陸矢
斯くして、俺はアシナギの桃三寮に用意された一室に戻ってきた。
澄羽子の先輩で御側衆の一人である叉羽子のペットである山吹を連れて。
窓の外を見れば、太陽は中天に掛かっている。眩しさに目を細めながら、俺は倒れ込むようにしてベッドに寝転がり瞼を閉じた。
やわらかな感触に身体を包まれて意識は先刻の話に向けられていく。
與や京、そして澄羽子の姿が浮かんで口々に言葉を投げてくる。
一気に膨大な情報を詰め込まれた脳内が、ぐるぐると渦を巻いて溶け込んでいた。
(あ~頭ん中がマーブル……)
俺は本当に、元に戻れるのか? それ以前に、無事でいられるんだろうか……。
後ろ向きな思考が浮かんだが、霞がかった頭の中ではそれも直ぐに形を潜めていく。
そう言えば、今朝も澄羽子のはた迷惑な行動で寝不足気味だった。
俺は誘われるままに力を抜いて、布団に潜り込む。
差し込む陽光が目に痛かったが、それすら気にならないくらいの早さで眠りに入って行く。
サイドテーブルの辺りで山吹が何か声を掛けてきた気がしたが、既に体は寝てしまった。
「……う~ん。話に聞いた通り、随分豪胆な奴だな……見た目、エノキ茸みたいなのに」
寝息を立て始めた頭の上で、山吹は感想を口にする。
(またキノコ扱いか……どうせなら1upに変化してみっか、頭緑に染めて)
ぼんやりとそんなことを考えている俺とは別に、山吹はじろじろとこちらをのぞきこんでいた。
見れば見るほど不思議な色合いだと、白いシーツに広がる髪の毛に見入る。
毛先は純白と言える程で、根元は乳白色のようにやわらかな光を放っている。
こんな色を山吹は見たことがない。
話に聞いていた『白鴉』の色らしいが、それよりも白兎のようだと思う。印象があまりにも弱々しいものだったからだ。
天狗族に育てられた山吹は、人間と呼ばれる存在は腐るほど見てきた。人里に近く人間社会からも程近い場所で暮らしていたこともあり、それこそ鬼霊よりも多くの数を見た。そんな彼らと外見以外は何ら変わりはない。
山吹からすれば脆弱な生き物に他ならないのだ。
何よりも、澄羽子に下僕と紹介されても異論を口にしなかったのが決定的だ。
意味を知らない程の愚か者なのかとも思ったが、そんな奴を澄羽子が連れていることなど有り得ないから、それを甘受しているのだと考えた。
仮にも天狗族の一員として生きる山吹は誇り高い。だからその矜持を持たぬ姿に蔑みさえ覚えたのだった。
しかし由翬子の話によれば、鬼霊を目にしても大声を上げたり激しく混乱した様子を見せたりなどしなかったらしい。
その上こちらの説明を黙って聞くと言う懐の深さも垣間見せ、堂々とこの桃三寮にも踏み込んだらしい。この、強固な結界の敷かれた寮内に。
常人ならば体調の異変を訴えてもおかしくない程、この地は妖気が渦巻いているというのに、だ。
「実は、すんげぇ力の持ち主とか……? んな訳ねぇな」
大福餅のような頬に白い睫が影を作っている。閉じられた瞼を見詰めながら山吹はひとりごちる。
嘴で髪の毛を引っ張ってみても動かない。興味が一気に萎んでいく。
浮かんだ期待を自ら否定して、窓際で日向ぼっこするように羽を閉じた。
窓の外を見れば、中庭にアシナギの構成員達が数名たむろしている。
時間的に言えば、まだ戦闘に参加できない訓練生や新米の候補生たちだろう。叉羽子や由翬子をはじめとする御側衆に、澄羽子の属する武闘員達は、鬼霊の活動が夜間で人間が寝静まる頃という理由から、今の時間は殆どが寝ている筈だ。
