14・過去と懐古と酒宴
「はぁ……」
口から漏れた細い溜め息は、静かに流れてゆっくり夜の空気へと消えた。そんな周りに誰かがいても気付かない程度の小さな吐息を漏らして、彼は無意識のうちに頭を掻きむしりながら思考を巡らせていく。
――全部が全部うまくいった。全部が全部計画通りだ。
穴を作って、餌を置いて、誘き出しをして、線を引く。
最初にした事はと言えば単純にそれだけだ。
内側で別たれたこちら側とあちら側。
つまりは黒鉄内部における味方側と敵対側を分ける事。
その段階は間違いなく終わった。
終わったはずだった。
穴――つまり《第三班の半数とそれに同調する傾向にある部隊》を表に出して隙を作る。
その為に民政部を動かせた。民政部を実質牛耳っている《ドールマスター》に要請を出した。
彼女ならば、今まで通りごく自然に民政部の意向を誘導出来ただろう。穴は見つからないはずだ。
彼女の《約束》はそんな穴が見つかるような力ではないのだから。
そして餌。
つまりシャクナゲが表に出る際には付いてくるであろう《名無し》。
今回に限って三番を使わなかったのは、彼がちょっとばかり強力過ぎて……あまりにも凶悪過ぎたからだ。
彼を連れていけば、これまで通り《存在が露見しない》可能性はかなり高い。彼の存在を捕らえられる者はそういないだろう。目を引く事が第一である餌には不向きだ。
それにもし万が一彼の存在をロック出来たとしても、あの三番は餌に掛かった魚をその場で食い殺してしまうような肉食種だ。強すぎる劇薬は今回に限って無用なのだ。
あのスクナビコナの片割れにはそんなつもりなんてなくても、そうなってしまう可能性は高い。
それでは困る。今回引っ掛かる相手には精々敵対しうる存在を煽って貰って、はっきりと線引きをしてもらわなければ手間ばかりがかさむ。
どうせなら一息に、誘蛾灯に群れる虫のように集まってもらって、それに対処した方が時間はかからない。
一つ一つチマチマ潰して回る方が安全ではあるが、それでは取りこぼしが出るかもしれない。不利を悟れば闇に潜る連中もいるはずだ。
一旦本心を隠されてしまえば、それを燻りだすのは容易ではないだろう。
それになにより、彼にはゆっくりと事を進める心理的な余裕がない。
自業自得ではあったが、足踏みしていた時間が余りにも長すぎた。
その為の誘き出しと線引きだ。
それは上手くいった。計画通りだと断言出来る。
少しばかり不確定要素もあったが、誘き出しには引っ掛かってくれたし、その対象も掴めている。
最初に動いた相手は予測の範囲内にいた人間だったし、上手く周りと連携出来る能力もあるだろう。多くの向こう側を巻き込んでくれるはずだ。
ただ、『誘き出せたならそのまま退がってもいい』と言っておいたにも関わらず、食い殺されてしまった少女を思えば胸が痛む。
それはそれで計算に入っていたし、そういった危険は考慮の内だったけれど、どうしても考えてしまう。
はっきりと『退がれ』と命じているべきだったのではないか。
もしくは誘き出した後、こちらから誰かを出して協力させるべきだったのでは。
そんな風に悩んでしまうのだ。
そして《自分の焦りが生んだ拙速な計画の綻び》のせいなのではないかと心が荒む。
だから自然と溜め息が増えてしまい――コトンと小さな音を立てて湯飲みに入ったお茶を差し出してくれた女性に呆れられてしまう。
「また溜め息? らしくないなぁ」
「これが俺らしさだよ。どこまでも優柔不断で、後悔ばっかりで、いつでも後ろ向き。もし俺の事が前向きな人間に見えてたのなら、それはお前の見る目がなかったってだけの話だ」
「どんだけマイナスに前向きなのさ」
作戦が終わって、その日の内にに帰り付いた後、飲んで歌って騒いでいた連中は、深夜遅くに宵闇の役割を果たしてシャクナゲが帰投したあとも宴会を続けていた。
貴重なものであり、宴席であっても普段ならなかなか出る事がない酒類に、見事なまでに呑まれてしまったらしい赤髪の少女は
『あんらは少しはまありの気持ひを考えるへきなの!』
などと等身大の藁人形にビシビシと拳でツッコミを入れながらこんこんと説教をしていたし、その副官の少女はどこから持ってきたものか丸っこいだけのぬいぐるみに
『あなたなんか別に可愛くなんかない。カーリアンの可愛さには到底及ばない。その辺りをしっかりと自覚するべき。あなたはちょっとだけ丸っこくて、少しだけふわふわで、見方によっては可愛いかなぁって程度なの。私の心を掴むには十二年ほど修行が必要よ』
