7・五番目の少女
「……くそっ、腑抜けどもめ」
戦闘に負け、戦争に負けた部隊は脆いものだ。
その事を痛感しながら彼は小さな嘆息を漏らす。
ほんの数時間前の戦闘では、ろくに抵抗らしい抵抗も出来ずに敗走させられた仲間達に悪態を吐き、自分の上に立っていた男に……恐らくは殺されたであろう頭だった男に、思い浮かぶかぎりの罵倒を胸中で浴びせながらゴロリと寝返りをうつ。
黒鉄が攻めてきた。
それ自体は予測出来た事だった。
彼は盗賊団というには大きすぎる規模に膨らんでいた自分達の組織の事を自覚していたし、さらに膨張するべく一部の人間が画策していた事も知っている。
ならば同じ地域にある軍事組織、黒鉄とやがて対立する日がくる事は容易に想像出来る。
隣の国の強化は自国の弱体化を現す。
例え自国の戦力自体は低下していなくても、隣国が強大化すればそれは弱りとなる。
そんな当たり前の事を、今まですぐ間近に統括軍という大組織に接して、直に争っていた黒鉄の連中が分かっていないはずもない。
だから黒鉄がいずれ攻めてくる事までは予測出来た。
ただ、自分達の組織があそこまで一方的にやられてしまうほど脆弱なものだとは思っていなかった。
数はいた。数だけ見れば攻めてきた人数の数倍はいたはずだ。
ただ、その数に見合う中身がなかった。基板となるものがなく、掲げるべき看板は張りぼて。ただ数で補った見せかけのものでしかなかった事にまでは思慮が及ばなかった。
ロマンサーのNo.1である頭が《アヌビス》に殺された事。
No.2が炎に巻かれて戦死したという事も、入ってきた情報から見て間違いない。
No.3はどこに行ったか分からないが、捕まったか殺されたかしているだろう。
「くそ、くそっ、なんで俺が!」
ならばNo.4を自認している彼が今ではトップだという事になる。なるのであるが、本音を言えばこんなガタガタになった組織のトップなどゴメンだというのが偽らざるところだ。
メリットは何もなく、責任ばかりが発生して、いざとなれば頭に据えられて殺される役に志願したがる者などいないだろう。
だから今後の展望に溜め息を吐き、自分に付いてきた連中の全てを見捨てる事まで考えて。
「――Freeze」
背後から当てられた冷たい言葉に文字通り固まった。冷気にも似た気配に凍りついた。
先程までは確かに周りには誰もいなかった。寝返りをうつまでは今後頭部を向けている方向に視線を向けていたのだ。
確かに数分前には誰もいなかった……はずだ。
天然の洞で僅かな月明かりを背に寝転がり、身体を休めながら考え事をしてはいても、誰かの存在を身近で見落とすような事はないだろう。
なら、《自分の後頭部に当てられた冷たい硬質の感触》と、《静止を促す言葉》は誰がかけてきたのか?
