9・牙桜の咲く夜
「こんばんはぁ、そこゆく根暗そうなお兄さん」
綺麗な月を見上げ、それに小さな舌打ちを漏らしてみせてから、彼女は心の中で悪態をついた。
彼女は月に対していい思い出がない。特に赤く見える月なんて最悪だ。
血に染まったかのような色の月は、今でも目にする度にあの無彩色の世界を思い出させてくれて、憂鬱の余り吐き気すら込み上げてくる。
その気持ちの悪さと言えば、月のものの二日目にも負けていないもので、彼女はとにかく月夜というものが大嫌いだった。
今日は白々と輝いており、彼の《あの世界》とは違う色で存在感を放っている分まだマシだったが、それでも月の出る時間帯は自分と相性が悪いらしい。
そう一人ごちてから、彼女はそう思う原因へと視線を向ける。
「今日はとても綺麗な月が出ているね。ぶらり散歩気分で出歩くにはいい夜だ。そうは思わないかい?」
フラフラと左右に揺れながら自らの主が眠る御所に近付いてくる男。
いつもより明るい月光の下で、陰気な影を落としている誰か。
――あぁ、やっぱり月が綺麗な夜は最悪だ。
それを溜め息混じりに見やり、彼女は月明かりに映える明るい金髪をかきあげながらその進路に立ち塞がる。
いつものように同僚の大男が腕を奮った夕飯に四人で舌鼓をうち、うつらうつらし始めた子供を抱えて寝所に下がったスズカを見送って、これまたいつものように夜警に立つ。
そこまではいつも通りの日常だった。
違ったのは、今日はその時間帯に訪問者が訪れた事と、その迷惑な訪問者が自分と同格の相手だった事だ。
自分と同格の者などそういないはずの街で、真夜中という時間帯に訪ねてくるその稀少な存在。
それが厄介事の種ではないと考えるほど、彼女はお気楽ではない。
「確かにムカつくぐらいいい夜ですけどぉ、ここは素直に回れ右をしてくれないかなぁ。そうすればお互い面倒な事はやらないで済むと思うんですよぉ」
夜警、つまり夜の警備は、彼女……牙桜のヌエと呼ばれる少女と、夜狩と呼ばれる大男の二人が勝手に日課としているものだ。
しかし、最近までは特に不埒者がやってくる事もなければ、傍迷惑な真夜中の訪問者がやってくる事もない形ばかりのものだった。
時おりこの辺り一帯を覆う彼女の《力》をたまたま掻い潜って、この場所までやってくる人間はいたが、それに対する対応の為だけに立っていたと言ってもいい。
最近になって、とある理由から招かれざる珍入者が増えているという困った傾向があるものの、特に敵対する人間が攻め寄せてきた事はなかったのだ。
ここが《七班の本部》だと知る者はほとんどいないし、例えそれを知っている者がそれなりの数いて、ヌエの力を掻い潜れる者が多数いたとしても、夜という時間帯にここに近寄りたがる者はそういないだろう。
ここは、黒鉄が誇る《鬼姫》が眠る場所だ。
黒鉄最強の能力を持つと広く知られている銀髪の少女の寝所なのだ。
いかに廃都では変種に対する蔑視が少なくとも、真夜中に好んで近寄りたがるような酔狂者はそうそういない。
まぁ、もし真夜中に訪ねてくる者がいたとしても、当の少女は邪険に扱ったりはしないだろうが。
「一応警告はしたのに、それでもこっちに来ちゃうようなお馬鹿さんならぁ……もう面倒くさいからぶっ殺しちゃいますよぉ〜?」
だが、今日やってきた真夜中の来訪者は、今までのそれとは明らかに空気が違っていた。
それは纏った雰囲気が違うというような、そんなあやふやなものでは断じてない。
《肌で感じる空気そのものが違っている》ような、そんな感覚を覚えるのだ。
「くすっ、僕を殺す……だって? それは無理ってものだよ、見知らぬお嬢さん」
そう言った彼は、まだまだ肉付きの足りないか細い身体を持った男だった。男とは言っても、その年齢はいまだ少年の域を出ていないぐらいだろう。