なんて言いながら、ギュッと当のぬいぐるみを抱き締めてダメ出しをしていた。
シャクナゲに代わって宴席を回していたアオイはヒナギク他数名にくだを巻かれていたし、何人かの男性はスイレンにカードでぼろ負けでもしたのか、下着以外は全部むしり取られた姿で彼女に酌をさせられており、彼女がフラフラとお猪口を持ち上げると競って酒を注いでいた。
ナナシはダウンしていてメメに膝枕をされていたし、そのメメは何故か声高に一班の班訓なるものの演説をしている。
雉のカエデは何故か半裸で腹筋をしながら『818』まで数えていたし、その副官のサツキは早々にダウンしたのか、バックに百合の花を描きたくなるような有り様でリンドウと寄り添って眠っていた。
気にかかるところがあるとすれば、ヨツバの姿が見えないのはいつも通りの事だったが、参謀役のエリカまでが姿を見せていない点ぐらいのものだ。
とりあえず混沌としていて、大惨事だった。
それについ声を上げて笑ってしまって。
そして巻き込まれない内に幾つかの料理と廃都特産の濁酒《暴君》の瓶を一つ掴むと、その場を後にした。
そうして居残り組が上げてきた報告書を読み上げながら、溜め息を繰り返していたわけである。
そんな彼にブー垂れながらも付き合ってくれた女性――アザミは、皮肉げな笑みを向けて肩を竦めてみせるシャクナゲに唇を尖らせつつ、羨ましそうに指をくわえながら窓から宴席をみていた。
上司に居残りを命じられた事に半ば拗ねていたらしく、土産の米酒を白身魚の一夜干しをかじりながら手酌であおっているものの、その機嫌はすこぶるよろしくない。
『今不意を打てば殺れるんじゃないかな。周りに絡まれて身動き出来ないし。……無理かな、無理さね。くそっ、あんの腹黒スマイルめ』
なんて不穏な言葉を漏らしながらアオイを見つめる瞳には、根深い恨みつらみが見て取れる。
公の場ではインテリっぽく、マジメで出来る女性ぶっていながら、普段は重度のサボり魔で自堕落な生活をしている彼女の100パーセント自業自得だと思うが、それは言わぬが花だろう。
――アザミ、お前の力でナナを逃がしてやる事は出来なかったのか?
そんな不機嫌極まりない彼女に、今さら過ぎて遅すぎる言葉をかけたりなどすればどれほど罵倒が返ってくるか分からない。
助けは出さない、出すべきではない。
それはあらかじめ決めていた事で、結果ももう出た後だ。何を言っても潰えた少女の命は帰らない。
ただお互いに抱えた《後悔》という傷を抉るだけだ。
アザミの機嫌が悪い理由の中には、他人を見下しがちで退き時を知らなかった少女の死が含まれていないはずもないのだから。
ネームレスの存在の露見。
それは餌だから仕方のない事だ。五番から七番まで出したのも、それだけ動かせばどれかは露見するという前提でだ。
でも、全てを晒すつもりはなかった。《知られていない存在がいる》というアドバンテージは、かなり大きなものになるだろう。
そんな捕捉されなかった者まで、わざわざ存在を知らしめてやる必要はどこにもない。バレないならバレないままで置いておいた方がいい。
不確定要素は相手の動きを縛るだろう。
だから不測の事態でも助けは出さない事に決めた。始めに
『何かあればすぐさま退くように』
と通達したのもギリギリだ。
どうせならきっちりとした火種が欲しい。それも本音で、向こうに火を着けたという自覚を持たせたいというのも事実だ。
その為には犠牲がいる。命という燃料が必要だ。
向こう側かこちら側、どちらかに火種を残す為なら、本来は退く事を匂わせる事ですら蛇足だった。
これ以上無駄なものを含めてしまえば、作戦の揺れ幅はかなり広がってしまう。
結果として火種はこちら側に残って、あちら側にも少なからぬ遺恨を残せた。たった一人の命で、向こう側には尻に火が着いたはずだ。ネームレスを殺したという事実で動きを活性化させるだろう。
だから、今さら《たられば》を持ち出すのはみっともないだけだと分かっている。
「わたしの《ハンプティ・ダンプティ》なら助けに入れた、それは間違いないよ。わたしにゃこの街中での距離なんて関係ないからねっ」
だから今さら過ぎる言葉をなんとか飲み込んだつもりだった。だがそれが分かったのか、今度はアザミが溜め息を漏らしてみせると、窓の外を見やったままでそう呟く。