「動くな、声もだすな。もちろん振り向くのもNGだ。理解したのなら、寝転んだまま転がってうつ伏せになれ」
――息を吸うぐらいは許してやるよ。
そう言った男の声は驚くほどに平坦なものだった。
だがその言葉に、肺が息を吸う事を思い出したのかゆっくりと空気を取り入れて、身体は自然と転がりうつ伏せの態勢になる。
「素直に従ってくれて助かる。まぁ、助かったのは俺じゃなくてお前の方だけどな」
うつ伏せになった彼に、その男は近付いても来ない。声は移動してこない。
それでもいまだに冷たい感触――銃口が当てられているような錯覚を覚え、身体は自然にガクガクと震え始めた。
――こんなに存在感を感じなくて、でも不吉な印象を拭えないなんて、まるで《亡霊》のようだ。
そんな考えが浮かんで、そこから連想される存在がいる事に思い当たる。
それが自分にとって――自分のような《黒鉄の敵》にとって、どのような存在なのか思い至って恐怖という感情が身体中をはい回る。
「俺が誰かは――分かるだろう? 分からないんだとしたら、自分の無知を呪え」
その言葉には、特になんらかの感情は見て取れない。嘲笑う色もなければ、勝ち誇るような響きもない。
それが非常に恐ろしい事のように感じられて、彼はキュッと固く目を閉じた。もしその声の主を視界に収めてしまったなら、それだけで死んでしまうんじゃないか……そんな恐怖が目を瞑らせたのだ。
「黒鉄に敵対してなんとか逃げ延びた盗賊が最後に恐怖する相手。そう、今のお前みたいなヤツが最後まで警戒するべき黒鉄。それが俺だよ」
逃げられた。自分はなんとか逃げ延びた。
そう思っていた。
あの場所で死んでしまった他の幹部より、自分は少しばかり頭が回って、そして運も良かったから逃げられた。そう錯覚していた事を自覚する。
「ほんの一年とちょっと前までなら、黒鉄との戦闘が終わり、その戦場から生き延びられたからって油断して、ぐーすか寝こけるようなマヌケはこの辺りにはいなかったはずなんだけどな」
――あぁ、そうだ。確かにその通りだ。
その声の言う事は一々最もだった。
黒鉄を敵に回した戦場で、なんとか生き残った者ならいっぱいいる。今の自分のような人間なら、過去に何人もいただろう。
でもその後。その日の夜。それから数日間。
その間、《この男》の恐怖にさらされなかった者はまずいない。
彼の目から完全に逃れきれた者は一人もいない。
それがこの辺りでは常識だった。盗賊達にとって血で刻まれた不文律だった。
「俺の怖さってヤツが、たったそれっぽっちの期間で綺麗に忘れられたんだとしたら……ちょっとショックだな。
あんなにお前達の同業者を殺してやったのに。お前達盗賊じゃ手も足も出なかった《統括軍の近衛達》でさえも殺してみせたのに」
――あぁ、俺は運が良かったんじゃなかったんだ。頭が回るつもりでいたけど、一番肝心な事を忘れてしまっていたんだ。
忘れていた。それは致命的だ。
《うっかり》や《ちょっとした油断》が許されるような時代ではない事は、彼もアンダーグラウンドな世界で生きてきた人間だ。よく知っている。
とりわけ後ろの相手は、そんな間抜けな盗賊を許してはくれないだろう。
彼が――黒鉄の《宵闇》が、《将軍を打倒して》今でもまだ健在である以上、黒鉄から逃れた先に安息がない事は自明だった。この辺りの盗賊ならば最低限知っているべき常識だった。
黒鉄と相対した以上、彼を一番に思い出して夜を徹して逃げ続けるべきだった。逃げ切れたかどうかは別にしても、そうするべきだった。
それならここで休息を取るよりは、まだ僅かながらとはいえ生き延びられた確率もあっただろう。
廃都からかなり離れた位置まで下がる事が出来たその時に、ようやくあの街の守護者であるこの男も追撃を諦めてくれる。
彼が長く廃都を空けたりすれば、周りの敵性都市が黙っていないからだ。
でも今さら手遅れだ。もうそんな後悔は先に立たない。
「言っておくけど、周りにいるお仲間が助けにくる、なんて期待はしない方がいい。周りの誰かが起きて騒ぎ始めた時にはお前はもう死んでいるし……お前の後を追う人数が増えるだけだから」
誰かが異常を発見して、その場で迎撃態勢を取ったとしても、すでにポイントされている自分が生き残れるはずがない。
恐怖に苛まれていてもそれぐらいは分かる。
「俺が的を外すなんて期待も捨てろ。俺は今まで殺すと決めた相手で逃がした相手は……二人しかいない。お前を逃がすつもりはない」
そして、一度狙った標的を《この男》が逃がすはずもない。それも理解している。
この男は、相棒を罠にかけて殺した関西軍近衛総長を、その日の内に襲撃して再起不能にしたような暗殺者だ。
それだけではなく、最近では何年もの間狙い続けてきた関西統括軍のトップ、《将軍》でさえもついに殺し得たと噂に上るような男なのだ。
将軍が一夜のうちに失踪したという事は、彼が――将軍の天敵である廃都の宵闇が手を下したとしか考えられないからである。
自分が逃げ切れるとは思えない。そのくらいの冷静さはある。
いや、《そんな冷静さを取り戻せた》。
自分をいつでも殺せる男が、何故かお喋りに興じてくれたから、恐怖が麻痺したのかもしれない。
そのなけなしの冷静さが希望をもたらしている。
――この男はこんなにお喋りな男なのか?
