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a.m.7:30-8:10  作者: 春井 武修
1月
10/95

リアリティのこと


 明くる朝、僕はどういうわけか、金森にもたれかかられながら、保健室に向かっていた。三階の彼の教室から、一階の事務室の奥にある保健室までは結構遠い。薄暗く、人の通らない7時40分の廊下を、うんうんうなりながら、僕の肩の上で荒い息を吐いている金森と歩いているというのは、とても不思議な感じがした。ぐったりとしたダイオウイカを背負いながら、海底の洞窟をさまよっている感じ―とまで言うと言い過ぎかもしれない。

 

 五分ほど前、僕はいつものように、金森が書いてよこした原稿を持って、彼の教室を訪ねた。教室にはやはりいつものように、彼しかおらず、その彼は自分の机に突っ伏して、うぅ、だのあぁ、だの小さなうなり声をあげていた。驚いて訳を聞くと、起きたときから熱っぽかった頭が、学校に着いた頃には、意識が朦朧とするぐらいになっていたのだと言う。しかし、僕を待つために、真っ先に保健室に行かず、わざわざ三階まで登ってきたとも言った。僕は開いた口が塞がらなかった。彼の持っている物事の優先順位がおかしいのは、きっと頭に熱が回っているからだけではない。


 ずいぶん長い道のりに感じられたが、とろとろと事務室の前の廊下を歩いて、僕と金森はようやく保健室の扉にたどり着いた。保健室は一般の教室よりも体育館に近い位置にあって、朝練の最中にけが人が出た時のために、朝早くから開いている。保健室の目の前には、体育館のすぐ後ろに出られる出入り口があって、保健室の戸の前まで、土足で入ってくることができる。僕らは室内履用のマットをたどった。

 思えば、この保健室に入ったことも、毎年の身体測定以外ではほとんどない。ありがたいことである。少し前の放課後に、花田が怪我をしたときの付き添いで戸の前まで来たことはあったが、そのときもやはり、「待ってろ」と言われたまま、戸の外で待ちぼうけを食らっただけだった。しかも花田は、用事が終わると僕を戸の外に待たせたまま、もう一つの出口の方から帰ってしまったのだ―あまりそのことを考えていると腹が立ってくるから、もうやめる。

 肩の上に顎を重ねてぐったりしている金森に、着いたぞ、と声をかけながら、保健室の戸を開ける。背中の方では、体育館の床をたくさんのボ―ルが弾む振動が聞こえた。奥の方から「は―い」というのんきな声が聞こえて、僕らは保健室の中に入った。




 テテテテッ テテテテッ テ―テ―


 懐かしいような、かつ嫌な記憶のよみがえりそうな消毒臭が漂う部屋の中に、聞き覚えのある電子音が響いた。

「先生、こいつの体温が火サスってるんですけど」僕は、金森が脇から取り出した体温計の表示を見ながら言った。

「あら、それは事件ねえ」養護の先生は、ベッドのシ―ツを整えながら、こともなさそうにそう言った。いかにもベテランという手つきだ。

「いや、冗談じゃなくて、本当に結構熱あるみたいなんですけど」僕は言った。横で、金森がうぅ、とうなった。

「大丈夫よ、分かってるから。その体温計は体温ごとに計り終わりの音が違うの」先生は言った。なるほど、と僕は思った。ずいぶんと遊び心のある体温計である。

「他にはどんなのがあるんですか」

「それは鳴ってからのお楽しみよ。さ、ベッドができたから、横になってていいわよ。自分で歩ける? 付き添いさんはそこの記録表埋めて置いてね」

 言われる通りに、金森はよろよろとベッドに向かい、僕は机に置かれた保健室利用者の記録用紙を書いた。その記録表は、もうすでに、昨日の日付の書き込みでほとんどと下の方まで埋まっていた。案外、保健室を使う人は多い。


「この様子だと、今日は何もしないで帰った方がよさそうね。家は近いの?」ベッドの上で伸びている金森に、先生は聞いた。少し離れたところで様子を見ている僕にも、いいえ、という小さな声が聞こえる。彼も僕と同じ学区に住んでいるのだから、当然、昏睡寸前の彼が一人で帰れるような距離ではない。

「それじゃあ、誰か迎えに来てもらえそうな人はいる?」

「ええと、多分、家に母が」

「そう、それじゃあお母さんに連絡するわね。お家の電話番号教えてちょうだい」


 先生は金森から番号を聞くと、電話をかけにベッドを離れた。それと入れ替えに、僕は金森の隣のベッドに座って、彼の姿を見下ろす。

「気分はどうだい」

「うん、だいぶ楽だよ。ありがとう」そう言って、彼は深く深呼吸をした。彼の息は、しかしまだ、かなり熱を持っているようだ。僕は、手に持ったままだった原稿のファイルを、彼の前に出そうか、それとも体の後ろにでも隠しておこうか迷って、手をうろうろさせた。それは、あまり病人相手にすることじゃない。けれども、金森は僕の迷いを見透かすように聞いた。