淡い褐色の肌とざんばらに切り揃えられただけの細い針金色の髪。そして不気味な輝きを放つ紫紺の瞳。
その身体に纏うのは、修道衣かあるいは喪服を思わせるような黒い上下と、殺気とも闘気とも違う《瘴気》のような空気。
どこか存在感が薄く、どこまでも薄っぺらな印象を持たせるのに、その蛇を思わせる瞳の輝きは不気味に心にしこりを残す。
「それに僕を警戒して、そこまで物騒な殺気をぶつけてくれる辺りからすると、それなりに強い力を持ってはいるみたいだけれど……ひょっとして君があの《銀鈴》だったりはしないよね?」
「……」
「あれ、だんまりかい? まさか自分の事を語るには、まずは相手の自己紹介が必要なクチかな? そんな照れ屋ちゃんには見えないけど」
紹介されるまでもなく、ヌエは彼が何者であるかを悟っていた。そうでなければ、いかな彼女でもいきなり殺気をぶつけるような真似はしないだろう。
彼を見たのは今が始めではあったが、彼の肩書きがなんとなく分かっていたからこそ警戒しているのだ。
「もしそうなんだとしたら、それはとても面倒なプロセスが必要とされている事になる。僕には時間もないってのにさ」
彼と瓜二つの面持ちを持った少女が四班のコードフェンサーである事を知っており、さらにその裏に潜めた顔まである事を彼女は知っていたからだ。
紫念のスクナ。
四班ではそれほど目立たない称号持ち。年少ではあれど最年少なわけでもなく、特になんらかの肩書きを持っているわけでもない称号持ちの中では極めて目立たない少女。
そんな少女の裏の顔を知り、一級の警戒対象としていたからこそ、彼女とよく似た彼の素性にも想像がついたのである。
ヌエは基本的に黒鉄の中心部からは一定の距離を置いている。彼女こと《牙桜》の名前は知っていても、その姿を見た事がある者はそういないというぐらいに徹底したスタイルを貫いているぐらいだ。
だからといって黒鉄の内情に詳しくないわけではない。むしろ熱心にその情報を掻き集めていたりするほどだ。
その理由も簡単で、彼女がそれをしなければ他にそれを出来る人間がいないからである。
主であるスズカは非常に聡い少女だ。それは間違いない。スズカの先天的な才能は、恐らくヌエのあらゆるそれを上回っているだろう。
だが彼女は基本的に人が良すぎる。あるいは誰かを疑う事を知らなすぎる。最悪を予想は出来ても最善を信じたがる。
そんなスズカを兄である青年が望んでおり、それを彼女自身が理解しているからこそ、その考え方が染み込んでしまっているのだろう。
だから彼女は情報の裏を見ない。裏の裏まで思考を馳せる能力はあっても、記載された表面のみを信じたがる。
そんな理由から、裏に秘められた情報を集めてそれを吟味する役割は彼女がするしかなかった。
相棒であるシュテンもそのゴツい見かけの割には使えるクチではあったが、能力的なものをみれば子供達を使役出来る彼女の方がそれに向いたスキルを持っているという理由もある。
もっとも、ヌエには家事などの才能が致命的に欠けているという理由から、シュテンがそれを担当していて、そんな事にまで彼の手が回らない……という理由もあったりはしたが。
ともあれ、そんな彼女だからこそ知っている。
名無しの称号を持つ廃都の亡霊達の事。そこに名を連ねる七人の事。そしてその役割も。
ただ、その亡霊達の数は知っていても、誰がその名無しなのかまでは分かっていなかった。彼らを造り上げた《暁》は、幾つかあからさまにその足跡を残しているくせに、肝心なところをぼかしていたからだ。
それでも彼女がなんとかその正体を調べあげた内の一人、《二番と呼ばれる少女》とよく似た彼が亡霊と全くの無関係だとは思えない。