それは昨夜岩原に出向いた山吹も例外ではなく、横から規則正しい寝息が聞こえれば、子守唄のように届いてくる訳で…――。
次第に山吹もうとうととし始め、室内にはふたつの寝息が漂うようになる。
そんな中、俺は夢の世界でもやはり澄羽子と與に囲まれて話を聞かされ続けていた。
しかも澄羽子には『白鴉』の要素を渡して欲しいと詰め寄られ、泣き出される始末。
「――…分かった、分かったから。俺も協力するから……」
「どんなことに協力してくれるの?」
「……そりゃ、『白鴉』の力をお前が使えるように……?」
「あら、具体的にはどんなことをしてくれるのかしら?」
「……できる範囲でなら、お前の言うことを聞いてやるよ……」
「今の言葉、忘れないでね。朔一☆」
澄羽子の声があまりにはっきりと聞こえて、ハッとして目を開ける。
最初に視界に入ってきたのは、笑みの形に細められた深紅の丸い目。そしてそれが澄羽子のものだと気付いて、俺は瞬時に起き上がった。
瞼を擦っても澄羽子の姿は消えず、人影はゆっくりと窓辺の椅子に腰掛けた。
夢の中とは対照的に楽しそうなその様子に、俺は冷えた汗が背中を伝うのを感じた。
俺は今、何かとんでもないことを口にしてしまった気がする。
生唾を飲み込むと渇いた喉がひりひりした。俺は記憶を辿りながら口を動かす。
「澄羽子、いつからそこに……?」
「ついさっきよ。夕食と山吹への届け物を持って来たの」
「寮内を教えてやろうと思ってな、見取り図を頼んだんだよ。社内は出入りできても、寮内は許可されていないからな」
「そ、そうか……ご苦労だったな」
「ううん。お蔭で良いコトがあったし、どうって事ないわ」
山吹はサイドテーブルに置かれた巻物を足で掴んで見せた。中身は見取り図ということで、少々気になったが、今はそれどころではない。
澄羽子の言葉を聞く限り、俺の予感は当たっているようで、方向的にどうしようもなさそうな匂いがする。
しかしそれを敢えてこの場で確かめるのも恐ろしくて、俺は自らに暗示を掛けた。俗に言う、現実逃避だ。
(俺は何も言っていないし、澄羽子も何も聞いていない。アレは夢で、現実は何も変わってなどいないんだ。そうだ。俺は泣いていた澄羽子を宥めるために言ったのであって、今目の前に居る澄羽子には泣いていた様子など微塵も感じないから、関わりは無い。ウン)
ふたりから顔を背けて自分に言い聞かせている俺に、山吹は不思議そうな視線を投げ掛けているが、澄羽子は変わらず喜色の笑顔を向けていた。
妙な視線を感じながらも俺が黙っていると、突然澄羽子が立ち上がった。
「それじゃ、そろそろ行くわ。一応、お客様扱いということだけど、くれぐれも粗相のないようにね。山吹も、あまり食べ過ぎないようにしないと、叉羽姉に叱られるわよ」
嬉しそうな笑顔をそのままに、澄羽子はスキップでもしそうな足取りで部屋を出て行った。
(やっぱり聞かれた……よな)
微かに沈んだ気持ちでその背を見送り、俺は夕闇に染まる空を一瞥して障子戸を閉めた。
大きく深呼吸を一つして顔を洗いに行き、テーブルに用意されていた夕食を摂る。
隣では山吹が、くし型に切られたオレンジを嘴で器用に食べている。
その光景に思わず見入ってしまうが、昨日の体験や與から説明されたことと比べると、そのインパクトも薄らいだ。
――慣れ過ぎだろ、自分。
自分を振り返ると長い溜め息が漏れた。ここまでの道のりを顧みるたびに、自分の順応力に驚かされる。それと同時に、随分長く関わっている気がした。
(そう言えば、何時くらいなんだろう?)
