漆矢
「失礼する」
短く断りを入れて、部屋に入ってきたのは與と澄羽子だ。
昼食を終えて別館の居間で文書とにらめっこしていたところに、突然ふたりは訪ねて来た。
山吹などは、のんびりと毛繕いをしながら陽光の当たる縁側で食後の余韻に浸っていたが、慌てて室内に姿を見せた。
相変わらず無表情と言える静かな面持ちの與は、その後ろに口を真一文字に結ぶ澄羽子を従えて、室内に視線を巡らせて小さく息を吐く。
「明日、ヒラサカへ訪ねることになった。私は一足先に行っているから、京がふたりを連れて来てくれ」
「了解」
京が右手を挙げて見せると、用は済んだと與は踵を返した。
それに慌てて声を掛ける。
「あ、あのちょっとお聞きしたいんですけど、良いですか?」
「何だ?」
「ヒラサカって一体何処で、何の為に行くんですか?」
俺の質問に、少しだけ與の眉が動く。
澄羽子が一歩前に出て口を開こうとしたが、與がそれを制して事務的な口調で答えた。
「ヒラサカは、アシナギの属する組織で謂わば大元だ。神官職の者達によって構成され、生活している者達は純然たる人間。彼らが崇める……イクタマ姫が、君との面会を受けた。人との窓口を持たないアシナギでは、君の対処にヒラサカの力を借りる必要があるんだ」
(要は、力を借りるために挨拶に行くってことか?)
頼み事をしに行くということで緊張感があるのは確かに分かるが、それにしても空気が重すぎやしないか?
俺は澄羽子と京の様子を見て思う。
與は相変わらずなので、何を考えているのか読めないのだが。
(ともかく、明日大社長に会うってことでよいんだよな……)
要約した内容を頭の中で確認して、俺がその旨を了承すると、與は静かに部屋を後にして澄羽子がそれに続いた。
扉が閉まると、最初に口を開いたのは山吹だ。
「ぐわぁー、面倒な事になったなぁ!」
湿った空気を追い払うようにばさばさと両羽を広げて、山吹は頭の上を飛び回る。
俺は舞い上がる羽根を避けるようにして京の側に寄ると、窺うようにその顔を見た。
「そんなに厳しい場所なんですか?」
「ここに比べりゃ雲泥の差。格式とか伝統とかに護られて続いてきたところだからな。だけど、人間社会に対応した処理班は流石の一言だ。権力、財力余すところなく駆使したら、白昼堂々『鬼斬り』しても何事も無かったように始末できる」
「なんか、でかい秘密結社みたいな感じですね……」
「人心を平穏に保つこと。表向きはそれが奴らの役目だとか言っているけど、実際はイクタマ姫の恩恵によるものだな」
「イクタマ姫って、さっきも聞きましたけど、どんな人物なんですか?」
「ヒラサカの首領で、神通力を使えるものすんごい姫さんだ。何考えてんだか全く読めない、不思議ちゃんだけどな」
「へぇ。京さんは会ったことあるんですね?」
「厳密に言えば、俺自身が会話した事は無い。與の話じゃ面会を受けたってことだから、明日になれば体験するだろ。一人でもないし」
「一人じゃない?」
「基本的に、姫さんと会話できるのは限られた者だけなんだよ。俺達のような者が言葉を交わせるのは例外中の例外。その特例を許されるのが與の存在だ。ふたりは切っても切れない関係で強く結ばれている。だから與が必ず同席するから、安心して姫さんと面会しろよ」
軽く肩を叩かれるが、逆に俺の気分は重くなる。
自分が思っているよりも、明日の挨拶は非常に大それた事柄なのではなかろうか。
権力と膨大な財力を動かせる大企業の社長職の地位に匹敵し、さらに神通力まで使えるともなれば、その存在は単なる統治者ではなく信仰の対象と言った方が的確かもしれない。それは明らかに想像の範疇を超えた存在だ。
(むしろローマ法王に会うような、一生に一度の大事じゃないのか、これは)
ひしひしと圧し掛かってくるプレッシャーに俺が頭を下げ始めると、天井付近を飛び回っていた山吹が目の前に降り立った。
「でも、問題は姫さんじゃねぇ!」
その言葉に顔を上げると、湧き起こる鬱憤を体現するように両羽を広げ、いつになく大声で荒れた様子を見せながら山吹は続けた。
「ヒラサカの奴らは神官であることを鼻に掛けた、すんげぇ態度なヤツが多いんだ。俺たちを見下したり蔑んだり。犬とか鼠とか泥とか……とにかくヤな奴が多いってことだっ!」
片足で地団太を踏み、更には踏み潰すようにぐりぐりと回している。
余程の体験をしたのだと容易に察しが付いて、俺は宥めるように残っていたオレンジを差し出す。黒い嘴はオレンジの果汁を撒き散らしながら、それを胃に収めた。
「イイか、奴らは敵だっ。鬼霊に及ばぬ手管で俺たちを惑わす敵だっ!」
(いやいやいや。一応神官職の人間らしいから……)
山吹の剣幕に口は挟めないが、俺は心中でつっこんでいた。
「あのインテリ集団めっ! いつもいつも俺達の姿をみりゃ何とかの一つ覚えみたいに口々に同族殺しとかぬかしやがって!」
「ど、同族?!」
「奴らは俺達も鬼霊と一緒だと思ってやがんだよ。誰のお蔭で『鬼斬り』せずにいられるのか、ド頭に刻み込んでやりたいぜっ!」
オレンジの皮を例の神官に見立て、ブンっと勢い良く振り回す。
それを左手で受け止めながら、俺はまた面倒事になりそうだと心中で溜め息を吐く。
ただ、與の話ではヒラサカは人間のしかも神官職に就く人々がいるということだから、俺の現状に対しても何か良い案を出してくれるかもしれない。
あわよくば、解決方法を知っているかもしれない、と微かな希望が胸に浮かんだ。
勿論、山吹の手前そのようなことは口にできないが。
山吹の言い分からすると、随分なことを言われているようだが、相手だって大人だ。
何より『神官職』ってことは心根もそれなりの筈だろう。
だったら、神通力を持つお姫様に会うのが一番の踏ん張りどころだな。
