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8・銀色の旋律







「はぁ……」


 廃墟の街の中心部にほど近い地下駐車場跡地。

 地下道の入り口に当たるその場所が、黒鉄第三班の本部である事を知らない者はいなくても、そのすぐ近くにある寂れた日本家屋が黒鉄第七班の本部である事を知っている者はそれほどいない。

 一本きりの随分と大きな染井吉野に、澄んだ水がたたえられた人造池と鹿威し。

 棚に並べられた盆栽に、庭の澄みにある柿の木。

 見るからに日本的な家屋の庭先はちょっとした料亭のような風情であり、とても武装集団である黒鉄の一部隊が本部としている場所には見えないだろう。

 そこの責任者であり、住人でもある七班班長の銀鈴のスズカは、その庭先が眼前に広がる縁側で最近引き取った少女の頭を膝に乗せながら小さく丸い嘆息を漏らしていた。

 彼女の容貌は、可愛いというより美しいという言葉が似合うものであったが、銀色の髪と白磁のごとき真っ白な肌はあまり和風の背景が似合うものではない。

 しかし、彼方に沈む夕焼けに照らされながら物憂げな溜め息を洩らしている姿は、彼女の幻想的なイメージすら抱かせる儚さをさらに増していて、思わず息を呑むほどにミステリアスな美しさを醸し出している。


「はぁ……」


 そっと膝に乗せた少女の頭を撫でながら溜め息をもう一つこぼすと、スズカはついっとその視線を空へと向けた。

 たったそれだけの仕種でも可憐なものであり人目を惹くにたるものだ。それなりに手入れされた盆栽が並んだ庭先でさえもどこか現実感を失って見えて、さながら物語の一節を抜き出したかのようにも見える。