この部屋には時計が無い。勿論テレビやラジオ機器の類、電話も見当たらない。
室内の様子からすると電気は通っているようなのだが、通信手段となる文明の利器は一切無い。
現代人にしては珍しく、テレビから離れた生活をしていた俺にとってはあまり苦ではないものの、連絡手段が無いことと時間を知ることができないのは不便に思う。
太陽と月の動きで時間を知るような、原始的な手段は御免被りたいなと思いながら、俺は山吹に訊ねた。
「あの。今って何時くらいですか?」
「う~ん。大体夜の七時過ぎくらいだな、俺様の体内時計だと」
(体内時計って……合っているのかさえ分からん)
確かめようのない答えを返されて、俺は干し杏に嘴を刺している山吹に今度ははっきりと物を指して訊ねる。
「時計とかは、ないんですか?」
「ん。あぁ~この部屋には置いてないだけだ。寮の正面には天球儀と一緒にある」
「……何でこの部屋だけ?」
「この部屋がっていうより、基本的に備え付けな物じゃないってだけ。あ、それから。普通に喋ってイイぞ。俺様は心が広いからな」
「……どうも」
考えてみれば、カラスに丁寧語っていうのも可笑しな光景だった。
俺は直ぐに気を取り直して山吹を見る。
「えっと。確か山吹は叉羽子さんの……」
ペットと言うのが憚られて言葉を濁すと、山吹が顔を上げて胸を張るように居住まいを正しながら俺を見た。
首から提げた琥珀色の勾玉がキラリと光る。
「俺様は、アシナギ御側衆の一人、叉羽子の仕官だ。正当な天狗ではないが、戦闘力はそこらの天狗に引けは取らないぜ。叉羽子のお気に入りってことで、ペットと呼ばれることもあるが、巫女様からは立派な闘士として扱ってもらってる」
「へぇ。凄いんだな」
「まぁな。もっと褒めてくれて構わないぞ」
「うんうん。本当に凄い。それから確か、澄羽子も追い着けない速さで動けるんだよな?」
「ムフフ。俺様の腕を知っているとは、なかなかだなお前。だが俺様の凄さはそれだけじゃない。効率良く順路を導ける、ねびげぇたって能力もある!」
「ナビゲーター、な。それでか、寮の案内とかしてくれるって話は」
「そうだ。実際に寮内を歩かせることはできないから、こうして見取り図を借りてやった」
山吹がサイドテーブルに置いてあった巻物を見せたので、俺はベッドの上に広げて見た。
中心に建物を上空から見た図が描かれており、それを囲むように階下や補足説明が記されている。インクで書かれた文字が良く知る日本語であったので、その意味は俺にも分かった。
山吹は紙の上に降り立つと、嘴で建物の位置を示しながらそれぞれを案内する要領で説明をし始めた。
「寮の棟は岩窟を囲むように建ってて、ちゃんと区分されてるんだ。中心の岩窟の真下に位置するこの平屋は、首領である巫女様の住まい兼仕事場。通称社。賓客用の客室があるのも此処。そして、渡り廊下で繋がっている東側の三階には御側衆が暮らしてる。叉羽子や由翬子がそうだ。んで澄羽子はっていうと、こっち。西側の棟だ。んで、別館と呼ばれる此処。平屋の西側に位置する場所に現在は京様の私室がある。桃三寮の三棟は外廊下と階段で行き来は可能だが、巫女様の社と管理棟、そして京様の別館にはそれぞれ一本しか通る道が無い。特に巫女様の社はねずみ返しの岩壁の上に高床になっていることもあって、外部からの侵入は不可能と言われるくらいだ。だがその更に奥、別館は孤島の異名を持つ特別な場所だ。何せ社と地続きの形で建てられているお蔭で、西棟との間には絶壁とも言える崖があり社の奥からしか行けないときてる。まぁ、その面倒さから京様も社内で過ごしていることが殆どだけどな」
「思っていたより、随分と区画整理されているんだな。もっと和気藹々とした雰囲気なのかと想像していたけど……」
というか、随分と軽い勢いで色々と説明してくれたな。
割と細かい部分、特に立地まで話されたことを奇妙に感じる。
「俺様には良く分からないが、何処に何があるかがハッキリ区別されてることに意味があるらしい。だから左櫛全体も同じ様になってる」
「活動区域が決まっているってことか?」
「そんなトコ。で、ここまで“うぇぅぽん”にしたのは何故かわかるか?」
「オープンな。爆弾発言は無かったから。単純に考えて、親切心?」
