12・夜よりも暗き夜明け
残像が見えるほどの恐るべき初速で駆け出したクチナシに、まず最初に目を付けられたエリカはそれでも小さな笑みを浮かべてみせた。
(私が最初に狙われたのは、ヌエの力では直接ダメージを受けない自信があるから? それとも彼の《後継》を目指していると言ったから?)
そんな事を少しばかり考えてみて、即座にその考えを破棄する。そんなはずがないと思い直す。
(いえ、そうじゃない。彼が私を狙ったのは、単に私の方が近い場所にいたからよ)
迫り来る相手との距離、現在の状況、そして相手と自分の関係。その全てに思考を馳せて、相手の思考にも手を伸ばす。
エリカの戦闘回路は、緊張状態においてなおその鋭さを増していきながら、あくまでも冷静に、そして刻々と加速度的にスピードを上げて、全てを思考の内に捕らえようと回り続ける。
エリカは自分を特別視していない。自分が特別な存在だと思ったりもしてはいない。
彼が自分を狙ったのは、自分の方が彼にとって厄介な存在だからなどとは考えない。
そんな自分の矜持をくすぐるだけの思考など、考えを鈍らせるだけだ。
まだ全容の見えない死神の手と、その脆弱さをよく理解している爆破の手。
この二つのぶつかり合いは、いくらなんでも分が悪い。自分が爆破するよりも早く殺されてしまう可能性もあるし、爆破という力を殺されてしまう可能性もある。
なにより、自分の爆破単発では傷一つ付かない可能性も少なくはない。
そのまだあり得る危険を無視し、能力の優劣を覆してまで自分に価値を持たせるなどナンセンスだ。そんなものは、勝利に至る為のバラスト(重荷)にしかならない。
必要なものは自分を惑わせるちっぽけな自尊心ではなく勝利だ。
――勝るところを見るな。劣るところを理解しろ。
その言葉をエリカに刻んでくれた青年は、どこまでも教え下手な性格だった。
黒鉄の中でも最上位の戦歴を持っており、彼を慕う者もかなりの数がいたにも関わらず、自分が誰かを導くなどとは畏れ多い事だと考えて、他人が師事してくる事を認めなかった。
ひたすら彼の後を付いて回っていたエリカでさえも、直接的な教えを受けた回数は片手の指で事足りるほどだ。
でも、そんな彼が時折かけてくれた言葉は全てがエリカに必要なものだった。不要なものは何一つとしてなかった。
エリカが今のエリカになれるまで生き残ってこれたのは、数少ない彼の教えの全てを愚直に守り、規範としてきたからだ。
不器用で伝わりにくい言葉を真っ直ぐに受け止めて、それが自分にとって必要なものだと信じたからだ。
――まずは大事な事を一つだけ。後はそこに至る道だけを見ていればいい。多くを望むな。お前はそんなに特別な人間じゃない。
彼はエリカを褒める事は滅多になかった。的確に凡人であるエリカの評価を下してみせて、そのやる気を殺ぐような事ばかりを言ってくれた。
エリカでは自分と同じ道は辿れない。
同じ道を歩く必要もどこにもない。
そう暗に言っていたのだろう。
決して増長させてはくれなかったし、エリカが積み重ねてきた努力の量にエリカ自身を甘えさせてはくれなかった。
自分はこんなに頑張っているだから……などという、生きて結果が得られなければなんにもならない慰めを許してはくれなかった。
その上でエリカにも出来る事だけを示してくれて、凡人であるエリカでも出来る戦い方、生き残り方の基盤をくれた。
――自分に価値を見出だすのは、自分以外の誰かだけでいい。エリカ自身が自らに価値を見いだした時にその目は曇るだろう。
生き残る度、誰かを蹴落とす度に甦るその言葉は強い戒めになった。
自信が過信に変わりそうな時には、たまにしか手合わせをしてくれなかった彼が、自信喪失してしばらくは寝込みそうになるぐらいこてんぱんにしてくれた。
しかしその痛みがなければ、生き残り続けてきた自分を優秀な存在だと勘違いしてしまい、過信に踊らされて、取り返しの付かない敗北を喫していただろうと思う。
――そして目が曇った時、エリカは一番大事な武器を失う事になる。お前の目は間違いなく宝だよ。
そしてエリカが唯一持って生まれた才能、無自覚に持っていて、無自覚に磨きあげてきただけの武器を最初に見出だしてくれたのも彼だ。
彼の言葉の全てが血肉となって今のエリカはある。全ての言葉が栄養になって、エリカを鍛えあげてくれた。
彼にはそんなつもりなどなかったのかもしれない。だが、閃光は間違いなく宵闇によって映える存在となったのだ。
彼が言っていたように、自分は戦闘においては凡人の域を出ないのだろう。
でも非才であったがゆえに持ち合わせ、周りを見上げ続けるばかりだからこそ磨きあげられた目がある。
自分より才ある人間ばかりを見てきて、《この相手には真っ向からでは敵わない》と思う事ばかりで、時折そんな残酷な現実ばかりを映す目が疎ましくもあったが、その目は見上げ続けてきた事でその精度を増したものだ。
勝てない相手を最初の段階で見抜いて、それでも勝つ手段を模索する起点となって、考えた手段が有効かどうかをかなりの精度で見抜いてくれるそれは、ちっぽけな爆破能力などよりよっぽど生き抜く為の力になってくれた。
――勝てない相手からは逃げろ。逃げ続けて勝てる策が思い浮かぶまで逃げればいい。お前にはそれが出来るだろ?