 仲間であるシュテンが手入れをしてくれているその庭は、彼女のお気に入りの場所だった。

 春には一本きりの桜の古木が花を咲かせ、夏には辺りを薄く覆ったブナの木々から抜ける風が気持ちよく、秋になれば外れにある柿の木が秋の実りを実らせる。

 冬は少しだけ苦手であったが、山間の方で収穫された蜜柑や仲間三人で手作りした干し柿を、居間にある炭焼きの暖炉に当たりながら食べる事は大好きだった。

 そんなお気に入りの場所にいるのに、彼女の表情はどこか冴えないものだ。膝に乗せた少女の頭をゆっくりと撫でている姿は、どこか寂しげにも見える。


 この庭先は、ほんの少し前まで彼女の為だけにあった。

 庭の全てはスズカが気に入るようにと――半ば趣味も混じってはいたが――シュテンが手を入れてくれた場所で、そこでぼーっと過ごす事は彼女の日課だったといってもいい。

 その家屋にあるスズカの部屋も、ヌエが色々と手を加えて可愛らしく整えてくれており、そこもスズカの為だけにあしらわれた部屋だ。

 廃墟ばかりの街並みの中にこんなに整えられた場所があれば、普通は誰かしら手を出してくるものだが、そんな者は一人もいない。

 食うに困った者も時代を儚んでやけっぱちになった人間も、全ての場所が遊び場である腕白盛りの子供でさえも。

 この場所にちょっかいを出してくる人間は誰もいない。

 はっきりと言えば、《そこに近寄りたがる人間はいない》のである。

 それは黒鉄最強の純正型と目されるスズカの名前によるものではない。

 七班所属の一人であり、スズカの姉を自任する少女……スズカを猫可愛がりする牙桜のヌエの力によるものだ。

 そういった意味でも、その場所はスズカの為だけの場所だった。

 兄に近い場所にいたいというスズカの為だけに、わざわざ三班本部近くに設けられたスズカの為だけにある領域だったのだ。



 でも今そこにいるのはスズカだけではない。

 そこを使うのはスズカ一人ではなくなっていた。

 今では、彼女の膝ですやすやと眠る一人の少女の為の場所でもあった。

 そう思えば少しだけ嬉しくて、少しだけその整った表情に笑みが混ざる。


「サラ、あなたはとってもいいコ」


 眠っている少女を見やり、その頭をゆっくりと撫でてあげながらそう言って、スズカはまたも想いを遠くへと馳せる。


 ――スズカ、お前はいいコだよ。


 今のスズカが持っているもの。

 それは全て兄から譲り受けたものだ。

 この居場所も、考え方も、知識も、浮かぶ言葉でさえも、彼の影響なしには持ち得なかったものばかりだ。

 サラにかける言葉も大体が彼の受け売りで、かつては自分がかけられたものでしかない。

 自分がかけられて嬉しかった言葉で、自分の心に刻まれた宝物ばかりだ。

 彼が自分を探してくれて、見つけてくれて、認めてくれたから、今の自分はこんなにも穏やかな気持ちでいる事が出来る。


 そんな兄が言った言葉が、今は彼女の表情を曇らせて、悩ませていた。

 彼女が心から尊敬して、心から信じて、心から大事に思っている兄が言った言葉。

 それが最近のスズカの中に小さな……でも無視は出来ない迷いを生んでいたのだ。


 ……お前は俺のようにはなるな。


 サラをびくびく怯えながらも見せにいって、自分が面倒を見るんだと言いに行ったあの時。

 絶対に兄は反対しないと信じていたのに、それでも心のどこかで

『反対されたらどうしよう?』

『私じゃまだ誰かの面倒を見るなんて出来ないって言われたらどうしよう?』

 そう震えていたあの時。


 彼女は、誰に反対されてもサラを引き取るつもりでいた。

 かつての自分とよく似たサラ。

 自分と同じように、頭に《純正型の証》があるサラ。

 誰かを信じたくて、側にいてほしくて、でも誰も信じられないサラ。


 少女はまさしくかつてのスズカそのものだ。

 兄が拾ってくれて、側に置いてくれるようになるまでのスズカの生き写しだった。

 だから誰かに反対されても頑張るつもりでいた。

 一旦は認めたものの、やはり《反対》の色を如実に見せていたヌエや、どこか困ったようにサラとスズカを見ていたシュテンとは、こんこんと何日間も話し合って

『分かった、分かったから。もうお嬢の好きにしていいから』

 と言質を取るまで粘りに粘った。粘り負けた二人が白旗を上げなければ、あと何日でも頑張ってみせただろう。


 だから、誰が反対しても頑張れる自信があった。

 ヌエとシュテンが相手でも頑張れたのだから、他の誰が相手でも折れたりしない自信が出来た。

 あと反対されたら困るような相手は、《紅》を冠した友人か……あるいは兄である青年ぐらいしかいない。


 特に兄。

 彼があくまでも反対したなら――

『まだスズカには、誰かの面倒を見るなんて早い』

 などと言われたら……自分は頑張りきれるだろうか。それだけはあまり自信がなかった。

 スズカにとっての兄は、唯一の家族で、指標で、宝物で、あらゆるものの中心だった。

 スズカを国家に例えたならば、兄は法律で最高裁判所で国教だ。さらに中央銀行と内閣府を兼任させても余りある。それぐらいに中核を成している。

 兄の言葉ならば十戒よりも厳守し、聖書を第一のものとする敬虔な宗教家よりも熱心に心に刻んで、全ての行動の規範とするだろう。


 そんな彼にあくまでも『ダメ』と言われて、それでも頑張れるかと言うと、スズカは些か以上に心許なかった。


 でも彼は、やっぱりスズカが思っていた通りの言葉を返してくれて。

 どこか怯えを滲ませ、警戒心を露にし、スズカの背後に隠れていたサラの頭を撫でてくれて。

 そしてあの言葉を言ったのだ。



「お前がこのコの面倒を見たいのなら、それはいいと思うよ。うん、スズカが決めたなら反対する理由なんかどこにもない。

 でもな、俺のようには……俺みたいにはなるな」


 その言葉がしこりになって、最近のスズカは溜め息が増えていた。

 特に兄が率いる部隊が表に出てからは、その傾向は如実になっている。サラと一緒に庭を眺めて、色々な話をしてあげている時でさえもそうだった。


 兄のようになりたい。

 兄が自分にしてくれたように、いつかは自分も。

 それはスズカにとって最初に抱いた望みで、それから変わる事のなかった願いだ。


 自分に手を差し伸べてくれた彼。

 山で獣のように暮らしていた自分の手を握ってくれて、引っ張りあげてくれた彼。

 他人の影に怯えて、誰も彼もを拒絶していた自分の頭を撫でて、自分なんかの為に泣いてくれた彼。

 そんな彼が、『自分のようにはなるな』なんて言うのだ。

 よりにもよってスズカに向かって。

 それも切に願うような哀しげな声音で。


 確かに兄は間違った。人によっては憎んでも憎みきれないほどの憎悪を抱く相手だ。

 彼に直接恨みがある人間ばかりではないけれど、彼を恨むべき人間は沢山いる。

 直接彼に身内を殺された人間だけをあげても、その数はきっと百や二百どころか千や二千では済まないだろう。


 彼は――《新皇・灰色》は、スズカ自身も含めた新皇達(他の四色)の誰よりも、ずっとたくさんの命を奪ってきた存在だから。

 あの広大過ぎる世界。莫大過ぎる力の群れは、他の誰よりも《大勢を殺す事に長けた世界》だから。

 一度展開し、転回し、敵意という息吹が吹き込まれたなら、一瞬で数百から数千の命を簡単に吹き飛ばせる世界なのだから、新皇達の中でも《他人から恨まれている》という点だけ見れば他の追随を許さない。


