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捌矢

 翌日、俺は夜勤明けの京を気遣って、山吹と一緒に読み終えた資料の整理を居間で行なうことにした。

 これならば京の手を煩わせることもなく、音も少ない上に室内の片付けにもなるので、ちょっとした息抜きでもあった。

 その昼過ぎ、十詞重が近くまで出向いているらしいとの情報を持って、與が澄羽子と共に別館を訪れた。

 俺は早速この機会に十詞重から話を聞こうと提案したが、與の判断は一晩待てというもので、十詞重にはアシナギを訪れるようにと山吹に伝えさせる旨を言い渡された。

 つまりは、自宅待機のお達しだ。

 けれど俺は、それをすんなりと聞ける状態ではなかった。

 できるだけ早く、何か方法が考えられないか十詞重の話を聞きたかった。

 妙な焦りというか、胸の中がざわつく気配がしていたからだ。

 それは澄羽子も同じ気持ちであったようで、山吹と交代した澄羽子にそれとなく聞いてみると、渋々ながらも俺の作戦に応じてくれた。

 夕暮れ時、山吹が戻って来たので十詞重の現在位置をそれとなく探ってみると、岩原の先にある山の辺りまで来ているらしい。

 それを聞いた俺は、山吹が小休憩を取っている隙に別館から本館まで渡り、人目を忍んで澄羽子と羽扇を使って左櫛を発った。



「――山吹の情報からすると、この辺りからは歩いて行きましょうか」

 岩原を越えた場所にある森の辺りで、澄羽子は羽扇を閉じた。

 理由を聞くと、周囲には寝泊りできるような場所は無いから、おそらく十詞重も野宿を考えるだろう。それならば森の木の上にいる筈だから、歩いて探した方が良いということだった。

 手にした明かりを頼りに、ふたりで森の中を歩き出す。

 もとより今夜は月が明るく、鬱蒼と茂る木々の合間にもその光が差し込んでいた。

 月光の差す暗がりの中、時折木の上の方を見ながら、俺と澄羽子は森の中を歩く。

 風が吹き抜けて木の葉が揺れる音は、胸の内を掻き立てるようにざわめいている。

(年頃の男女なのにな……。べ、別に何も期待とそんなんじゃねぇけどもっ)

 なんとなく緊張して、俺の足は知らず知らず速くなる。

 生物の音のしない森の中に異様な空気を感じ取りながら、俺は騒ぎそうになる心臓を宥めるように澄羽子に声を掛けた。

「そう言えば、澄羽子はイクタマ姫に会ったことは?」

「何かと思ったら……御簾(みす)越しでなら、あのお重箱入りのお姫サマに会ったことがあるわよ」

「な、何か……言葉に棘がないか?」

「そう? 実際、煌びやかな物に囲まれて身綺麗にされた純粋培養のお嬢サマだし」

「…十分棘があるじゃないか…」

「私はただ、かつて一緒に暮らしていたことを除いても、巫女様と同じ年同じ月同じ日の同じ時刻に生まれたからって、巫女様に馴れ馴れし過ぎると思っているだけよ」

 今ので理由が分かったので、俺はそれ以上聞くのは止めた。

 巫女様至上主義の澄羽子にとって、イクタマ姫の存在は大きな壁であるらしい。

 確かに、「與ちゃん」と呼んで親しげな様子を見せる人物は初めてだった。

 その理由こそが、京から聞いていた「切っても切れない絆」の意味する部分だろう。

 だからあれほど話の通りが早かったのかと思い起こし、同時に、謁見の場で聞いた話に抱いた疑問が脳裏に浮かぶ。

「なぁ。一つ聞いても良いか?」

 俺が真剣な面持ちで見ると、澄羽子は小さく小首を傾げて先を促した。

 ここまで、何度か浮かんでいた疑問を静かに口にする。

「お前が『白鴉』の力を手に入れたいのって、與さん……巫女様のためか?」

「……どうしてそう思うの?」

「この前、『白鴉』の力の一つに強力な浄化能力があるって聞いた。それがアシナギのために必要だって言われたけど、本当に一番必要とするのが誰かって考えたら、何となく」

「つくづく勘の良い奴ね……」

「俺だって今日までの二週間、無駄に過ごしてないんだよ」

「有能な人材で嬉しいわ」

「茶化すな。巫女様の活動状況を見れば、誰だって浄化が一番必要な人だって分かる。巫女様命のお前が、それを見過ごすとは思えないしな。でもだからって、この方法は乱暴すぎだろ」

