表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
a.m.7:30-8:10  作者: 春井 武修
2月上旬
11/95

入れ続けることと、出し続けること


 いつも何かにつけて文句を垂れたり、口を開けば自虐性の冗談ばかり言ったり、誰もいない壁に向かってやれやれと呟いたりしている僕にも、えらく気分のいい朝というのは存在する。否、えらく気分のいい僕が存在すると言った方が正しい。別に僕の気分が良かろうが悪かろうが、誰のためともなく朝はやってくる。それに、どんなに目覚めのいい朝でも、そのおかげでその日一日僕の気分が良くなるというわけではない。まあ、僕の中でそういう周期みたいなものがあるのだ。


 気分のいい朝というのは、決まって偏頭痛が二日ばかり続いたあとにやってくる。偏頭痛といっても、何かの病気の兆候とか、超自然的な感性の発現とか、そういう意味合いのものではなくて、単に疲労の蓄積と視神経の磨耗から来るものだ。大方、夜寝る前にマインスイ―パ―をやり始めたりすると、翌朝には軽い悲壮感とともに重い頭を持ち上げることになる。

 この偏頭痛をやり過ごさない限りは、えらく気分のいい朝はやってこない。もちろん、気分のいい朝など求めない代わりに、偏頭痛の苦悩からも解放されるという選択肢があるならば、僕は迷わずそれを選んでいるだろう。だけど、これもやはり、僕が主体的に選べることではない。むしろ、二、三日我慢すれば済むというだけでもありがたい話なのかもしれない。どちらにしても、僕の頭痛の話なんて誰も興味はないだろう。だからこれでやめる。


 それで、とにかく僕は今、えらく気分がいい。これで天気もよければ、文句のつけようがなかっただろう。見上げれば、湿った雲が低く空を覆っている。予報では、昼過ぎから雨が降るらしい。そういう日だってある。天気が悪いから心も雨模様なんていうのは、中学校の国語の教科書までしか通用しない。これは金森の言葉だ。僕もそう思う。ただし、僕は中学校までの国語の教科書にどんな文章が載っていたかなんていうのはほとんど覚えていない。金森にしたって同じようなものだろう。


 そんなことを考えながら、いつもの坂道を校門まで歩く。もうすでに、前々から頭の隅に引っかかっていた、去年を引きづっている感覚はない。あれから一月近く経ったのだ。とっくの昔に玄関の注連縄飾りはしまわれたし(僕の親は僕ほどものぐさじゃない)、置きっぱなしになっていた模造の鏡餅も、いつのまにか元あった場所から消えていた。新しい年が来たという感覚はまだないが、とりあえず、去年という時間の痕跡は確実に僕の周りから淘汰されていっているように思う。もしかしたらこのまま、去年なんてものはあったかなかったか分からなくなってしまうかもしれないし、もしかしたらそれは何か他のものに形を変えて潜んでいるだけなのかもしれない。どちらにしろ、どっちの方が健全か、なんていうのは、僕が考えることじゃない。


 こんなことを考えながら歩いていた。特に意味はないと思う。僕にとって気分が良い日というのは、頭の中に取り留めのないことが充満している日でもある。

 何かが充満しているというのは、とても安らかなことだ。笑うことと同じで、考えたくないことを閉め出すことができる。そしてできるならば、充満している何かは絶えず循環している方がいい。ダムの取水口のずっと奥の方みたいに、常に新しいものを取り込んで、同時にそれと同じだけのものを吐き出して、その間にある見せかけの飽和を持続させるのが一番いい。同じものが長い間いつづけて、それが淀み、沈殿していくのが一番いけない。


 だから僕は考え続けて、忘れ続ける。もちろん僕はまだ、そうやって生きることに関してプロフェッショナルではないから、気分のいい日にしかこんなことはできない。やってみれば分かると思うけど、これはけっこう疲れることなのだ。


 そういうことを考えながら、僕は歩いている。今日は少し坂が長くなっている気がする。多分気のせいだろう。あるいはそれは相対論的な問題だ。たとえば―光のスピ―ドに近づくほど、時間の流れは遅くなる。それじゃあ、光の速さで頭を回転させることができたら、その思考を取り巻く時間はゆっくりになるだろうか。もちろん、人間の思考というのが脳の電気信号である限り、そんなことは起こらない。それなら、もし仮に、僕の神経回路が光ファイバ―か何かでできているとしたらどうだろう。僕の能力的な問題は抜きにして――僕は、自分の神経回路だけが頭を飛び出し、自分の本体は何事もないように歩き続けているところまで想像して、やめた。


 そういう、くだらないことを考えながら歩いていた。そして僕は今、歩いていない。校門の目の前の交差点で、赤信号を待っている。調理学校の時計は7時30分を指していた。いつもより少し遅い。もしかしたら、本当に坂が長くなったのかもしれない。あり得ないことじゃないように思う。


 数台の自動車が、音を立てて僕の目の前を通り過ぎていく。そのたびにウインドウに映り込む自分の姿が、やけに目に留まった。丸みを帯びた強化ガラスの表面にあわせて、つるりとゆがんだ自分の上半身が、現れるたびに僕を見つめ返して、そして僕の視界から消えていく。特に理由はないけれども、僕はできるだけ微笑むように努力した。そうしたら、再びやってきた彼も僕に微笑み返した。別に楽しくはない。僕にしても、彼にしても。それでも、まあ、どうだっていいじゃないか、というのが今日の僕である。おそらく彼もそう思っていることだろう。


 それから僕は空を見上げた。相変わらず、今にも降り出しそうな雨雲が広がっている。まあ、どうだっていいじゃないか、と僕は繰り返す。傘だってちゃんと持ってきているし。


 信号が青に変わって、僕は歩き出す。後ろの方から、二台の自転車がけっこうなスピ―ドで僕の横を通り抜けて、校門の向こうに入っていった。危ない人たちだ。この坂も学校の中も、自転車に乗って走るのは禁止なのだが。

 まあ、いいじゃないか。いや、よくはないかもしれないけど、僕がとやかく言うことじゃない。


 そんなことを考えながら歩いていると、後ろからもう一台自転車がやってきて、僕の隣で止まった。僕は一瞬身構えたけれど、すぐにそれを元へ戻す。


「おはよう」ベルギ―さんは言った。

「おはよう」僕も言った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