10・偽物と本物
夜鳥という家系があった。
それは古い古い家柄を持った家系であり、軽く千年分の家系図が残されているような家だ。
その夜鳥家のように、古くからずっと残されている家というものは、だいたい二通りにその在り方が分かれる。
支配階級、あるいはそれに近いごく限られた上流階級の家であるか、あるいは特殊な技能や知識が伝わっており、それに基づいた役割が与えられている家であるかだ。
夜鳥という家系は後者に当たる。連綿と伝えられてきた知識と技術を後代に残し、かつての世界大戦以後もその役割を伝え続けていたのだ。
――芳香師。あるいは調香師。
フレグランスマイスター。
花などの植物やフェロモン成分を分泌する昆虫類、あるいは動植物の死骸や鉱物にまで渡る知識までを有して、様々な香りを作り出す一族。
それが《夜鳥》という一族が従事する役割だった。
かつての日本では特別な効用を持ったお香を作る者として、特別な儀式などには欠かせない技能を持っていたその一族は、時の支配者にもその技能で作り出す《香り》を提供してきた名家中の名家だ。
しかしその名家も、日本中……否、世界中を混乱に陥れた分岐点、人という種族が別れた時代を越える事は出来なかった。
その夜鳥の最後の生き残り。
それはまだ年端もいかない一人の少女で、彼女だけがあの混迷極まる時代を生き残った唯一の夜鳥だった。
現代でも調香を生業とし、香水を作りにおいてもアロマテラピーなどの面においても、有数の知識を誇っていた夜鳥は、かつて大国で起こった革命の余波を受けて致命的なダメージを受けたのだ。
欧米諸国に進出し、そこでも知識や知己を得て、地盤をそちらに移していたが為に、夜鳥は故郷ではなく異郷の地で潰えたのである。
たった一人、夜鳥の秘蔵っ子として英才教育を受けるべく、故郷にて失われた知識が眠る文献やらを掘り起こしていた夜鳥本家の一人娘だけを残して。
夜鳥という芳香のスペシャリストである一族の血の結晶に見合った、特殊な能力を生まれ持った少女だけを残して。
その生き残った少女は、家族や一族の全てが異郷の地で音信不通となり、家財一式も使用人に持ち逃げされ、誰一人として頼れる身寄りがいなくなった中で、最後に生き残った自分はどうするべきかを考えた。
――夜鳥の名前と知識を潰えさせるのは、ひょっとしたら時代の流れというものかもしれない。
――古くから今の今まであり名門として続けてきたのだから、最後に足掻くような真似は見苦しいだけだ。
そう考えはしたものの、ただ名前に殉じてしまうだけのそんな最期なら、自分という人間は一体なんの為に生まれてきたのだろう?
なんの為に潰えるだけの知識を頭に叩き込んできたのだろう?
それが分からなかった。
夜鳥の最期を看取る為?
名門に幕を下ろす為?
