伍矢
「ヨシ。本日も元気にいってみましょう。エィ☆」
――ぐさっ。
「痛ってぇぇえぇぇぇ――!」
頭が痛ぇ。ズキズキと、ジンジンと、ガンガンと。
ぬくもりの中で夢見心地だったところを脳天直撃の激痛で起こされた俺は、朝から不機嫌に顔を歪めていた。
その前には飄々と椅子に座って足を揺らす犯人――澄羽子が居る。
窓脇に立て掛けられた銀色の鎌が、室内に差し込む朝日を反射して眩しく煌いている。先端には微かに血が付いており、騒動の原因は日の目を見るよりも明らかだった。
痛みに疼く頭をさすりながら、俺はベッドに腰を降ろして鋭く睨み付けた。
「んで、何か言うことは?」
「おはよう。今日もイイ天気ね?」
どうして疑問系なのか。俺に同意を求めているのか?
予想の斜め上を行き過ぎて、別の頭痛がするよ、俺は。
こめかみの血管をぴくりと震わせながら、努めて静かな声で話し掛ける。
「……どうしてお前がここにいるんだ?」
「朝ご飯を届けに来てあげたのよ。ついでに起こしてあげたわ」
「満面笑顔を浮かべやがって……。本当にそれだけか?」
「大体のところは」
「……なんでソレだけなのに、そんな物騒なモンを持ってんだ?」
「あぁ、鎌のこと。この子もどこからでも出せるのよ。収納も、ほら。この通り」
澄羽子は上半身を回して鎌を手にすると、手品の要領で両手を叩いて鎌をその場から消した。
タネはこの際関係ないのだが、その鮮やかさに俺は素直に拍手する。
「おぉ。凄いなー…って、別にそこは問題じゃない。聞いているのはそれを出した理由だ!」
「いや~ねぇ。朝からそんなに怒鳴らないでよ。朝ご飯も冷めちゃうわ」
(誰のせいでこんなコトになっていると思ってんだ、コイツは!!)
握り締めた拳が震える。無論、額の血管は浮かび上がる一方だ。
爽やかな陽光に照らされる室内には、不釣合いな空気が立ち込める。ただ、その原因である当人だけは澄ました様子で丸い深紅の瞳を俺に向けていた。
テーブルには既に朝食が並べられている。しかも二人分。
俺の座る位置からだと、澄羽子を見ると否応なく食事が視界に入る構図だ。
(イヤ、ここで引いては男が廃る。澄羽子の策略なんだ、これは。負けるな、俺)
もう一度強く拳を握り締めて、俺は口を開く。
「お前は一体…――」
「何してんだ、ふたりとも?」
突然声が聞こえて、窓に視線を向ける。
見れば屋根から室内を伺い、不思議そうに目を丸くする顔があった。
言い掛けていた姿のまま開いた口の塞がらない俺を他所に、澄羽子が窓を開ける。
「おはようございます、京殿」
「よ。食事中に邪魔するぜ」
漆黒の髪を揺らして室内に入ってきたのは、昨夜挨拶をした京だった。
左眼の黄金色は、今朝も鮮やかな光を放っている。
「昨夜は良く眠れたか?」
「えぇ。そりゃもぅ、私が起こすまでぐっすりです」
「何でお前が答えんダョ!」
「だってその通りでしょ。間違ったことは言っていないわよ、私は」
「ああ、そうだな。お前に鎌で脳天ぶっ刺されるまでは、気分良く眠れてたよっ」
「仲良いな、お前ら。ともかく、食事はこれからなんだろ。先ずは食べたらどうだ?」
澄羽子は相変わらず平然としていて、俺は一人で怒っている自分が惨めになってきた。
今にも頭を抱えそうな俺に、京が二人の間に入って両手を前で振る。
京からの提案に、俺は言葉を呑み込み黙ってベッドから立ち上がり顔を洗いに立った。
澄羽子の蛮行を許した訳では無い。断じてそれは無い。
顔を洗いながら、俺は己の行動を確認するが、冷たい水で頭に上った血が引いて行くのを感じ。もとより例の一撃で目は覚めていたので、スッキリすると言うよりは宥められていく感じに似ている。
鏡に映った自分の姿に一瞬だけ驚いたが、色が真っ白なだけで、顔貌は変わっていないのだと気付く。それだけでも、安心した。
(正直、目が覚めたら戻っていることも期待してたんだけど。まあ、更におかしくなるよりマシか)
現状を良いように受け止めて、気を引き締め直して前髪に付いた水滴を払い、俺は室内に戻ることにする。