「……それで、原稿はどうだった?」彼は僕に顔を向ける。僕は諦めて、ファイルを膝の上に置いた。

「ああ、うん、しっかり読ませてもらったよ。でも、今感想を言って、まともに聞けるかい?」

「今じゃなかったら、いつ聞くんだ」金森は言った。彼の視線は定まっていなかったが、目線の先は僕の喉のあたりに集まっていた。

「なんかいやな言い方だな。……分かったよ。でも、どっちにしろあんまり良いことは言えないぞ。というか、そうだな、ここのところ、文章に疲れが目立ってる気がする。描写が雑になってきたし、はじめの頃のキレががない」僕が言うと、金森は小さく頷いた。

「たしかに、疲れは少しあるかな。やっぱり、はじめの方は書きやすいから、つい飛ばしちゃうんだよな」

「分かるよ。ただ、それ以上に、展開が少し心配な気がする。けっこう登場人物が増えてきたわりに、ほとんど話が進んでないし。下手すると収拾がつかなくなる」僕は言った。金森はしばらく目を閉じて静かに息をしていたが、目を閉じたまま、ニヤリと笑った。

「いいんだよ。俺がやりたいのは新聞の四コマ漫画みたいなやつなんだから。収拾なんて、ムリにつけようとは思ってないんだ。どれだけでも膨らんでいけばいい―今まで生きてきて、まともに収拾がついたことなんてあったか?」金森は言った。僕は余計なお世話だと言いたかったが、彼の意見は全くもって間違っていなかった。僕の人生にもし何らかの収拾がついていたのなら、僕はもっと穏やかで悩みのない世界で、あるいは少し退屈しながら暮らしているはずである。そして、そう思うとやはりそれは余計なお世話だった。

「余計なお世話だ」僕は言った。

「まあ、ほおっておけば、そのうち勝手にどこかへ落ち着くさ」彼は、押し出すようにそう言い放つと、赤ん坊がぐずるように寝返りを打って、僕のいない方向に体を向けた。


 ほおっておく、というのは、金森が展開を見失ったときに使う常套手だ。もちろんそれは、話の続きを小人にでも任せて、ベッドに潜り込むという意味じゃない。

―物語は生きていなくちゃいけない―金森は去年の冬に書いた評論「リアリティ」では、彼が小説を書くときの考え方が、比較的平易な文体で説明されている。読者への配慮があるという点では評価できると思う。

―物語を作る側の人間は、想像力の限り、物語の中の世界や登場人物を設定していくことができる。その作業を六日間し続ければ、もしかしたら現実とそっくりの世界を作ることもできるかもしれない。しかし、その世界での一週間が何日間であったとしても、できあがった世界を動かすのは、作り主の仕事ではない。もし、小説に完璧なリアリティを求めるのなら、その作業は、一種のシミュレ―ションと言えるだろう―

 結局のところ、金森は自分の頭でスト―リ―を組み立てるのが苦手なのだ。彼が何かを書き始めるときは、たいてい終わりなんて見えていない。彼が設定して生み出した世界は、彼が生み出した瞬間、彼によってではないく、彼が考えた設定に従って動き出す。一人一人の登場人物も同じだ。話が動き出した後に彼がするのは、適当に何かの事件を起こすことと、その事件に対して登場人物たちがどう行動するのかを想像することだけである。よって、彼は全知全能の神になることはできても、誰彼の運命を決めることはしない。だから結末だって決めていない。

 もし、彼の作った世界で誰かが何かの収拾をつけたなら、きっとそれはそれなりに面白い話になるだろうし、そうならなければ、ただの時間の無駄になるだろう。それだけのことである。


「まあ、のんびりとやるよ」金森は言った。それから、静かにうなって、ベッドの上で丸く体を縮めた。


 その後すぐに先生が戻ってきて、金森の母親は二十分もすれば迎えに来るということを伝えた。その時体育館側の戸から誰かが入ってきて、先生はそっちに対応しに行った。僕は特にすることのないまま金森の隣のベッドに残されたが、ここを離れたところで、やはりすることのあてはなかったから、このまま点呼前のチャイムが鳴るまでここにいることにした。自分の教室の鍵もちゃんと開けてあるから、たいやきさんが困ることもないだろう。


「そういえば、昨日の朝、春岡先輩に会ったよ」僕は言った。

「ふうん……俺は最近会ってないなあ」金森は、向こう側を向いたまま言う。

「絵を描いてたよ。グラウンドの。朝を描きたくなったんだって」

 僕は、さも当然のことのように言って見せた。しかし、どうしても先輩のように慣れた感じにはならなかった。

「……俺が最後に会ったときも、絵を描いてたな、先輩」

「へえ?」

「まだ描いてる途中だったけどさ、人物画だった」金森は言った。人物画を描くのも先輩には珍しいな、と僕は思った。



 テテテ― テテテテテ―テ―


 ベッドの向こう側から、例の体温計の音が聞こえてきた。バッハの、なぜか鼻から牛乳がでてしまうアレだった。僕には、鼻から牛乳が出るほどの体温を想像することができなかった。どっちにしても、僕が座っているベッドも使われることになるだろう。僕は、金森にじゃあ、と言って、ベッドを立った。保健室を出ると、朝練を終えて体育館の周りにたむろしている部活生たちの喧噪が聞こえた。



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