そんな理由で納得出来るほど彼女は達観していなかった。そんな役目はもっと長い時を生き抜いた後にすればいい。
だから、とりあえずは生きられるだけ生きてみよう、その為に自分の知識と力を使ってみようとそう考えたのだ。
そうやって彼女は、もはや家族の一人もいない世界で生きてみる決意をして。
生きる為にはどうすればいいのかを考えて。
奪って、殺して生きる事は彼女にとって容易かったけれど――それが半ば日常の事になりつつある場所だったけれど、それ以外の道を模索して。
自分の存在に価値が見出だせる場所を探して。
そしてその結果、仲間たちに出会ったのだ。
彼女と同じように、手探りで前に前にと進もうとする同年代の少年少女たち。
自らの価値と居場所を掴もうとして、遮二無二進む真っ直ぐな三人。
綺麗事を掲げながらも、いざという時には手を汚す事をいとわない、単なる甘ったれた夢想家などではない不思議な組み合わせのデコボコトリオに。
そうして彼女は、その内の一人……後にゼロと、そして灰色と呼ばれる少年に付き従う者の一人になる。
いくら考えてみても先行きの見えない不安が苛んで、誰か供に歩ける者を求めたという理由が強かった。それは間違いない。
お嬢様育ちで、蝶よ花よと育てられた彼女にとって、一人きりという孤独は余りにも重すぎた。それも事実だ。
だからなぜか周りを惹き付けて、どこかその存在が気にかかって仕方のない、三人の中では《スキルゼロ》だった少年が率いるグループに入ったのだ。
スキルを持たない頭でっかちな彼なら、スキルしか持たない自分を必要としてくれるだろう。
そう考えて。
それからの彼女には、もはや夜鳥の看板はそれほど重くなくなっていた。
もっと大きな出来事の直中にずっといたからだ。
なんだかんだとやり合いながらも、それでもいつもどこかに……前か後ろか、それとも上下左右なのかは彼女にも分からなかったけれど、絶えず違う場所へと走り続けていた三人。
彼らに付き従っている状況は、目まぐるしく彼女を翻弄してくれて、息つく暇も与えてくれなかった。
そこから色々あってゼロとは別れ、彼が歩く道とは違う道を歩くようになっても、彼女はまたその新たな居場所から離れられなくなってしまって――そしてついには夜鳥の名前すらも封印した。
もはやその名前を惜しいとも思わなくなっていたから。
その名前より――千年紡いできた家名より、ずっと重いものを持ってしまったから、彼女は夜鳥という名前を捨てたのだ。
それでも彼女が《夜鳥》から取った名前である《鵺》――つまりヌエを名乗ったのは、彼女が新たに得た家族である銀色の少女が、鬼と呼ばれていたからだ。
少女がその忌み嫌う二つ名によって、あらたな傷を負わないように自らも怪物の名前を名乗ったのである。
牙桜の名前を得た彼女は、そうやってずっと周りに翻弄されてきて。
それでも結局は自分で選んでその場所にいる。
自分で望んで廃れた知識とその効用を増幅させるだけの力を使う。
たった二人しかいない白銀の少女の絶対の味方として。
かつて身を置いた灰色の道から、一人離れてしまった罪悪感は薄れなくても、今ではその居場所に大きな愛着を持って。
轟々と吐き出される排気が、そのままの勢いを持って線をなし、それはとぐろを巻いてクチナシを囲む。
色付いた桃色の鱗粉は、まるでそれが群体として意思を持っているかのように蠢いて、クチナシの周りを別世界のような情景に変えていた。
「ピンキーガーデニング(小指の造園)ってんだ。そう名付けた野郎は死んじまったが、名前だけはもらってる。
お洒落な力だろうが? アァ、クソ野郎。テメェなんかの最期にゃ勿体ねぇ」
それを見てもヌエは小さく舌打ちを漏らしながら、念を入れて距離を空ける。
自身の力を発露し、それが対象を囲んでいるというのに、さらに念を重ね押しして距離を空けなければならないという判断は、最良のものではあっても屈辱的なものだ。
自身の力に不安を感じているという証のようで癪に触るのである。