どうしても引けない時は、とりあえず打てるだけの布石を打て。置けるだけの置き石を置いておけ。それが役に立たなくてもいいんだ。何もやらずに挑んで、後から必要になった時に後悔するよりはいくらかマシなはずだから。
彼が見つけてくれたその目が告げている。
今回の相手もまた見上げるべき相手で、搦め手をメインに置いて最初から奇策で挑むべきなのだ、と。
身体能力では劣る。そんな事は分かっている。
特殊能力でもそうだ。それはいつもの事だ。
ならば、それ以外で勝ればいい、それだけの話でしかない。
《触る》事で爆破させる方法が危険なのだから、そんな直接的な手段は最後に回す。そんな方法は後がなくなってから試しても全然遅くない。似合わない真っ向勝負は最後の最後に全部やり尽くしてから試せばいい。
このドライな考え方とそれを躊躇いなく実行出来る精神は、弱者という出自を持ち、それを認めて、そこから這い上がろうと血反吐を吐いてきた自分だからこそ獲られたものだ。なまじ強者として他人より上に立って生きてきた者であればこうはいかない。
真っ向勝負という手段を端から捨てられるのは、生き抜く為には手段を選ぶ余地がない弱者だけだ。
だからこそ、距離をあけながらもあちこちに手を当ててブラスト(爆破)ワークス(精製)をかけておいたのだ。
この少年は、自分とヌエを取るに足らない障害物程度にしか見ていない。
自分の能力について完璧には知られてはいないというアドバンテージと、圧倒的なまでの身体能力。
そして仲間殺しをなんとも思わない歪んだ精神。
全てが殺し屋として自分を上回っている。彼もそれを理解しているはずだ。
それを業腹だとは思わない。
どちらかと言うと見下す側であったヌエであれば、そんな考えには頭に血を上らせるだろう。
しかし元より見下される事に慣れていて、見上げる事が日常だったエリカからすれば付け入るチャンスでしかない。
奇しくも自分もヌエも奇策を用いてこそ生きる能力を持っているのだ。
一つ、二つ、三つと策を重ねて、四つ、五つ、六つと罠を張っていけば、どれかは効果を示すかもしれない。
ほんの僅かでも躓いてくれるものがあるかもしれない。
そして一つでも効果があったのなら、そこを徹底的に突いてやればいい。
爆破が効かず、ヌエの芳香が効かず、二人がかりで殴りかかってもやられるだけだとわかっていても手段はある。そんなものはいくらでもあるのだ。
一の爆破では痛みを与えられないのなら、百の連鎖爆破で。
それでも効かないのなら、周囲の建物を倒壊させて生き埋めにしてから、燃料をぶちまけ火をかけて焼き殺してやればいい。さすがに辺り一面の景観を犠牲にすれば焼け死んでくれるだろう。
ヌエも飛翔兵がやられ、いくつかの芳香が効かなかったとしても、まだ他にも切り札ぐらいは持っているはずだ。それぐらいでなければ、あの関東の地でも黒鉄としても生き残ってはこれまい。
そして時を重ねれば、もう一人の白銀の守護者も顔を出すだろう。そうなれば後は三人がかりだ。
さらにひょっとすれば、騒動を聞き付けてあの《銀鈴》までが顔を出す可能性もある。
そうなればいかな宵闇の影であっても勝ち目はない。あの銀色の少女こそが、エリカが見上げ続けてきた者たちの頂にいる存在なのだから。
――相手の強大さに呑まれるな。自分の後ろにあるものを思い出せ。
自分の後ろにあるもの。
それは今まで歩いてきた道のりだ。そこで磨いてきた経験だ。ついでに今は口の悪い顔馴染みまでそこにいる。
諦めるにはちょっとばかり重すぎる。
今持っているものにもそれなりに自信がある。
状況を認識するスキルと、曇らせる事なくひたすら精度を上げてきた目。
脆弱な――でもかなりの数の爆発物を作り出し、それを任意爆破させる能力。
威力は弱くてもそれを補える下地を作るには十分だ。
すくなくとも、なにやら不穏な気配をばら蒔いて、何かをしでかそうとしている《口の悪い顔馴染み》の為の時間ぐらいは稼げるだろう。
その顔馴染みがなにかをやらかせば、また時間を稼げるはずだ。
先も言ったように、エリカは自分を特別視してはいない。
自分だけで勝てたなら最高だろうが、入手困難な最高などは求めていない。100対1であっても勝ちは勝ちだ。手に出来る最良さえあればいい。
そう考えて、下がりながらも最初の布石として作り上げた《61》の爆発物をまずは起爆させようとして。
――それは横合いから見事に邪魔をされたのだ。
「スクナお兄様、また勝手な事ばかりをなさって……いったいどこまでスクナに面倒ばかりかけるおつもりですか? いくら殺意を殺して差し上げても、一日一回は誰かを殺さなければ気が済まないと仰るのでしたら、誰にも気兼ねはいりません。どうぞご自害あってご自分を殺して下さいませ」
――スクナはそう言って、手綱から抜け出した狂犬に視線をぶつけた。
横合からかけられた言葉と同時に、駆け出したばかりのクチナシが吹き飛ばされたあと、さらに吹っ飛んだクチナシを追って何度か続けて空間がはぜる。
不可視の何かが空間をかき乱す。
《死念》と呼ばれるクチナシと瓜二つの亡霊の登場によって、今までエリカが組み立てていた計算は綺麗に根底から覆されたのだ。
「あら、あらあらあらっ? あはは。スクナお兄様ったら。これはまた随分と景気よく吹っ飛びましたね。……その忌々しい腕で上手くカバーはしたみたいですけれど。
――もう一発吹っ飛ばしてやれば、少しはスクナの苦労を分かってくれるだろうか。もしくは万が一にも打ち所が悪かったりして死んでくれたりもするかもしれない。そう考えて、スクナは再びスクナお兄様を睨みつける」
再度起こる衝撃は空間を震わせて、空気という不可視のものをはぜさせる。
その威力は、エリカが連鎖式に爆破させる予定だった《ブラスト》の総威力に匹敵するものだ。
それをなんの仕草もなく、雑談混じりのままで、狙い済ましたかのように……というよりもはっきりと狙い済ましてクチナシにぶつけている辺り、手加減抜きで攻撃している事は明らかだ。
それでも彼のかなり後方から現れた少女は微笑んでいて、はぜる領域にその瞳を向けている。
クチナシよりもさらに紫がかった紫紺に輝く瞳。それは月光を映して妖しく輝きを増していた。
目立たない《紫》を名前に冠した少女はただ涼やかに破壊を見つめていて、唸る気流にその身を頼りなげにフラフラさせていただけだ。
「もう一つ……と言いたいところですけれど、スクナまで愚かなスクナお兄様のように立場を忘れてはしゃぐ訳にも参りません。お兄様と同じような印象を持たれては舌を噛みきりたくなりますから。
――またも死に損なった忌々しいお兄様に最後の一瞥を向けてから、スクナは狂犬に絡まれていた哀れな二人に意識を向ける」
向ける……と言いながらも、若干視線をずらして宙を見つめる辺りが不可思議だった。
最後に起こった衝撃が、彼女が視線を反らす事であっさりと収まった点も不気味としか言いようがない。
「初めまして、名高い白銀の守護者と宵闇を追いかけた閃光。その名前だけは知っているよ。スクナは紫念のスクナ。それともあなた達には、もう一つの名前で名乗った方がいい?