「そうかしら? 最も有効で最短の方法だと思っていたし、今でも思っているわよ」

「あのな……」

「結果としてはこうなったけど、私は確実な方法で間に合わないよりも、危険を伴ってでも、最短で力を手に入れなければならなかった。だから後悔はしていないわ」

 澄羽子の瞳は深紅の彩りを一層鮮やかに染め上げる。

 強く見えるその視線に、俺は一度息を吐いて澄羽子を見据えた。

「お前の気持ちは凄いと思うけど、結果として傷つくのはお前かもしれないんだぞ?」

「どうして私が傷つくの? したいことをしているのに」

「確かにそうかもしれないけど、本心で望んでいること以上に、望まないものを巻き込んでいる気がするからだ。しかもお前はそれを見捨てられない気がする」

「フフ。やさしいのね、朔一は」

「簡単に言うな。やさしさじゃないから、お前が傷つく。罪の意識とか責任感とかで、がんじがらめになった体を千切り捨ててでも行動しそうに見える。気付かれないのに。それが不憫だ」

「……そんなことが言えるのは、多分、これまでのアナタの道が後ろ暗くないからよ」

「後ろ暗くないって……、隠し事ぐらいあるぞ。俺だって聖人君子じゃない人間だし」

「そう。普通の人間なら、何かしらの秘密と後ろ暗さを持ってる。それが普通で一般的。勿論、罪の意味ではないわ。でもアナタにはそういう部分が無い。きっと今後もそういう行動を取らない。だからよ」

「俺のことを随分と過大評価してくれてありがたいけど、澄羽子だってそうだろ? 隠し事をする割に問い詰めると教えてくれるし、何よりひょうきんだし」

「それこそ過大評価よ。だって私、巫女様のためなら何だってできるもの」

「お前の言う後ろ暗い事も?」

「ええ。必要ならば、裏切りだってする」

 冗談めかして聞いた言葉に断言する澄羽子の眼は本気だ。

 真摯な眼差しから覚悟の強さが窺える。突き付けてくる意志にもそれが反映している。

 深紅の瞳が月光の中に浮かび上がり、射竦められた俺は自分の気持ちを口にする。

「……俺は、元に戻ることを諦めた訳じゃないからな」

 俺がはっきりと伝えると、澄羽子は溜め息を一つ零して真っ直ぐに見据えた。

「アナタ、何度もそう言っているけど、現状を見て言っているの?」

「俺はそのつもりだ」

「それならそれで構わないけど、アナタの順応具合を見ていると興味が湧くわ」

「どういう意味だよ……」

「そのままの意味よ。いつまでそんな事を思っていられるかしらね☆」

 口調も顔も笑っているが、澄羽子の眼だけは笑っていない。

 獰猛さを含んだ挑戦的な視線だ。

 深紅の瞳は俺の心臓に爪を掛けるように揺さぶってくる。

 俺が言葉を返せずにいると、勢いをそのままに、澄羽子はさらに言葉を投げつけてきた。

「正直言うとね、アナタを見ているとイライラする」

「――は?」

「持っている能力に気付かないからと言って、無駄にすることが許されると思う?」

「何言ってんだ?」

「アナタを見ていると、これまでの努力をドブに捨てるような物だって思ったのよ」

「お前な……っ」

「だってそうでしょ!」

 澄羽子は声を上げて俺を睨み付けた。

 深紅の瞳を怒りに爛々と輝かせている。

「私は、能力を手に入れるために必死に行動してきた。それを、アナタのような人間に奪われただけでも腹立たしいのに、目の前でその力を無碍むげにされたら誰だって苛立つじゃない。私は、欲しいものを前にして歯噛みするなんてまっぴら御免よ!」