それは彼が呑み込んだ言葉が聞こえていたかのようなタイミングで、思わずギクリとしてしまう。
「わたしは助けられた、そう出来る機会もあった。アオイさんは人の感情ってもんが分かんないからねっ。わたしがこの街に残されたままで、アオイさんからも離れて雑務をやらされてたのは、その選択権を残されたんだと思うんさ」
ネームレスワン。最初の名無しの符号所持者。
彼は感情を持っていない。名無しとなる代償に差し出して、その代わりに力と絶対客観視を獲た。
自らの喜怒哀楽を捨てたが為に、何を代償にしてでも優先すべき事柄を優先出来るようになった。
ニコニコ笑ってみせて、苦悩してみせて、呆れ混じりに嘆息を漏らしてみせても、それは全て《こういうシチュエーションではこうするべき》というプログラムに沿ったものだ。
おべんちゃらを述べて、苦言を呈して、皮肉を吐いていても、それは感情の籠ったものではなく実利に基づいたものであるだけだ。
そんな彼が判断に迷う最大の要因は、アザミが言うように《他人の感情の波を予測》して、それを考慮に入れて考えを巡らせる事だろう。
自分がされて嫌な事は誰かにすべきじゃない、自分が悲しいからそんな真似はしたくないし、他人にさせたくもない……そんな考えを理解出来るのは喜怒哀楽を持った人間だけだ。
犠牲が出ても《必要な犠牲だから》と完璧に割りきれる人間もどきには、完璧に感情の襞を理解する事は出来ない。
完全に作られたはずのプログラムでも、完璧に感情という不規則なものを理解してやる事は出来ないのだ。
「あの人は助けるべきじゃないと判断したら絶対に助けに入らない。仲間なんて枠組みはそこに関係しない。損得だけで動けちゃうんさっ。でもそれが人間にとって……その感情にとって正しい事なのかが分からない。だから私に投げっぱなしたんだと思うよっ」
それを他でもないアオイ自身が一番知っている。
彼自身が壊れて、奪われた欠陥品である自覚を持っている。
だからこそ、犠牲の計算を完全にこなせる自分の本当の補佐には、独自の裁量権を暗黙の内に認めていて、こういった時には別行動を取らせる。
自分の見えない場所に補佐役のアザミを置いて、その感情の判断に任せるのだ。
「だからさ、あんたが後悔してるんならわたしを恨めばいいんだっ。わたしは助けられたのに助けなかった、あんたは助けにいくべきか悩んでいたけど、助けられる場所にいなかったんだからねっ」
「……俺が言ったんだろ、アザミには動くなって」
あっけらかんとした調子のアザミの言葉にも、どこか苦いものでも飲み下したかのような声で返すシャクナゲの鼻を、彼女は軽くピンと指先で弾いてみせる。
気安い仕草ではあっても、その表情は先ほどよりもずっと厳しいものだ。
「あのさぁ、あんたが後ろ向きなのは構わないんだけど、他人を甘くみるのはいい加減にしなね。わたしにもあんたほどのものじゃなくても自分で考えられる頭がある。判断出来る知恵もある。間違いを犯して責任を取れるだけの意地もある」
「……」
「でもわたしはそうしなかった、助けなかったんだよ。あんたの言葉があっても、助けないと決めたのは結局はわたしさっ。あんたはもうちょっと他人に責任を押し付けた方がいいね」
――昔っからあんたはそうだったけどさ。
そう言ったアザミの言葉は心底から呆れを滲ませたもので。
そんな彼女にむけて、シャクナゲは今日吐いたものの中では一番重い溜め息を吐いた。
アザミの戯れ言じみた言葉に対するものではない。今も揺れている自分に対するものだ。
――悩んでいたという事は言い訳にするな。それは結局、どうするかを決めていなかっただけでしかない。
そう言い聞かせて、いまだ燻っていた気持ちに封をする。自分は悩んでいただけであり、アザミは助けない……はっきり言えば《見捨てる》とはっきりと決めたのだ。
どちらがよりキツい状況にあるかは考えるまでもない。
悩んでいただけの自分がアザミを責めるのはお門違いもいいところだ。元は彼自身の計画によるものであり、それをいまだに揺らし続けているのは彼の弱さだけだ。
アザミの言う通りなんだろう。そう思う。
全ての責任を自分だけで取れるように勘違いして、全部を引き受けられるように錯覚して、自分で全部を背負いたいという考えは周りの人間を疎かにしているものだ。