すると澄羽子と京の会話が少し聞こえて、俺の足が止まった。
「澄羽子。お前まだ諦めてなかったんだな」
「当たり前です。私は絶対になってみせます」
「意気込むのはイイけど、見境無く行動するような真似はどうかと思うぞ?」
「それは、分かっています。今回のことは、私の不注意ではありますが……」
「與だって、その内気付くぞ?」
「でも、今ここで引くことは絶対にしません」
「お前の気持ちが、解からない訳じゃないから言うけど、準備はちゃんとしとけ」
「はい。それは十分に」
「俺が言ってるのは、気持ちの方だぞ?」
「それは……勿論です」
「なら良いけど」
「何れの場合に対しても、覚悟はしているつもりです。始めた時に」
真面目で真剣な澄羽子の声に、俺は逡巡する。
けれどこのまま立っている訳にもいかないので、気を取り直して足を踏み出した。
ふたりは何と言うことも無く、澄羽子はもう一つ椅子を出してくれているし、京は窓枠に腰掛けている。特に重い空気でもなく、変に気にする方が余計なようで、俺は黙って席に着いた。
時折横から京の手が伸びて漬け物が減っていたが、それだけだ。
誰も話さない。
無音ではなかったが、妙に重い空気の中での食事が終わると、沈黙に耐え切れなくなったのか、澄羽子が口を開いた。
「何。まだ怒っているの?」
(そう言えば俺、鎌で起こされたことをまだ言及してなかった。どうせ俺の中の氣が目的なんだろうけど)
大体の予想が付いているので、敢えて問いただす気力は半減している。そのため俺は澄羽子の言葉も右から左へと聞き流した。
「ちっちゃい事を気にしてると、人間性も小さくなるわよ?」
「……鎌でぶっ刺すことをちっちゃいと言えるお前の人間性を疑うよ、俺は」
「朝っぱらから過激だな、お前ら」
「そうですかねぇ。一発で起きられる良い方法だと思いますよ?」
「起きるどころか永眠するっつぅの」
「ま、こんなコトすんのは澄羽子くらいだから、安心してくれ」
「澄羽子一人でも十分心配です」
自分の安眠時間を脅かされるというのに、安心などできる筈はない。
それを軽く笑い飛ばしてくる京もまた、俺にとっては澄羽子と類友のように思える。
(この人らと話していると、消化が早くなる気がする……)
軽く胃の辺りを押さえる。心なしか活発な運動を掌から感じて、胃薬が欲しくなる。
由翬子に後で頼もうかと考えていると、横から京が窓枠から腰を上げて手を叩いた。
「ヨシ。與の所に行こう」
「え?」
「えぇ☆」
一人声色が変わったが、俺は敢えてそのことには触れずに置こうと思う。
そして扉に向かう京の背中に声を掛けた。
「今からですか?」
「そう。呼んでくるように言われたんだよ、俺」
「でしたら最初に言ってくれたら宜しかったのに。巫女様をお待たせしてしまったわ……」
「大丈夫だよ。與だって食事に向かったし。客間で待ち合わせることにしよう、って」
「まぁ。でしたら私、巫女様にお声を掛けに参りますわ。では、失礼☆」
言うが早いか、澄羽子は部屋から跳び出して行く。
(ホント、巫女様命って感じだな)
俺は空いた食器を片付けてから、京と一緒に部屋を出ることにした。
その際、京が感心した様子で「若いのに」と呟いたので、好奇心から年齢を聞いてみた。
しかしやや伏目がちに言葉を濁されたので、それ以上詮索するのは止めることにした。
(まぁ、妖霊獣だしな……俺の価値観で聞いちゃイケナイよな……ウン)
忘れそうになるが、澄羽子をはじめとして昨日から出逢っている人物達は、外見こそ人間の形をしているが、中身は妖霊獣という別存在らしいのだ。
今朝のように身体から任意で武器を出せたり、今もなお俺の首にある呪布や鎖を出すことも出来る。澄羽子や由翬子に至っては、目で追えない速さで動くこともできるのだし、年齢が人間と同じ速度、もしくは同じ寿命だと決め付けることはできない。
だがそう考えると、自分が随分と常人離れした環境の中にいることに気付く。
食事や休む場所を与えてもらってはいるが、外見は変わるし鬼霊という恐ろしい存在にまで狙われることを思うと、あんまりな状況だ。