 きつく言い放たれて、俺は出かけた言葉を呑み込む。

 飄々としているか笑顔しか見たことのない澄羽子の顔が、今は険しく眉根を寄せて苦い気持ちを噛み締めた表情を浮かべている。

 珍しいと思うが、それだけ澄羽子も必死なんだ。

 しかしそれは俺とて同じだ。

 俺たちはいつの間にか立ち止まり、自棄を起こしたように言い合った。

「俺だって、まさかこんな重要事に巻き込まれるなんて考えてもなかった! そんなに欲しければ方法を探せよっ!」

「私だって探しているわ! それこそ館内の資料は全部漁った。でも何も見つからなかったのよ」

「だからって諦めるのか? ハッ、お前にとってはその程度ってことか?」

「そんな訳ないでしょ! 人体実験に及ばず、方法を探ることの難しさを分かっていないからそんなことが言えるのよ!」

「今更何を言ってんだよ。行動を起こしたんなら、それを途中で放り出すな!」

「でも私には朔一が必要なの!」

 意外な発言に、俺の思考が止まる。

 今、俺が必要とか言わなかったか? 俺の力じゃなく……?

 頭に上った血を冷ますように首を振り、澄羽子は額に手を当てた。

「正直なところ、アナタから奪えるのなら行動に起こしたいし、むしろ今直ぐにでも手に入れたいわ。でも巫女様も私も、朔一という存在自体に意味を見出してる。だから今回も同行した。アナタ独りでうろつかれる訳にはいかないのよ」