「はは、お前素直だな。だが残念。多くが、認証が必要な箇所だからだ。取り敢えず、お前の動ける範囲はこの社内だけってことだな」
山吹の嘴が中央の平屋を指し示した。
つまり、教えても無害だからってことか。
言ってくれるじゃないか。……当然、行く気は無かったけどな。
社内だけは狭いと思ったが、下手に出歩いて面倒事に当たるよりは良いだろうと、普段の俺らしい考えがそれを抑えた。
ただ、難を一つ言うのなら、この社内では戻る方法を調べたりする資料を得ることができないことだ。
俺が山吹にそのことを伝えると、山吹は不思議そうに小首を傾げた。その必要なんてないだろうと言わんばかりの視線に俺は、昼間、與へと宣言した内容を簡単に説明する。
自分が戻れる方法を自分も探す。
その気持ちが変わることはないのだと山吹に語ると、少し困った様子を見せたものの、明日與に聞いてみてやると約束してくれた。
意気込む俺を横目に山吹は、やっぱり変な人間だと思いながら小さく息を吐いていた。
正直言うと、十詞重や與などにも話を聞きたかったのだが、さすがに外出までは許されないだろうと思ったので止めておいた。何せ監視役が山吹では、鬼霊に襲われた時のことを考えると俺自身でも外に行きたいとは強く思えなかった。
だってカラスだぜ? 嘴とか音速行動とか、威力的にも強襲には適していそうだが、主力としては不安だ。
一昨日以前の自分の外出時傾向を鑑みれば、鬼霊に襲われない事など考えられない。
むしろ遭遇することは必至だ。敢えて危険に飛び込むより、先ずはできることからしておこうと思う。
先ず隗から始めよ。って言うことだ。
両手を握り締めて小さくガッツポーズをしながら、俺はこの日を終えた。
そして翌日には山吹から與への上申が通され、部屋に幾つかの資料が運ばれるようになった。
しかしながら、古文書と呼ばれるそれらの書物を読むことなど、この手の教養の無い俺にできる筈もなく、山吹にも解説できる範囲は限られた。
澄羽子と京が仕事の合間に部屋を訪れて手伝ってくれたものの、結局なかなか糸口は見出せずに三日が過ぎた。
そして桃三寮に居るようになって五日目の昼過ぎ、俺はまた応接室に呼び出された。
山吹の先導で部屋に向かうと、室内には澄羽子と京、そして紙袋と見慣れたスポーツバッグを前にし與が座っていた。
「親御さんからだそうだ。一昨日、処理班が預かって来た」
「やっぱり俺のなんですね。……あの、因みに何て説明してあるんですか?」
「君は国家極秘機密機関の追っていた事件に巻き込まれたが、一命を取り留めて今は機関の管轄病院にて療養している。また、機関にとって有益な情報を掴んでいるため、もう暫くこちらで世話をしたい。本人の了承も得ている。そう伝えたそうだ」
「漫画とかの話みたいですね……」
「だが、さすがは君の血縁者。処理班からは、懐が深くてスムーズに事が進められて助かったと報告を受けている」
…――やっぱり…。
予想通りの事実を伝えられて、俺は差し出されたバッグを手に取った。
中身は自分の着替えを中心に靴や時計といった身支度品が入っている。
初日に長老から借りた衣服と浴衣のような単衣を借りて着用していたのだが、いずれも借り物であるので、着慣れた物が手に入るのは素直に嬉しい。
他にも『お泊りセット』が一式揃っていたのでさすがだと思うと同時に、母親が暢気な様子で衣類を詰める光景が浮かんだ。
血縁の力って凄いな。俺の感覚は母親譲りだ、間違いねぇな。俺より大物だし……切り替えの良さはあっちの方が上だったか。
澄羽子の切り替わりに覚えた既視感の正体に納得しながら、俺は頭を下げた。
「取り敢えず、助かります。ありがとうございます」
バッグと紙袋を自分の脇に降ろし、與を見ると今度は別の話を切り出された。
「戻る方法についてだが、君の方ではどうだ?」
「相変わらずです。まだ良い情報は見つけられません」
「そうか。私の方からも十詞重にはっぱを掛けたりしてはいるんだが、状況は同じだ。ただ、今の場所では上手く進められないようだから、部屋を移動してもらおうと考えている」
「つまり、引越しですか?」
「そうだ。場所は離れの一室で、既に資料の幾つかは運ばせてある」
「離れって確か、京さんの部屋がある所ですよね?」
「そうそう。今の部屋より広くなるし、何より温泉があるぜ」
「あまり寄り付かない割に、よく覚えているな」