廊下を歩きながら、自分の立つ現状を見つめ直してみると溜め息が零れる。
「何で俺、こんなコトになってるんですかね……」
思わず口から出た声は、想像以上に暗く重いものだった。
「おいおい。ヤケに沈んでんな」
「当たり前じゃないですか。寝ていた所を突然起こされて、こんな所までじゃ……」
「ふ~む。でも、澄羽子の性格上、何も言わずに強硬手段って無いと思うけどな」
そう言えば、あの時何か言われた気がする。うっすらとしか思い出せないが。
確か、記念すべきナントカって……
「――ってそうだよ、イケニエとか不穏なことを言われた時点で止めろよ、自分!」
「でもイマイチ頭が起きてなかったんだよな……だから仕方ない」
まるであの場で見ていたかのように、俺の様子を補足される。
確かにその通りですけどね。悔しいくらいバッチリ当たってますけどね。
それでもこの件をすんなり受け入れられるほど、俺の懐は深くない。
「さ、次の展開に入ってみようぜ。拗ねるなよ、ガキじゃないんだったら」
「イイっす、ガキで」
(気持ちの切り替えが、すごく早いんだよな……。澄羽子も京さんも)
かくいう自分も、割と環境の変化には順応できる自信がある。その証拠に、澄羽子に連れて来られて鬼霊と遭遇した時でも、パニックに陥ることは無かった。
転校経験が多いとか家庭環境が変わりやすいということも無く、俺の暮らしは至って普通なものだった。漫画やゲームで遊んではいたが、没頭し過ぎる夢想家という訳でもない。ただ、たまに外に出ると友人のデート現場に出くわしたり、大荷物を持った老人に道を聞かれたり、万引き現場に遭遇してしまったりと面倒事に巻き込まれやすいので、インドア派と言うよりもコモリ気味であっただけだ。
そうした経験により、物事にあまり動じない性格になっていることに自覚はあるが、大らかという意味ではないので、正直なところでは澄羽子の対応に困っている。
もう一度俺の口から溜め息が零れると、京が目の前の扉を開いた。
「着いたぞ。…幸せが逃げる前に吸い込んでおけよ」
肩を叩いて入るように促しながら、京は苦笑いを浮かべた。
軽く頷きを返して室内に入ると、そこは応接室らしく黒と深緑の色彩で、対面式のソファと重厚な木製のテーブルの置かれた客間の様相で、俺は暢気にも校長室のようだな、と室内を眺めてしまった。
京に勧められてソファに座ろうとすると、扉が開いて與と澄羽子が入って来た。
「待たせたな」
「いや、俺たちも今来たところだ」
「そうか。早速だが話を始めよう」
黒い髪を揺らして與は窓側の席へと向かい、腰の剣を外して左手に持ったまま、俺の前に腰を降ろした。続いて京が與の隣に座り、澄羽子が俺の横に少し離れて座る。
黄金色の右眼は昨夜よりは光の強さを潜めて、それでも心臓に響く力を放っているが、京の左眼を見続けていたこともあってか次第に俺の目にもその色彩が馴染み始めてくる。
全員が話を聞く準備が整うと、静かに與の口が動いた。
「鬼霊の説明はしてあるんだな?」
「はい。教本通りのと、実際にも目にしています」
「教本通りか……。ならば少し、身近な話からしよう。今までで鬼霊の類を見たことは?」
「いいえ。澄羽子と出逢ってから、初めて見ました」
「でもあれらは、常に存在しているもので、君の周りにも確かに存在していたものだ。見えていなかっただけで」
「じゃあ、なんで突然見えるようになったんですか?」
「そう、そこだ。おそらく澄羽子の力を吸ったからだとも思うが、原因は君の中にあるものを、澄羽子の力が刺激したことだろう」
「俺の中?」
「順を追って説明すると、どんな人間にだって鬼霊を見ることは出来る筈なんだ。根本は同じ物から成り立っているものだから」
「根本が同じって……アレとですか?」
「信じられないかもしれないが、事実だ。鬼霊が人間を糧にするのだって、それが原因とも言われているくらいだからな。鬼霊が人間を食べることは聞いているだろう」
「餌とかは聞きましたけど、糧って……」