「そんなの初耳だぞ。そういう重要な内容は話せよ。自分たちだけで話を進めて、俺の意見はどうなんだ。むしろ俺の意思を聞けよ!」

「じゃあ試しに聞いてあげるわ。さ、言いなさい」

「……。俺としては、自分にできる事があれば手伝いたい。その上で戻る方法を探し続ける。この気持ちは変わっていない」

「ソ。立派な言い分かもしれないけど、でも鬼霊と闘えるの?」

「だから、できる範囲で。だ」

「なら簡単でしょ。黙って私に付いてきなさい☆」

「……っ。お前と話してると、脳のあらゆるところが動く気がする」

「あら、イイ運動になって良いわね☆」

 脱力して頭を抱える俺に、いつものように笑顔を浮かべた澄羽子。

 しかし突如その後ろから、草を踏む音と金属を引き合わせるような鳴き声が聞こえてきた。

 すぐさま音のした方を向く俺たちの前に、闇の中に赤い光が三つ浮かび上がっている。

「……前にも、似たシチュエーションがなかったか?」

「まったくね……。アナタと重要な話をすると、どうして奴らが出て来るのかしら」

 赤い光はそれだけではなく、他にも二つ、一つ、と点在してこちらに向けられている。

 澄羽子は両手に苦無を構えて、目だけを周囲に走らせた。

 光る赤い点は一箇所だけではない。

 いつの間に囲まれてしまったのだろうと、澄羽子は舌打ちをする。

「キヒ、キヒヒヒヒヒッ!」

 半分開いた口から涎を垂らした鬼霊が、草むらを踏んで前に出てきた。

 以前にも見たことのあるような、褐色の肌に筋肉を滾らせたその鬼霊は人の形をしている。しかも月光の下、艶やかな光を放つその手には日本刀が握られていた。

 吹き抜ける一陣の風が合図であったかのように、鬼霊が刀を振り上げて地を蹴った。

 同時に澄羽子は俺を後ろに押して距離を取らせ、左手の苦無で刀を受ける。

 金属同士のぶつかり合う音が辺りに響いたのはその一合だけで、刃を受け流した澄羽子は右手の苦無を鬼霊の頸に突き刺してそれをねじ込むように回転させ体制を変える。

 次いで引き抜き様に正面の木に投げ刺し、鬼霊の右手に手を掛けながらその頭を跳ね飛ばすように蹴り上げる。

 着地と同時に奪った刀の柄を握り直し、振り向き様に片手で振り下ろす。

 背後から近付いていた鬼霊の左肩が血飛沫を上げて胴体から斬り離された。

 それを見届けることなどせず、澄羽子は刃を軸に身体を反転させて、よろめく鬼霊の頸に上段蹴りをお見舞いした。

 苦無を飛ばして足止めをしながら、刀を振るって足技で跳ね返す。

 流れるような所作で繰り出される連撃は正に圧巻だ。

 しかし徐々に増え続ける鬼霊の気配に、さすがの澄羽子も作戦を変えざるを得ないように見える。

 威嚇するように苦無を構え、俺の前に立った澄羽子は、背に庇いながら声を掛けた。

「アナタは、合図をしたらあの木に向かって走って」

 さっき投げた苦無の刺さった幹を目で示し、澄羽子は続ける。

「幹の陰で五つ数えたら、その奥の木の陰に隠れる。また五つ数えたらその奥に。それを繰り返してこの場を離れなさい」

「お前はどうするんだよ?」

「私一人なら大丈夫。あの先に行けば、岩原に繋がる山道に出られる筈よ。そうすればこれを使ってアナタを逃がせる」

 澄羽子は袂から羽扇を取り出し、俺に手渡す。

 話しながらも視線は周囲に向けて苦無を投げ、にじり寄る鬼霊を牽制している。

 俺に、お前を置いて逃げろってことか? そうできるほど、弱く見えんのかよ……。

 言葉を返そうとするのを遮り、澄羽子は真剣な眼差しを向けた。

 それを見たら、俺は何も言えなくなる。

 確かに、俺は足手まといでしかない。今は――

「いい。アナタは前に進むこと。それだけを考えなさい」

 頷き返し、俺は羽扇の柄を握り締めた。

 拳が微かに震えているが、そんなことは気にしてなどいられない。

 顔を上げた澄羽子が両の袂に手を入れて苦無の鎖を引き出した。

「走ってっ!」

 声に背中を押されるようにして、俺は地を蹴った。

 木の陰に辿り着くとすぐさま陰に入り込み、息を整える。

 一、二……。

 背中の向こうで鬼霊の叫び声が上がる。

 三、四……。

 澄羽子の鎖の揺れる音が紛れて聞こえる。

 五――。

 俺は駆け出す。目の前の幹に向かって、そしてまた五つ数える。

 三本目の木を目指す時、背後で鋭く肉を打つ音が聞こえた。澄羽子が瞳白を(ふる)う音だ。

 鬼霊の悲鳴が轟き、俺は震える膝を叱咤する。

 走ることしか、逃げることしかできないのならそれを精一杯しなければならない。

 こんなことしかできない自分が、悔しくて仕方がない。

 奥歯を噛み締めて五本目の木から離れる。

 地面を穿つ音が地響きとなって広がり、俺は肩を跳ね上げて顔を背後に回す。

(まさか、澄羽子……っ?)

 一瞬浮かんだ惨状を首を振って打ち払い、七本目の幹に向かい駆け出す。

(大丈夫だ。澄羽子は強いし、術だって使える)

 自分に言い聞かせながら走る。だが――

 ズガァーンッッ!

 ついさっきまで身を潜めていた木が薙ぎ倒された。

 吹き抜ける風と舞い上がる土埃に木の葉。

 寸でのところで七本目に辿り着いた俺は衝撃に屈み込んでしまう。

「グウォォオォォォ――!」

 鬼霊の咆哮に身を竦ませ、息を弾ませながら俺は立ち上がる。

 早鐘を打つ鼓動に、手を胸の辺りで握り締めると、何か硬い感触があった。

(そう言えば、確か前に十詞重さんから渡された物が……)

 首に提げた紐を手繰り、先に下がる笛を取り出す。

 どんな効果があるかは分からないが、何かあったら使えと言われた笛だ。その「何か」が今だと俺は思う。

 しかし再び地面を揺らす衝撃に、俺は思い出したように八本目を目指した。

 陰に入り込むと、雲間から降り注ぐ月明かりと目の前に開けた場所が見えた。

 澄羽子が言っていた、岩原に繋がる山道だろう。

 だがまだ澄羽子が来る気配は無い。

 俺が羽扇の柄を握り締めた刹那、背筋に悪寒が走った。

 直ぐに駆け出そうとしたが、背後からの衝撃に体勢を崩して地面に転がり込む。

 間一髪で頭の上を掠めた爪から逃れたが、背中を打ちつけた俺は暫時呼吸が止まる。

 そのせいで反応が遅れた俺の目の前に鬼霊の影が迫る。

 立ち上がろうと膝に力を入れるが、鬼霊の腕の方が早かった。

「ぅうっ!」

 頸を掴み上げられ、苦しさに呻く。瞳を動かすと見上げてくる鬼霊と目が合って、その顔がにやりと笑ったように見えた。

(――こんな奴に、ヤられて堪るかよっ!)