――殺す前にわざわざ名乗りを上げて、わざわざ状況を説明してくれるような相手なのか?
――そんな男が、関西一円で最も名高い暗殺者なのか?
あり得ない。そう思う。
希望的観測が混じってはいたものの、それは彼が連想してきた《宵闇》のイメージからはあまりにもかけ離れている。
そんな余裕をかますような男じゃないはずだ。そんな隙のある人間が、まるで悪鬼か死神のごとく盗賊達を震え上がらせた《盗賊殺し》であるとは思えない。
ならば、このお喋りには何か意味がある? 自分に何か用があって、殺さないのではないか。
「――随分とお喋りだ、そう思ったか?」
そんな彼の思考を読んだかのような言葉に、一旦落ち着き始めた鼓動がはねあがる。そんなはずがないのに、心を読まれたかのような錯覚を覚える。
「ならお前は賢いよ。十分冷静だ。お前は《殺さない》」
希望を持たせるだけ持たせて、その上で殺すつもりなのでは……そんな思考のスパイラルに陥りかけた時に告げられた《殺さない》という言葉。それを理解するまでには数呼吸分かかった。
そしてその数呼吸分を思考に費やしてからようやく理解して、思わず大きく息を吐く。
――これは取り引きだ。
そう判断する。命を握られて、立場を掌握されて、恐怖に陥れられてから持ちかけられただけの取り引き。
今の自分に――ロマンサーがガタガタになって、なし崩し的にそのトップに立っただけの男に、取り引きを持ちかけるような価値があるのかどうかは分からない。
ただ、《殺さない》と言うからには、宵闇は自分に価値を見出だしたとしか思えない。つまり、自分から引き出せる何かを求められた取り引きなんだと判断したのだ。
「イツカ」
だが、そんな考えによる安堵はすぐさま再び驚愕に染められる。
宵闇がかけた言葉……イツカという呼び掛けによって現れたもう一つの気配に。
今まで全く感じられなかったのに、いきなりヌッと存在感を現した誰かの気配に。
「――呼ばれて――――飛び出て――イツカちゃん――ですよ?」
その気配の主は、見た目だけはどこにでもいそうな少女だった。
ただ、どこまでも希薄な宵闇の気配よりも、ずっと確かな存在感を持っているのに、さきほど呼び掛けられるまで全くその存在を感じられなかったという不気味さは拭えない。
その声からまだ若い少女であると知って、なおさら不気味な印象を強めたぐらいだ。
「頼むよ。こいつに刷り込んでやってくれ」
何をするつもりなのか。なんの為に殺されないのか。何かを求めての《取り引き》じゃないのか?
それが分からないという恐怖。
確実に殺されてもおかしくない状況であり、相手であるはずなのに、この二人は何がしたいのか?
《刷り込む》、とはなんなのか?
自分に何かを刷り込むのだとしたら、一体何を刷り込むつもりなのか。
「――――らじゃー。―――あなたも―――約束―――厳守」
「分かってる、約束だ。アオイには俺から話を通しておくよ」
「――――白馬―――青空―――必須」
そんな彼の危惧も、酔いそうになる不安も、涌き続けている恐怖も、全てをそっちのけで二人はそんなワケの分からない会話をしていて。
やがて俯いたままひたすら混乱を溜め込み続けていた男に、少女の気配はゆっくりと近付いてくると、エイヤとばかりにひっくり返してその顔を覗きこんだ。
顔から僅か数センチの距離。そこにいたのは、びっくりするほど量が多く、しかも絨毯のように地面に広がった長い亜麻色の髪と、月光に青く染められた病的なまでに透き通った肌を持った少女だった。
「―――初め――――ました」
はじめました? すでに何か始まっているのか?