「問答なんざ面倒だけどよ、一応聞いといてやる。答えたくなきゃ答えんな。速攻でハンバーグの下拵えみたくミンチの塊にしてやる」
ウゾウゾと蠢きながら、ヌエの周りを固めるのは種々様々な昆虫達。
増幅されたフェロモンに惹かれ、本来の生活から離れて集ったそれらは、そのままゆっくりとクチナシへの包囲網を作っていく。
たかが昆虫とはいえ、数百から数千もの数がそのままクチナシの身体を覆えば、自由に動く事もままならないだろう。そして顔を覆われれば呼吸もままならず、体内に侵入を許せば柔らかな内臓は食い荒らされる。
「あぁ、何かな? 答えられる事だったら答えてあげてもいいよ。うん、珍しいものを見せてもらってるしね」
――秋の夜に、夜桜にも似た景色が見れるとは思わなかったな。風情があって悪くない。
そんな状況でもクチナシは笑っていて、周りを囲む異常を気にとめた様子もない。
眼下にひしめくそれを視界にも入れず、ただ無邪気で不気味な笑みを浮かべるだけだ。
「くすっ、綺麗だね。本当に綺麗で、とてもいい香りだ。ふふっ、あははっ! なんか目が急激に回ってきて逆に楽しくなってきちゃったけど、これが君の力かい?」
桃色の渦に巻かれたまま興味深げにその景色を見やり、スンスンと鼻を鳴らして躊躇いなくその香りを味わって。
そしてケラケラと笑い出すと、その瞳は焦点を失って足許が覚束なくなってくる。
「あはは、オーバードーズ(過剰摂取)はしない程度にほんの少し吸ってみただけなんだけど、ふふふ、あはははは! なるほど、さっきの言葉通りに芳香の持つ影響を増幅させる力か」
ふらふらになっている自分をまるで気にした様子もない。
状況を観察して、考察して、自分がどんな状況にあるかを理解して。
明らかに異常である桃色の渦へとその手をかざしてみて、指に着いたものを口に含んでみせたりもすると、納得したかのように小さく頷いてみせたりもする。
「これは……何かのお香かな。何かの香木とあと色々ブレンドしたもの、ってところか。香気だけでも影響するぐらいだから、口に含んだらどんな事になるかと思ったけど、特に目立った悪化はないね」
その分析は冷静なもので、ヌエの能力を見破っているものだ。
つまり《嗅覚に作用するものだけを増幅している》という事を、その香りの源となる粉末を口に含み味覚で確かめてみせたのだ。
「ま、状況だけ見れば香気だけでも十分かな。それだけでも周りがグニャリと歪んできた。君が何人もいるような感じもするし、地面が波打って見える」
そう言う言葉にも焦りはなく、ゆっくりと焦点の合っていない視線で辺りを見渡していき
「でも、これって所詮は自分の中の事、つまりは錯覚なんだよね」
すぐさまその状況にも興味を失ったかのように、《ヌエを真っ直ぐに見やる》。
視界がぶれて、感覚が狂って、足許が覚束ないはずなのに――長らく嗅いでいれば、幻覚と幻視を見せ、場合によっては狂った感覚により幻痛すら感じさせるほどに、増幅させた香りを全力で浴びせかけたはずなのに、だ。
「君は今までも殺し屋を殺してきたんだってね? そりゃスゴいや。でもさ、僕を君が殺してきた程度の殺し屋と一緒にしちゃダメだ。僕なんかと一緒にしちゃったら、それはいくらなんでも可哀想ってものだよ」
クチナシはその桃色の渦を掻き分けて歩を踏み出すと、まるで見せつけるかのように右腕を掲げてみせた。
それだけで、囲んでいた子供たちの輪が僅かに包囲を拡げる。
本能に囁きかけるフェロモンに魅了された猛卒たちに恐怖を抱かせた事が、彼女には分かってしまう。
それは異常で、異様な事だ。
群体の核であるヌエに脅威を近づける事など本来はあり得ないはずなのだ。
それでもゴーサインを出せば、たちまちに攻めかかりはするだろう。群体として支配する子供たちは牙を剥くだろう。
――でもそれでどうにかなる相手か?
いくらなんでも得体が知れなさすぎるこの少年に、それは必勝を期せるやり方か?