質問とか、できれば良いんだけど……。
京から「不思議ちゃん」と称されるイクタマ姫の姿に想像を膨らませつつ、俺は調べ物を再開する。相変わらず暗号文のような字を前に、古典の教科書の方が活字であった分、日本語らしかったと思う。
古典の授業なんて退屈だったけど、これに比べればまだ分かりやすかったな……。
しみじみと、もっと真面目に聞いておくべきだったと思う。
いっそ投げ出してしまおうかと思うたび、あの日見た記憶が甦り、俺は文字を辿った。
ここで立ち止まれば、間違いなく食糧コース、別名デッドエンド一直線だ。
それだけは本能的に嫌だ。
生きるためには、やはり目の前の難関を片付けていくしかないんだ。頑張れ、俺。
自分に言い聞かせながら、俺はページをめくった。
ふと縁側から庭を眺めると、西日が差し込み始め長い影を作り、夜が訪れ始めている。
空に浮かんだ月は夕闇に寄り添うようにして南の空を渡っている。
また一日が過ぎると知り、そろそろ確かなものが欲しいと強く思う。
それから夕食を終えて居間で知り得たことなどを話している俺たちの前に、澄羽子がやって来た。
既にアシナギの戦闘員達が桃三寮から任地に出向く時刻のことだ。
昼間とは違い一人での訪問だったが、手には籐の籠を提げている。
部屋に入るなり、澄羽子は早速話の本題を説明しだした。どうやら自分も調べ物をしているらしく、そのために俺と京に手伝って欲しいことがあると言う。
「はい。俺の分ね」
差し出されたのは一本のガラス瓶。口の辺りに白い印が付けられている。
中には茶色と灰色と、幾つかの色が混ざり合って形容し難い色に淀んだモノが入っている。
揺らしてみると、ドロドロの液状のモノがゆっくりと動いた。
アメーバに似たそれは、明かりに当てると少し艶光するのがまた気味悪さを感じさせる。
蓋がしてあるので臭いは無いが、見ていて気分の良い物ではないことは確かだ。
「一応聞くけど、中身は?」
「聞きたいのなら教えるわ。でも当分食事ができなくなるかもしれないけど、良い?」
俺はぶんぶんと首を振った。今の一言で、大体の予想が付いたので。
「で、これをどうするんだよ?」
京に黒い印の付いた一本を手渡し、自分も一本持って山吹にストップウォッチを持たせる澄羽子にたずねると、満面の笑みを浮かべられた。
「実験よ」
「はぁ?」
「この瓶には特殊な物が入っていて、衝撃を与えると中身が変化するの。容量は同じだけど、作用成分が三本とも違うわ。頑張って振ってちょうだい。題して、ドロドロ■■液の入った瓶を振りまくって透明にしましょう実験☆」
赤い印のガラス瓶を持った手を掲げて、元気に宣誓された。
呆気に取られる俺の横で京は面倒そうに瓶を降り始め、澄羽子はシェイカーの要領で、両手で大きく振っている。いつの間にか山吹のストップウォッチも動き出しているようだ。
仕方なく俺も瓶の中央の辺りを持って振ってみた。中身がぺたぺたと上下に動く音がしていたかと思うと、次第にそれが軽くなり、チャプチャプと水音を立て始める。
「あ、本当に透明になった」
俺が手元の瓶を見ると、中身が透明な水のような液体に変わっていた。
液体を明かりに照らしてみると、少し赤味がかった桜色の液体で、更に振ってみるとその赤味も薄れて完全な透明に近付いていく。
「まさか、本当にできるなんて……」
「凄いな。こんな短時間で……」
ふたりの、特に澄羽子の感想には疑問を抱いたが、俺は初めて理科実験を見たときのように興奮した面持ちで瓶に見入る。
心なしか瓶の中身が輝いているようで、俺は実験作用にも興味が湧いた。
「なぁ、これって何を調べる実験だったんだ?」
「それは企業秘密よ。はい、実験は終了したんだから、瓶を返してもらうわね」
澄羽子は俺の手から瓶を取り上げ、持って来た籠にしまっていく。
見ると澄羽子の振っていた赤い印の瓶は桜色っぽくも見える乳白色で、京の瓶は紫がかっているものの透明な液体になっていた。
(ちゃんと実験だったんだな。あんなに差が出るなんて、結果が気になるけど)
軽く挨拶を済ませて足早に出て行く澄羽子を、俺は縁側からその背を見送る。
その急ぎ様から、結果を與に伝えるような気がして益々内容が気になったが、黙っていた。
翌日、與から言われた通りに俺たちはヒラサカへと向かった。
今朝も澄羽子の鎌で起こされたので、脳天に微かな頭痛を覚えながら、俺は羽扇に乗っている。その横には澄羽子が座り、京は反対側で寝転んでいる。
「――ヒラサカのある場所って、遠いのか?」
「そうね。烏森よりは遠いわね。【タカムラ】はあらゆる面で人智を超える場所でもあるし、結界も強力で清浄な場所だけど、ちょっと行くのに面倒なことには変わりないわ」
出発前に聞いた話によると、ヒラサカは本殿を中心にその辺り一帯を含む一山全てを所有しており、その地域は【竹羣】と呼ばれているらしい。
それらの情報を教えてくれたのは、今は隣で憮然としている澄羽子だ。
左櫛から発つときは、京が出した軍配のお蔭で前回よりも速く進んでいたのだが、山を三つほど越えた辺りからは普通に行けば良いからという理由で乗り換えした。
まるで鉄道のようだ。新幹線から在来線に、みたいな。
しかもその理由ってのが、あまり早く着きたくないから、という……しょうもないもので、俺は言葉を捨ててしまった。
その後暫くは景色を見たり、澄羽子が持って来ていたウサギ林檎を分けてもらったりしている内に、ヒラサカの領内に入っていた。
「――うわぁ、凄いお屋敷」
俺は眼前に立ちはだかる壮大な門構えに感嘆の言葉を口にした。
石の壁に瓦屋根の施された造りは、時代劇に出てくる代官屋敷のように重厚な雰囲気を醸し出しており、表札などの類は一切見当たらず通用門も固く閉じられてインターホンも何も無い。