何より、今まで《所在が分かっている名無し》を警戒し、監視をしてきたヌエが、彼女とよく似た彼を廃都で一度も見た事がないという事実。
それそのものが、彼を亡霊じみさせていた。
「ふふっ、いいよ、語ってあげる。君は僕たちの事を知っているみたいだからね。表に出ているスクナからトレースしたんだと見ているけど……って、愚痴っても仕方ないか。スクナは《監視者》で《粛清者》だ。他よりも目立つのはどうしようもないからね」
――僕は《ネームレス・サード》。名無しの三番だった男さ。
そう可笑しそうに言った彼は、くつくつと喉を鳴らして笑い、顔を覆って月光に輝く白い八重歯をきらめかせる。
「……だった? 今は違うとでも言うのかしらねぇ? そんな事が《あり得る》のぉ?」
恐らくは《廃都の亡霊の一人》である彼。
一番の次に連なる《死念》の縁者。
《名無しの称号》を持った一人。
その読みが当たっていた事は驚くべき事ではない。答えが返ってくる前から予想が出来ている。
だが、《だった》という過去形で語る言葉には思わず首を傾げてしまう。
「……君は本当に僕らの事が分かってるね? いや、単に僕らのような裏方が《どうあるべきもの》なのかを知っているのかな?」
他の称号者と同じように、名無しがその数を増減させているとはヌエには思えない。
名無しの役割を思えば、そこからの脱落者は決して許されないだろうし、何より彼が言ったように名無し達は裏方であり、表舞台で激戦を繰り広げてきたわけではないのだ。
ただ裏切り者を粛清し、闇の彼方にひきずっていく……それだけの仕事でやられるようでは話にならない。そんな事になれば、あっさりと《名無し》達の尻尾が掴まれる羽目になる。
だからそこから脱落するという事は、恐らく死を意味するはずだ。
なにより、ネームレスは《存在しないもの》であり、そこからこぼれる者が生者のまま表に戻る事を他の亡霊達は決して許すまい。
裏切り者を粛清する為とはいえ、仲間殺しの為だけに存在する黒鉄がいるとなれば、沸き起こる混乱は計り知れないだろう。
もとより表の立場を持っている者であっても、裏から完全に手を引く事は許されるはずがない。
だから彼が《元》三番であるはずがない。だったという過去形はおかしい。そんな半端者を許していては、《都市伝説として伝えられているネームレス》の存在などすでに明るみに出ているはずだ。
「ふふっ、お察しの通りさ。僕は今も三番だけど、《元・三番》でもある。意味が分かるかな? 今の僕はね、二番である妹みたいに表に立場と名前を持ってもいるんだよ。だから僕は――《今の状態の僕》は三番じゃない。殺意を殺された三番に名無しの殺し屋は勤まらない」
《殺意を殺された》という言葉の意味はさすがに分からなかった。
だが、名無しの殺し屋の意味はわかった。分かってしまった。それが分かったからこそ、ヌエの背中には冷たい汗が流れ落ちていく。
――くそっ、よりにもよって一番大はずれの名無しって事か。せめてシュテンのアホが当番の時にくればいいのに。
そう内心で毒づき、思わず舌打ちを漏らしてしまう。
「ふふっ、僕が表に立つ時が来るなんて思ってもみなかったんだけど……まぁ、仕方ないかな。僕は彼の為だけに存在する影だ。彼が望む場所であれば、それがどこであっても行かなければならない。影が本体の意思から離れて動くわけにはいかないからね」
名無しの殺し屋という言葉の意味。
それは恐らく《宵闇の影》だという事であり、ほとんど誰も気付いていないであろう《闇に浮かぶ影》の事だと理解する。
宵闇のさらに深くに潜む漆黒。
この少年が言っているのはそういう事なのだと理解して、思わずヌエは心持ち後ろに重心をずらした。