そんな躊躇いを全く覚えないかと言えば嘘になる。
今まで数々の変種と向き合い、時には戦ってきた経験が鳴らす本能からの警鐘は、止むどころか刻々とその音量をあげているのだから。
なにしろ子供たちが恐怖を覚えた相手など、壊れた故郷にその名前を轟かせ、かつては彼女も所属していた《ガード》というクラスの変種でもそうはいないのだ。
それはつまりこの少年が、かの水鏡のスイレンや同僚の大男と同格か、もしくはそれ以上の相手だという事になる。
つまりたった一人で向き合えば、敗北も容易に連想できる戦力を持っているという事だ。
彼女のその力は、芳香が乗った空間を支配する世界による力で、彼女が放った香りが乗った空域の支配とその効力を増幅させる。
芳香が及ぶ宙域だけを支配して、芳香の力を好きなように増減させるものだ。
その世界の輪郭は、香りを宿した空域だけという不確定な領域でしかない。
あの灰色の世界のように――あるいは白銀世界のように、はっきりと現実を染め上げるものではない。
そして、世界の端末も香りが乗った空域が形を変えてこなすだけで、鎖や白鐘のような器物の形はしていない。
今の状況でいえば、桃色に色づいた粉末がとぐろを巻いている空域――それだけが彼女の世界であり端末なのだ。
ただそれだけの力でしかなく、たったそれっぽっちの範囲のものでしかないのである。
しかしそんな脆弱極まる力も、フレグランスマスター・夜鳥の最後の生き残りであり、その秘伝を身につけた彼女が使えば戦力としての非力さなどはいくらでも補える。
使いようによる汎用性は、幻惑光后ともよばれ、弟と合わせて灰色の皇の側近中の側近としてあった《視覚を支配する》スイレンをも上回るだろう。
なにしろ彼女は、視覚は支配出来なくても感覚を狂わせる事が出来る。視覚の支配は出来ず、見せたいものを見せたいように見せる力はなくても、嗅覚から知覚を混乱させて幻覚を見せる事は出来る。
知覚出来ないほどの微細な香りを振り撒く事で、その香気が包むエリアには近付きたくないと本能的に思わせる空間を作る事も出来れば、その逆も簡単だ。
はっきりと知覚出来ないほどに微細な香り過ぎて――余りに匂いがはっきりし過ぎると、逆に興味を惹いてしまう為だ――興味を抱く対象がそのエリア内にあればあっさりと越えられてしまうものではあったが、それでもその力で銀色の少女の寝所を守ってきたのだ。
また、あちこちにマーキングを残す事で子供たちを偵察に向かわせる事も出来る。
知恵がない子供たちが迷う事なく手元に戻ってくるのも、ごく簡単にではあっても意思の疎通が出来るのも全てはその力によるものだ。
子供たちが発する匂いが、世界を通して彼女に色々と教えてくれるからこそ、言葉も持たない子供たちを使えるのだ。
その力だけを単体で見れば穴はいくらでもある。同僚の大男や他の純正型と比べれば穴あきだらけの力だろう。そんな事は知っている。
彼女以外が持っていてもアロマテラピーの役にぐらいしか立たないだろうし、あの《動乱》の時代を越える事など到底出来なかっただろう。
その力が最弱どころか最強の一歩手前までいけたのは、一重に夜鳥の知識に重きがいく事は覆しがたい事実だ。
強者揃いの灰色のガード。
白銀が手元におくたった二人の側近の内の一人。
そして《牙桜》。
そう呼ばれる位置につけたのは、知識と才能の噛み合わせがよかったからだとしか言いようがない。
「僕自身に及ぶあらゆる力は殺される。これは大ヒントだよ?」
それでもヌエ自身、己の能力の弱味を理解してはいてもそれ以上の確かな自信も持ってもいたのだ。
磨きあげたスキルとそれを使いこなす為の戦術。
夜鳥を越えても研鑽を止めなかった知識。
それらが確かな力になる事は、彼女が名乗ってきた名前の数々が証明している。
その力を持ってしても得体が知れず、経験を持ってしても計りきれない相手。
すでに、彼女の芳香の影響など微塵も受けていないとしか思えない不気味な少年。