でも、こんな風に誰かに目上から怒られるなんてひさしぶりで。
こうやって怒ってくれる相手は少なくなったはずなのに、その理由は昔から全く変わってなくて。
そんな自分に呆れを含ませた溜め息を漏らしたのだ。
「飲みなっ。いいだろ、たまにはさっ」
そんなシャクナゲの心情が分かったのか、はたまたとりあえず一緒に飲む相手が欲しかったのか、空いていた湯飲みに酒を注いで、アザミはそれを無言で進めるとニヘッと笑う。
「これは私の親友の分で、あんたの相棒の分さっ」
その脇にはもう一つ、こちらはここにはいない誰かの分とでもいうように、綺麗なお猪口を置くとなみなみとそれに酒を注いで、『乾杯』とでもいうように自分の酒器を軽く合わせてみせる。
「今日は無礼講だろ? 昔馴染みのアザミンとシャク、もうここにはいないけどミヤの三人で飲み会さっ」
「あいつは酒に弱かったはずだけどな。日本酒を飲ませた時なんか最悪だった。散々くだをまかれて、胸元で吐かれて、その上で酸っぱい臭いがするから寄ってくんなとかムチャクチャ言われたんだ」
ミヤ――。
もうここにはいない相棒。
彼女にはいい思い出も、悪い思い出もたくさんある。その全てが忘れられない記憶だった。
「あははっ、あのコは意外とお子さまだったかんねっ。アカツキが辞めてたはずのタバコを吸ってた時も、煙たそうに見るだけじゃなくその先っぽをいきなり切り飛ばしてさっ
『わたしの前でタバコが吸いたいなら許可とりなさい、許可。絶対に許してあげないけど』
なんて切っ先を突きつけながら言ってね。あれを見てたカブトは、青くなりながら禁煙決めたんだよねっ」
「俺なんかもしタバコ吸うようになったなら、タバコを持つ指かくわえる唇か、はたまた面倒だから首から上か好きなところを切り飛ばしてやる、とか言われたよ」
非常に上手い物真似に笑いながら……いまだに《似ている》と思える自分と、その似ている物真似が出来るアザミに笑いながら、彼も一気に酒をおおる。
昔、班体制も何もなくて、黒鉄自体もなかった頃は、こうして一緒に酒を飲んだり、輪になって喋ったりする機会もたくさんあった。
その頃から有名だったミヤビと、一気に名前を上げ始めたシャクナゲ、その二人が持ち上げた看板であるアカツキと、その協力者であったカブト。
そしてその側にいた一人の少女。
今この場にいるのは、すでにミヤビもアカツキでさえも超えた名前を持っているシャクナゲと、その頃から変わらず存在と力を隠していた女だけだ。
一番にならず、二番も避けて、三番でも少し目立つからと《四番目》に名前を連ね、一番の片腕となった今もその存在を隠している最も古い名無しだけしかいない。
「メチャ強いくせに泣き虫で、癇癪持ちなくせに笑いの沸点が低くてさ」
「それで強がりで寂しがりで……そしていい女だったと思うよ」
「そんな言葉は本人に言ってあげればよかったのさっ。
あんたはいつでもそうだねっ。いつも後になってからだ。いつも遅すぎる時になってから、言ってあげるべきだった言葉をわざわざ第三者の他人に漏らすんだよね」
「あぁ――」
――そうかもしれない。
そうこぼして、空になった湯呑みを置いた。
濁りが喉に絡まって、そう美味いものではない。胃が焼けるように熱くはなっても、酔えない自分の体質が少しだけ憎らしい。
酔えたなら……酔った拍子に本音を漏らせたなら。
あるいは酔ったふりでもして、素面では言えなかった言葉をかけられる程度の器用さがあれば。
そんな事を今さら考えてみても、現実は何も変わらないというのに、それでもついこんな風に考えてしまう。
酒にはいい思い出も辛い思い出もありすぎる。
それなのに、その思い出に対する逃げ場を持っていない。だから好きにも嫌いにもなれず、飲めないわけではないのに苦手なのだ。
「でさっ、シャクナゲは今後どっちに行くのかなっ? 北かい? それとも西かな? 東って事はないよねっ?」
そんなしんみりとした空気を払拭するように、ことさら明るい言葉でそう言ったアザミに、少しだけ救われた気分になりながらも思案を巡らせた。
もとより問いかけに対する答えは決まっていたが、それを彼女に言うべきかを考える。
そしてすぐさま考えるだけ無駄だと判断して、正直に口にする事にした。
「俺が行くべき場所は決まってるよ。一番厄介で一番キツいところさ」
それは戦略からしてもそうすべきで、そうしなければならない。