そんな疑問をぶつけるような余裕は、男には欠片もなかった。
夜だからかくすんで見える光を通さない黒瞳。
その印象を一言でいうならば、まるで底の見えない洞穴のような……あるいは不気味な深い海の底のようなものだ。
その視線はなんの感情もみれないようにも、どこか底知れぬ感情が揺らめいているようにも見え、自然と体は金縛りにあったかのように動かなくなる。
「――――間違い。―――――初め―――――まして―――だった―――いやぁ―――うっかり、うっかり」
―――私――イツカちゃん。
そうおもむろに自己紹介をしてみせると、イツカと名乗った少女は男の頬に両手を当てて唇を軽く引く程度に笑ってみせる。
赤い舌が唇を舐める様がどこか蛇のようにも感じられて。
笑みを見たという事に対する安堵などなく一切なく、総毛が逆立った。
無防備である少女がそこにいて、彼女は宵闇の知り合いであるはずで、人質にとれば万が一の確率であっても生き残る可能性が出てくるはずで。
そんな考えが浮かんでくるのに、身体はぴくりとも動いてくれない。
この少女は……いや、この《少女も》化け物だ。
そう彼にも分かってしまったからだ。
「―――君―――質問。――――答えられたら――――命げっと――――ラッキー」
質問……質問か。
少女の物言いは独特すぎて掴みどころがない。でもその意図はわかった。
やはり《取り引き》なんだと思う。いや、《思い込む》。
そう思い込まなければ、異様な状況に狂ってしまいそうだから自分にそう言い聞かせる。
そして『ロマンサーについての事ならなんでも答えよう』そう即座に決める。
いや、何を聞かれても全て答えよう。それこそ墓まで持っていく予定だった恥ずかしい話でも全てに答えるつもりになった。
そうすれば見逃してくれるのならそうするべきだ。生き残れる可能性が少しでもあるならば、死という結末しか見えない選択肢は選ぶべきじゃない。
もとより今となっては、そんな情報にそれほど価値があるとも思えないが、それぐらいしか彼らが聞きたい事に心当たりがなくて――
「――――げっとれでぃ―――第一問―――青い空――――青い海――――どっちが好き?」
そんな質問が出てきて唖然とした。
思わず、『はぁ?』と声に出そうになった。
しかしその言葉をからくも飲み込んで、《どんな質問でも答えていればいい》と思い直す。
これは単に様子見かもしれない。答えないよりは答えた方がいい。
なにより質問に質問をぶつけるべきではない。それが許される状況でも相手でもない。そう判断する。
「……海だ」
だから震える言葉でなんとかそう返して。
「――――おーらい―――わたしは―――空が好き―――イツカ―――いっつカナヅチ」
―――――なんちゃって。
詰まらない駄洒落でも笑うべきだろうか、などと考えて、無表情でカナヅチだと何故か胸を張る少女に毒気が抜かれる。
そしてそのまま次々と……まるで脈絡もない質問を彼女は続けていったのだ。
「――――ねくすと―――飼育―――山羊か羊――――どっち?」
「―――ひぅいごー―――バタートースト―――お供に欲しいもの―――コーヒーか紅茶――――どっち?」
「―――あげいん―――蕎麦よりうどん―――炒飯より炊き込みご飯――――それがイツカの好み―――麦茶と緑茶――――どっちが似合う?」
全く話の繋がりが読めない。ただなんとなく質問しているだけにしか思えない。
本題にはいつ入るのだろう? そんな事を考えながらも、ただ淡々と答えを返し続けて。
「―――さんきゅー―――さんきゅー。
――残党を引き連れて逃げるなら、《北陸》と《北陸地方》どっちがいい?」
「北陸だ」
なんの違和感もなく。
いきなり流暢になった口調に何かを思う事すらなく。
選択の余地すらない二択にも何も思う事もなく、今まで通りに答えを返す。
そう、彼には《違和感》など少しもなかった。