――この少年は、きっと努力も研鑽も戦術も届かない遥かな高みにいる。
認めがたくても、それは認めなければならないだろう。
ヌエも何人かは見知っている《生まれつき戦闘に特化した人種》だ。
そう、彼女が愛する妹分のように。
あるいは、かつて心を寄せた灰色の道を歩く青年のように。
生まれついての戦闘才能だけで、努力も研鑽も知識も戦術もあっさりと越えていく生粋の戦闘者だ。
「一瞬だけ僕を狂わせる事が出来ても、それは本当に一瞬だけの事さ。もう君の力は僕を犯せない。僕に入り込んだ異物はすでに死に絶えた」
その言葉が嘘ではないと示すかのように、クチナシは真っ直ぐにヌエに向かって歩き出した。
彼女がいくら望んでも立てない位置にいる少年は、その在り方を見せつけるかのように。
「……テメェは一つ一つの仕種がいっちいち勘に触る野郎だな、アァッ!?」
その足取りは嫌になるぐらいしっかりしていて、集っていた子供たちにたまらずゴーサインを飛ばす。
怯んでいた強兵たちに、その数による強みを思い出させ、己が役割を果たせと告げる。
ここで引き下がるわけにはいかない。それは彼女の……白銀のガードとしての矜持を傷つける。
それ以上に、妹を守る姉としての誇りに関わる。
せめてあの大男が来るまでは――自分と組めば、例え皇であっても一矢を報いられると信じる相棒が来るまでは、ここは一歩も通さない。
それを果たす為に、子供たちに《死ね》と命じたのだ。
「君の芳香の力はさ、とても淡くて……ひどく限定的な力だね。その刹那的な力の輝きは魅力的ですらあるよ」
それでもクチナシは、そんな決死の決意で進軍させた大軍にも慌てる事なく、軽く宙へと飛ぶ。軽く蹴りあげたようにしかみえないその跳躍で成人男性の身長を越えてみせる。
そしてそれを追って宙へと舞い上がった飛翔兵たちにその右手を翳してみせると、縦横無尽に――関節の可動域も速度の限界も無視した動きで、全ての飛翔兵達を叩き落としてみせた。
重力に逆らって跳躍して、その力に従って上に舞い上がり、すぐさままた重力に縛られて落下するというその僅か過ぎる時間のみで。
たったそれっぽっちの時間で、ヌエには視認しきれない速さで――右腕の先が霞んだようにしか見えない勢いで振るい、それで文字通り力ずくで叩き落としたのだ。
「嗅覚を持つもの、それに近い感覚を持つものに多大な影響を与えながらも、それを打ち破る方法もかなりの数が存在する。簡単だ、鼻を塞ぐだけでかなりの影響力を抑えきれる。鼻がつまっているという状況だけで幸運が拾える。
その強みも弱みも矛盾でさえも多大に含んだ力の在り方と、それを使いこなして戦おうとする君の姿は僕からすれば神々しくすらある」
そして大地に立った後は、飛翔兵以外の子供たちを踏み潰し、跳躍してくるもの達を弾き飛ばし、右腕以外には……つまり殺される瞬間以外には、クチナシに触れる事すらも許さない。
ただの一撃も。
たった一撃でさえも与える事は出来ず、攻撃態勢に入るよりも早く、毒の剣を向けるより、大顎を突きつけるよりもさらに早く殺され続けていく。
「君の聞きたい事、早く言った方がいいよ。もう君には時間がない。分かるだろ、桃色の君?」
芳香の力はこの少年には及ばない。
少なくともそれが効力を発揮しているようには見えない。こんな馬鹿げた身体能力を発揮してみせるヤツが、芳香の力に彷徨っているとは思いがたい。
もし効いているのだとしたら、もう少しはそれらしい素振りを見せてくれなければ困る。
そして彼女の従える強兵たち。
彼らもその大半を――はっきり言えば八割方を殺され尽くしている。
女王に従う猛者たち、最愛の雌に命をかける雄たち、子供を……卵を守るべく奮い起つ母親たちという状態で、彼女を守ってくれている昆虫たちが全滅するのも時間の問題だろう。
彼女が在り方を歪めた子供たちは、きっと最後の最期まで戦って殺されてしまう。
「僕の名前は《口無》だ。分かるかい? 僕の通った後には、誰もお喋りをする口を持たない。持ってちゃいけない。言うだろ?