彼の灰色は、スズカの銀色と共にこの街の切り札になる。ならば一番の難所にあたるべきなのは自分かスズカだろう。
対軍では自分が。
対個人では銀色が。
そんな風に力の質に違いはあっても、この二つの反則はこの街の高い壁になるだろう。
その上でスズカにはこの街を離れさせたくないとなれば、自分がそこを受け持つ他はない。班長である自分が出向くのは好ましくないが、その難所の事を考えれば仕方のない事だ。
「厄介なところ、ね。西の《堕ちた学舎》に対する《彼》の言葉は……まさか忘れてたりはしないよねっ?」
――お前は学園には当たるな。それはお前が《どんな状況》にあっても、だ。
もし学園と敵対したのなら他の誰かに任せろ。お前は学園には――
そう言った親友の言葉は覚えている。親友が命を削って残してくれた言葉は、それこそ一字一句逃さず記憶にある。
空気の臭いや、周りの喧騒ですら再現出来るぐらいだ。
だから頷き返して……そして肩をすくめてみせた。
自分を過剰に持ち上げるつもりはなかったが、その言葉の意味だけは分からないままだった。
どんな状況にあっても。
それは《今の自分》であっても、という事だ。その意味は分かる。もし灰色を取り戻した後であっても、学園には手を出すなとアカツキは言ったのだろう。
「――《お前は絶対に学園には勝てない》、《スズカなら勝ててお前に学園を落とす事は無理だ》だろ。意味は分からないままだけど、覚えてはいるよ」
「彼の言葉だよ。意味は分からなくても、嘘を言ったりはしないって事は分かるっしょ。
彼が《君には勝てない》というなら、君は学園には勝てないのさ」
「……分かってる。《学園からの招待状》を受けて、あいつの言葉を思いだしたんだ。意味は分からないままでも、その言葉の重さもちゃんと覚えてるよ」
アカツキは欠陥預言者だった。それはアカツキが二十歳になるかならないかという年で、老衰にも似た衰弱の果てに死亡している事こそが証明している。
だが、その預言そのものが欠陥品だったわけではない。
その預言の代償が余りにも見合わないものすぎただけだ。未来の情報を……選択の結果をあらかじめ得る代わりに、未来を差し出すという矛盾が致命的な欠陥だっただけだ。
そして学園との事が預言によるものかは分からなくても、古株の黒鉄にとってみれば《アカツキの言葉》というだけでも預言に値する信用度を持っている。
彼の情報収集能力と状況分析能力、そして理論的な計算で全てを統合して導き出す予測は、かなり高い精度を誇っていたからだ。
その彼が《勝てない》と言ったのなら、あの《堕ちた学園》には《灰色では勝てない何か》があるのは間違いない。
「でも、必要だったなら俺は学園に行くよ。そうするしかなければそうする」
それでもシャクナゲは事も無げにそう言ってみせて、薄く目を細めてみせるアザミ――四番目の名無しである女に真っ直ぐに見つめる。
『あんたの目はさ、悔しいけどなんか不思議な力があるよね』
そう言ってくれたのはかつての相棒だ。
立場的に大っぴらな付き合いはなかったが、アザミにとって唯一の親友といっても過言ではない黒鉄のものだ。
『絶対あんたが間違ってても、その真っ黒な目で見つめられたら自分が間違ってんじゃないかって思うんだもん』
――確かに、アカツキの言葉には間違いなんてないだろう。勝てないものは勝てない。
最強が自分ではない事を彼は知っている。関東以外にも自分より強い誰かがいるのかもしれない。
そうである以上、今の状況ではアザミの言葉の方が正しいのだろう。
でも、アカツキの言葉よりも相棒が言ってくれた戯れ言を信じてみたい気もする。
こうやって見つめていれば、ひょっとしたら正しい側であるアザミにも通じるんじゃないか、なんて突拍子もない事を考えたくなる。
「行かせない、と言えば? わたしとアオイさん、スクナンとスイレンが行かせないと決めれば、いかにあんたでも簡単にはいかないよ?」
そんなシャクナゲに、当のアザミも負けじと視線を合わせて皮肉げにそう言った。
それでもシャクナゲは視線を反らさない。反らさないままの彼に、少しずつげんなりとした風を見せるアザミへと軽く笑ってみせる。
「知ってる。アオイとスイレンは絶対に折れてくれない事も、二番のスクナは俺よりもアオイに従うって事もちゃんと知ってる。でもアザミは……四番目じゃなくて《昔からの腐れ縁であるアザミ》は、いざとなれば俺の決めた道を助けてくれるんじゃないか、なんて思ってみたりもするんだけどな?」