北陸と北陸地方を比べて、逃げるなら《北陸地方よりも北陸の方がいい》そう考えて答えを返しただけだ。
そんな彼に『よく出来ました』と言わんばかりに薄い笑みを浮かべる少女に、どこか誇らしさすら感じていて。
さっきまで不気味に見えていた少女に対して、そんな感覚を覚える自分を疑問に思う事もない。
「――――じゃあ―――北陸にゴー。―――恐怖――――宵闇――――シャクナゲ在住――――関西―――えすけーぷ。――――北陸―――盗賊稼業再開―――――おーるおっけー。
―――生存―――殺されない――――嬉しい? ―――悲しい?」
「嬉しい。殺されない事は……嬉しい」
「――――ないすあんさー。――――ラッキーハッピー。―――三方よし―――べりーぐっ」
少女の黒い瞳には揺らぎがなく、それを写しとったかのように男の瞳からも光が消える。
ただ淡々と独特な口調で少女は質問し、男はそれに答える。
「―――今日からあなたが長。―――北陸の盗賊王に―――君はなる。―――北陸から逃亡したら―――《旧友シャクナゲ》―――《君を殺さなかった命の恩人》に会いにくる? それとも《会いに帰ってくる》?」
すでにその質問には真実は含まれていない。それでも彼は何も疑問を感じないのか、与えられた二択に思考を馳せていた。
二択に答える事。どんな提示をされても与えられた選択から答えを選ぶ事に迷いはなかった。
「会う。関西に戻ってきたなら、一番にシャクナゲに会いに廃都まで行く」
だから真実の含まれていない二択に……真っ当であれば二度と会いたくはないはずの相手に会いに行く事すらも選択する。
もし自分が次に《盗賊殺し》に出会ったらどうなるか、そこまで考えられない。
何故なら与えられた二つの選択には、《逃げる》というものがなかったからだ。
ならば会いにくるしかなくて……自分から会いにくるような相手であれば、《あのシャクナゲは自分の敵ではありえない》。そんな考えが浮かぶ。
だから北陸に残党を連れて逃げる事、そしてもし北陸からも逃亡する事になってしまった際には、シャクナゲに会いにくる事に迷いはない。
「―――ここに約束は刻まれた」
そんな男に満足そうに頷いてみせると、イツカはつっかえる事なくそう厳かに言って。
再びボーッとした視線に戻ると、さらに選択の余地がない二択を投げ掛ける。
「らすとくえすちょん―――わたし達に―――《会わなかった》? ――――アナザー《会って殺された》? ―――どっち?」
「……会わなかった。会わなかったんだ。だから俺は宵闇に殺されなかった」
またも矛盾があっても。
先の言葉に対して相反するものがあっても。
彼は勝手に自分で辻褄をあわせて考える。
自分の状況を鑑みて、どちらがより好ましいか。
宵闇に会ってしまえば殺されないはずがない、生きているからには会っていない、シャクナゲはきっと自分を見逃してくれたのだ、だから盗賊である自分は生き残る事が出来た。
さて、では目の前にいる《シャクナゲだと思っていた者》は、一体なんなのか。夢か、それとも幻か。
そこに矛盾は感じない。今交わしている会話もいきなり現実感を失う。
でも、二択からはそれ以外の答えが見いだせないから、きっと今の会話は現実のものなんかじゃないはずだ。
それが彼の真実になる。そう導きだした答えに迷いはなくなる。
「――――ぐっど。―――《わたし達と会わなかったからあなたは生きている》。―――私達の事は忘れなさい。―――あなたは―――自分で――――思考――――北陸行きを決めた。―――ロマンサー――――とっぷ―――英断」
「……あぁ。ロマンサーのお頭だ。俺が一人で決めた。間違いない」
「――――睡眠か―――永眠。―――君は睡眠―――選択できた。―――イツカと約束した。
―――おやすみ」
その言葉を最後に。
男の意識は一気に落ちる。過程は一切なく、一気に体から力が抜ける。
それを見やってから、両手を当てていた頬からゆっくりその手を離し、イツカという少女はニッと笑う。
