発する事実
カランと何度か綺麗な音を鳴らす扉のベルで気がついた。
「おや、濱道さんが来るなんて珍しいね」
鼻のあたりに丸く模様の入った顔に非常に紳士的な笑みを浮かべスーツにエプロンなんてけったいな格好をした猫はそう言った。
人当たりの良さそうな老人(いや、老猫とでもいうのか)はいかにも物語に出てきそうな喫茶店のマスターらしくコーヒーカップを白い布巾で拭きながらにこりと微笑んだあと目線をカップに戻した。いやこの動作はどうでもいい、まず疑問に思うべきは彼が猫だということ。物語ならまだしも現実で猫が喋るだなんて許される、というかあり得る話ではないのだ。おまけに二足で立ち服まできているのだからこれまた目を疑うような話である。そして更に彼は何故だか私のことを知っているようだ、「珍しいね」とそう言い私の名前まで口にした。勿論この店に入ってから彼が言葉を発するまで私が名乗る隙はなかった。ということは私は何度かこの店を訪れたことがあるということだが、今こうして彼について驚いているのを見てわかると思うが私はこの場所について全く記憶にない。
「あ、ああ…」
そんな間抜けな声が出た。仕方ないということにしておいてくれ、今はこの状態を整理し理解しようと頭の処理能力は全てそちらで手いっぱいなんだ。取り敢えず私はあの奇妙なマスターから遠く、かつ観察できるような席はないかと探した。のだがその行為も虚しくマスターに呼ばれ彼の真ん前のカウンター席に座る羽目になってしまった。
「今日はどうしたの濱道さん、えらく落ち着かないみたいだけど」
「まあ、ちょっと、いろいろありまして」
そう言いマフラーを外しコートを脱ぐのだがどうしても目線が下を向き彼の方向を向くことができない。まさか喫茶店に入ってすぐに出るなんてそんなことできるはずもないし、どうしようかと思いながらコーヒーを頼む。カバンは床に置き足の間に挟んでおいた。はて何故私はこの喫茶店に入ってしまったのだろう。思えば変な話じゃないか?気付けばこの喫茶店にいて、マスターはどうあがいても猫にしか見えないしさらに私は何度かこの店に来ているらしいのに記憶がない。
「はい、コーヒー。それとミルクね」
濱道さんにはミルク多めに入れといたよ、とにっこり微笑み言うマスターをカップを持ち上げ少しずつ啜りながらやっとまともに見上げた。好みまで知られているのだ、どうして私はここのことを思い出せないのだろう。おっと、メガネが曇る。メガネを外し何か拭くもの、とポケットに手をいれたとき足元から声がした。
「にゃー」
椅子を下げて足元を見ると灰色の猫、ただ輪郭ははっきりしないので慌ててポケットからハンカチを取り出しメガネを拭くともう一度足元を見る。するとやはり、うちの猫である。
「ミチ!?お前なんでこんなところに」
って聞いても答えてくれるはずないんだけれど。と思うが今は目の前にその喋る猫がいるんだがな。もうあれだコーヒー飲んだら帰ろう。疲れているんだ、ミチはそのままの姿でマスターだけ猫人間のようなことになるなんてないだろう。ともかくミチのためにこの喫茶店の扉を開けて出してやった。こんなとき猫舌でなくて良かったとしみじみ思う。再び椅子に掛けると一気にコーヒーを飲み干し金を払って外へ出るとなんともモヤモヤとしたため息が出た。
***
「ブチさんありがとうよ」
先ほど濱道の足元から出て来た猫はまるで人間かのように椅子に腰掛け言った。
「まあいいんですけどねえ、ミチが教えてくれた情報のおかげであの方自分がここのことを忘れていると思っていたようですから」
マスターは「こういう格好は苦手なんですけど」と苦笑いしながらしゅるりとネクタイを外す。
「ところで今日は何がしたくてこんなことを?」
マスターはエプロンもスーツも脱ぎ、今は目を合わせることはない。するとミチはなんとも楽しそうに笑った。
「いや、特に用はなかったんだけどよ、毎日の繰り返しが退屈だからたまには面白いものを見たくなっただけだ。ほんの少しの間だが楽しませてもらったよ。うちの同居人、頭はいいはずなんだが突拍子な出来事には頭がついていけなくなるようで、それなら少しくらいならからかってもばれないだろうと思ってさ。さっきも少し戸惑っていたようだが酒を買って帰って行ったよ、弱いくせにね」
明日にはすっかり忘れてるだろとくすくす笑う。ずっと頬を綻ばせながら話しをするとマスターは最初に見せたような笑顔を浮かべた。
「こんなに楽しそうなミチは久しぶりに見たね。」
ミチはきょとんとした顔を見せたあと椅子から降りた。そしてそのまま顔だけをこちらに向けて礼をいうと何事もなかったかのように去って行く。
「何を照れているんだか。降りるときにぐねってた足、腫れないといいね」
あとの言葉だけミチに聞こえるよう大きく叫んだあとマスターも台から降りそのまま家の中へ入って行った。
この世界は人が知らないだけで様々な生き物がその土地の言語を発しているのである。
現に動物や植物などと会話が出来るという人間もいただろう。だが、殆どの人間はそのことを伝えれば何かしらと会話ができる人間を精神がおかしくなったと避け、笑うのだ。
自分が気づいていないとも知らずに。