「なんでわたしが……てか、わたしでアオイさんやスクナンに勝てるわけないじゃんかっ」
――わたしなんか四番だよ、四番目っ。
そう言って何故か強気なアザミに、ついシャクナゲは声を上げて笑ってしまった。
いったい誰に向かって
《自分は四番目に過ぎない》
《つまりそう高い能力なんて持ってない》
《精々が四番目程度》
《だから頼られても困る》
なんて、おためごかしを……《誤魔化し》を言っているつもりなのか。
そんな言葉が、古馴染みである自分に通用すると思っているのかと思うと笑ってしまったのだ。
「《不殺の名無し》。《粛清しない粛清者》。《殺しを悼む殺人者》。《仕方なく四番目になった女》」
「わたしの力は裏方用なのさっ。うん、殺しは三番で誘いは五番と二番、餅は餅屋っしょ」
笑いを噛み殺しながら、次々に《アザミ》にかけられた《名無しが持っているべきではない異名》を上げてみせても、彼女は特に気にした様子を見せない。
嫌そうに顔をしかめてはいるものの、それも面倒事を任されそうな予感に対するものだろう。
「よく言うよ。あれだけ異質でトリッキーな能力を持ってるくせに。《異質な能力者》だって事がネームレスの資格だってんなら、お前は一番にも三番にも負けてないぜ」
もちろん、それだけが名無しの資格ではない事ぐらいは分かっている。それでも揶揄するようにそう言うと、アザミは『うげっ』と呻きを漏らして視線を逸らした。
「……あのね、そういう迷惑な買い被りはやめてくんないかなっ? アオイさんの影で十分苦労してんのは知ってるっしょ」
「サボり魔で、目立つのが嫌いで、戦うのも嫌で、誰かの命を背負うなんてしたくなくて、でも痛いのもイヤだし支配されるのも真っ平ゴメン、って性格だから前に立ちたがらない事は知ってるよ」
「そこまで知ってんのなら、わたしのモットーが《長いものには巻かれちゃえ》なのも知ってるっしょ!?」
長いものに巻かれちゃえ――それが本当にアザミの生き方なら、彼女は黒鉄になんか所属していないはずだ。
それが分かるからより笑いが込み上げてくる。
本物の黒鉄には器用に生きられるような人間はほとんどいない。全員不器用で、曲げてはいけないものを屁理屈や力ずくをもってしても曲げる事が出来ない人間ばかりだ。
どんな大層な理由を付けてみせても、この街から離れる事が出来なくて。
どんなものであっても、友人や知人、家族や隣人、思い出や過去の対価にはならないと考えて。
そうして妥協が出来ないまま、自らの不可分を侵す誰かと戦う事を決めた者が黒鉄を名乗る。
彼女は、ちょっとばかり風変わりで面倒くさがりではあるが、間違いなく《本物の一人》だ。
ひょっとしたら上司であるアオイよりも……あるいは称号持ちであるスイレンよりも、この街育ちであるアザミはずっと黒鉄だろうすら思うぐらいだ。
「知ってるよ。出来れば長いものには巻かれちゃいたいんだけど、今まではなんでかそうする事が出来なかっただけなんだろ?」
「ぐっ……痛いとこ突くなぁ」
そんなひねくれ者の名無しを、真っ直ぐに見つめたままシャクナゲはそう言ってのけると、ニヤッと皮肉を効かせた笑みを浮かべた。
『あいたーっ』とか言って胸を押さえながらも、その瞳だけは笑っているところを見ると、アザミはこんなやり取りを楽しんでいるのだろう。
ずっと同じ班にいても、こんな風に対等に話し合う機会はなかったのだ。ちょっとばかり昔を――まだアカツキがいて、ミヤビがいて、その二人に引っ張られていた二人がいた頃を懐かしく思っているのかもしれない。
「だったらお前は、今後もそんな風には生きられない人間――俺や《あいつら》と同じ側の人間だって事だよ」
「いや、少なくともあんたよりは小器用に生きてるつもりなんだけどな」
「俺より器用に生きられるのに、俺と同じ場所にいる……その結果が全てだろ。そしてそんなアザミだからこそ、いくら翻意を促してみせても揺るぎがなかったとしたなら、絶対に俺に協力してくれるって信じてる」
不殺でありながら名無し。
殺さずを決め込んで、面倒がって、他の班に入り込む事を嫌がって、一番がいるのに三班に残った。
一班に入り込むはずだった予定を勝手にキャンセルして、名無しの存在意義を自分の都合で狂わせたのだ。