――そうスクナは言って、軽く会釈をしてみせる。まずはスクナお兄様の飼い主として、飼い犬の非礼を詫びるべきかとも思ったが、スクナお兄様の為にスクナが謝罪をしなければならないなど業腹もいいところだ。だから纏めて頭を下げるだけに留める事にした」
ちょこちょこと遅い歩みで歩いてきて、カクンと小首を下げる程度に頭を下げて、それでも脇を向いているという少女。
服装はサリーを思わせる民族衣装のようなもので、その褐色の肌と針金色の髪にはよく似合っているが、着こなしは雑な感じであり、ややその小柄な身体には布地が大き過ぎるようにも見える。
そんな頼りなさげで、ちょっと危なっかしくて、かなり変わった口調を持っている少女があっさりと《別の名前》を……つまり名無しである事を認めようとしている。
そんな彼女に、エリカとヌエがボーッとしてしまったとしてもそれは誰にも責められないだろう。
「本当はちょっと前から離れた位置で見ていたの。今の愚兄なら惨たらしく抹殺してくれるんじゃないかと期待してたんだ。タイムアップなのが残念に思う。
――《今のスクナお兄様》にあっさりと勝てないようなら、本来のスクナお兄様には絶対に勝てないだろうが、一応おべんちゃらぐらいは述べておくべきだろう。それに今のお兄様になら、低い確率でも勝てた可能性があったように見受けられた。そこは認めるべきだとスクナは大人の寛容さを見せる事にする」
本音が駄々漏れな口調ではあっても、一体何をどこから突っ込んでいいのかが分からない。
お喋りなのか違うのかすらも曖昧だ。
ヌエも言葉が出ないのだろう。不穏な殺気が揺らいで、その口許を酸欠の魚のようにパクパクとさせているだけだ。
「今のお兄様はね、スクナが殺意を殺して差し上げたスクナお兄様。殺人鬼を殺した結果、人間性が引き上げられたスクナお兄様なの。
――最初の接触で死んでいたはずのあなたなら分かるはず、とばかりに牙桜を見やってスクナは肩を竦めてみせた。もっとも、お兄様が殺すつもりであれば、《ハンドレット・ハンドデッド》の能力に頼るまでもない。腕を一閃しただけでその細い首は赤い噴水を噴き上げていただろう」
そんな言葉を目を合わせて、嘲るかのように言われたのなら怒りを溢れさせる事が出来ただろう。いかにその言葉が真実であったとしてもだ。
少なくともいつものヌエであれば、自分とスズカに対する侮辱を許すような真似は絶対にしない。
でもこの少女の場合、視線が合っていないからかその口調からか、どこにどうやって怒りを向ければいいのか分からない。
掴み所がないわけではなく、掴み所が有りすぎてどこから掴むべきか迷ってしまうのだ。
「簡単に言えば、今のお兄様は……そうね、本来の半分ぐらいの強さしかない。そこまで抑えなければ会話もままならない。今のお兄様は欠陥品なのよ。
――人間的な常識を鑑みれば、普段のスクナお兄様の方が欠陥品というべきだろうか? そんな思考のパラドックスに少しだけ頭を悩ませるものの、お兄様ごときの為に脳の容量を使う無益さに気付いて、すぐさま思考ごと放棄する事にする」
パラパラと破壊の爪痕に建材の残骸が降り注ぐ方向を見ているだけで、いまだ警戒を解かないエリカとヌエには一度も視線を合わせない。
独特の口調にも変わりはなく、小さな感情のぶれも見てとれない。
崩れた廃墟の中心で、そこだけ綺麗に更地と化していた地点にいまだ立ったまま少年を見て、ようやく忌々しげな感情を乗せた舌打ちを漏らしてみせるまで、まるで人形と相対しているかのような印象すらあった。
針金色のおかっぱ頭は幼さを強調し、人形のような風貌をより克明にしていたが、その堂に入った舌打ちと眉間に寄せた皺は妙に生々しい人間らしさが感じとれたのだ。
「あぁ、やってくれるね、スクナ。見事な不意打ちだったよ。あらかじめ側にいる事に気付かれていた点を除けば八十点をあげてもいい」
不意打ちをされた側……ついでに追い討ちまでかけられて、辺り一帯ごと吹っ飛ばされた側であるクチナシには、それでも傷一つなかった。
その修道服のような黒衣をより煤けさせただけで、掲げていた右腕は傷一つない滑らかな褐色の肌をみせている。
「お兄様の評価をスクナは必要としていませんわ。
――褒めるつもりがあるなら、その場で自らの首を落としてくれればいいのに。そんな考えながら、スクナはお兄様に肩を竦めてみせる」
「あはは、そんな事をしたらさすがの僕も死んじゃうじゃないか」
「伝わりませんでしたか? スクナはそれを望んでいると言っているつもりなのですが。
――分かりやすく言ったつもりではあったが、お兄様には伝わらなかったようだ。お兄様ごときの読解力では仕方がないとはいえ、その鈍さには溜め息を禁じ得ない」
「うん、伝わってるよ。その上で嫌だと言ってるつもりなんだけど、それは伝わらなかったかい?」
「えぇ、あいにくと。気違いお兄様のお言葉の裏側まで読んで差し上げるほど、スクナも暇人ではありませんので。
――表の言葉を耳にするだけでも、聖人なみの博愛精神が必要な点を見れば、スクナはどこまでも出来た妹だと思うが、お兄様に理解を求めるだけ無駄だろう。また理解もされたくないので、スクナは阿呆を見るかのような視線を向けるだけで留める事にした」
「……相変わらず僕にはきっついなぁ」
よく似た……似すぎている兄妹のやり取りは、ヌエとエリカを完璧に蚊帳の外に置いたものだった。
まるで兄妹の自宅での会話を耳にしているような、あるいはちょっとしたじゃれあいを眺めているだけのような錯覚すら覚える。
クチナシに対する時だけスクナは丁寧な口調でひたすら毒を吐き、心底嫌そうに顔をしかめてみせる辺りがなおさらそんな感覚を強めてくれる。