 ――だから、《自分のようにはなるな》と言ったのだろうか。


 それは違うと思う。確かにその過去は兄を歪めて、全てを歪めただろう。

 あんな風にはなるなと言われたなら、スズカからしてもそれはその通りだと思うし、そうなるべきではないと思う。


 あれは……あの灰色による一方的で、どこまでも一方通行な虐殺は、間違いなく最低最悪だった。

 たった一回世界が広がり、一度その力を振るっただけで、視界全てが焦土と化すなど、あの灰色世界でなければあり得ない。

 スズカの白銀世界は確かに最高クラスの強度を誇る領域だ。

 言霊の山吹の世界は、誰よりも使い勝手がいい領域だろう。

 濃紺の暴食世界は、単純な物的破壊力なら誰よりも高い。

 無色の絶対毒は全てを汚し、全てを侵す。その理はどんなものにでも及ぶ反則だ。

 でも、灰色世界はまさしく《一瞬》で、領域全てを殲滅する。他の四色では、その《絶望の侵攻速度》には及ばない。

 それは《広さ》と《手数》を持つがゆえに誇る力だからだ。

 彼はそんな灰色世界において、自らの端末(鎖)に身を委ねながら、遥か高みから全てが壊れゆく様を見下ろしていたのだ。

 涙を流しながら懸命に灰色世界を抑えようとし、それでも全てが徒労ばかりを積み重ねてきたのである。


 しかしそんな事は、今さらスズカに向かって改まって言うような事ではない。

 兄もあの過去は悪夢で見続けているほど悔やみ、ずっと心を削り続けて生きている。それはスズカが一番よく知っている事だ。兄の後悔も、悲哀も、絶望も全て知っているものだ。

 だからそれを今さらスズカに――これから子供を引き取ると言いにいったスズカに言い聞かせるのは、少しばかりおかしいような気がする。

 では、何を指して《自分のように》と言ったのだろう?


 それが分からない。兄が何を考えてあの言葉を言ったのかが分からない。

 だから延々と思考はループして、自然と溜め息が増える。



 核である彼に対して敵意を持ち、敵対しうる者が領域内にいれば、《彼自身の意思に関係なく全てに力を向ける世界》。

 彼が与り知らない人間まで殺してしまう世界。


 それは兄自身の内面的な防衛本能によるものであり、それは生きている以上どうしようもないものだ。

 抜き身のナイフを振りかざしてくる相手に、自分が持てる最大の力で抗うのは、自己を守る本能を持った生物としては自然な事でしかない。

 彼の場合、その力が他の人間よりも強かっただけであり、その強さが彼自身の理性をも上回っていただけだ。

 彼はそんな生物が当たり前に持っている防衛本能――言い換えれば生存本能でさえも罪悪として自分を責めてきた。

 結果として残ったのは、人殺しという結末と災厄の呼び名。破壊者で、殺人者という重荷だ。


 でも、彼自身がその意思だけで救った人間もいっぱいいる。暴走しようとする世界を抑えて、彼個人が救った人間も沢山いる。

 スズカ自身がそうで、彼によって救われて、彼に感謝している人間だ。

 だから彼には見習うべき箇所が沢山ある事も知っている。

 本能ではなく、彼が生きてきて中で培った強さを知っている。

 それなのに彼は

『自分のようにはなるな』

 と、自分を拾ってくれた彼と同じ道を歩み始めたばかりのスズカに言う。


 まるでそれが――スズカを引き取った事さえもが、彼にとっては拭いされない罪悪だったかのように。





 そんな兄の様子を思い出すごとに、まるで心がヤスリ掛けでもされたかのように痛み――


「……まま」


「なに? 目が覚めちゃった?」


 ごしごしと片手で目を擦りながら、眠たげに見上げてくるサラに、慌てて思考を脇にやって笑みを作った。

 ふぁ〜、と喉の奥まで見えるほど大きな欠伸を洩らすと、さっきまで膝枕で眠っていた少女はちょこんと首を傾げてスズカを訝しげに見やる。


「何かあった?」


 サラを引き取ってから、笑顔を作る比率が高くなった。スズカはそう自覚していた。

 もともと《笑う》という表情を作れるようになってからの期間が短かった事もある。また笑みを浮かべるタイミングのようなものが分からず、遠慮がちに笑う事しか出来なかったという理由もある。