普通であれば朗らかにも見えかねないその表情は、赤い唇と白い肌を持ち、光を呑み込んだかのような黒い瞳を持った彼女を、より不気味に……そして空虚に印象付ける。
片手で軽くガッツポーズをしている点だけが、不自然に年頃っぽく見えた。
「――――じ・えんど―――ないすわーく―――イツカ」
「あぁ、お疲れさん。報酬は、アオイにデートのお誘いをさせればいいんだろ?」
くるっとシャクナゲに向き直るその瞳にはどこか得意気な色が見え、あからさまに褒めろと言わんばかりにその頭を突きだしてくる。
そんなイツカに、彼は小さな苦笑と共に労いの言葉をかけた。
五番目の名無しであり、誘導者の役割を持った名無し。
《チェイスチョイス(付きまとう選択肢)》と名付けられたその能力は、限定された二択から選択させ、そこで選んだ言葉に強制力を持たせる特殊催眠能力であり特殊暗示能力だ。
イツカと名乗った五番。
その独特すぎる風貌と口調、思考から、他の名無し達から《パラノイア(妄想症)》とよばれて距離を置かれている少女。
そんな彼女はシャクナゲの苦笑混じりの言葉を受け、頭を撫でられながらも年相応に頬を膨らませ唇を尖らせてみせた。
「――――のん。―――冗談不可―――《王子さま》は―――白馬とセット――――白馬必須――――葦毛不可。――――雪色―――真っ白の―――馬以外は――――馬刺」
「……限りなく真っ白に近い馬で勘弁してくれ」
「――――バラの花束付き――――それで妥協。―――いざランデブー」
「オッケーだ。契約成立、ここに約束は刻まれた。シャクナゲの名前で誓約したよ」
勝手にそんな約束をした事に対して……妄想症の名前に見合う夢見がちな少女への王子さま(餌)にされた事に対して、アオイから呆れ果てたような、困り果てたような視線を向けられる様が浮かぶ。
それでもシャクナゲは気に止めた風もなく『指切り』とばかりに小指を差し出してくるイツカに、自らの小指を絡めた。
なんだかんだ言って、アオイなら平然と約束を履行してくれるだろう。そう信じていたからだ。
むしろ問題は、廃都の外れにある牧場に真っ白に近い馬がいるかどうかだ。
「―――わたしを―――上手く使用―――ゼロの願い――――全て受諾。―――それが―――イツカの永遠の王子さま―――アカツキとのぷろみす」
戦闘向きな能力は持たず、限定的な状況下を作らなければ催眠能力は発揮しないチェイスチョイスという力。
それは人間関係に使うにおいては便利きわまりないように見えて、その実は色々と過程を踏まなければその強制力は発揮しないという不便な能力でもある。
彼女の能力は、目の前でいくつか二択を提示して、それに全て答えさせなければ暗示がかからないのだ。それも二つの選択をはっきり提示してみせなければならず、曖昧な会話では力を示さない。
幾つか選択肢を提示して、一つ答えるごとにその精神や思考を乱して入り込み、最後に約束という人間誰しも多少は意識にとめるものの《強制力》を増幅する形で暗示をかける。
そして時がくれば……約束に触れる状況がくれば、その暗示は強制力を一気に増して本人を追いたてる。
そうしなければならないという意識に思考が侵される。
そんな能力であるだけに、力を使った直接戦闘は出来ず、使用条件が限られている力だ。
そうでありながら名無しの《五番目》とされたのは、ひとえにその問答無用の強制力と永続性によるものに他ならない。
強い能力を持つ人間には、その人間が持つ能力に邪魔されて暗示がかかりにくいという傾向があるものの、一度約束を取り付ける事さえできればその効果はほぼ永遠に続く。
そんな彼女が、廃都においては民政部に所属し、どの班の者で一度は赴いた部署……つまり黒鉄として認定し、能力に見合う生活費を支給し、それぞれの班に予算を支給する部署の事務官をしているのだから、その能力はフルに活用されていると言ってもいい。