「朔一、こっちよ」
澄羽子に声を掛けられて振り見れば、ふたりはその門を通り過ぎ、石壁をさらに北へと進むために歩き出している。慌てて後を追うと、京が小さく言った。
「俺達は表門から入ることを許されていない」
「え、じゃあ何処から?」
「こっち」
澄羽子に示された先を見ると、勝手口と言うよりももっと寂れた雰囲気の、即席で造られた様子の木戸がある。雑草に囲まれて、持ち手にも蔦が巻き付いている。
随分な場所から入るのだと思っていると、俺の感情に追い討ちを掛けるような対応がその先には待っていた。
一歩踏み入った所で庭先に居た家人を発見したが、彼らはこちらの姿に気付くとそそくさと走り去ってしまう。
まるで虫でも見たような視線で。
さらには屋敷の裏口に着くと、冷えた視線に迎えられた。
明らかに嫌悪感の滲んだ所作で通されて、俺も色々と気付き始める。
「泥臭いと思ったら、奴らか」
「山育ちでは、骨身に染み付いておるのだろう。血生臭さが霞んで、まぁマシだ」
外廊下を歩いていた途中で聞こえてきた声に、俺は眉を顰めた。
侮蔑の言葉が自分達に向けられていることは視線を感じることで分かる。しかしその理由が分からなかった。
「…異端者どもめが…」
不意に聞こえた言葉で、山吹の話を思い出した。自分達を見下し、蔑む態度を見せる理由に気付いたが、それでも寛容できる筈はない。
露骨な言い方で自分たちを指した人物の影は直ぐに消えたが、俺の腹には怒りが沸々と湧き上がる。
さすがに苛立ちが隠せず、口をへの字にしたところへ、初老の男が前から歩いて来た。白い着物に緑の袴を合わせたその男もまた、こちらの姿を目にして眉を動かす。
「フンっ。烏ふぜいが大きな顔をしおって」
すれ違い様に男が言った。
眉間に深い皺を刻んで俺が振り返ると、神官の姿は廊下の角を曲がって見えなくなるところだった。
「気にするなって、朔一」
「でも、あんな事を言われる筋合いって無いでしょう! 澄羽子だってそう思うだろ?」
「う~ん…もう慣れたかも」
「はぁあ?」
「だって変わり映えのしない言葉だし」
同意を求めて澄羽子を振り見れば、当人はあっけらかんとして明るいものだった。
微笑みまで浮かべられては、急に怒りも収まってくる。
(俺だけがムキになってるってことかよ……アホらしくなってきた……)
「私だって、最初は殴ってやりたくなったわよ」
「…実際にヤっちまったこともあったけどな…」
今、また武勇伝が聞こえた。いったい幾つ持ってんだよ、澄羽子は。
「ゴホン。だけどあれはただの妬みで、本当に可哀相なのは奴らなの。邪鬼を祓う能力でさえ奴らより上なのよ、私たち。つまり、ああやって虚勢を張ってしか自分の存在を認められず、浅ましいことしか考えられない奴は、同じ土俵にすら立っていなぁいの★」
言外の棘がびっしりと見えたのは、気のせいだろうか。
一瞬でも、澄羽子が自分より大人の了見を持っているのだと思った自分が可愛く思えた。
冷静な様子を見せていても、やはり澄羽子は澄羽子のままだ。山吹から聞いていた感情より遥かに厳しい目で彼らを見ている。しかも既に実行経験もあるらしい。
澄羽子の笑顔を前にすると、俺の怒りも急におとなしくなっていく。それは確かな理性が自分の中にある証で、割り切られた事柄にまで首を突っ込むほど、余裕がないからでもある。
廊下を進むにつれて、周囲の空気が冷えていくのを肌で感じる。それは気温的なものでなく、張り詰められた静謐さと呼ぶに相応しい厳かな雰囲気によるものだ。
畳張りの部屋の隅には先に與が座しており、俺を中央の座布団に促すとふたりは下がった。
話に聞いていた通り、イクタマ姫との謁見は俺と與とで行なわれるらしい。
襖が閉じられると、與は正面に下げられた御簾の向こう側、一段上がった座敷へ声を掛ける。時代劇の中でしか見たことのない、宮中の貴人と話すような形式だ。
やや間を置いて人の動く気配がして、白い薄布と御簾の向こうから声が響いた。
「こんにちは。あなたの話は、與ちゃんから聞いています。まだ高校生なのですってね」
「は、はい。初めまして。楠居 朔一です」
やばい。緊張のあまりどもってしまった。
出だしで躓いたが、俺は丁寧に頭を下げて挨拶をした。
イクタマ姫の声は鈴が転がるように愛らしく、幼い少女のように甘く脳内に響く。
「家の方に直ぐには戻してあげられませんが、生活に支障の無い程度での支援をいたします。あなたは、我々のことを知り過ぎてしまっているので、その措置を取らなければなりませんから。それに、與ちゃんの方からも提案があるそうです。先ずはお話をお聞きになって」
イクタマ姫に促されて與を見ると、俺の方に向き直った與が静かに口を開いた。
「以前に話した、鬼霊と人間の関係は覚えているな。それを踏まえて、我々が『鬼斬り』をする理由から説明しよう」
與は相変わらず感情の窺えない静かな声で、また鬼霊との関係を説明し始める。
「この世には、幾つか理がある。その内の一つが、このヒラサカに根付いているものだ」
「信仰とかではないんですか?」
「似ている部分があるかもしれないが、我々は思想や信仰心でここに居るんじゃない。理念と条理によって存在している。……君は、人間の生まれる理を知っているか?」
「いいえ。分かりません」
「人間は、一日に1000の命を黄泉に還され、1500の命が世に産まれると言う。これは、神々が告げた言葉によって実現される理なのだそうだ。実際に数えたことはないから、その証拠などはこの際確認できないが、我々もまた、その理の一部として誕生した訳で…――」
「待ってください。前に聞いた説明とそれが事実なら、鬼霊も一日に1500、誕生するってことですよね?」