「あぁ、ごめんよ、少しだけ兄妹の殺伐としたふれあいに入り込んじゃったよ」
「気持ちの悪い事は言わないで頂けますか、お兄様。穢らわしいだけではなくおぞましいです。
――この二人が、万が一にもスクナたちの事を仲がいい兄妹なのだという有り得ない誤解でもしたなら、二人と一匹の命で誤解を打ち消す他ない。一匹は狂犬一匹の意味であり、つまりはお兄様の事だという事は明言するまでもないだろう」
「はいはい、わかったよ」
無造作に身体にかかった砂ぼこりを叩きながらテクテクと歩み寄ってくるクチナシは、先ほどまでと違って狂気の色は見られない。
ただ口喧しい妹に辟易としながらも、微笑ましいものを見るかのような視線をスクナに向けている。
それに嫌そうに顔をしかめてみせるスクナが、どこか兄に反発したがるだけの普通の妹にすら見えるぐらいだ。
その表情は、強がりなどではなく本当に心の底から嫌そうなものであったが。
「時間はまだまだある予定だったんだけどさ、スクナがタイムアップを告げに来た以上、ここでお開きにしなきゃならないようだ。《表に出た二人は上手くやった》みたいでね。たかだか盗賊の敗走兵を相手に保険として残る必要もなかったかな」
「保険……それに二人、ね」
それは現状を把握する為に必要なヒントだろう。
エリカはそう理解するとどもに即座に頭の中で反芻して、今の状況とクチナシの役割について考えを巡らせる。
「つまり、宵闇の影であるあなたが彼に付いていかなかったのは、他の名無し二人がその役割を受けていたから。それでもその二人に不安を感じたから、本来の仕事に掛かるまで念の為にと残ってはいて、《そのついでに》銀鈴のところに顔を出した、という事で間違いはない?」
「あぁ、間違いないよ。さらに言えば、その二人は名無しの中でも多分格下か……あるいは戦闘能力をメインに置いたタイプじゃないんじゃないかな。そうじゃなきゃ少し困るし、そうだと判断したからこそ僕は保険をかけようって気になったんだけどね」
エリカの考えに簡単に同意してみせて、困った風に肩を竦めてみせる。さらに補則までしてみせる辺り、クチナシには名無しについて隠すつもりはないのだろう。
スクナの方は阿呆を見るかのような表情で虚空を見ていたが。
「なんでも構わないけれど、いきなりやってきておいて、そちらの勝手な都合で何事もなく帰れるとでも思っているの?」
そんな二人を見て、もはや戦いは終幕に近付いている事を理解して、それでもエリカは気を緩めない。当然ヌエもだ。
まだ十数メートルの間合いがあったが、その程度の距離では安全圏内と言えない事は十分以上にわかっている。クチナシにとってみれば一歩、もしくは二歩で詰められる間合いだろう。
なにより、勝手に時間潰しに顔を出してきて、予定があるから『はい、さよなら』というような傍若無人を許してやるつもりはさらさらない。
「うん、思ってるよ。だって君たちは僕らが引いたとしても、追っかけてきたりはしないだろ? この場でやり合うよりは、一度間を置いて対策を練ってから僕の相手をしたいんじゃない? 勝率は間違いなく上がるだろうしね」
そんな二人の考えは分かっているはずなのに、クチナシは平然と笑ってみせる。
――この間合いは僕にとっては射程範囲内だけど、君たちにとってはそうじゃない。君たちが何かをしても、僕には十分対処が出来る距離だ。
そう暗に言っているかのようだ。
それがわかっても、エリカはあくまで冷静に現状へと思考を走らせる。
身に染み付いた教えのままに冷たく深い思考で頭を満たす。
――大事なのは《クールアズキューク》さ。なんで《きゅうりのように冷たく》で《冷静沈着》なんて意味が通るのかは分からないけど、それが一番大事なことなんだよ。それが出来ない時は戦うな。間を置いてきゅうりでもかじってろ。
残念ながらきゅうりの手持ちはなかったが、そんなものがなくても十分に冷静でいられる自信があった。
バカにされても、格下に扱われていても関係ない。自分の脳髄には変わらず冷水が満ちている。
クチナシの言っている事には間違いはない。
状況を見る限りでは、今回は大人しく退かせるべきだと断言する考えは確かにエリカの中にある。
エリカやヌエからすれば、戦場を調える機会があるならそれにこした事はないからだ。
詰めの手段を用意しておいたなら、今よりはずっと楽に勝ち目を見出だせるだろう。
なにより今ここで無理に相手をする事にすれば、一人であれ手に余る《名無し》を、二人纏めて相手をしなければならなくなるかもしれない。
助けがいつ来るかも定かではない以上、それは避けるべきだ。
(そうね。ただの暗殺者なら今後不意を狙われる危険もある以上、一度目をつけた機会にきっちり潰しておくべきなんだろうけれど、彼なら不意打ちじみた真似はしない。するまでもない。ならばここは痛み分けで終わる……というのが最上なんだろうけどね)
冷静な判断のみを考慮したなら、その提案は受けるべきだ。少なくともしばらく前のエリカであれば迷う事なく受けたと思う。
それでもエリカは不敵に笑ってみせる。笑いながら爆破の起爆に向けてその腕を掲げてみせる。
冷たく冷えた思考のままで、最善以外を選択したのだ。
「それでも帰さないって言えば?」
「そんな意地は捨てた方がいいと思うんだけどな。その張った意地の代償は決して安くはないよ?」
「あら、あなたは知らないのね、世間知らずな本物さん。黒鉄って人種は意地っぱりで意固地な連中の集まりなのよ? 彼はそんな事も教えてはくれなかったの?」
不敵に笑いながら世間知らずな事をのたまう亡霊に肩を竦めてみせて、設置済みの爆弾へと意識を伸ばす。
背後のヌエが何も言わない辺り、彼女は一度切れた集中を再度高め始めているのだろう。