「そもそも人間は、動植物から栄養素を摂取して成長することができるが、鬼霊は別の道筋で派生しているためか、人間と同じ摂食では養分が補いきれない。だから、手っ取り早く栄養を補給するため、自らに最も近い存在に手を出す。要は共食いだ」
「………っ」
ざわりと、ざらついた舌で背中を舐められた気がした。
(『共食い』って……)
「実際、鬼霊が最初に口にするのは己の分身か同胞だと聞いている。生きることは食べること。これは鬼霊も同じらしい。そして成長とともにその量が増えるのもまた、同じだ」
「……つまり、大きい鬼霊程、人間を襲うってことですか?」
「そう。ただ、量は増えるが頻度で言えば小鬼の方が、より成長したくて人を襲う」
「でもそんな話、今まで一度も聞いたこと…――」
「当然だ。その為に我々が在る。人里に降りる前に我々が始末する。それが役目だ」
與の左手に握られた剣が、カチリと小さく鳴った。
そうだ、この人は『鬼斬り』。そして澄羽子たちも。
外見からは想像もできないが、ここに至るまでの僅かな間でも既に数度、実際この目で澄羽子が鬼を始末しているのを見ている。
「さて、話が少し逸れてしまったが、鬼霊について話を戻そう。鬼霊の捕食形態から見て分かるように、鬼霊と人間は深く関わっていると言われている。それと言うのも、鬼霊の誕生は人間に拠るものだから、らしい」
「それって、人間が鬼霊を作り出しているって事ですか?」
「近いが、正解ではない。一般的に人の心によると言われているが、それとも少し異なる。実際には人間が生まれるとき、同じ様に鬼霊も生まれるとされている。性善説と性悪説は知っているか?」
「えっと、孟子と荀子の唱えた哲学理論ですよね、確か」
「正解だ。鬼霊の成り立ちはそれの中間に位置する。つまり、人は善なるものと悪なるものを内在して誕生し、地上に産まれるにあたりその悪の部分を引き離すらしい。そして人間として産まれる者と、引き離された悪が、鬼霊として別に産まれる」
(根本が同じって、そう言う意味だったのか。でもそれじゃ……)
「……鬼霊って、もう一人の自分?」
「だから先に言っただろう。鬼霊が最初に口にするのは己の分身か同胞だ、と。最も遠き己。縁強き敵。とこの相関を呼ぶ者もいる」
浮かんだ予想を肯定され、俺はソファに沈む。
『我、最も高潔で最も罪深き者なり』
刻まれた文字の意味が、今解った。
鬼霊は人に害を為す。鬼霊は排他すべき存在。
でも鬼霊は、自分の半身。別たれた自分。
にわかには信じられない事実に、俺は與を見詰め返す。
しかし真っ直ぐに向けられるその黄金色の眼に偽りは感じられなかった。
一度視線を自分の膝に降ろし、俺はぎゅっと拳を握って顔を上げる。続きを聞くために。
「鬼霊と人間の関係はこんなところだ。それから…――」
與は軽く息を吐いて、俺を見据えた。
「鬼霊が人間を捕食するのは、栄養を効率良く採るためだと先に言ったが、理由はもう一つある。それは『原形』に戻るためだと言われている」
「…切り離された、もう一つの自分を欲しがっているってことですか?」
「呑み込みが早いな。まさにその通り。己の片割れを求めているらしい。切り離した恨みか、憎しみだと言う者もいるが、むしろそんな感情よりも、『原形』に成りたいという本能だな」
「でも、それなら襲われるのは限定されて……」
「そう簡単に判れば、奴らも苦労はしないだろうさ」
嘲笑を含んだ與の声に、起き上がった気持ちを軽く打ち払われる。
「見目形の違う己の分身。それをこの膨大な数の中から見つけ出すことは、砂漠で金を探すのと同じだ。何より、奴らは理性など持って生まれないから、欲求はあっても探求することはない。そうなれば必然的に無差別。だが朗報もある」
「朗報?」
「どうやら捕食を繰り返すと、次第に理性が出来上がるらしい」
「それって、まさか人間に近付くとかって意味じゃないですよね……?」
「勘も良いな、君は。姿が人間に似通ってくるそうだ」
「当たってなんて欲しくないですよ、こんな勘」