「その通りだ」
與は静かに俺の言葉を肯定した。御簾の向こうで小さく感嘆の溜め息が零れる。
「一日に1000の魂を送り、1500の魂を授かる。ふたりの神様が告げられた此の言葉の内の、1500の魂を誕生させる行を『イザナギの誓言』と称して、我々はその理を守るのがお役目なの。でも、ここで鬼霊の存在が問題となるわ」
「そもそも鬼霊は人間を喰らう。増え続けられては困るし、例え理に則していたとしても、誕生する筈の魂を喰らわれては堪ったもんじゃない。何より、喰らわれた魂が鬼霊と融合するともなれば、理が揺らぐ。だから我々のような『鬼斬り』が誕生した」
「ただ、人間に害があるからって訳じゃなかったんですか?」
「突き詰めれば同じことだ。ただ、このことは理に従う任を与えられていながら、生命を奪う行いを正当化するための綺麗事だ。しかし現実問題として、鬼霊が人間にとって害を為す以上、我々は倒し続けなければならない。全ての鬼霊に手が回せるわけでも無いが、これが現状だ」
「でも、必要なことであることに変わりは無いわ。それに、言葉以上にとても苛酷な所業よ」
愛らしい声音が、重さを含んで俺の胸に響いた。
苛酷な所業。
鬼霊を倒す場に何度か居合わせたものの、俺には大変な事態はまだ目にしたことが無い。
それでも、魂を喰らう鬼霊を倒すことがいかに大変かというのは、薄々感じる部分がある。
與や御簾の向こうの姫の言葉から、それが表面的な部分だけではないことも。
「……それで、俺に提案っていうのは一体何ですか?」
「結論から言うと、君の持つ性質のひとつ、浄化の能力を貸して欲しい」
「浄化の能力?」
俺が不思議に思って聞き返すと、静かに頷かれた。
(でも、前に聞いたらアシナギにだって治療部門があって、その者たちは浄化や治癒の能力を持っているって話だったよな……なんで俺?)
「我々は先に話したように、『鬼斬り』を毎晩行なわなければならない。しかしそうして多くの瘴気、邪気に触れ続けた者の中には、穢れを受け過ぎて己を見失う者も少なくない」
「つまり、鬼霊に近付きすぎて、鬼霊になるかも知れないってことですか?」
「そうだ。木乃伊取りが木乃伊になることは、実際に起こる。鬼霊との闘いで傷を受けたり、その血や体液を浴びたりすることが起因の一つと確認されている。そこで必要となるのが浄化の力。我々にもその専門部署を設けているが、手が追いつかないんだ」
「でも俺、そんな力は持っていませんよ?」
「いいや。『白鴉』の性質の一つとして既に昨夜、内在している事が確認できている」
(昨夜って……あの「ドロドロ液体の入った瓶を振りまくって透明にしましょう☆」とか言う澄羽子の実験のコトか?)
思い当たる節が浮かんで、俺は自分が試されたことに気付いた。
どうやら最初に言っていた「作用成分」というのが、自分たちの浄化能力だったらしい。
それで、與はその実験結果から俺の中に能力を見出し、手を貸すことを望んでいる。
確かに何もせず世話になるよりは、役に立つ術があれば心苦しさが軽減できる。
だがそれは、果たして俺が戻ることを前提としたものなのだろうか。
「君が、元の生活に戻ることを第一に考えたい気持ちは解っているつもりだ。それでも、君の力によって救われる存在がいるということを知っておいて欲しい」
まるで俺の心の中を見透かしたように與が続けた。
それを聞いて、俺はずるい人だと思う。鬼霊と人間の関係、そして鬼霊を斬る理由とリスクを話して必要性を訴え、手助けを要求している。
それらを踏まえて断れるほど、俺は冷徹ではない。ましてそれに対する報酬を求められるほど、図々しくもなれなかった。
気持ちの上では、押され気味である。しかしそこへ與は一押しするどころか、引いてみせた。
「ただ、この件を断ることも君には許されている」
思わず目を見開いて與に向けると、真っ直ぐな視線のまま返される。
「身の安全も保障するし、家に戻りたいと言うのならばそれも構わない。つまり、君が現状に於いて選べる道は三つあるということだ。一つは澄羽子をはじめとする我々アシナギと行動を共にすること。ただしこの場合、君の浄化能力を我々は利用させてもらう。二つ目はこのヒラサカに保護されること。三つ目は、自分は元より周囲の危険を承知した上で、元の生活場所に戻ること。いずれの場合でも、可能な範囲にはなるが、身の安全は守る。以上だ」
はっきりとした口調で、與は選択肢を提示した。
決めるのは飽くまで俺自身だと目線で投げ掛けてくる。
俺の本心は、当然元の生活に戻ることで、それが難しいことだとは十分に分かっている。ある程度の危険に対してもそれなりに理解をした俺だが、一つ目と二つ目の違いがまだよく解らない。今分かるのは、ヒラサカを選べば澄羽子とは別行動になる事くらいだ。
「――…ヒラサカでの保護を望むのなら、それでも構わないのですよ」
「え?」
「與ちゃんの頼みでもあるからそれなりに準備はさせるけれど、あなたは神官衆とは別だから、離れに暫く待機していてもらうことになるでしょう。それから、許可できるのは離れ内での行動のみ。食事は勿論運ばせるけれど、外部との接触は極力控えてもらうかたちになります」
鈴の転がる声音が伝えたのは、軟禁に近い内容だった。
直ぐには内容を信じられず、横に控える與へと俺が視線を投げると、その疑問を察した與から答えが返された。
「概ねの生活はその通りになるだろう。最も安全な場所だが、それゆえ君の自由は制限させてもらうということだ」
静かな口調で要点をまとめると、與は瞼を伏せる。これ以上は、答えだけしか聞かない意思表示のように。
まさかこんな決断を迫られるとは予想もしていなかっただけに、俺は天を仰いだ。