正確に言えば、思わず半歩分ほど下がりそうになって、それを持ち前の負けん気で踏みとどまった形だ。
いかな《宵闇》であっても、彼が成したとされる殺しの数は余りにも多すぎる。
一番多い時で一晩に七十人以上、場所も数十キロ離れている時もあったぐらいだ。
それは巧妙な心理操作で隠されてはいたが、ちょっと調べれば矛盾が出てきて分かるような事だ。
宵闇のシャクナゲは一人しかおらず、一夜にて距離が離れた位置にいる人間を殺す事など出来はしない。
でも宵闇がそれを成しているという事実は、確かな矛盾であり、それはある事実を指し示していた。
宵闇と呼ばれる存在は、シャクナゲ一人ではないという事実だ。少なくとも、その名前に課された役割をこなす存在は一人ではないのだろう。
昔から黒鉄に所属し、マメに戦場を見て、噂を拾って、宵闇による犠牲者を累計していき、宵闇の仕事ぶりとその仕事場所を地図に付けていけば、《宵闇が成したとされる仕事は一人でこなしたものではない》という事がヌエにはわかっていたのだ。
それは、宵闇の動きが一番活発だった頃――まだアカツキがいて、錬血がいて、黒鉄が今よりも規模が小さくて、確固たる基盤を持っていなかった頃を知っているからこその推測だ。
ならば後の一人、ないし二人は誰なのか。
それが問題になってくる。
正確にその正体を把握する事はいかなヌエでも出来なかったが、それでもある程度の予測をたてる事は出来た。
それは名前を持たない誰かがやっているのだろうという推測だ。
名前を持たず、存在を認められていない誰かがそれを為していれば、極力矛盾は抑えられるからである。
廃墟の街にとっては多大な戦果であるそれを、自分のものだと名乗り出るものがいなければ――名乗る名前すらもない影が為していたすれば、《宵闇がやったもの》だとしても《それを糾弾する人間はいない》からだ。
例え地理的、時間的に矛盾があったとしても、それはそれほど問題にはならない。問題にしなければそれで済むだけの話で、廃都に住むほとんどの人間はそれを問題とはしなかった。
《黒鉄にとって都合の悪い敵が殺された》。
《今までもそうしてきたように、今回もまた宵闇が敵を狩ってみせた》。
そういう積み重なってきた《宵闇の功績》そのものが迷彩を果たしていた部分もあるが、一番の理由は《矛盾を見なければ安心が買えるから》だ。
そうやって彼を廃墟の街の英雄と奉っていれば、僅かな……しかし、日常を過ごす上では何物にも代えがたい安心感を得られる。そういった大衆心理を突いたのだろう。
その矛盾を突く者がいるとすれば、それはよっぽどの変わり者か、はたまた英雄を必要としないような強者かに限られる。
ヌエの場合は、この両方の条件を満たしている事は言うまでもない。
また、矛盾などは《情報伝達網が壊れきった現状のせい》にしてしまえばいいだけだ。あやふやで何も得られない情報よりは、まだ安心が得られる矛盾を信じたくなってもおかしくはない。
周りの風潮がそうであれば、多少疑い深いひねくれ者であっても真実には届かないだろう。
ヌエでさえも……牙桜のヌエであっても、宵闇の役割を果たす誰かを見つけ出す事が出来なかったのだから。
東で誰かが殺されて、同じ時刻に西に宵闇が現れても、それが同時刻だと証明する手だてもないのだから。
そう、当の《影に隠れた殺人者》が矛盾を出さなければ、だ。
「で、その元・三番さんは、今はどこのどなたでしょう? それとぉ、あなたみたいな脱け殻さんがぁ、いったいここになんのご用ですかぁ?」
そこまで考えてしまった以上、いかなヌエであっても皮肉った物言いが震えないように気を張るだけで精一杯だった。
宵闇の影に隠れ、その所在を誰にも掴ませなかった者。
ヌエや、あるいは恐らくは他の誰であっても、その存在をはっきりと認識していなかった相手。