 振り子の要領で鬼霊の顔を渾身の力で蹴り上げると、その拍子に首を掴む手が外れて地面に放り出される。

 あばらに激痛が走ったが力を振り絞り、握り締めていた笛を口に咥えた。

「ギシャァァアァァァー!」

 僅かに空気の抜ける音が響き、それと同時に鬼霊が悲鳴を発した。

 両腕で頭を抱えるようにしながら一歩後ずさる鬼霊が視界の端に映ったが、俺には何が起こったのか分からず、もう一度笛を吹き鳴らす。

 やはり笛らしい音は聞こえない。それでも鬼霊は呻き声を上げて苦しげに後ずさる。

(何か、聞こえるのか……?)

 音が響かないので確かな手応えは感じられないものの、鬼霊の様子を見る限りでは何らかの影響を与えているようだ。

 それも相当な苦しみを伴う形で。

 膝から崩れるように地に屈む鬼霊の姿を、俺は薄く開いた瞼の奥から眺めていた。

 立ち上がりたくとも、全身が痺れたように動けないのだ。

 頭はしっかりしているのに、体と神経が離れてしまったかのように。

(せめて、澄羽子だけでも逃がしてやりたい……)

 俺は頭に浮かんだ事を実行するために、痛みを堪えて首の呪布に両手を掛けた。

 千切る要領で力を加えると、容易く布は切れて光が放たれると共に散り散りになる。

 俺を中心にして辺り一帯に風が広がり、空気が変わった。

 苦しんでいた鬼霊も顔を上げ、埋め込まれた眼球をギョロリと回す。

 口角を上げた端からは涎を垂らし、ゆっくりと立ち上がる姿は正に獲物を前にした肉食獣そのものだ。

 木々を揺らす音が聞こえる中で、目の前の鬼霊が躍り掛かって来た。

「……いただきますくらい、言えよ…な……」

 悪態を吐く俺に鬼霊の鋭い爪が伸びる。その瞬間――

 ブシュアァァァ――!

 突然目の前で赤い液体がぶちまけられた。

「よく耐えた。後は我々に任せろ」

 口と鼻から血を吹き飛ばし、腹部を紅く染めた鬼霊の体がぐらりと傾く。

 頬に血潮を受けながら眼を動かすと、月明かりに照らされた與の姿が目に入った。

 夜空と同じ満月を浮かべる右眼に心臓が高鳴る。

 いつかの夜に見た時よりも、今夜は一段と輝きを増して漆黒の縁に填め込まれている。畏怖を感じた筈の眼に、俺は安心を覚えた。

 途端に先ず伝えたくて、俺は渇いた喉を鳴らす。

「……澄羽子、が」

「大丈夫だ、叉羽子が先に向かった」

 血振りをして剣をしまう與の後ろを、黒い影が森に向かって跳んで行くのが見える。

 森の中からは地鳴りと幾つかの鬼霊の悲鳴がこだました。

「この辺りは取り敢えず配置が済んだ。大丈夫か、朔一?」

 京の手で身体を起こされながら頷き返し、俺はその肩を借りてその場に座り込む。

 まだ全身に疼くような痛みはあるが、意識を保っていられる範囲だ。骨も折れてはいないようだし、呼吸も徐々に整っていく。

 まだ周囲からは木々のざわめきが聞こえてくるが、それも次第に収まり始めて、握り締めていた指先から力が抜けた。

「お。あの音、お前だったのか」

「……?」

 開いた掌の中にある笛を見て、京が意外そうに手を伸ばした。

 首から提げていた紐は先刻の衝撃で切れてしまったらしい。

「これは鬼霊の骨からできてる笛なんだ。特殊な製法でのみ作ることができるもので、俺達も持ってる。ほら」

 籠手の内側から取り出されたものは、俺の持っている物とよく似ている。

「効果はお前も目にしたように、鬼霊の動きを鈍らせることができる。笛の音が鬼霊の嫌がるものらしくて、離れていくことだってある。同じく聞こえる俺達に全く影響が無い訳じゃないが、鬼霊程苦しむものじゃないし、普通の人間に感知され難いっていうのも利点だな」