しかし理解するよりも、ただの消去法で進む道は決まっている。導かれるというよりも、前もって標識でその道を示された形だと思う。
與の話法は何となくその態度に合っている気がするが、「不思議ちゃん」である筈のイクタマ姫までがそれを援護するようなタイミングで、少々見識を改めなければならないと思う。
結局、このふたりも似た者同士って話かよ……上に立つ人間ってカテゴリーで。
「時間が、必要かしら?」
言葉は意思を窺うものであるのに、甘い筈の声音が急かす空気を纏って届く。
先刻までは親しみ易い声であったが、その変容に答えを押し付けられているのだと悟った。
「俺は……安全な方を選びたい」
軽く息を吐くように、俺は口を動かした。
「だから、アシナギでの生活を選びます」
明瞭な声は御簾の向こうにも届いた。
イクタマ姫は満足気に喉を鳴らすような笑みを返す。
敷かれたレールに乗った気がするが、それでも自分が選んだのだと俺は拳を握った。
本心を言えば、まだ揺れ動いている。この一歩は、俺の生活を確実に変えるものだから。
しかし甘い声が背中を押した。
「あなたは、最良の盾を選びました」
たった一言であったのに、その言葉は俺の迷いに終止符を打った。
そして與は静かに前を見据えて立ち上がると襖を開いて、控えていたふたりを招き入れる。
「詮議の結果、我々が世話をすることになった。詳しい内容は、本人から聞くと良い」
「は、畏まりました」
「それから、仮にも人間である者をアシナギで預かるのだから多少の噂は立つだろう。それにヒラサカが対応することは、我々への配慮として、控えていただけるらしい。だから、皆にもこの件が伝わること、心するように」
「……ご随意に。それは全て覚悟の上でございます」
「イクタマ姫からの御言葉は以上だ」
與からの口上が終わると御簾の向こうで立ち上がる気配がして、遠ざかって行く。
最後に與は澄羽子に向かって言葉を掛けた。
「澄羽子、対応に関する諸注意は追って連絡する。詳しい事とお前の考えは向こうで聞こう」
「はい。お手数をお掛けいたしまして、申し訳ございませんでした。巫女様」
「前にも言った筈だ。結果で応えろ。今日はもう戻りなさい」
「はい。有り難う御座います」
「君も、一緒に言って良いぞ」
「はい。失礼します」
座敷から下がる澄羽子に続き、俺もその場を後にした。
去り際、與から京に声が掛けられて振り返ると、渡すものがあると言われて京は後から帰ることになった。
與の後ろに黒い道着姿の人物が控えていたので、俺は客人がもう一人いたことに初めて気が付いたのだった。
何やら自分に視線が向けられている気もしたが、澄羽子が歩き出したのでそれに続く。
そして来たとき同様の見送りを受け、羽扇に乗ってふたりでアシナギに向かった。
道中、てっきり事の成り行きを聞かれるかと思ったのだが、澄羽子は何も聞いてこなかった。
俺がそれとなく話しかけても、「巫女様がお許しになったのなら、間違いなど無いわ」と当然のように返された。
例の実験もあるので、與の意向や謁見内容に多少の推察があるんだろう。
だからきっと、敢えて話す必要などないのだと俺も黙っていた。
何よりも、澄羽子は経緯に対して興味を示していない上に、俺がこちら側にくることを読んでいた様子だ。
なんだか思い通りに事が運ばれている気がしたが、澄羽子が用意していたお茶セットで一服していると、それも流れの一つだと受け入れていた。
湯飲みに温かな抹茶ミルクを注ぐ澄羽子の機嫌が良さそうになったので、俺は気になっていたことを聞いてみることにした。
「なぁ、巫女様が『皆にも』って言っていたのって、誰?」
「外の地域にいる者たちのことよ。主に山向こうの臣たちのことね」
「オミ?」
「他にも神剣守と傀儡師衆って言うのが属しているの。その中にもさらに本家と分家とか色々あるけど。因みに、さっき巫女様の後ろに立っていたのが、神剣守の人間よ。袴帯に一門の紋章を提げていたから」
「ふーん。だから少し、ヒラサカの人と雰囲気が違ってたのか」
「ええ。元々は三派で成り立っていたらしくて、鬼斬りの殆どは傀儡師衆が行ってたの。でも当然、姫の周りにだって鬼が出現する。それを討っていたのが烏森一派。お蔭でヒラサカの下だと思われることも多かったけど、住処の道筋上でのことだから特に気にしていなかったのよ、ウチは。だけど例外的に鬼斬りをしていたせいか、ヒラサカは烏森を邪見にして、何度か衝突して互いに牽制し合ったと言うわ。それを巫女様が京殿を連れて烏森の長老様たちと話し合ったの。あの時の御姿は今でも覚えているわ…目を閉じると直ぐ浮かんでくるくらい…――」
「おぉい、戻って説明を続けてくれ」
胸の前に両手を組んで、うっとりと目を閉じた澄羽子はそのまま妄想世界にまっしぐらだ。手遅れになる前に声を掛けると、拗ねた口調が返される。
「んもぅ。乙女心を理解できない奴ね。思い出に浸るくらい大目に見て欲しいわ」
「それで、巫女様が来てどうなったんだよ?」
「アシナギを創設された。烏森の中で武闘派を中心に集められて、新しい勢力をお創りになったの。初めは渋っていた長老様たちも、烏森の存続を考えてのご英断だった。互いの利益が一致したからだって巫女様はお話しされたけど、烏森は巫女様に救われたの。あのまま鬼に食われるか、もしくはヒラサカに討たれるかの瀬戸際だったの。それくらい世界は変わってしまっていたのよ……」
知らない世界のハナシだ。
一族の存続とか種の違いなんてことは、縁遠い話だと思っていた。
むしろ動物達に関係したもので、自分たちが関わることなんて無いと、何の根拠も無い自信があった気がする。