その実力は、名前が知られ、存在を知られている宵闇よりも上だろう。
少なくとも《暗殺者》としての技能だけを見れば、どちらがより完璧なアサシンかと言えば、宵闇のシャクナゲではなくその影にいる存在だ。
むしろ名前を知られ過ぎているシャクナゲは、彼に比べれば暗殺者として落第だと言えるかもしれない。
ヌエも自身の力には自信があったが、今の今まで存在の確信すらも掴めていなかったほどの暗殺者を相手に回して、余裕を見せるような真似は出来ない。
そして、彼がハッタリをかましている、などという浅はかな考えも毛頭浮かばない。目の前の少年が本当の事を言っている事が分かる。
それは確信は持てなくても、自信を持って断言出来る。
何故なら彼の姿を視界に捉えたその時から、ヌエの中ではかつてないほどの警鐘が鳴り響いていたからだ。
それはあの《マスターシヴァ》と向かい合った時に勝るとも劣らない音量で、ヌエに警戒を促していたのである。
「くくくっ、脱け殻、脱け殻かい? それは言い得て妙だね……脱け殻か、そうだね。肝心要のものが《殺されてる》僕は確かに脱け殻で――そして欠陥品だ」
対する少年は陰気に、でも背筋が凍るほどに妖艶に笑っていて。
その唇の形が下弦の月のような弧を描く様といい、血のように真っ赤なその色といい、彼の表情を作る全てが不吉な何かでヌエの神経を圧迫していく。
まるで死神の笑みを見ているかのようだ……なんて感想ではまだ緩い。
《死神そのものが笑っている》。それがヌエの偽らざる印象だった。
「そういえば僕の名前が聞きたいんだったかな? とは言っても、今まで名乗る習慣もなかったし、この名前を名乗るのは実は君が初めてだったりするから、ちょっとばかり気恥ずかしい気持ちもあるんだけど……いいよ、教えてあげる」
――僕の名前は《クチナシ》。この名前でどこの班に所属しているか、君なら分かるだろ?
クチナシ――山梔子。
それが《植物の名前》である事をヌエは知っている。日本では生薬にも認定され、着色料にも使われる植物だったと知識から掘り返す。
――花言葉が《幸せを運ぶ》とか《胸に秘めた愛》だったりする辺り、余りにも似合わないよねぇ〜。
そんな事まで頭に浮かんで、苦笑が滲みそうになる。もし表にまで浮かんできたとしても、その苦笑はどこかぎこちないものになったであろうが。
「僕はね、《彼》の三班で新たに《無音》の称号を戴く事になってる。発表はまだだけど、ほぼ本決まりだよ。彼がごり押しして、自班の称号持ちと連名という形で認めさせる手筈になってるんだ。君たち風に言うと無音のクチナシになるのかな」
「じゃあ無音のクチナシさん、あなたはなんの目的でこんなとこまで来やがったりしたんですがぁ?
招いた覚えはありませんしぃ〜、深夜にレディを尋ねるような無粋な輩はぁ、趣味じゃないんですけどぉ〜」
「僕は君みたいな危ないタイプは嫌いじゃないんだけどね。今日ばかりは残念ながら別件さ。ただどんな理由にしろ、こんな深夜でもなきゃ僕は目立っちゃうだろう?」
それだけの理由だよ。
そう言った少年は、ヌエが撒き散らす全開の警戒心と本気の殺気を涼風のようにうけとめて、さらに軽口を返した。
「それに確かにマナー違反ではあるかもしれないけれど、それはそっちの都合さ。僕からすれば君たちの都合なんて興味もなければ理解を示す理由もない」
再び無造作に歩き始めるその足取りにも躊躇いはない。ヌエが立ち塞がっていてもお構い無しだ。
むしろ両腕を舞台俳優のように掲げて、抱擁を求めているようにすら見える。
「さて、こちらの自己紹介はもうお仕舞いだ。他に語るような事は……うん、あんまりない。あと僕に語れる事があるとすれば、それは蛇足のような事柄ばかりだ」