会話を交わすまでもなく、ただで帰すつもりがない事はヌエの性分からして明らかだ。
ここで帰しては万が一という事もある。クチナシは暇潰しで《彼の妹分であるスズカ》に手を出そうとしたのだ。おそらく、今のやり取りから考えれば彼の指示を離れてそんな凶行に及ぼうとしたのである。
目を離しては何があるか分からないし、何より銀鈴の守護者としてそんな無法を許すわけにもいかない。
そしてヌエがそう考えているのなら、エリカも付き合ってやらねばならないだろう。《彼》ならば最善ではなくても間違いなくそうするし、《あの少女》でも迷う事なくそうするだろうからだ。
「ふふっ、あははっ! いいね、その口上! まるで彼みたいだ」
そんなエリカの口上に、クチナシは朗らかに過ぎる笑いをあげてチラッとスクナを見やった。
その視線の先にいる少女は、面倒そうに……でもどこか興味深げに、僅かにエリカとヌエの方向へと顔を向けながら思案を巡らせるかのように首を傾げる。
そしてすぐさま何らかの回答を得たのか小さな嘆息を漏らすと、小首を軽くふるふると左右に振って背を向けた。
「やっぱりダメです、お兄様。そろそろお兄様にかけた殺意が消える頃ですから。
――時間があれば、スクナも含めて三人がかりでお兄様を殺す手もあったのに。そう思えば残念で残念で仕方ないが、また機会もあるだろうと思い直して、スクナは断腸の思いでそう言った。仕事は仕事だ。引き受けた以上、放り出すような無責任はスクナの趣味ではない」
「あらら、やっぱりだめだった。
というか、さりげなくスゴい事言われた気がするんだけど。なんでスクナまで僕を殺す側に回るのさ?」
「今のスクナは紫念のスクナですから、まだ正式に名前を持っていない凶行に走ったどこぞの誰かより、お仲間の称号持ちを優先するのは当たり前でしょう?
――例えどんな事態であっても、プライベートではお兄様の味方をするつもりなど欠片もないが、スクナはこれでも兄思いな出来た妹だ。ありったけの慈悲をかき集めて建前を述べてやる」
そう言い捨てて、テクテクと歩き去っていく紫念にエリカの中にあった最後の迷いは消えた。
あの少女はクチナシとそっくりでありながらそう身体能力は高くない。能力自体は恐るべき破壊力を見せつけたが、戦意も高くはなさそうだ。
クチナシ一人ならばやってやれない事もない。
なにより、《今のクチナシが全力を出せない》と言っていた以上、その機会を逃せば致命的な事態にもなり得る。
「あなたたちの殺伐としたじゃれあいに付き合うつもりはないの」
だからそう言ってイメージとして浮かんでいた起爆スイッチを、指をパチンと鳴らす事で押してみせる。
いや、そうしようとした。
それと同時に、阿吽の呼吸でもって今までやり取りをエリカに任せていたヌエからは灰色の香気が膨れ上がろうとする。
その二つ共が不発に終わったのは――不発に終わらせざるを得なかったのは、クチナシが一瞬でその間合いを空けて、歩き去っていくスクナのすぐ近くまで下がっていたからだ。
腕を掲げきって、指を鳴らすよりも早く。
ヌエの戦意が空間を満たすよりもなお早く。
二人の意識が捕らえられる限界を数歩分超えた速さで、戦闘区域から離脱していたからだ。
(私の予測よりも速い? いや、私の事前予測が今になってさらに上方修正されてる? 私は油断などしてなかった)
その理解がエリカの心に水を射し、ヌエの戦意に亀裂を入れた。はっきり言えば動いた瞬間すらも見えなかった。そんな事は、目を武器としてきたエリカにとって一度もなかった事だ。
気付けば歩み去るスクナのすぐ脇にいた。気付いた時には間合いの外にいた。
その結果しか理解出来なかったのである。
「あぁ、でもスクナの言う通りだね。やっぱり急いで帰らないとまずいか。
僕が僕に《戻りかけてる》」
そう言ってクスクスと肩を揺らして笑い、身をしならせて空を見上げるクチナシは、今までとどこも変わらないように見える。
変わらないように見えて、はっきりと何かが違っていた。
何がとは明言できない。何かとしか言えない何かがクチナシの中で蠢いていた。
「勇敢なる君たちに賛辞を。賛辞と言っても言葉だけで済ますようなケチな真似はしないよ。確かな知識と可能性をあげる。それは僕のこの腕――ハンドレット・ハンドデッドについて教えてあげる」
掲げた腕も変わらず無傷で、滑らかな肌を見せている。どこもおかしなところは見受けられない。
でも感覚……第六感に根差す認識では、明らかに何かが違う。
「僕の右腕について、君たちならある程度は察しているだろうけれど、この腕には特定の条件にあるものを絶対に殺す力がある。だから能力というよりも《この腕が持つ特性》と言った方が近いかもね」
どこが違うのかは分からないままでありながら、どう違うのかを理解したくならない。
《分からないままでいたい、知りたくない》という感覚は、エリカにとってもヌエにとっても初めてのものだ。
「その条件は、まずこの手で触れる質量を持った物質である事。
《殺す》、もしくは《死》という言葉が繋がれば《死》をもたらせる何かが含まれている事。
これは生命も含まれるけど、それだけに限ったわけじゃない。速度を《殺す》、威力を《殺す》とか言うだろ? そんなものも含まれるんだ。僕の腕は質量を持ったものに含まれた《あらゆる殺せるもの》を《触っただけで殺す》ものなのさ」
――だから《ハンドレット・ハンドデッド》。
あらゆるものに死をもたらす腕なんて呼ばれてる。
自らの能力について平然とバラすような人間はそういない。そういう場合は、自らの能力を知らしめる事自体が有効な戦略として含まれる能力である場合か、あるいは知らしめて理解させる事で能力が発動する特殊なタイプかだ。
でもこのクチナシの場合は違うのだろう。