「そうだな。私も最初は何の悪戯かと思ったよ。だがそれが現実。奴らは存在する」
與の眼が、一段と鋭くなる。
その光に、変え難い現実と自分の立っている現状を痛感した。
沈んだ面持ちの俺に、與は更に重石となる言葉を掛ける。
「そして本題だ。鬼霊が人間を襲う理由から、奴らは単に『人間』を狙うのではなく、『求めるものを持つ人間』を狙っていることが推測されている。つまりは切り離した片割れに最も近い『善』たる者。君が鬼霊に襲われるのはそれが原因だろう」
「でも俺、こう言っちゃあれですけど、そんな善人じゃないですよ。信仰心とかも無いし」
「問題はそこではない。『清廉の氣』を多く有してればそうかと言う話でもないんだ」
「じゃあ何で……この色が目立つからですか?」
「本当に察しが良い。実は知っているんじゃないかと思うくらいだ」
俺自身もびっくりです。
冗談半分で言ったのに、どうやらその予想が的中したらしい。
表情の少ない與の顔が驚きに目を開けている。
「まぁ、その色自体が特殊な内面に拠るものだから、というのが本当の理由だろう。加えて言うならば、『白』という色は、全てを跳ね返す力を持つと同時に純正たる象徴。何物にも染まらないが、何物にも染められ易いという脆さも併せ持つ。つまり、捕食して養分が摂り易い」
(見つかり易くて、しかも食べ易い。随分オイシイ存在だな、俺)
その上必要な養分を持っているとなれば、食料原としては最高のポジションだ。
自嘲気味に口許を緩めて、俺は十詞重から聞いた、『清廉の氣』の持つ性質を改めて確認させられた。そしてその性質ゆえの影響が、自分の体を白に染めた理由であるという事実も。何よりも、今自分の中でそれが息衝く花の感覚が、俺に正解を教えている。
(本当に、とんでもないモノがあるんだな。俺の、中に)
茫然としている俺に、三人は静かに視線を注いでいた。
澄羽子は真剣に言葉を受け止めて、何かを考える様子で、京は気遣う色をその眼に浮かべ、そして與は感情の窺えない声音で確かめるように口を開いた。
「ここまでの話は大体理解できたか?」
「はぁ。つまり、人を襲う鬼霊にとって、俺は恰好の食料であるってことですよね?」
「端的に表現するならばそうだ」
その言葉に額に手を当てて大きく息を吐くと、與から休憩をとるかと提案されたが、俺は首を振って返した。
小出しにされるより、一気に聞いてしまった方が良い気がする。
内容は明らかにヘビー過ぎるし、しかも替え難い現実なのである。
下手に時間をもらって余計なことを考えてしまうよりは、さっさと話を進めて欲しいというのが本音だ。既に俺の理解の範疇はとうに超えてしまっているのだから。
すると與は一段と静かな声音で、話し始めた。
「ここからは君自身についての話だ。我々の見解では、君は今『白鴉』の氣を宿している」
「あの…昨日も聞きましたけど、そのハクアって何ですか?」
「そうだな。それについては、京。お前から話してやれ」
疑問だったことを口にすると、與は隣に座っている京に続きを任せた。
一瞬だけ京の視線が俺の横の澄羽子に向けられたが、澄羽子は俯き加減で口を引き結び、黙って聞く姿勢を見せただけだった。
「えっと、『白鴉』って言うのはだな……。俺達一族の伝承に出てくる存在の一つで、白い姿に特殊な能力を備えた者を指す言葉なんだ。伝承によれば、髪から全身隈なく真っ白な姿で、真実を告げる者という役目を与えられていたらしい。そのため、白く清らかな存在として俺達には浸透している。白き鴉という名はその外見上からくるものだと言われているが……現時点では烏の一族にその姿を持つ者は、いない」
話が一区切りつくと與を見て、京は口を閉じる。
しかし與から黙って視線を返されると、仕方無しに再び『白鴉』の説明をし始める。
「それから、一族に伝わる限りではその役目から清く尊い存在だとされてきたが、鬼霊を呼び寄せるとか狙われると言ったことは伝わっていないし、知る限りでは他よりちょっと見付かり易い程度だった」
要は、俺のように狙われるのは特殊ってことか?