妙に饒舌な暗殺者はそう言って、そのか細い小首を傾げてみせる。
必殺を約束される暗殺者が饒舌な時がどんな時か。それは考えるまでもない事だ。
何か策を施す為の時間稼ぎか、あるいはいつでも対象を殺せる自信がある時かだ。
もっとも今のような《立場上では敵ではない》場合からして、この少年が本質的におしゃべりであるだけの可能性もあったが。
「そろそろ君が誰か教えてくれるかい? 君は銀鈴じゃないよね? 君はなかなか強そうだけれど、まさか君が表では最強の純正型……なんて事はないはずだ」
「さて、どうでしょ〜? 案外わたしが銀鈴かもしれませんよぉ、世間知らずな亡霊さん」
「だとしたら……ちょっと困ったな」
ヌエの軽口に少年は本当に困った風に肩をすくめてみせ、嘆くように天を仰いだ。その仕草から芝居っけは感じても、その言葉が本心である事は彼の表情がありありと語っている。
「もしそれが本当なんだとしたら――
――あの心地いい穴蔵から追い出された僕の立場がない」
本当に嘆かわしく思っているような口調と、憂鬱げな溜め息を漏らしている様は、呆れと疲れをはっきりミックスさせたものだ。
「そして僕と同列に並べられている六人……とは言っても妹以外じゃ、ちょっと前に遠くから不躾に僕を覗いていた二人しか顔も知らないんだけど……ひょっとしたらその六人は、彼の足手まといにしかならないんじゃないかって不安になる」
――いざという時に、君を抑えられない程度の連中ならいない方がいい。僕だけで十分だ。
そう言ったクチナシの言葉が指す意味を理解しても。
自分を見下す言葉には過敏なヌエですらも、感情が沸き立ち激昂する暇もなかった。
歩けばまだ十歩以上、距離にして十メートル以上距離があったというのに、クチナシの姿を見失って――次の瞬間には、ヌエの目前でその胸元に軽く腕を突きだしていたからだ。
それを服が汚れる事に舌打ちをする余裕すらなくなんとかかわしてみせて
「ほら、ダメだよ、気を抜いたりしちゃ」
そんな言葉が《背後》から聞こえる事に、頭に上るはずだった血の気が一気に下がった。
確かに目前にいて、その突き出された腕をかわしたはずだった。
念をいれて、ちょっと大きめに距離を開けたはずだった。
その《はず》という言葉が通じない相手。
ヌエの考えが及ばないクチナシに、身体中の汗腺から粘っこい汗が滴り始める。
「さっきの言葉じゃ分かりにくかったかい? 僕の方が《君よりも強いよ》って噛み砕いて言ってあげたつもりだったんだけどね。
やっぱり僕はダメだな。コミュニケーション能力が欠けているみたいだ。話し相手が彼しかいなかったからかな?」
首に触れるか触れないかの位置に《当てられた手》。
「僕たちはね、誰であれ裏切り者は殺せなければダメだと思うんだ。例えそれが純正型であってもね。
君がもし本当に最強の純正型だったとしても、僕たちは殺せなければならない。いざという時になってから『出来ませんでした』なんて言葉は許されない事だ。そうだろ? それじゃ無責任すぎる」
深い闇の底から響くようなアルト。
「だから僕には、銀鈴を試してみる必要があったんだ。僕でどうにか出来る相手かどうかをね。
……もう一度だけ聞くよ? 君は銀鈴じゃないよね? もし君がそうなんだとしたら――」
感じるのは冷気にも似た凍えそうな気配。
「君が持つ《表最強》の名前はここに置いていけ。君程度にその名前は重すぎる。それは彼が持っているだけで十分だ。
彼だけじゃ力が足りないっていうのなら、僕が――彼の為にあるこの無音が、今日から裏でも表でも最強を名乗ってやるよ」
それに身体が硬直して、感情が爆発する。
「あんまり調子にノッてんじゃねぇぞ、クソ〇〇〇野郎ッ!」