一級の警戒対象であった一班に名無しが入り込んでいない理由が、まさか入り込むはずだった本人によるボイコットが理由だとは、他の名無しでも知る者は少ないだろう。
そんなサボりたいが為に、はっきりとした役割を持ちたがらない古い黒鉄。
そして名前無き称号持ちの第一人者。
それがこの《ハンプティ・ダンプティ》……《殻の中の何か》を持ったアザミという女だ。
一番はやっぱり最も目立つし、二番もやっぱり同じくらい目立つかもしれない。三番は七番に次ぐラッキーナンバーと思われがちで、三指に入るという表現もあるぐらいだからそれも嫌。
下位の番号でも構わなかったけれど、新参の七よりは四番辺りの方が格好はつくかもしれないし、七番とか六番だと名無しの周りをうろつく誰かに存在がバレた場合、格下と見られてちょっかいを出される可能性もある。
だから四番目辺りがちょうど《真ん中》で、一番目立たないかなぁ、と四番目になりたがった。
どんな分野でもトップには立ちたがらなくて、その結果アオイの副官格という立場に座り込んで
『これ以上目立つ場所には行きたくない』
と主張した。
そんな彼女の事はよく知っている。
使いにくい事も、不器用な事も、誤解されるように演じているひねくれ具合も。
「……まぁさっ、言うまでもないだろうけれど、学園はあんたがわざわざ出張るほどの相手じゃないと思うよっ? あんたじゃ勝てないって事と《あんたより強い》はイコールで結ばれないんだからねっ」
「分かってる。だから学園に行くとは明言してはいないだろ? 俺が行くのは一番キツい道。そう決めただけだ」
「ふん、じゃあ学園が厄介そうなら学園に行くつもりって事っしょ? なんでそう面倒な方へ面倒な方へと行きたがるかなぁ。さっぱりアザミさんには理解出来ないよっ」
そう言ったものの、結局は『絶対学園には行かせない』と明言しないままでアザミはため息を吐いた。
それは、彼女の持つ天の邪鬼さの現れだとシャクナゲは知っている。
『行かせたくはないよ? でもどうしても行きたいなら行けば? わたしや一番、水鏡が反対しても行く時は行くんでしょ? なら仕方ないよ、うん。仕方ないから反対もしないし賛成もしない。面倒じゃない程度なら手伝ってあげてもいいよ。揉めるのも嫌だし』
という事なんだと、好意的に解釈してもあながち間違ってはいないだろう。
「まっ、なんかあったら、面倒にならない程度で話持ってきなさいなっ。三番がいない間は、地下三階を《封鎖》しとくだけな予定だし……というか、それ以外したくないしっ」
「頼りにしてる。お前の《ハンプティ・ダンプティ(殻の中の何か)》は、俺のもう一枚の切り札だから」
「そこまでの期待はされたくないっ」
そう言い残して。
先ほどまですぐそこにいた《四番》は、影も形も消え去った。
ちゃっかり酒瓶とツマミを持っていき、彼女がアオイに任された仕事だけは残している辺りが非常に彼女らしい。
「……俺の愚痴を言いにミヤビんとこでも行ったのかな。あそこなら月も綺麗に見えそうだ」
郊外の高台にある墓地。
そこは今は亡き黒鉄たちの寝所で。
その中にある剣を模した一風変わった墓に、貴重であるはずの酒を豪快にぶっかけながら、グチグチ言っている姿を想像すれば少しだけ滑稽で。
それ以上に、都市の中央から郊外までを一瞬で移動する異常を持った四番が、どこまでも仕事に不真面目である事に少しだけげんなりする。
それが彼女らしいと言えば、非常に彼女らしいのであるが。
「始まった。始めてしまった」
そうして。
誰もいなくなった部屋でそう呟いて……窓から見える街の景色に思いを馳せる。
きっと沢山の犠牲が出るだろう。
予想より多い死者が出るはずだ。
その中に、自分が入らない保証はどこにもないという事はなんの慰めにもならない。
ここで――いや、もっとずっと前のどこかで、野垂れ死にでもしていた方がこの街の為だったかもしれないとすら思う。
「もう誰も死ぬな、なんて今さら言っても間に合わない」
ここで頭を下げて、この街の実権を対抗勢力の誰か――今は動きを見せていないカブトか、すでに動きを見せているマルスに明け渡す事は簡単だ。
そうしてこの街を一つにして、自分だけで東に行く事も出来た。
でもそうすれば、北国から押し寄せる波を受け止められない。平穏は一時で泡と消えると思う。