だが京の言葉に違和感を覚えた俺は、その疑問をそのままきくことにした。
「……あの、姿を持つ者はいないって話でしたけど、その口振りだと、京さんは会ったことがあるんですか?」
「現時点では、て言っただろ。かつてはそれらしい存在が居たんだよ。一族の中でも霊獣格の者なら皆知ってる」
「霊獣格って、澄羽子たちとは違うんですか?」
「簡単に言えば、能力の大きさや性質が違う。俺や長老は霊獣格に属しているため、妖霊獣の澄羽子たちよりは上になる」
京の新事実に、俺は素直に感嘆の声を漏らす。
ここまでフレンドリーに接していただけに、澄羽子たちよりも立場だけでなく能力上も上であると明かされ驚くと同時に緊張感も持ち上がる。
確かに澄羽子の話し方も多少畏まったものであったが、それは上司だからだと思っていた。
しかし、京は與に対しても砕けた口調で、接し方も澄羽子たちとは一線を画している。
事実、アシナギの首領で「巫女様」と呼ばれる與を名前で、しかも呼び捨てしているのは京しか見ていない。
それに対して澄羽子が何の対応も見せないことに少なからず違和感を覚えたのだが、格の違いだと言われると納得できた。
つまり、京は澄羽子から見れば長老と同位の存在なのだ。
その上、『白鴉』らしき存在を実際に見たことがあるというのは、俺にとってありがたい情報だ。現状を変える方法を見つける手助けになるかもしれない。
ただ気になるのは、「かつて」という点と若干の差異がある部分だ。
「ひとつ、聞いて良いですか。今その方はどうされてるんですか?」
答えを聞くのが怖くもあったが、京を見詰めながら訊ねると、思ったよりも平然として両手を頭の後ろに組みながら答えた。
「普通に生活している。俗に言われる『白鴉』からは逸脱したが、それだけだ。お前だって、食事や睡眠は今まで通りにできるだろ。突然人に親切にしたくて堪らないとか、そういった行動変化もない筈だ」
「それは確かに。でも俺の場合は普通の人間だったのに、そんな伝承上の存在の氣が中にあるなんて、まだ信じられないんですけど」
「そこからは俺じゃなくて與の担当。細かいの苦手なんだよ」
京がふいと視線を逸らすと、微かに眉を顰めた與が静かに話し始める。
「氣と言うより、素質と考えてくれ。昨夜京が『白鴉』だと断言したことは、実際にその存在と接触した経験のある者が、同じ感覚を君の中に見ることができたからだ。しかし、あくまでそれは半分。それこそが君に見られる違いであり、鬼霊に関する問題もそこに起因するのではないかと考えている。ならば『白鴉』ではないのかと言われれば、それは否。現時点では素質の程度であるというだけだ。そしてこれは、半分は推論だが半分は確証のある話…――」
與の言葉に澄羽子の視線に力が篭もり、俺も背筋が伸びる。
向かい合っている與は心なしか、右眼の黄金色がキンと光ったように思える。
「君の中に『清廉の氣』が存在することは確かで、『人間の氣』とも上手くバランスを取れているようだが、澄羽子の『血の氣』によって変性している。それが同時に『白鴉』の氣を形成したと考えられる」
「それじゃ、『白鴉』になるためにはその三つが揃わないと駄目なんですか?」
「ちょ、ちょっと朔一?」
突然の質問に、三人は顔色を変えた。
目の前の與はどこか不思議そうに。斜め向かいの京は面白そうに口許を歪めて。そして隣の澄羽子は何を言い出すのかと、目を見開いて咎めるような視線を向けてくる。
「十詞重さんのところでも、その三つがバランスを保っているって言われたんです。だから、今の俺の存在が『白鴉』の素質を含む俺であるというなら、『白鴉』の素質を得るために必要なものが俺の中に揃っているってことですよね?」
「……面白いことを訊くんだな。私はてっきり、どうしてそんなことが言えるのか、とか、どうしたら戻れるのか、と言った内容を聞かれるかと思っていた」
「勿論、それも聞きたいことではあります。けど、なってしまった事の理由を聞くよりも、自分の現状を理解して、これからどうすべきかを考えたいんです」