激昂するその言葉に反応して、ヌエの身体から唸るような羽音が舞い上がった。
彼女のヒラヒラした服に寄り添っていた凶悪なる飛翔兵達が、寝入り端を起こされた不機嫌を羽音に乗せて飛び立ったのだ。
彼らはその怒りを細くとも致死の毒を持った剣に宿して、背後にいたクチナシに突撃していく。
それを感じて今度こそ距離を開けると、一息で脇に抱えたままだった得物に火を入れる。
ゴォォォォォ――。
そんな傍迷惑な轟音を上げ、刃と局所的な気流を生む回転鋸。
それを掲げてみせながら、空いている片手でひらひらのフリルがついた黒いスカートのアタッチメントをパチっと外すと、動くのに邪魔なそれを脱ぎ捨てる。
ついでに、ゴテゴテと装飾が施された袖の部分も取り外して放り投げた。
「ファック、この〇〇〇〇で〇〇〇〇野郎。せっかくおめかししてたレディの服を脱がせやがって。テメェみたいな短小野郎があたしを満足させられると思ってんじゃねぇぞ、アァッ!」
そんなヌエの変化にも。
唸る轟音に肩をすくめてみせ、凶悪な回転を見せる凶器に笑みを浮かべるだけで、クチナシは小さくクスッと笑う。
彼女の飛翔兵達――数十もの強兵達は、すでに力なく大地に落ち、もはや羽音を立てるものは一つとしていない。
軽く右腕をしならせ、目にも見えない速度で払ってのけただけで、その全てが死に絶えていたのだ。
瀕死のものですら一匹もいない。
一瞬。まさに一瞬で、一撃も加える事なく、全てが落とされていた。
「怖いね。僕の命で購えなければ……どうしようか? 僕に出来る事なんてそんなにないのだけど。
精々が――そうだね、怒りが溢れかえっている君の命ごと、その感情を消してあげるぐらいかな?」
「はん、調子に乗ってンじゃねぇって言ったろうがっ、このファッキン野郎っ。今吐いた唾、てめぇの口にねじ込んでやるよっ、この痛い刃ごとなァ」
そう吼えたヌエは、ほんの一瞬だけ大地に落ちた子供達を悲しげに見やり、すぐさまその表情を憤怒に歪めてクチナシを見やる。
そして動きやすいショートパンツに、フリルなどの飾りが綺麗に落ちて地味なワンピースに成り下がった上衣の裾を翻しながら、片手に凶器を、もう片方には乳白色をした陶器製の小瓶を指の合間に挟んで対峙する。
「これでも白銀のガードだった頃はな、テメェみたいなのを半ば日課として相手にしてたんだ! 《向こう》じゃ、あの子を狙ってきた薄汚いジョブキラーを何人もぶっ殺してんだよ。テメェもすぐさまその中にいれてやるッ。安心しろよ、骨は肥溜めに棄てといてやるからよッ!」
ピンっと小瓶の蓋を弾き飛ばし、それを凶器に降りかける。
正確に言えば、凶悪な轟音をあげて回る冷却用のファンに降りかける。
「吠え面かいて見てやがれ、くそったれ野郎! このシルバーガードが一、牙桜の夜鳥の領域をなッ」
そのファンにかき混ぜられ、排気に紛れて爆発的な勢いで後方に飛散する粉末は、月光の中に散る桜の花弁のように色付いて。
ファンの力、そして排気によって一気に舞い上がった小さな粉末は、重力に逆らうかのように大気を舞い続け、そのままの勢いを維持したままクチナシを覆うかのように渦を巻き始める。
まるで蛇がとぐろを巻くかのように、クチナシを中心に桃色の渦を作る。
その蛇の頭には、排気の元となった回転鋸があり、轟音を上げてクチナシに牙を剥く。
「てめぇで何人目かはもう忘れたけどよ、お嬢を狙ってんなら他のヤツと同じようにここで死んどけ。
――芳香に包まれながら、こいつでぐちゃぐちゃに切り刻まれてなッ!」
ヌエっちの力についてはまた次回。
彼女の力は、芳香が持つ力……生物に作用する効力の増幅です。
とりあえずそれだけ記載。
ちょっと理由があり、来週はおやすみかも。
またお知らせします。