北の女王に従おうとする者と、抵抗しようとする者で殺しあう事になるだろう。
そんな事は出来ない。その結果、黒鉄が消え去ってしまっては、脳裏に浮かぶ仲間たちに合わせる顔がない。
それに今さらそんな選択をしては、火種になって消えてしまった七番の少女は報われなさすぎる。
「行こう、行こう、行こう、行こう、行くんだ」
そう繰り返し繰り返し呟いて。
頭の中に描いていた駒を一つずつ動かしていく。
東に向かった《スクナビコナ》と、南の提督に渡りを付けた功績から、続けて折衝役を続投しつつその他の西の勢力の抑えを受け持つネームレスワン。
あとは学園と北陸の女王に対する駒を決めるだけだ。内に残す勢力は、そこからあぶれた者で構成するしかない。
北陸は危険過ぎる相手で、学園は不気味過ぎる相手だ。
そこに不手際があっては、内部を上手く纏めてみせても何も残らない可能性が高い。
この二つの外から押し寄せる勢力は、この街の思い出を多少なりとも持ち合わせ、ここを基点に戦略を考えているであろう内なる不穏分子とは違い、いざとなれば一切合切を押し潰す方法も取りかねないからだ。
「まりあ、お前にこの街はあげられない」
北から迫り来る女王は、かつて見知った相手だ。
一度は軍勢ごと完膚なきまでに叩きのめして、煮え湯を飲ませた相手だ。
それだけに油断出来ない相手である事を知っている。長尾まりあは灰色の力を目の当たりにした上でも生き残ってみせて、その後もなお勢力を拡大してみせた女傑なのだから。
灰色に心を折られる事なく、他の新皇の何人かと戦っても生き残って。
そうして何度も勝ち負けを繰り返しながらも、ただで転ぶような真似は一度もせず、その結果《北陸の女王》とまで呼ばれる存在になっているのだから。
「智哉、いざとなればお前の忠告は無視する事にする」
そして東に停滞する学園は、その勢力自体はとても小さくて。
統括軍や北陸軍はおろか、黒鉄よりも小さくて。
それなのに、どこもかしこも《腫れ物》に対するかのように扱ってきた相手だ。
統括軍の将軍も、黒鉄の暁も。
学園との争いは極力避けていた事をシャクナゲはよく知っている。
最大勢力である統括軍を相手に、見事な啖呵を切ってみせて宣戦布告をしたアカツキが、学園に対しては非常に腰が重かった事も、将軍が学園制圧に送り出した近衛を含む部隊が、学園の土地に入った後には音信不通となり、そのまま何も持ち帰る事なく行方不明になった事も。
それら《脅威》と《不吉》の二つを見比べて。
自分に見立てた駒を一歩進めてみせた。
もう片方に向かわせる者を身繕い、そこにも少しばかりの策を張り巡らせながら、長らく留まったままだった場所から一歩踏み出したのだ。
四番について。
それとネームレスの能力名について。
四番は一番の表の役割……シャクナゲの補佐という仕事の補佐をする役割を持ってはいますが、これは今回の本文にもあったように、《それほど必要ない役割》で
『補佐の補佐なら責任なんてないし、特別気を張らなきゃならないって事もないよね』
と、一班に入り込むのをいやがって、その立場に座り込んでしまったから出来た役割です。
それでも彼女が名無しの四である辺りからして、おいそれと手放す事が出来ないだけの能力を持っていたという証にもなります。
今までで、六や七が五班に入り込んで、五は民政部を遠回しに操作し、二番ですら四班に入り込む形を取っているのに、かなりの戦力を持っていた《一班に何故名無しが入っていなかったのか》を説明していなかったのですが、ぶっちゃけて言うとそれは彼女の為です。
外様であるだけではなく、三班とは余り良好な関係ではない為に一級の警戒対象でもあった一班へと見繕われたアザミが、それに対する拒否権を発動させたからです。
もちろん拒否権なんて持っていないはずなんですが、彼女はそれを貫徹し、三班勤務となっていました。
その能力の一旦は今回の本文にて。
今回書いたのは、《遠距離を一瞬で移動する》と《地下三階を封鎖する》。
名前はマザーグースから《ハンプティ・ダンプティ》としています。
和訳は難しいですが、未知の卵型の何かを思わせるもの……から考えています。
ハンドレット・ハンドデッドは《数多く》《死》《腕》から考えてもじりました。
別に前半と後半で似た響きの名前にするつもりはさらさらないです。
二番とか違いますし。
七番はそうですけど。
一度全部が出たら一覧載せます。