 事実、吹いた本人である俺には微かに空気の抜ける音しか耳に入らなかった。

 ピリピリと空気の震える感覚はあったものの、常人の聴覚では捉えきれない音域が発せられたらしい。

「呼び笛として活用できるけど俺達は滅多に使わないから、久し振りに聞いたぜ」

 頭をわしゃわしゃと掻き混ぜるような手付きで撫でられながら、俺は笛を握り締める。

 そうか、十詞重さんの言っていたことって、こういうことだったのか。

 渡された意味を噛み締めた俺は、十詞重に会ったら礼を言おうと心に決めた。

 ようやく戻り始めた力で自分の体を支え、座り直そうとしていると森の方から澄羽子が駆け寄ってくるのが見えた。

 自分の方へと向かってくる澄羽子にほのかな期待が生まれたが、やはりと言うべきか、澄羽子は手前に立つ與の足元に跪いた。

「すみません、巫女様っ」

「始末書は明日中に提出しろ。……だが、お蔭でこの辺りを一掃できた」

 静かに言い渡すと、與は森の方角へと歩き出す。

 たったそれだけの言葉であっても、澄羽子の気持ちを浮上させるには十分だったようで、所々に返り血を受けたその顔に笑みが浮かぶ。

 そして思い出したように俺へと近付いた澄羽子は、視線を合わせるように屈んだ。

「良く頑張ったわ。私が見込んだだけのことはあるわね。お疲れ様」

 澄羽子は俺の右手を取り、握手をする。

 白くて小さな手と初めて繋がれた。

 何だか照れくさかったが、俺も微笑んで握り返す。

 立ち上がりながら頭を一撫でされ、離れていく手が少し寂しく感じる。

 その気持ちがむず痒くて不思議な気もしたが、温かくて悪くないなと思う。

 俺は小さく笑いながら、痺れの薄らいだ脚で立ち上がった。

 満月の浮かぶ夜空を見上げて笛を握り締めると、京が耳元で囁いた。

「あ、それ。澄羽子たちの前で吹くと、ウルサイって怒られるから気をつけろよ」

 京の忠告から少しだけ生まれた興味に、笛を口に近付けると――。

 ビシッ!

「吹いたら()つわよ」

(もう打ってんじゃん……)

 右手に瞳白の先を当てられ、俺は微かに赤くなった甲を押さえながら降ろした。

 それと同じくして、月明かりの山道を歩いてくる人影が見えた。

 山吹の先導で近付いてくるその人物が目的である十詞重だと分かると、俺は駆け寄りたくなった。

 勿論、途端に全身に疼痛が走ったので、與と言葉を交わしてこちらにやって来るのを待つ形になる。

 ようやく言葉を交わそうと声を掛けるより先に、十詞重が俺の姿に目を輝かせた。

「おやおや。凄い成長振りじゃないか!」

 声を上げた十詞重に顔を両手で挟まれると、俺はそのまま数度瞬きを繰り返す。

「これは鬼の血だったものだね。見事に浄化されているじゃないか」

 頬の辺りを拭われて初めて、與が斬りつけた鬼霊の返り血を浴びていたことを思い出す。

 見れば十詞重の指先を濡らしているのは、星屑を溶かしたように光る透明な液体だ。

 それを目にした與も、賛同するように十詞重の後ろで呟く。

「まさかこんなにも早く覚醒されるとはな」

「私も意外でした……むしろ大誤算…」

 何か小さく聞こえたが、俺はまじまじと検分されているので黙ってされるがままだ。

 十詞重は虫眼鏡も使って全身を隈なく眺め、時折チェックするように触れてくる。

「いや~。何度見ても、完璧なくらい純白で嬉しくなるね~」

「瞳は黒いままだけどな」

「そうなのさ。文献と違うのはそこだ。妖気の感化によるものなのか、それとも他に理由があるのか調べたいところだねぇ。実際、私が見た限りでは内在する氣は前回とそう変わりは無い。確かに少しはまとまり始めているけど、バランスが取れていると言ったところだね」