珍しく静かな澄羽子の声が、逸らされた視線が、体験者の重みを示している。それが無性に俺の胸を掻き立てた。自分の知らない感情だ。
「……烏森の男達は元から、その性質を保つためにある年齢に達すると、天狗様の許で修行を積むのが習わしなの。だけどその慣習が、彼らを使役獣として捕縛される結果を導いてしまったわ。次第に烏天狗の力に頼りきった闘いをする奴らが増えて、しかも奴らは危なくなると使役の契約を断って逃げ出した。自分の力で立ち上がれないというのも恥ずかしい話だけど、契約により妖力の底上げをしていた烏天狗にとって、それは敗北に繋がるのが必然。でもそんな仕打ちを受けてもなお、人間との共存を続けていかなければならないのが現実。追い討ちを掛けるように、使役する側は己の力を衰えさせ、烏天狗は危険地に赴き数を激減させた。それは鬼霊の蔓延る世へと進んでいくのを意味していたわ。だから私達女も、烏森を護るために立ち上がり、鬼霊を討った。ま、それがヒラサカにとっての癇に触ったらしくて、私達を駆逐しようって流れになった。結果、私達は両挟みの中で窮する形となっていたの」
以前に京から聞いた「女が多い」理由を、澄羽子の話で初めて知った。
あまりに繊細な内容に、質問したことを少し悔やみそうになるが、俺は重くなった空気を払拭するようにわざと声を明るくして言った。
「でも、良かったな。結局は與さん…巫女様が来て、アシナギを立ち上げてくれてさ。お蔭で烏森の皆も存続していけるようになったんだろ?」
「うん。……だけどそれは、当事者じゃない者の驕りよ」
澄羽子の眼が深紅の色を煌かせた。
「確かに良かったことだけど、犠牲が無かった訳じゃないの。皆のことを考えれば良かった、の一言では片付けられない」
「………」
「朔一の気持ちは解かるわ。だからこれは、ただの八つ当たり。気にしないで」
澄羽子は困ったように笑いながら、湯飲みに手を伸ばす。そして飲むでもなく、両手で揺らして残った抹茶ミルクをくるくると掻き回している。
気にするなと言われても、何か声を掛けたくなる雰囲気だ。だが一言で励ますと言っても、更に気持ちを沈ませてしまいそうで言葉が出ない。そもそも、澄羽子が喜びそうな話題と言うと、與に関したものしか浮かばない。
頭の中をフル回転させるがなかなか言葉は浮かばず、沈黙に耐え切れなくなった俺はそのまま静かに口を開いた。
「犠牲になった人たちには失礼かもしれないけど、生き残る道を選べたことは、良かったことだと感謝して良いと思う」
俺の言葉に澄羽子は一瞬眉を顰めたが、黙っていた。
「俺から見たなら、澄羽子に会ったことだってアシナギ設立があってこそのことだろ。だから俺は自分の気持ちを変える気は無い」
逸らしそうになる視線を真っ向から見詰めて、言葉を続ける。
「生き残って、人と会って話をする。そうした道が拓けたことは良いことだろ。だからって犠牲になった人たちを蔑ろにするんじゃなくて、その人たちを覚えておくために前に進む。そうやって顔を上げるために、まず気持ちを上向きにしろよ。……でなきゃ失礼だろ」
「……ありがとう、朔一」
「お礼を言われるようなことは、言ってない」
「でも、考えてくれたことが嬉しい。だから、ありがとう」
「まぁ……気分が浮上したなら、良かったよ」
自分が伝えたいことは、半分くらいしか言葉にならなかった気がする。
話しながら思いを表現しようと言葉を探して、口に出してみても上手く形を描けなかった。それが恥ずかしい。いい気になってしまったようで。
でも澄羽子は、笑顔を浮かべてくれた。少しだけ深紅の瞳を潤ませ、白い頬を桃色に染めて。
何を言っているんだ、と沈み掛けていた気持ちが浮上して、なんだか照れる。
それは澄羽子も同じだったようで、一気に湯飲みを呷りはにかんだ様子で話を再開させた。
「えっと……。話が少しずれてしまったけど、烏森とヒラサカの関係は解ったかしら?」
「大体は……両者に深ぁい溝という過去があることは、解った。でも、どうしてヒラサカに組みすることができたんだ? 神官側って潔癖そうだしさ」
「そうねぇ。多分私達の性質が関係すると思うわ」
「性質?」
「私達は、妖力を身に宿していても神獣属に近いと言われていて、ヒラサカはそのために鬼霊として討つことはできず、私達は逆にその誇りがあるから、人間に手を出すような真似はしなかった。だからこそ割り切れない部分があったのだけど、そこに一石投じたのが巫女様」
澄羽子の瞳にまた、小さな光が浮かび上がる。それは喜色にも似て紅い瞳を輝かせた。
「先にも話したとおり、烏森にいらしたときの巫女様は本当に凛々しく、神々しかったのよ。京殿を連れていたと言うのもあるだろうけど、正に救世主と言うのが相応しい出で立ちで、長老様たちもお話し合いの席を設けた。その結果、巫女様と結託したとみなされたわ」
「それが、現在のアシナギの位置か」
「ええ。不本意ではあるけど、ヒラサカの軍門に入る形ね」
うんざりとした様子で澄羽子は二杯目の抹茶ミルクを湯飲みに注ぐ。
確かにあのような対応をしてくるヒラサカに対して、良い感情を抱けと言うのは無理な話だ。
しかしだからこそ、性質上の理由だけでヒラサカ側が受け入れたことが疑問に感じる。もっと別の何かが関係しているような気がしたが、俺はそこで踏み止まった。
自分のこともまとめきれていないのに、他人の内情に首を突っ込んでいる場合じゃない。
俺にはまた、新たな『役』が割り振られたんだ。
與との会話を振り返っていた中で、浄化能力の件を思い出す。
アシナギに世話になるという場合は、その能力を使わなくてはならない。
一難去ってまた一難。
俺は自分で選んだものの、元に戻る気持ちとは離れた決断だったのではないかと早くも後悔しそうになる。とそこで、澄羽子の実験を思い出した。