《死人に口無し》ってね」
そして最期まで特攻をかけ続けていた子供が死に絶えて、辺りは静寂に包まれた。
唸る轟音は音を発し続けてはいても、それは特に耳に触る事もなく、冷たい死の静寂が空間を満たしている。
「さぁ、そろそろ幕を引こうか、桃色の君。君ではそんな重い得物を僕に当てる事は叶わない。試したければ試してもいいけれど……無駄な事はしないでくれると嬉しいかな」
そこにあるのは、力を発してはくれない桃色の霞と夜の空気。
そこにいるのは、宵闇色の死神と彼に目をつけられた無力な少女。
「君が僕に何を聞きたいのか興味があるし、何より珍しいものを……美しいものを見せてくれたお礼がしたい。攻撃されるとつい反撃しちゃいそうだからね」
その無力な少女は――無力だと告げられた少女は、臍を噛みしめながらも諦めてはいない。
まだ奥の手はある。
相棒兼下っ端である大男がいない状況で使いたくはない手であるし、正直気が進まないものではあったが、このまま好き勝手言わせていると、命の心配よりも胃に穴が空かないかを心配しなければならなくなる。
何より届かない才能を見上げたままただ負けを認める事は、彼女が一番大嫌いな事だ。
だから次なる小瓶を懐から取り出して、それの力を発揮させようとして。
「ダメだよ。僕は油断なんかしていない。桃色の君を見下してなんかいないんだ。不穏な動きを許すはずがないだろう?」
それよりも早くに……ヌエの知覚できるギリギリのスピードでクチナシ迫り、その右腕を振り上げる。
彼女の子供たちを殺し尽くした右腕を。
彼が饒舌な事に油断したつもりはなかったが、どこか慢心があったのだろう。
この少年は、自分よりも高い戦闘能力と遥かに戦闘向きの能力を持っているだろうから、自分がこれから何をしても面白がって見ているのではないか。
そう、弱者の足掻きとして。
そんな考えは持っていないつもりだったが、まさか懐に手を入れただけで《会話の猶予》を打ち切られるほどに警戒しているなどとは思わなかった。
その辺りは慢心といえるかもしれない。
彼は戦士ではなく、必殺を約束された暗殺者が本分だという事を、その饒舌さに忘れていたのだ。
――マズった、やられるっ。
そう思いながらも、最後の足掻きとして睨み付けてやろうとして。
睨み付ける事で、死神相手に呪ってやろうなんて根暗な事を考えて。
「今日はいい夜ね。昔の顔馴染みが死にそうになってる姿を見物するには最高の夜だわ」
聞こえてきたそんな言葉に、ヌエは思わず本日最大の舌打ちを漏らした。
物騒で不愉快な物言いではあっても、助けがきた事は分かった。その声はかつて聞いた事があるもので、その声の主がここにいてもおかしくはない。
その皮肉げな言葉にどこか懐かしさを感じてしまう自分に対して、少しばかりヘドが出そうにはなるが。
「でもそろそろ助けてあげようかしら。見物をさせてもらったお代は払わないといけないしね」
目前まで迫り、今にも大鎌を振りおろす死神のごとく、ヌエに死を差し出してきていたクチナシは飛び退くように下がっている。
やはり助かったのだろう。それは分かったし、助けられた事も分かった。
でも、だ。
「なんでてめぇがこんなとこにいやがるんだよ、この猿真似女が」
「助けに来てあげたというのにそれ? 相変わらず口が悪いのね」
なんでこの女がこんな時間に、こんな場所にいるのかが分からなかった。
ヌエとの間に何かを投げ込むと同時に起こった小爆発の連鎖で、クチナシを下がらせた女。
それだけではなく、下がった先に陰険な罠でも張っていたのだろう。
「あっ、そこは地雷注意よ、亡霊さん」
そんな言葉の直後には、先程よりも大規模な爆発がクチナシを覆っている。
その能力も、その戦い方にも覚えがあって、思わずヌエは女がいる方向を睨み付けた。
「助けろなんて言ってねぇぜ。こんな茶々いれで借りを作った、なんて思うんじゃねぇぞ、フェイクダークネス(偽物の宵闇)」
ぼろ切れのように擦りきれた黒い外套を纏いながら、すぐ近くの塀に立って油断なくクチナシがいた方向を見やったいる女を。
「あら、さっきまで死にそうだった割りには元気ね。もしくは現金ね、というべきかしら?