 京の言葉に頷きながら、十詞重はまた食指を動かされたように丹念に俺の姿を検分する。

 眼鏡と虫眼鏡のレンズ越しに、探究心に満ちた色を浮かべる翡翠色の瞳が見える。

 合わせの間から取り出した手帳に何やら書き込みながら、十詞重はあらゆる方向から俺を調べていった。

 診察と言うよりも調査に近いその間に、與は後方からアシナギ隊員に呼ばれて離れていったので、この場には対象となった俺と結果を待つ澄羽子、活気に満ちた目を向ける十詞重と、少し離れた場所でこちらを眺める京だけが残っている。

 以前にも増して熱心な様子の十詞重は、充分に時間を掛けて俺の全身を隈なく調べ終えると、満足そうに顔を上げた。

「――それにしても、まさか本当になれるとはねぇ。書物に記しておこう」

「……十詞重殿、今何と?」

「え。だから、まさかあんな方法で白鴉になれるなんてさぁ、思ってもみなかったんだよね」

「ちょっとお待ちください。ではあれは、まったくのデタラメだったのですか!?」

「うん。本当に集められるとも思わなかったし」

「私の時間と労力を返してくださ~~~~~い!」

「でも実際になれたんだから、良かったじゃないか。力を発現させた場所が【産森(ムスビノモリ)】だなんて、ちょっと出来過ぎな気もするがね。しかも満月の夜という好条件ときたら、何か意味があるかもしれない。まぁ何にせよ、実験は大・成・功!」

 高らかに宣言した十詞重の足元で、澄羽子は力なく座り込む。

 対照的なふたりの様子に、與をはじめとするアシナギ隊員達は何が起きたのかと不思議そうな視線を寄越している。

 京は話の内容を察した様子で、澄羽子を半ば憐れそうに眺めていた。

 俺は、明るく笑い声を上げて與の方へと歩き去る十詞重の後に、澄羽子の傍らに立ち止まり声を掛ける。

 努めて、やさしさと励ましを込めて。

「ま、元気を出せよ。俺だってここまで関わったからには、力になるしさ……」

「そうね……力の兆しは直ぐ側にあるんだものね。ウン」

 涙を拭うように澄羽子の右手が瞼を辿る。実際は潤んだ程度であったが。

 それを見なかったことにして、俺は澄羽子の肩を軽く叩く。

「色々話を聞いちまった手前、知らん顔なんてできないし。もう一蓮托生だろ」

「それもそうね。アナタは随分と私達に関わっているものね」

「まったくだ。必要であったとは言え、極秘事項っぽいことを明かしてくれてまで協力してくれたんだから、恩に報いないとな」

 意気込みを見せる俺の姿に澄羽子は一瞬目を丸くしたが、直ぐにその頬に笑みを浮かべた。

「ねぇ……どうしてアナタに色々と説明したか分かる?」

「え、親切じゃないのか?」

「素直で嬉しいわ」

「ってことは、別の理由があるんだな……?」

「そうよ。私は教えるのに反対したんだけど、巫女様がね、首まで浸かってもらえって☆」

「……やっぱり、巫女様はあらゆる面で最強だよ……」

 俺は力なくうなだれる。澄羽子は輝くような満面の笑顔を浮かべていた。



 いつものように目が覚めて、いつものように起き上がる。

 呼吸をするのと同じ空間。歩くのと同じ時間。変化はたった一粒の石ころ。その筈だった。

 星空を飛行した夜から、気付けば全身で世界と言う流れに呑み込まれている。

 真っ白な体も、首に掛けられた鎖も、丸くて大きな深紅の瞳にも。

 どうやら俺は、離れられないほどにのめり込んでいるらしい。


 ――でも俺、この生活が少しだけ好きになってマス。

ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます。

一先ず、ここで一部完となります。


文体も何も安定せず、読み辛くてすみません。

お目汚しで、もぅ・・・(陳謝)

それでも、主人公がまったくもって活躍できていなかったので、次回はもっと頑張らせたいと考え中です。

正直、周囲が濃すぎて「染まりやすい」ところがネックなんですが・・・。


そしてもし、この世界に興味をお持ちになっていただけたなら、励みにしたいので、是非ともご感想等をいただければと思います。

ではまた、次の機会に。。。

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