なにしろ、ほとんど全ての黒鉄に対して《暗示》をかける機会があり、約束を刻む機会がある。
そういう意味では、名無しの中では最も勤勉に職務を果たしていると言え、それだけに最も恐るべき存在がこのイツカという少女だと言える。
黒鉄を裏切る場合は、四班の《紫念》に連絡を取るように。
彼女も黒鉄の体制に不満があるという風に。
符号を持つ彼女と手を結べば、より確実に黒鉄を抜ける事ができ、符号所持者というバックを得られるというように暗示をかける。
それゆえに彼女は《誘導者》。
《監視者》であり《制裁者》である二番に対する道先案内人であり、最後には《断罪者》である三番へと至る最初の道標。
彼女を上手く使う事が出来れば、一体どれほどの力になるか。
《約束》をし、イツカの希望を聞いてやり、それを確実に履行さえしてやれば、一体どれだけの事が出来るか。
少しばかり読みにくい思考をし、奇特な振る舞いをしてはいても、それさえ受け入れてしまえば他の名無し達よりも数段使いやすいこの力は、自分達にとってどれほど必要なものか。
それはアオイもよく知っているだろう。
だから
『白馬に乗り、真っ赤な薔薇を携えてデートのお誘いをかけるぐらいの事はしてくれるだろう』
なんて事を考える。
自分がそれをしたらさすがに悪目立ちが過ぎ、色々と問題も出てくるだろうけれど――主に兄にいまだべったりの妹とか、その親友である紅の少女とか――、アオイであればルックスからしても問題なんて微塵もない。
自分が恥ずかしくてとても出来ない事を、いきなりアオイに丸投げしただけだという事実は忘れる事にする。
そんなシャクナゲと小指を絡めあったままイツカはカクンと首を傾げてみせると
「―――《ハンドレット・ハンドデッド》―――死を振り撒く右手―――三番という死神――――彼は私ほど――――使いやすくない」
そんな事を言って見据えてくる。
スズカやカクリの表情ですら読めるシャクナゲにも、彼女が何を考えてそんな事を言っているのかが全く分からない。いきなり話が飛ぶ事もしょっちゅうの事だから余計だ。
それでも忠告をしているのだろうと判断して、見据えてくるイツカの頭を撫でてやった。
「―――イツカは―――星が見えない―――だから帰る―――また呼んで―――イツカの二人目の王子さま」
その感触にくすぐったそうに目を細めてから小指を離すと、イツカは降らふらと廃都方面へと歩いていく。
そんなイツカの後ろ姿が見えなくなるまで……イツカを連れ出す際に、《別れ際はイツカの姿が見えなくなるまで見送る事を約束した》からしっかりと見送って、それからシャクナゲは彼女とは反対方向へとゆっくりと歩き出した。
「……知ってるよ。ジョーカーは切り札にもなるけど、自分の首を絞める事もあるカードだって事ぐらい」
すでに闇に溶け込んだイツカに向けてそう言って。
新たなロマンサーの長が率いる一隊の他に、いまだ生き残っている残党がいる方向へと意識を向ける。
《六番》と《七番》ではなく、《零番》が担当している敵残存勢力へ。
「……さて、北陸に行く連中以外には生き残ってもらっちゃ困るな」
彼が纏うのは漆黒の外套だった。
それは黒いロングコートのなれの果て。
擦りきれたそれは彼が纏う唯一の戦闘衣だ。
その両手には、自らの名前と同じ銘を持った暁が作り上げた自動拳銃を掲げ、その眼にはもう何年も抱えてきた黒い感情を宿している。
「バラけたまま、あちこちに新たな盗賊団が出来上がるのは困る」
その歩みは僅かな音すらも漏らさず、その言葉を聞いている者も今はいない。
空に浮かぶ中秋の名月と僅かに肌寒さを含んだ秋の風は、どこか寒々と彼を彩っていて、その黒い外観を夜に溶け込ませている。
かつての彼にとっては、この夜という空間こそが主戦場だった。
闇に紛れ込んで、黒に潜める場所が、彼をより畏怖の対象としてくれたからだ。
誰もが体を休め、草木も眠る時間帯に迫る影としてあれば、より脅威な存在として人々の心に刻まれるだろう。