 一番の理由をあげるならば、いつであれなにであれ器用にこなし、どんな事であれスズカの指標になってくれた兄が、変なところで根っからの不器用さを見せて笑い方までは教えてくれなかったからだろう。


 ――でも、サラの前ではいつでも笑っていればいい。


 兄はかつての自分にそうしてくれた。辛い時も悲しい時もそれをスズカには見せなかった。

 今となっては歯痒く思ったりもするけれど、その時のスズカには確かに救いとなっていた事も間違いない。

 笑いかけられた事なんてなかったから……自分に笑いかけてきて、頭を撫でてくれたような人はいなかったから、それだけの事でもかなり嬉しかった事を覚えている。

 ならば今の自分もずっと笑ってみせていればいい。タイミングを気にして、誰かの目を気にする必要なんかない。

 サラには笑顔だけを見せてやろう。

 頭を撫でて、笑顔を向けてあげよう。

 そう決めれば自然と笑みの比率が増える。


『身近な大人の動揺は、子供には簡単に伝わるもんなんだ。だから、子供の前では笑っててやれ。それは今のお前には出来る最大の事だ。そうだろう?』


 前に一度、忙しい合間を縫って様子を見にきてくれた兄が言った言葉。

 それをそのまま実践しているだけでもあったが、今回も兄の言葉がやっぱり正しかったんだと実感する結果になった。 

 最初引き取ったばかりの頃は、いつであれどこか不安そうにしていたサラが、最近ではスズカの前でもゆっくりと眠ってくれるようになった。

 スズカが笑うと、本当にわずかなものではあったが笑みを返してくれるようになった。

 今はまだ照れがあるものの、《まま》と呼んでくれるようになってきたのだ。

 そんな少女が、今のスズカの笑みに何かを感じたのかジッと見据えてきて


「……お腹すいた」


 くぅーと鳴ったお腹に空腹を思い出したのか、情けなさそうな表情でそう言った。


「もう少ししたらシュテンがご飯を作りにきてくれるから、あと少しだけ我慢して」


「うん、我慢する。ヌエお姉ちゃんもくる?」


「きっと来るよ。サラはとってもいいコだから」


 《いいコ》。

 そう呼ばれて、はにかむように笑う黒髪の少女の頭をゆっくりと撫でてやる。

 それがただの言葉でしかないものであっても、そう言われる事がとても嬉しいものである事をスズカは経験として知っている。


 《化け物》、《鬼子》、《忌み子》。

 《魔物》、《怪物》、そして《鬼姫》。


 そう呼ばれ、忌み嫌われ続けて、与り知らない事で――単なる産まれついた形が少し違っただけで、汚い言葉にばかり触れてきた子供にとって、《暖かい言葉》がどれほど心を震わせるかを知っている。

 それを教えてくれたのも兄である青年だ。

 彼はスズカに一番最初の《大切》をくれた人だ。

 スズカに大事なものを与え続けてくれたのは、《自分のようにはなるな》と言った彼なのだ。

 彼がスズカを人間にしてくれて、自分は人間なんだと教えてくれた。

 もし自分を導いてくれたのが彼でなかったならば、スズカはサラを引き取ったりなどしていなかっただろう。居場所や温もりを手に入れても、それを守る事にばかり目を向けていただろうし、それを分け与える事なんて考えも持てなかったに違いない。

 スズカ一人には抱えきれないほどのものを彼はくれたのに、下賤な欲望を向けたり、対価となるものを求めたりは一度もしなかったから、自分は誰かに優しく出来るようになった。

 自分に向けられて、どんどんどんどん溜まっていくばかりで、出ていく事が一切なかった暖かさが溢れかえったから優しさを手に入れたんだとスズカは思う。


 ――きっと兄は知らないのだ。


 だからそうスズカは思った。

 なんでも知っていて、なんでも教えてくれた兄には似合わない事ではあるけど、彼は致命的なまでに自己に対する評価が低すぎる。

 彼の過去を思えば仕方のない事なのかもしれないけれど、兄をリスペクトする事にかけては人後に落ちないスズカが、唯一不満に思う事があるとすればそれだ。

 自分がどれだけの事をして、スズカにどれほどの影響を与えて、そしてどんなに尊敬されているかを知らないのだと思う。

 何故《あんな事を言ったのか》は分からなくても、根本にあるのは自己に対する嫌悪なんだろう。

 そう無理矢理考えをまとめて、その思考に完全に蓋をする。

 サラの前で塞ぎこみ、悩み続ける姿を見せるのは好ましくない。

 先程、訝しげに……そしてどこか不安げにスズカを見ていたサラの表情が、それを思い出させてくれたのだ。


 かつていつでも兄の顔色を伺って、その大きな背中に隠れて、おっかなびっくり周りを覗いていた頃の自分と……そんな自分にいつでも『大丈夫だよ』と言わんばかりに笑ってみせてくれていた兄の姿を。