「そう言えば、澄羽子も京さんも浄化能力を使えるんだよな?」
「突然何を言い出すのよ……」
「昨日の実験、あれが能力を確かめるものだったって與さんが教えてくれたんだ。確か澄羽子の瓶も変化していただろ?」
「それはまぁ。作用に個人差はあるけれど、使えるわね。でもどうして?」
「アシナギで世話になるなら、その能力で協力するって話になったんだけど、使えるって知ったのもついさっきだしさ。修行とかした方が良いのかなって」
「うーん。そういうことなら、補助道具を貸してあげるわよ」
「良いのか?」
「ええ。巫女様のお考えなら幾らでも貸してあげる。…能力値アップにも繋がるし…」
何か本音らしきものが聞こえた気がしたが、アシナギ本部のある左櫛の切り立った崖が見えて来たので、話はそこで強制的に(澄羽子によって)打ち切られた。
ヒラサカから戻った俺たちは、別館で待っていた山吹に事の経緯を簡単に話しながら、少し遅い昼食を摂った。
アシナギでの生活を選んだ俺に、山吹は両羽広げて歓迎の舞を披露してくれたのだが、その中で「ヒラサカに勝ったぞ!」という妙な一言があったことは、俺の耳を右から左に流して聞かなかったことにしておいた。
その後、澄羽子から浄化能力の補助効果があるという呪布を借りた俺は、テーピングの要領で掌に巻いてみることにした。心なしか、掌中心に温かな力が集まる気がする。
先ずは掌に浄化の氣を集中させて、呪布に書かれた文字の色を黒から赤、青へと変えるのが初歩練習で、一緒に渡されたルービックキューブのような立方体の中に浄化の氣を送り、思い描いた物体をその中で作れるようになるのが最終目標らしい。
早速試してみると、呪布の文字が黒から赤、そして赤から紫色までは何とか変えることができたのだが、それも僅かな間で、直ぐに黒色に戻ってしまった。澄羽子の話では、変化させてある程度維持することも初心者には難しいらしい。
山吹は歓迎の舞から応援の舞に切り替えて、縁側に立っている。正直な部分で言えば、少し静かにして欲しかったが、気持ちは嬉しかったので黙っていた。
結局その日は上手く維持することはできず、夜を迎えた。
翌日の昼過ぎに與と京が帰ってきて、正式にアシナギでの暮らしを送る旨を通達された俺だったが、既にここでの暮らしに慣れ始めていたので、大きな変化はなかった。
今更ながら、自分の順応性に驚かされる。
……図々しいとか思われてたらどうしよう……。
だが俺の心配もよそに、相変わらず時は流れていった。
それから五日後の夜、俺は部屋を抜け出して別館の屋根の上にいた。
今夜は雲の流れが速かったが、月は静かな光を俺に注いでいる。
少し前の雨の日に、雨漏りを直すことになって屋根に登ってから、俺は独りで集中したい時にはこうして屋根の上で能力の修行に精を出すことにしたんだ。
ただ、山吹は勿論、京や澄羽子は道具など使わずとも屋根に上がれるのに、何故ここに梯子があるのかと不思議に思ったが、それよりも独りになれる場所に来られるので、直ぐにその疑問も薄れた。
しかし当然ながら、同居人に俺の居場所は知れているので、時間が長くなると、どちらかが様子を見に来ている。
案の定、今夜は京が屋根に上がって来た。
「どうだ、調子は」
「……まだまだ思うようには行かないです」
俺が掌から顔を上げると、京は小さく笑いながら隣に座った。
修行の成果を聞かれて力なく返すと、京は軽く肩を叩いて励ましてくる。
「まぁ、初めからできたら道具も開発されないさ。でも浄化能力は治癒にも活用できるから、結構重宝されるぜ」
「そうなんですか。俺としては、まだピンとこないんですけど」
「普通の生活を送ってきた奴なら当然だ。お前の場合は特に、能力の影響力が大きいから安定させるのは勿論だし、精神集中してコツを掴むまでが大変だと思う」
「京さんもやっぱり、術を使うのって修行とかしたんですか?」
「う~ん。俺はそう言うのしてないからなぁ……」
「え、修行とかせずに使えるんですか?」
「澄羽子だって、持って生まれた能力はそうだな。人間が立ったり歩いたりするのと同じだ」
「へぇ。潜在意識で自然とできる感覚なんですかね」
「そうそう。改めて、こう頭で考えるよりも身体が自然に動くんだよ。勿論術式とか詔とかもあるけど、基本は本能だな」
聞けば聞くほど、自分に課せられている事柄が複雑で難しいことのように思えてくる。
頭でどうこうできる内容ではないと分かっても、やはり思い通りには動けない。精神を集中しようとすればするほど、気になることや考えたいことが浮かんでくる。
俺は、今夜はもう休もうと決めて手に巻いていた呪布を外した。そして、横に寝転ぶ京に話し掛けるでもなく、夜空に溶け込むような声で呟いた。
「前は、自分にも何か役目があるとイイな。とか単純に考えていましたけど、こんな重い役割はちょっと遠慮したかったかもしれないです」
「ふ~ん。使命とか役目とか、そんなに良いもんかねぇ」
上半身を起こしながら、京は漆黒の髪を風に揺らして応える。
「一番分かり易い自分の価値だと思いますよ。俺は基本が群集だったし、主役とか言うんじゃなくても、村人Aって言うよりは役を持っていたいと、思ったことがありました。だから、今は複雑です。慣れていないって言うのか、憧れと不安が一緒にあるような感じです」
俺が遠くに視線を送りながら言うと、京は少し静かな口調で聞いてきた。
「役割なんてモノに、お前は縛られたいのか?」
「……無いよりは、マシだと思います」
「そうかねぇ。生まれた時に皆それぞれ使命を持っているとか、人には必ず役目が与えられているとか言う奴がいるけど、俺には下らな過ぎて笑える」
(それは自分が役目を持っていたからじゃないか……?)