「…ま、まぁ作業もし易いし、俺も手伝えるからさ。早速今夜からこっちに来いよ」
「そういう訳だから、この後部屋を移動してくれ」
短く話をまとめると與は静かに立ち上がり、部屋を後にした。
心なしか顔色の悪かった與を澄羽子の視線が追うと、その向かいから声が掛かる。
「行っていいぞ。こっちは俺が手伝っとく」
「ありがとうございます、京殿」
ぺこりと頭を下げて澄羽子は駆け出し、與の後を追って出て行く。
どうやら話の最中から気になっていたようで、澄羽子の動きに迷いはなかった。
「んじゃ、俺たちは早速引越し準備に取り掛かるか」
「はい。お世話になります、京さん」
立ち上がった京に続いて俺も荷物を手に応接室を後にした。
山吹の声援を受けながら、俺は京とふたりで荷物を手に別館に向かう。
そこは以前に山吹から紹介を受けた通り、俺の泊まっていた平屋の社から西側に位置し、敷石の置かれた白砂利の庭を挟んで地続きの場所に建てられていた。
和風建築の草庵のような石壁と瓦屋根の外観だが、中は意外と広く、京と俺の寝室以外にもリビングや書室など大小合わせて五つの部屋があった。
部屋は全て畳張りで襖と障子戸の合う純日本家屋は、山吹から聞いていた通り、あまり生活感は感じられなかった。
「寝室はそっちな。山吹は一緒で良いんだろ?」
「巫女様のお達しで、寝る時でも俺様が付きます」
「よし。ここが一番広いから、調べるのはこの部屋な。隣が書室になってる」
持っていた資料を卓に乗せて京は簡単に別館内を説明した。
聞けば聞くほど、この建物だけで一通りの生活ができそうだと感じると同時に、この場所を与えられた京の偉大さをひしひしと感じる。
「んで、離れの主役。温泉はここだ」
案内された先で引き戸を開けると、目の前に温泉旅館もびっくりな露天風呂が現れた。
岩で造られた浴槽からは湯気が立ち込めており、さらに身体を洗う場所まで用意されている。先に案内された室内浴場も檜造りで、同じ源泉から湯を引いているという話だった。
一種の温泉宿かと錯覚させる、あまりの高級感振りに見入っている俺に、横から山吹が驚くべき話をしてくる。
「へぇ~。ここが澄羽子が造ったって言う露天風呂か」
「え、今何て?」
「澄羽子が造った、って言ったんだ。アシナギ内では有名な話だぜ」
信じられない話に、開いた口が塞がらない。
澄羽子が露天風呂を造った? 温泉なんて、そう簡単にできるものじゃないんだぞ?
山吹を凝視すると、それを肯定するように京が苦笑交じりに補足する。
「実はな、初めの頃は與も此処で生活していたんだよ。その頃、毎晩闘いに出向く與を思って澄羽子が造ったんだと。疲れを癒して欲しいってな」
「そんな簡単に……」
「ま、普通じゃ考えられないけど、澄羽子だからな。因みに社の方で寝泊りするようになった時には、向こうにも源泉から引いた浴室を造った」
「ええ!?」
「巫女様大好きだからな。天狗殿に殴り込んだことに比べれば、これくらい朝飯前だぜ」
山吹の口振りからするとさらにとんでもない事をした経緯もあるようで、温泉を引いて露天風呂を造り上げることなど些細な事らしい。澄羽子なら、らしい。
(巫女様も偉大な方らしいけど、俺には澄羽子も同じ様に見えるよ……)
乾いた笑いを零しながらふたりの話に頷いていると、以前由翬子から聞いた澄羽子の能力や闘い振りを思い出し、自分がトンデモ娘に関わっていることを実感した。
第一、いくら尊敬して好意を抱いている相手のためとは言え、露天風呂を造るなんて想像を絶する行動力だ。
正直、無表情ばかりの與にそれ程の感情を持てるなんて、俺には考えられない。外見は美人の部類に入る容貌で立ち居振る舞いもスマートな印象だ。戦闘能力もかなり高いらしいが、澄羽子にそこまでさせる魅力が分からない。そもそも、最初の出会いが恐怖を覚える対象であったせいもあって、俺には與が別次元の人物として位置付けられていた。
しかしながら、このアシナギ内では巫女様である與の人気は絶大なもので、澄羽子のように熱烈な好意を示している者達がいることを今日までの間で見てきた俺は、自分が思っていることを口にはしない方が良いことを察していた。
(悪い人じゃないことは確かだと思うけど、謎が多すぎるんだよな……。澄羽子に比べれば、断然に常識人っぽいしけど。ってか、憧れるなら行動も真似してみろよな)
