落とした。
「なんかさ、この前椎名さんに頼まれたんだよ。これをネタに小説を書いてくれないか、って。確かに、事実は小説よりもなんとやらって話なんだけど」
その紙には、いかにもあだ名らしい名前同士がハートマークやドクロマークで結んである相関図や、何日に誰がどうしたとかが書き込まれた表が載っていた。その中には椎名さんの名前もある。まあ、要するにそういうことが書いてあるのだ。美術部と書いてあるから春岡先輩のことが頭をよぎったが、彼らしい人物は話題に登っていなかった。
「ふむ、だいたい事情は分かったけど、どうしてまた?」そもそも椎名さんは写真部だったはずでは。
「さあね。気づいたら頼まれてたんだ」金森は困ったように言う。
「ふうん。それにしても、持ち込みの依頼が来るなんて、君も偉くなったもんじゃないか。僕の他にも君の小説のファンはいるんだな」僕はニヤニヤしながら言う。僕が金森の小説のファンだって?
「ははは、そうだといいけど。まあ、確かに椎名さんの場合は特別だろうな」
「特別?」
「ああ。俺がネットに投稿してるくだらない小説に、文句を言うどころか、会うたびに続きを催促してくれる、とても慈悲深くて徳の高いおひとだよ」金森は言う。
「へえ、それはまた酔狂だね」
「うん、違いない。でもさ、理由は何であれ、自分が書いたものを読んでもらえるっていうのは、嬉しいもんだぜ。もちろん、誰かに読んでもらうために書いてるってわけでもないけどさ、がんばって書こう、って気になる」
金森は、五角関係騒動の紙の一点を見つめながら言う。もしかしたら、見ているのはその奥の机の木目かもしれない。
「ずいぶんとそれっぽいことを言うな。また熱が出てきたんじゃないかい?」僕は言った。あはは、と金森は笑った。僕はニヤニヤした。
「で、結局その依頼は受けるの? 僕が知ってる限り、君はそういうのを書くタイプじゃないと思うんだけど」僕のニヤニヤは止まらない。金森が恋愛小説だって? まあ、僕が笑えたことではないが。
「うむ、問題はそこなんだよな。できれば適当に話をつけてうやむやにしたいと思ってる。椎名さんもそこまで本気で言ってないだろうし」
「こんなものまで作ってきてるのに?」僕は“こんなもの”を金森から取り上げて、それに向かって眉をひそめるふりをする。
「はは、そもそも、こういう話を持ち込んでこられた時点で俺のキャパシティを超えてるからな。成り行きに任せるよ」金森は再び、やれやれという顔をして、ため息をつく。
人が一人称を主語にして文章を書く理由はいくらでもある。しかし、それらのすべてを集約すると、最終的にはおおよそ二つのパターンだけが残る。つまり、一つは自己の凝視で、もう一つは自己の肯定だ。そのどちらかしかなくて、たいていの場合、どちらも至って不毛である。経験上、それは間違いない。けれど、そこにもある種の完全性を見いだすことはできる。自己の凝視によって何かをため込み、自己の肯定によってそれを吐き出す。その繰り返しは、バタフライの泳ぎ方に似ている。自分の胸のあたりで渦を巻いている重い液体を、無理矢理に掻き出す作業―その反作用で、あるいは前に進むことができるかもしれないし、そう見えて実は同じところをぐるぐる回ることしかできないかもしれない。まったく関係のない話だけれど、僕はバタフライが泳げない。うん、このことは忘れてもらっていい。
それで、話を戻すと、吐き出すという行為は、朝晩の生理現象や定期的にふと涙がこみ上げてくることと同じである。運が良ければ、僕らはもらい泣きをしてくれる人を見つけることができるし、時には人間の慈悲深さを与えられることだってあるかもしれない。
これは至って軟弱な世界の話である。
「あ、噂をしたら影が来たぞ」金森が言った。僕が彼の視線の方を向くと、入り口のところでシャンプーさんが、例の微笑みとともに肩の横で手を振っていた。彼女はそのまま、僕らのところへ駆け足で寄ってくる。
「おはよ、金森君。見てくれた? 『図解・美術部四角関係騒動』」シャンプーさんは、そのイカガワシい名称をまくし立てるように言う。
「え、ああ、うん。まだしっかりとは見てないけど」金森は、たじろぎながら答える。
「金森君が書いてくれるの楽しみにしてるからね、ね、」ね、という押しつけの終助詞が繰り返されるたびに、シャンプーさんの目を輝かせた笑顔が金森に近づく。うむ、なかなか金森にものを頼み慣れている。
「えーと、あー、でも、やっぱりこういうのってあんまり書かないから、ちょっと難しいかも……」
「作風を広げるためにも、こういう話を書いてみるのも必要だよ! ね、」シャンプーさんの顔はさらに近づく。なかなか強敵である。
「あ、うん……まあ、考えておくよ」金森は、もうどうにでもなれという風にはにかむ。どうやらシャンプーさんのKO勝ちのようだ。
「やった、それじゃあ、よろしくね」ようやくシャンプーさんの顔が金森から離れる。彼はホッと息を漏らした。
しかし、シャンプーさんはまだ終わらない。
「そう言えば、金森君がネットに登校してる話で昨日更新してたのに出てた『シャンプーさん』って、私がモデルだよね」と、『シャンプーさん』は言う。ご名答。そして顔が近づく。
「え? さ、さあね。想像に任せるよ」
「えー、でも、どうして『シャンプーさん』なの?」
「いや、だからそれも想像に任せるって」
「んー、教えてくれないかー。でもそのうち教えてね。更新待ってるよ」
そう言って、シャンプーさんは金森の教室を出て行った。最後まで例の微笑みがこちらに向けられていた。彼女の姿が完全に見えなくなると、改めて金森は深く息をつく。
「ずいぶんいいファンじゃないか。ああいうのは大事にしなよ」僕はまだにやつきながら言う。
「はは、せいぜいそうするよ」金森は言った。
「それで?昨日更新してたっていうのはまだ見てないけど、どうもここのところ、悪ノリが過ぎてるみたいだな」僕は言った。
「はは。まあ、分かっててやってることだからね。苦情があったら止めるさ。どうせ、両手両足で数えられるぐらいの人しか読んでないんだし」金森は苦笑いしながら言う。相変わらず、彼は文章のことになると勝手だ。
「ほどほどにしとけよ」僕は釘をさした。
点呼前の予鈴が鳴り、どこの教室もようやく賑やかになる。8時25分。今日は少し、長く書きすぎた――