妬みに似た感情が、言葉となって胸の中で浮かんだ。
「今、自分が役目を持っているからだ。とか思っただろ」
「別に――」
「俺だって思ったことがあるし、それで構わない。でもじゃあ自分の役目って何だ?」
「俺の場合は……普通に学校行って、普通に働いて、普通に生きる…?」
「それって役目かよ」
「長いものには巻かれる主義なんで」
語尾が疑問系になってしまったが、俺にとっては考えて出した答えに軽く笑い返されて、少しムッとした。京には自分のすべきことが見えているから、余裕を見せていられるのだ。
実際、澄羽子にはアシナギの一員として鬼を斬り、白鴉を目指すこと。それは與の役に立つためという使命からくる役目だ。
さらに與やヒラサカの姫などは、その身に背負う使命は人類存続という大規模なものだ。
偶然とは言え、それに巻き込まれた自分に皆のような役割があるのかは、正直不明だ。
「澄羽子や與にも役目があると思っているかも知れないけど、それって全部後付けだろ」
「後付け?」
「確かに、與は誕生した時点で役割を与えられちまっているけど、アシナギの首領という役目や、澄羽子の烏森を守る役目は、自分の気持ちから生まれた役目だ。そういうのが全て仕組まれていたことだとかぬかすなら別だが、つまりは自分で選んだ道と配役じゃないのか? お前だって、巻き込まれたにしろアシナギを選んだのは自分だろ。ヒラサカの監視下で守られる方より、自分で立つ方を選んだ。そうだろ?」
「確かに、自分で選んだ事ですけど……」
「だったら道の先を見ろ。役目が必要だと思うんなら、自分で付けちまえ」
「そう簡単に行けば、悩んだりしませんよ」
「はは、そりゃそうだ。突然の変化に悩む気持ちは解らないでもないんだが……。まぁ俺より與から聞いた方がお前には実感できるかもな。何てったって似た境遇だし」
「似た境遇?」
「そ。與もちょっと前までは普通の人間生活を送っていたから」
「えぇ!?」
今、とんでもないことを言われた気がする。あの日と違って目が覚めている頭なら、反芻する必要もないけれど、頭の中で京の言葉を繰り返す。
同門らしき人からもその性質を畏怖され、「何でもあり」なら負けなしと言われるアノ人物が、自分と同じ人間だったなんて言われても直ぐには呑み込めない。
そもそも、普通に暮らしていた姿が想像できないし。
開いた口が塞がらず、京を凝視していると苦笑が返された。
「マジな話だよ。当人にそれを隠す気は無いようだし、簡単に聞けると思うけど……」
「けど?」
「そこに至るまでが面倒かも」
(そんなに気難しい人なのか? 話した時には、案外面倒見が良さそうだと思ったけど)
「――京」
不意に下から声が掛かった。見れば噂の人物、與がこちらを見上げている。
「仕事だ。出るぞ」
宵闇に良く通るその声は、短く用件だけ告げて踵を返した。どうやら実地に出向くらしい。
「アノ通り忙しい…っていうか自分から突っ込んで行くから、俺の主は」
京は「じゃあな」と右手を上げて與に続いて行く。その姿があまりに楽しそうだったので、俺は手を振って見送りながら笑ってしまった。
アシナギは巫女様である與を慕う者達が多い。澄羽子などは心酔しきっている筆頭だ。
そして最も側にいる京もまた、例外ではないらしい。
あのような人物が自分と同じ境遇を経たとはまだ信じられないが、思い出してみると、與の左眼は澄羽子たちのような深紅の色をしていなかった。
実際に羽扇を使っている場面にも、妖術などを使っている場面にも遭遇していないが、確かに與は帯刀していることが多い。
苦無を隠し持っている澄羽子でも、愛用武具・瞳白は妖力によって現出させているから、その点が違いとして挙げられるくらいだ。
だがしかし、普通の人間が『鬼斬り』を行なえるのか疑問として残る。
(あ、でも「似た境遇」ってことだから、今は人間じゃないのか……?)
京の言葉を思い出して、俺は自分の知っている現在の與の様子に納得を示した。
「だからかな、俺を見ても結構冷静だったのって……いや、やっぱりアレは性格だな」
浮かんだ疑問に自分で答えを打ち付けて、俺も屋根から下りた。