安息を許さない者として、いつでも狩りたててくる狩人として、後ろからそっと命を摘む死神としてあれば、《今の自分》でも名前に力を持たせる事が出来る。
そう考えたから、彼は真っ当な戦士としての在り方は捨てた。その在り方は、相棒や仲間達に託した。
守護者である為に力の質を選ばなかった。
「そして、黒鉄に攻められたのに、《大勢が生き残った》なんて事実が広まるのは――もっと困る」
――沈黙と恐怖、それが薄れた時に崩れる平穏もある。
そう呟いた言葉は、彼が黒鉄となってからずっと掲げてきた信念だ。
力だけでは足りない。名前だけでも足りない。
必要なのは本物の畏怖と悪名。そしてそれを広める効果的な演出だ。
悪名が畏怖を呼ぶ。
そして宵闇を恐れる心が沈黙という不干渉を作る。
《灰色》を抑え込んだ彼が、何年もかけて作り上げてきた《宵闇》という名前の持つ力。
それを再び掲げるべく、彼は作り慣れた感がある皮肉げな笑みを浮かべてみせた。
「……笑えよ、《宵闇》。廃墟の街の最強の亡霊。
お前に痛みは似合わない。悼みは必要ない。
生命を刈り取る時にこそ凄惨に笑え。その暗い笑みを見た人間が、二度と俺の敵に回る事がないように。
毎日毎夜夢に見て、闇に怯えるように」
――それが敵にとってのシャクナゲの在り方、そうだろ。
そう奮い起たせて彼は笑みの仮面を被る。
宵闇としての笑みを纏う。
愚か者を笑い、敵の死を手にして喜ぶような作られた死神の笑みを。
イツカ……五日。
安直ネーミングですが、五番六番七番は全員安易に名前を決めていたりします。
チェイスチョイス……チェイスは追跡、追いたてる、もしくは他動詞では《刻む》という意味があり、そこから取ったもの。
つまり《選択》に《追いたてられる》あるいは《選択》が《刻まれる》能力。
ハンドレット・ハンドデッド……百の死手。
数多の死を作る右手。
こんな風に、名無し達だけはその能力に明確な名前を付けています。
一番が《ファム・ファタル》、《ディーヴァ》という明確な力の名前を持っている事から。
イツカ……民政部の事務官。優秀ではあるが変わり者と評判の少女。
黒鉄との折衝を受け持つ部門に所属する。
なんの能力も持っていないと思われているが、非常に強力な催眠・暗示能力を持つ変種。
その能力を持ってネームレス・フィフスの役割をこなす。
通称・パラノイア。
彼女の能力は非常に強力ではあるが、それだけに制約があるもので、手順が色々と必要なもの。
その手順とは、第一に
『近距離で目を合わせる』
『相手に触れる』
『二択を提示してそこから答えを選ばせる』
『約束という形をとって暗示をかける事』
『最後に相手には傷を負わせない事』
目を合わせる事と相手に触れる事は、最初だけで構わない。
提示する二択は、相手によって数が変わる。
約束という強制力を使う。
相手にイツカが傷を負わせれば、約束は破棄される。
相手が変種で強力な能力や特殊な能力を持っている場合、暗示も催眠もかからない事がある。
感情を燃やして力に火を着けるカーリアンや、同タイプのオリヒメ、さらには『殺す力を宿した身体器官』を持っている二番と三番は、全く暗示が効かない。
暗示をかけようとすれば、内に持っている《あらゆるものを燃やす力》……あるいは《凍らせる力》がイツカの力を無効化し、体が持っている《死の力》が殺す為。
また、純正型には例外なく効かないのも、彼らが内に別の理を宿す世界を持っている為だとイツカは考えている。
面食いで夢見がち。
漫画や映画でもあり得ないようなシチュエーションに憧れており、それを対価に《日常業務》以外の仕事も受けている。
彼女が五番になったのも、暁に《ものすごく恥ずかしい真似》をさせて、その代わりに《約束》をしたから。
彼女だけは他の名無しと違い、役割に殉ずる悲壮さのようなものがなく、その辺りが他の名無しからも浮いている原因となっている。