「それで、現状を知るための質問がこれだと?」
「はい」
探るような視線に真っ直ぐと肯き返すと、與は瞬きを一つして息を吐いた。
「結論を言うと、そのような確証は無い。だが否定もできない。半分は推論だと言っただろう。三つの氣の存在は確かで、多少の変性が見られてもいる。『白鴉』の氣が三者の均衡により生じたのかと問われれば、可能性としては考えられる。しかし多くの者達はそれを否定するだろうな。事実、かつての『白鴉』に『人間の氣』が混じっていたなどと言う話を聞いたことが無いから。それでも私は、君の中に『白鴉』の素質があることを認めている。論理的な確証からではなく、それを認めた京の言葉を信じるからだ」
曇りの無い瞳に見返されて、俺は言葉を噛み締める。
確かに、実際に眼にしたことのある京さんの言葉には重みがある。百聞は一見に如かずとも言うし。氣がどうとか言われるより、単純明快だ。
「分かりました。俺の中に『白鴉』とやらの素質があるとして、それでも戻ることは可能なんでしょうか。推論が半分ってことは、はっきりとした方法はまだ分からないですか?」
俺の声は思ったよりも凛として室内に響いた。
もともと静かな與の声音が、更に冷たく静かにそれに返される。
「その通りだ」
予想の範囲内であったが、それでも俺の体から力が抜ける。
けれどそれもほんの僅かで、再び顔を上げた俺の中には変わらない気持ちがあった。
この人たちは、信頼できる。
それは、ここまで長く一から丁寧に説明をしてくれた與や京の姿に対する俺の本心だった。
憶測であろうとも、赤の他人でしかも住む世界が違う人間であった俺に、ふたりはきちんと説明をして俺の現状を解らせようとしてくれた。
質問にだって答えてくれて、時折こちらを気遣う素振りもあった。
もっと短く簡単に話して、適当に納得させることもできた筈で、実力行使に出れば無理矢理にでも事を収めることだってできただろう。
そんなことをされたとしても、俺に抵抗などできる訳は無いし、何が起こったのか理解することもできなかったと思う。
その方が断然楽だと俺にも分かる。
けれど、與と京に至っては夜勤明けの体で疲れているだろうに、このような席に着いて時間を作ってくれたのだ。
そのことに気付かない程、俺は子供でもなかったし、既に何度か現状を考えさせられる場に立っていたので、それらがクッションとなっていたのも確かだった。
自分の中にある余裕に驚きはある。しかもそれが元凶とも言える存在の、自分の首に鎖を付けた澄羽子との遣り取りで、というのが少々複雑な部分だ。
そうして全ての現状を受け止めた上で、俺は口を開いた。
「先ずは、ご説明をありがとうございます。俺としては、正直なところ鬼霊だとか白鴉だとか言われても、いまいちピンと来ない部分が多くて、自分の中に三つの氣が在るとか言われても、やっぱり実感は薄いです。でも俺は元に戻りたいし、澄羽子だって集めた分は欲しいだろ?」
「そ、そうね。折角集めたのだし、消すようなもったいないことはしたくないわ」
「澄羽子もこう言っていますし、俺としてはこの意見での解決方法を探したいと思います。そのための力をお借りすることはできませんか。お願いします」
俺が頭を下げると、澄羽子も続いて頭を下げた。
しばしの沈黙の後、頭上から京の笑い声が聞こえ出す。
顔を上げると、初めて與の口許にも笑みが浮かんでいた。
「先に言われちまったな、與」
「まさか逆に願い出られるとは。驚いた」
「ってことは、協力してもらえるんですか?」
「勿論だ。私の方からもそう提案するつもりだった」
「「ありがとうございます!」」
ふたりの答えに、俺と澄羽子は抱き合わんばかりの勢いで喜ぶ。
実際、手を組みそうになったところで間近に目が合い、我に返って座り直したのだ。
その様子に更に笑い声を上げられて、俺は自分の行動を恥ずかしく思う。
至近距離で澄羽子と見詰め合ったこともあり、頬が紅潮した。