 彼から少しだけ離れて、スズカ自身の意思で皇の道に転がったあの時まで、自分には笑みばかりを向けてくれていた彼の強さを。


 それを思い出した以上、いつまでも悩み続けているわけにはいかない。

 スズカも今は守られるだけの立場じゃない。命懸けでこの少女の身体と心をを守ってあげる側だ。

 もう貰ってばかり、与えられるばかりの子供じゃないんだと自らに言い聞かせる。


「ママ、ご飯まで歌、うたって」


 最近、サラは二人でいる時にそうねだる事が増えた。

 一度怖い夢を見たのか……はたまた単に昔を思い出しただけなのか、泣きわめいて、暴れだしたサラに何をしてあげたらいいのか分からず、オロオロしている時に思い浮かんだ方法が歌を歌ってあげる事だった。

 兄以外に自分がしてもらった事で、心に残っている事。

 ほんの僅かな時しか《一緒にはいられなかった》けれど、兄が今も心を痛めている原因である少女が昔の自分にしてくれた事だ。


『もう嫌な夢を見ないように、わたしが側にいてあげる。歌声が聞こえていれば、一人じゃないんだって分かるでしょ?』


 壊れかけではあっても、まだ壊れきってはいなかった頃の《彼女》が、その時のサラと同じように悪夢に苛められたスズカにしてくれた事だ。


「いつものしか知らないけれど、それでもいい?」


 本当は少しだけ……本当に少しだけ歌う事が恥ずかしかったけれど、サラがねだってくれる事は嬉しかった。

 身近な誰かに何かを頼まれる事、頼られる事は、他人に忌み嫌われ続けた過去を持つスズカにとって喜びに他ならない。


「うん。ママの声、とてもキレイだから」


 そう言ってくれる事は嬉しくて、最近ではほぼ毎日一回は歌って聞かせている。


「わかった。じゃぁ目を瞑って」


「……見てちゃだめ?」


「だめ。私が歌うのは子守唄。だから目を瞑っていない子には歌ってあげない」


 歌っている姿を見られる事だけは恥ずかしくて、それだけは固辞したけれど、サラも特には駄々をこねたりはしない。

 本当にいいコで、聞き分けがよくて、優しいコだと思う。《あの頃の自分》なんかとは比べ物にならない。


 ――まだこのコは引き返せる。私とは違う。


 そんな思いが嬉しくなって、少しだけ悲しかった。

 引き返せる事は喜ばしくて、自分みたいに泥々の道を歩かなくて済む事は嬉しくて、自分を意図的に狂わせるような壊れ方をしていない事には安堵して。

 でも、今のような状況なら、まだその道に進む可能性がある事が怖くて仕方なかった。


「……頭、なでてくれる?」


 怖々とそう言い、自分の額にあるものを隠すかのように握りこみながら、サラが膝越しに震えている事がわかる。

 まだサラは悪夢から抜け出せていない事がありありと理解できる。


「もちろん。それぐらいならいつでも。サラはとってもいいコだから。ほら、目を瞑って」


 そう言ってあくびの涙を僅かに溜めていたサラの瞳に軽く手を当てて、その細い黒髪をすいてやって。


「お眠りなさい、愛し子よ――」


 その白く細い喉から透き通るかのような歌声を奏でる。

 どこまでも柔らかで、どこか懐かしい響きの子守唄。

 彼女が唯一知っている歌であり、僅かに刺を残した悲しい思い出。

 スズカが知る本来の歌い手がいなくなってしまったララバイを。


初スズカ。

もしくは初ママさんスズカ。

サラは沙良と書きます。

スズカは……相変わらず書きやすいなぁ。

このシリーズには端々に《色》がでます。

銀色、灰色、濃紺、無色、紅、青。

描写やそれに付属する言葉、比喩とかにも。

こだわりがあるとしたら、それを心掛けていたりするので、気にかかった方は今度見た時には《おっ!》と思ってみてください。


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