それと、さっきの爆発であなたが巻き込まれていても、謝るつもりなんかさらさらなかったから礼は不要よ。どうしても言いたいというのなら、昔馴染みとして聞いてあげなくもないけれど」
「誰が言うかっ、この家出女。いい年して一年半も無断外出してやがって。久々の挨拶に菓子折りの一つも持ってきたんだろうなァ?」
「それはまた後日用意してから伺うわ。私も彼にはちょっと用があるもの」
宵闇になろうとしてなれず、それどころか閃光なんて仰々しい名前を戴いてしまって、それに拗ねて家出をしていた顔馴染みの女を。
「古い顔馴染みに暇がある時にでも挨拶回りを……なんて、似合わない義理事で居残った甲斐があったわ。まさかあの人以外の宵闇に会えるなんてね」
今では三班にて《参謀》なんて役職を持ち、弟子を何人か抱える教育係りまで引き受ける羽目になったらしい《彼》にとっては唯一の教え子を。
「とりあえずは……そうね、あの人以外に宵闇を名乗る不届き者をどうにかしてから、旧交を暖めてみましょうか? 私とあなたの間に、暖まるような旧交があったかは自信がないけれどね」
今では数少なくなった顔見知り――《本物の黒鉄》である閃光のエリカの軽口を見て、ヌエは懐かしさと共に小さく唇をとがらせるような笑みを浮かべてみせたのだ。
エリカさんがなんで作戦に参加していなかったのか。
理由はこれです。
ついでに、ザ・噛ませ犬+ミスター当て馬ことマスターシヴァと向き合った時に、ヌエっちやシュテンくんが言ってた言葉……『自分たち二人を相手に回したら……云々』は、二人纏めてならという意味でして、その辺りも出てたりします。
コンセプトは、『エリカはやっぱり、一回はクチナシくんに会わせとくべきだよね』でした。
エリカとヌエっちの関係は、本文の通りギスギスしてて、互いに悪態をついて、隙を見ては貸しでも作って、後で数倍にして取り立ててやるか、散々見下してやるかというような心暖まる関係ですね。
ちなみに、ヌエっちが引きこもりで人見知りなのは、一部のどこかで出ていたはずですが、知っている人は知っている顔です。
ミヤビさんともお互いに顔見知りでしたし、彼女の最期を悼むような言葉を二部の《ママ》辺りで書いてます。
さて本題。
夜鳥美也……ヌエ。
名前は夜鳥→鵺→ヌエから。
純正型変種であり、その証は乙女の秘密という感じの場所にあると語っている。
スズカしか知らず、シャクナゲやシュテンですらも知らない。
一度その辺りをシュテンが聞いた際には、飛翔兵たちに一日中追いかけ回させた。
能力はピンキーガーデニングと呼ばれる《芳香》の持つ効用の増幅と、その芳香が乗った空気の流れを操る事。
つまり芳香の及ぶ領域の支配。
命名者はすでに死んでいて、手向けとしてその名前を使っている。
その気流の流れを操るとはいっても、そのスピードを爆発的に高める事は出来ない為、ファンと排気量を改造し、一気に噴出する回転鋸――チェーンソーを得物として選んだ。
つまり排気に芳香を乗せてから操る事で、その気流にスピードを持たせている。
世界の領域は、芳香が拡がった区域に広がる桃色の空間であるが、本文で見せている桃色の渦は世界の色ではなく、芳香の源である粉末の色である。
だから純正型以外にもその世界の有り様が見えているわけで、本質的には他の純正型の世界と同じく、純正型以外には見えないもの。
排気のスピードを拡散させる事なく操っている為、領域という形ではなく線状の煙のようにも見える。
汎用性は高く、援護から情報収集まで様々な局面に使える力ではあるが、実戦的な戦力には欠けている為、基本的にはそういった方面に長ける者とのツーマンセルで力を発揮するタイプ。
しかし本人の気質は極めて前衛型で、直接痛めつける方を好むサド体質も持っているという点が困りもの。
夜狩のシュテンとのコンビであれば、皇相手でもそうひけは取らないと自負する辺り、非常に自信家ではあるが、見合うだけの才能を持ち合わせ、それを研鑽する努力家でもある。
身体能力はそこそこ以外で、カーリアンにも負けるんじゃないかというレベル。
スズカを溺愛していて、基本的に他の人間は余り信用していない。
性格が豹変するのは、過去のトラウマによるものらしいが、すでに自分のキャラクターとして愛着を持っていたりもする。