「とは言っても、不便なところも結構あるんだ。例えばこの腕以外の部分にはそんな特質がない事。質量を持たず、確かな形に触れられないものには力を及ぼせないこと。炎とか電撃、衝撃波なんかは触れないから、普通に食らっちゃうんだよね。食らった事はないから多分なんだけど」
自らの能力を知られてもなんの不利益も受けないという確信があり、もし不利益を受けるような事があったとしても、《それはそれで構わない》という歪んだ精神が見て取れた。
弱点じみたものまで口にする辺り、敗北や死を望んでいるようにすら見える。
「さて、君の爆破も僕には届かない。君の爆破は《物質に宿すタイプ》だろ? 僕の身体能力と反射神経を超えて当てる事は難しいと思うよ。
そして香りそのものは触れないけど、僕の腕は僕の身体に絶えず繋がっていて触れていると言えるし、感覚を受けるその身体には死が付き物だろ? 細胞なんかは秒単位で死んで生まれてを繰り返しているわけだしね。つまり匂いの影響が腕にも及ぼされた時点で殺される」
もはやクチナシは、エリカが作成した爆破領域の外にいた。そしてそうである以上、追いかけていくのはあまりにも無謀過ぎる。
一からまた戦場を作るにも、相手が悪すぎるだろう。
「君たちが僕を殺したかったら――そうだな、僕の不意を打った上で、さらに僕の身体能力を超える数と速度を用意する事、それだけさ。かなり難しいとは思うけどね」
そう言って、さらに先へと歩いていくスクナをチラッと見やって苦笑を浮かべながら、事もなげに背を向けた。
なんの躊躇いもなくエリカとヌエに背を向けて歩き始めたのだ。
「忘れないで。僕はクチナシ。僕こそが彼に寄り添う真なる影。この街の最深部にて全ての命脈を握る亡霊。
君たちが彼の敵に回った時。そんな時がもし来たのなら、君たちには永遠の静寂をあげる。《無音》である僕がね」
謡うようなその声音は不気味に響く。
離れていく姿に相反して、耳元で囁かれているようだ。
「桃色の君。君には特に深い感謝を。次の機会があればいい酒でも持ってくるよ。夜桜には必須だろ? その時にはぜひまたあの美しい力を見せてほしいな」
「……チッ」
舌打ちを漏らしながらも、ヌエも追いかけていくような真似はしない。それがいかに致命的な事かわかっているのだろう。
バカにされて、格下と見られたまま見過ごす事は耐え難い屈辱であり、内心では怒り狂っていたが、それでも無謀な真似に走ったりはしない。
自分がやられたりしては、あの銀色の少女が嘆き悲しんでしまう事が分かっていたから、耐え難くても耐えてみせるしかない。
「銀鈴にもよろしく言っておいてくれるかな? また三班の無音が挨拶に行くってさ。とは言っても、しばらくこの街にいないから安心してくれて構わないけどね」
「スクナお兄様、お早くなされませ。怒られるのはスクナなんですよ?
――イカれたお兄様の行動原理は一行に理解出来ない。全く理解したくもないが、そのふざけた言動の皺寄せがスクナに来る以上、そうも言っていられない辺りが最悪だ」
「妹がうるさいから今夜はここで。
あぁ、一応言っておこうかな」
耳の奥底には不気味な声が染み渡る。
どこまでも深い場所から聞こえてくる死神の声。
クスクスと笑うそれは、歴戦の二人を持ってしても動きを縛る酷薄な嘲笑だ。
「追ってこないでね。意味は分かるよね?」
その言葉を最後に、名無しの中でも最異端であり、黒鉄の最暗部に居住区を持った亡霊は歩き去っていった。
掻き消えたわけではなく、悠々と歩いたまま。
決して追いかけられなかったわけではないのに、追いかける事が出来なかったのだ。
その場に残された二人は、ただ互いに無言のままで嘆息を漏らしあって、視線を交わす事もない。
――あぁ、クソッ。向こうにもあんな反則なヤツはそうはいなかったぞ。
恐らくは最高であり反則とすらいえる身体能力と、その身体能力をより脅威のものとする異常能力。
灰色の《ベクトルイーター》と似た能力ではあるが、使い勝手で言えば前提条件や手数からして劣るだろうが、その性質の悪さで言えば数段上だ。
あの灰色の蛇の本質は《力を抑える能力》であり、クチナシのそれは《殺す能力》だ。
《質量を持つ物に触れる》という前提条件があるらしいが、力の質だけを比べればベクトルイーターよりもクチナシの腕の方が上位に当たるものだろう。
さらに言えば手数では劣っていても、操り手の身体能力は恐らくクチナシの方が数段上回っている。
目にも止まらない速度で踏み込んで、その腕を身体の要所に当てるだけという独自の殺し技は、単純極まりないものでありながらそれだけに回避は難しいものだ。
さらには身体能力任せに真っ向から向かってくるだけでも厄介極まりないのに、ずっと獲物の様子を観察して、ひたすら油断を待ち続ける方法を取り、油断を見て一気に行動を起こす方法を取られたりすれば、あの物理法則をねじ曲げたのかと疑いたくなるほどの身体能力だ。例え《変種の皇》と呼ばれる存在であっても、下手をすれば殺されてしまう可能性もある。
能力では他の追随を許さない圧倒的な力を持つ皇を、持って生まれた極めて珍しい特殊な能力でもって殺しうる者。
能力自体の使い勝手は悪く、ただ一つの使い方しか出来ない出来損ないな能力であっても、《皇を殺す》という一点をやりかねない者。
そんな存在は確かにいる。スズカが去った東北の地で皇を名乗っていた者の何人かは、そういった輩に殺された事をヌエは知っている。
あの《マスターシヴァ》も、本質的にはこの部類にはいるだろう。大それた規模の破壊も、他から見れば奇跡か……あるいは災厄にしか見えない事なども出来ないが、皇を殺しうる異常能力を持っていて、その力で本来いたのであろう東海の皇を駆逐してその座についた。