連日、寝ているところを澄羽子の鎌に襲われている俺は、痛みのぶり返した頭をさすりながら溜め息を漏らした。
実は、與が提案した部屋の移動の理由の一つとして、澄羽子の行動が挙げられていたことを俺は知らなかった。
山吹からの報告を受けて澄羽子に注意を促していたことも、処理班の対応内容にも與が関与してくれていたことも、俺が知るのは先の話だった。
簡単に手荷物を整理して、使う部屋の掃除をしてその日は夕刻を迎えた。
食事はいつも通り本館から運んでもらうことになっているが、食卓に向かった俺の目に入ったものはこれまで以上に豪勢な食事だった。寿司と刺身を中心に和の料理が並び、他に彩り好く盛られた煮物と天ぷらの皿まである。
食膳を運ぶ少女と共に與と澄羽子も顔を出し、京が歓迎の印にとこの食事を用意してくれたのだと教えてくれた。
ふたりは様子を見ただけで直ぐに戻ってしまったが、帰り掛けに與が京の運んでいた一升瓶を見つけて、襟首を掴んでいた。
京はどうやら飲むつもりでいたらしく、與に見咎められて取り上げられたようだ。ふたりの間で何か言い合っていたが、一杯だけという約束で一升瓶を返してもらい戻ってきた京は少し不満気な表情を浮かべている。
しかしそれもほんの僅かで、直ぐに笑顔を浮かべて座るように勧めた。
突然のことに驚きながらも京の心遣いに喜びを感じたことは言うまでもなく、俺は意気揚々として座布団に腰を降ろす。まるで旅館に来たような味わいだ。
「――では、男同士の杯を酌み交わそう!」
京は上機嫌で日本酒の入った猪口を掲げ、俺は白酒の入った猪口をそれに合わせた。
未成年だからという理由で、最初の一口以外はウーロン茶の俺。
與に釘を差されたので京もグレープフルーツ飲料の入ったタンブラーを手にしている。
最初は渋った様子を見せていたが、特別に用意された食事に舌鼓を打って顔を綻ばせていて、俺もなかなか進まない調べ物や鬼霊のことを忘れて、久し振りに楽しい気分で食事を進めていった。
「――そう言えば俺、こっちに来てから京さんと長老以外の男って会ったことないかも」
「何だと。俺様だってれっきとした男だぞ!」
「あーはいはい。山吹も一緒だったな」
忘れられたことに憤慨して山吹が両羽を広げたので、宥めるように俺は山吹にオレンジの乗った皿を差し出す。酒類は飲んではいない筈だが、山吹は千鳥足でそのオレンジに飛びつき、意識をそちらに向ける。
京は崩した足を組み替えて少し考えるように答えた。
「まぁ、確かにそれくらいだろうしな……。アシナギの構成員はほぼ女子だ」
「やっぱりそうなんですか。薄々は気付いていたんですけど……」
「イイ話だろ。女に囲まれて生活できるなんて、そうあるもんじゃない体験だぞ?」
「……自分より遥かに強いし、しかも人間じゃないじゃないですか……」
「でも外見は可愛いだろ?」
「それはまぁ…確かに…」
「強いったって鬼霊相手にだって。無闇に暴力は振るわないし、見た目は普通だし」
「……なんでそんなに売り込むんですか?」
「いや~。せめてここに居る間は快適に過ごして欲しいからさ」
満面に浮かべられた笑顔を見ると、京は本心からそう思ってくれているらしく、自分がそれだけ歓迎されているのだと知って俺は嬉しくなった。
確かに、澄羽子の外見は可愛い。笑顔を向けられると強く怒れない程に。
だからそのため無碍にできずここまで来てしまっているのだが、俺は改めて自分の性格を恨めしく思う一方で、自分の順応力にも感心したくなる。
自分の置かれた状況を理解するためとは言え、澄羽子の正体をはじめとする『こちら側』の内情に自分は関わり過ぎている気がする。
(でも、他人任せにはできないし……。澄羽子のことも、やっぱり見過ごせない、よな。男としては)
時折見せる澄羽子の『清廉の氣』に対する執着心を考えると、可能な限り返してやりたいと思う。例え自分には関係のない話だったとしても、気付いてしまった今は、無視することなどできない。それが日々自分を襲ってくる相手だとしても、だ。
京から見れば、そのやさしさに付け込まれていると思われているとも知らず、気持ちを再確認した俺は、解決方法探しに精を出すことに意気込みを見せ始めていた。
そんな俺の前に新たな関門が現れたのはその翌日のことだった。