純正型とそれ以外という差はあるが、タイプとしては変わらない。奇跡と災厄をもたらす皇ではないが、キングをも殺しうる可能性を持ったジョーカーという点は変わらないのだ。
そんな存在がいるからこそ、《ガード》などという役職がいるのであり、あのクチナシはそういった意味でも《元ガード》であるヌエからすれば、天敵にあたるような存在だと言える。
――勝てないか。いえ、《また勝てなかった》と言うべきかしら。本当に嫌になるわ。いくら力を付けてもまだ背中すら見えない相手がいるんだもの。
エリカは僅かに嘆息を漏らし、肩を竦めてみせながらも、すでに慣れている感覚に特に何かを感じるものはなかった。
いつもとなんら変わらない心情でいられた。
敗北感とは隣人よりも親しい間柄だ。
だから今回だけ特に何かを感じたりはしていない。そういう風に自らを鍛えてきている。
「まぁ、命があっただけ儲け物って思うしかないわね」
だからあっさりとそう言ってみせて、すでにこの場には用がないとばかりに背を向ける。
「今日はさすがにお邪魔する気分にはなれないわね。また後日、改めて挨拶に来るわ。菓子折りはさすがに手に入らないけど、何か手土産で持ってね」
「……そうかい。つまんねぇモンだったら門前払いだからな」
「ふふっ、あなたの大事なお姫さまなら手ぶらでも歓迎してくれると思うのだけど。
……安心して、気の効いた手土産のアテは付いたから」
まずは相手を知る事から始めなければならない。
相手を知ってこそ対処法が見つけられる。
ヌエの気のない言葉を受けながら、エリカはいつものようにそう考える。
弱者が強者に勝る点があるとすれば、それは考える事だけだ。相手を認めて、自分の不利を認めて、負けを認めて、それでも考える事を諦めない。
それだけが強き者に対抗する術である事をエリカは誰よりも知っている。
敗北を改めてその身に受けたあと、いつも反芻するのはやはり彼の言葉だ。いつであれ敗者にしかなれないように生まれたエリカを、今の居場所に誘った《勝者にしかなれない彼》がかけてくれた言葉の数々だ。
――お前は何がしたい? そしてお前には何が出来る?
決まってる。《彼》以外の本物を許すわけにはいかない。誰が許しても、彼が認めても、私だけは否定しなければならない。
本物は一つだけ。私はそこへと至る道を歩いている。彼が別の闇を必要とするなら、それは彼の後を追ってきた私であるべきだ。
なにより、今の場所に立つ私を笑わせたままではいられない。
――それが見えているなら、まずは出来る事からやれ。手に届く場所から手を伸ばせ。目を見開けばそんなものはいくらでもある。
ならばどうする? それも決まっている。
まずは知る事だ。クチナシの嗜好を、経歴を、心を、苦悩を、歪みを知る事から始めよう。
名無しの名前を、過去を、能力を、存在する意味を見つける為に手を伸ばそう。
幸い私は三班にいる。手段は身近にある。
最悪手である危険な手が一つ、無難な手が二つ。
手を組む相手にも心当たりがある。
――迷った時は思考を伸ばす事でまずは一歩踏み出せ。考えるという事は足踏みをしている事とイコールじゃない。本当に臆した時、人間は考える事をやめるものだ。そして臆した者から大事なものを失うように今の世界は出来ている。
臆するな。逃げるのは構わない。背を向ける時もある。でも怯懦にまみれて身に退くな。
臆するな。九十九度負けても、最後の一回を確実に勝てればいい。その一回を決定的なものにすればいいだけだ。
臆するな。私などが本物を目指したあの時に、苦渋も苦悩も呑み込む覚悟は出来ているはずだ。私に出来る事は、精々が九十九回の敗北を我慢してその苦悩を残らず呑み干す事だけなのだから。
全てを望むな。私はそんなに特別な人間じゃない。
私が一番怖いものはなんだ?
それはあの亡霊なんかじゃないはずだ。
私が一番恐れている事は、今まで歩いてきて、これからも歩いていくと決めた道を見失う事。
それだけだ。
――お前は俺のようにはなるな。
それは……それだけは無理だ。もう違う道は選べない。
こことは違う場所に身を置きたくない。
私はエリカ。どこまでいっても閃光の名前を持った宵闇の偽物。この立ち位置からは離れたくない。
いつかは、いつかは必ず、と手を伸ばし続ける事を辞めたくない。
今までエリカが勝てなかった相手で、結局勝てないまま勝ち逃げを許したのはただの一人だけだ。
たった一人しかいない。
もはや雪辱を狙う事も出来ない場所に行ってしまった剣の少女だけなのだ。
いまだ勝ちを拾えない相手は他にもいる。しかし、彼らに追い付く事を諦めた覚えは微塵もない。
だからエリカが勝てないままで終わっている相手は一人だけしかいない。
そして、そんな相手をこれ以上作るつもりはエリカには毛頭なかった。
自分の非才を理由にし、他人が持つ才能を大義名分を掲げて、負けっぱなしでいる事は何よりも大嫌いな事だからだ。
(強者はその座に胡座をかいて、弱者ほど《考える》事をしないという事を私は知っている)
弱小国に対して、強国が積極的に情報戦を挑んだりはしないものだ。踏み潰せると判断すれば、いまだ手にしていない情報があっても直接的な手段に出る事は、世界中に刻まれた歴史が証明している。
地形を調べて、歴史を調べて、人心を考慮にいれて、策を巡らし、罠を張って、プライドを投げうって必死に戦うのはいつでも弱き者だ。
簡単に踏み潰せると考えていた相手に、思わぬ反撃を受けるまで強者は己の傲慢には気付かない。
己の頭上に死神が舞い降りるまで、自信が過信に変わっている事には気付けない。
――私を見逃したつもりなのよね。私では自分には届かない、自分を知る事も出来ない……そう思っているんでしょう?
いまだ動かないヌエは、恐らく勘違いをしているのだろう。エリカはそう思う。
自分の方が悔しくて、猛々しく怒りの炎を燃やしていて、エリカは特に何かを感じていない……そう考えているのかもしれない。
確かにエリカは悔しくはない。猛々しく怒りの感情を燃やしてもいない。いつも通りだ。
いつも通りにエリカは青く冷たい炎を燃やしているだけだ。
青い炎は、時に紅蓮の猛火をも青く染め上げる。
それをエリカはよく知っているが、事の他それを知っている人間は少ないものだ。
――精々笑っていればいい。あなたたちの影は私が捕まえる。私があなたたちの全てを解き明かす。私ごとき偽物風情に……光を冠してしまった紛い物の宵闇風情に光を当てられて、鼻を明かされた時になってから慌てふためけばいい、ネームレス。
ギリッと歯を噛み締める音は背後から聞こえたのか、はたまた自分が鳴らしたものなのか。
それはエリカにはわからない。
恐らくは怒り狂いそうな激情をもて余している少女のものだろう……そう判断して、背を向けたまま彼女に声をかけた。
自分の決意表明にも似た言葉で、自分らしくないような気もする言葉を。
「土産は廃墟の街に潜む名前なき亡霊の正体。これならお茶の一杯と歓迎の言葉ぐらいは期待してもいいでしょう?」
その言葉に何を思ったのかはわからない。ただ背後に渦巻いていた不穏な気配が一瞬気の抜けたように緩んだ。
そして、唾を吐き捨てるような音に続いて、少しばかり愉快げな声が続いた。
「はん、なんなら歓迎の抱擁もつけてやるよ。感極まった感じでキスでもしてやろうか?」
「いらないわ。気持ち悪い」
「チッ、冗談だよ、口が腐る」
そんな風に悪態を返しながらも、はふぅ〜っと気の抜けたような溜め息を一つ吐くと、ヌエは普段の着ぐるみ状態に戻った口調で続けた。
「こっちのペイ(代価)はぁ〜、《外》からで知り得た限りの名無しの情報とぉ、あなたが抜けてから入った黒鉄の情報……って、これだけじゃ手持ちが足りないよねぇ? 足りない分があれば貸しにしといて貰えますかぁ?」
「えぇ、貸しで結構よ。その程度では見合わないぐらいのものを手に入れるつもりだから。
もちろん取り立てたりはしないわ。貸しがある事をほのめかして、色々と融通きかせる方が得でしょう?」
「性格悪ぅ〜、まぁ、それもあなたの頑張り次第ですけどぉ」
ケラケラと笑うヌエの声にはいまだに無理があった。どこか固さが感じられた。
それでも合わせてくれる辺りが、多少は冷静になれた証だろう。
「最初に助けた借りも忘れてはいないわよ。いずれ返してちょうだいね」
「分かってますよぉ、ケチくさいなぁ。お嬢には何か言っとく?」
「必要ないわ。また顔を出す予定だから」
「そっ」
別れは呆気なく終わり、名残を惜しむような真似は二人ともしない。背中を見送る事すらしない。
お互いに自分の立ち位置と相手の立ち位置が微妙に、でも確かにズレている事を知っているからだ。
だから名残を惜しんで相手に心を残すような真似はしないのだ。
ひょっとしたらいつか刃を交える時も来るかもしれないし、次にまみえる機会は永遠に来ない可能性もある。
だから交わる時は己の利益が見えた時だけ。
もしくは自分が不利益を受ける可能性が全くない状態で、相手がひょっとしたら躓くかもしれない時に、ちょっとした余裕があれば貸しを作りに顔を出す……その程度の付き合いをお互いに望んでいるのだ。
エリカは白銀が持つ歪さを警戒している。
ヌエはエリカが歩む道の危うさを理解している。
だからお互いにこの街の人間の中では古い部類に入る知己であっても馴れ合わない。
今回ヌエは救われて命の借りを作った。
エリカは自分の為に顔を突っ込んだ場所でヌエに貸しを作り、新たにネームレスの情報を得た。
それだけでしない。それ以上は望まない。
ネームレスの宵闇であるクチナシが居残って、その代わりに別のネームレスが駆り出された意味は何なのか?
クチナシでなければ出来ない何かをさせる為か。はたまた他のネームレスを動かすという事自体になんらかの意味があるのか。
そんな疑問はお互いに抱いていたが、それに対して相手の意見を聞くつもりは全くなかった。
何か重大な事が分かれば、貸しを作りに……あるいは借りを返しに顔を出すだろう。
それだけ分かっていればいい。
――ついに動き出した。
その感覚は、この街に長くいる者かそれなりに周りを見渡せる者であれば感じていた。
ただその流れ行く先は、きっと誰も知っていない。その流れを作る人物しか分かってはいないだろう。
関西の一都市を震源とした動乱はいまだ終わらない。
それを治められるであろう人物は、いまだ暗躍を続けるだけだ。
名無しという都市の暗部。アカツキが生んだ暗き闇を従えて。
その心の内を誰かに見せる事もなく、誰かに理解される事もない。それを望んでもいない。
空にかかる月はただ煌々と淡い白光を放ち、揺れ動く世界を見守っている。
その月が赤く染まったものに変わり、世界が灰色の原野と化した時に全ては明らかになるのだろう。
その時に流れ行く灰色世界の鎮魂歌は、いまだ序章を明けたばかりでしかなく、その全容は闇に包まれたまま見えてはこない。
閃光にも、牙桜にも、白銀でさえも深淵には手が届かず、結果誰にも手がつけられないままで全ては回り始めたのだ。
題名は思い浮かばなかったので、フィーリングのみで決めました。
遅くなりました。
書き物してたら眠くて眠くて……。
次でようやく長かったプロローグが終わります。
今回も大概長い話でしたが、次回もかなり長くなりそうな感じです。
来週末更新予定。
またお知らせします。