よく笑う奴だけど、あんなに嬉しそうなのは初めてだし……不可抗力だ。
そう言い聞かせていると、京からとんでもないことを言われた。
「しっかし、よく意見が合ったよな。魂を還しちまう方法を取れば手っ取り早く解決はできるけど、さすがに俺が納得しないだろうし、時間が掛かる方法じゃ澄羽子が不満がる気もしていたんだ。色々説得することも考えていたんだけど、良かったよ。すんなり決まって」
「え、魂を還すって……?」
「そのまんまの意味。氣を無理矢理剥がしに掛かるんだから、結局はそうなるだろうって」
それってつまり、俺という魂に影響があるってことで……。
「いやぁ本当に良かった。俺も寝覚めの悪いことは、あんまりしたくなかったしさ」
今の一言で、やはり京も澄羽子と同類だと確信した。
あっけらかんと笑っていられる京にも、そんな方法もアリだったのかとやや後悔気味な様子の澄羽子にも、俺は到底理解できそうになかった。その反面、澄羽子ならやりかねないとも思ってしまうのは、ここまでの体験ゆえである。
唯一の救いは、與がふたりを諌めるように視線を流し、威厳を感じさせる声音と姿勢でこの場を収めたことだ。
「ともかく。元に戻るために『清廉の氣』を取り出す方法を探す。そのための協力を我々アシナギが行なうという方向で手続きをしておこう。澄羽子、私の顔に泥を塗るなよ」
「勿論ですわ、巫女様。そのような事があればこの澄羽子、胸を開いてお詫び申し上げます」
一転して真剣な様子で応えた澄羽子に與は頷いて、俺の前にテーブルの隅に置かれていた新聞を開いて見せた。
「それから、家の方はこちらで手を打っておく。烏樟殿からも言われたが、こんなモノが出てしまった後だから、暫くはこちらに居ることをお勧めする」
そこには俺も知っている新聞社名と、《真夜中の凶行》という見出しの記事が載っている。
「何々。昨夜県内のマンションの一室から少年が失踪したとの通報が入った。少年の部屋には少年の物と見られる夥しい血痕が残されており、金品が盗まれていないことから、殺人目的の犯行だろうと考えられている。また少年を連れ去っていることから、同県警本部は誘拐と殺人両方から捜査を開始した。……『少年』って俺のことだろ。一躍有名人だなこりゃ。ってか、今帰ったら、《死地からの復活》とか《甦生少年》とか週刊誌に取り上げられそうだよな」
(笑えないです。マヂ過ぎて)
顔を寄せて記事の内容を読み上げた京に、俺は心中で感想を返す。
こんな記事まで出てしまって、エキスパートとやらの力は大丈夫なのだろうか。
正直。隣で面白半分に週刊誌の見出しを口にしている二人を見ると、不安で眩暈がする。
放心しそうな俺と妄想を膨らませ始めたふたりを他所に、與は黙って立ち上がり扉に手を掛けた。その背に慌てて俺も部屋から出る。
「あの、ちょっと待って下さい。巫女様っ」
廊下で声を掛けると、不機嫌そうな視線で與は振り返った。
思わずたじろぐ俺に、與は冷えた声音で言った。
「與で構わない」
「え、えっと。じゃあ與さん。俺は方法が見つかるまで、ここに居ることになるんですか?」
「そうだな。ご家族の方には既に処理班が向かっているが、その件を含めて対応に当たらせる。部屋は直ぐに用意させるし、当面はここに留まっていてくれ」
「ありがとうございます。何から何までで、手際が良いんで少し驚きますけど」
「正直に言うと、君のような存在を初めて見るわけじゃないんだ、私は」
「――え?」
「正確に言えば、似た状態の者を知っているという事だ」
「でも十詞重さんは、人間に事例は見られていないって……」
「当然だ。あくまで似ているのであって、同じではない。経緯も違うし根本の性質も全くもって異なっている。共通するのは『鬼霊に狙われる』『鬼霊を呼寄せる』という二点だけだ」
「その人って、今は?」
「生きてはいる。勿論『鬼斬り』の庇護下にあってだ」
「あの。その人も俺と同じ様に、普通の人間だったんですか?」
「詳しくは知らないが、そう聞いている」
「そうですか…じゃあその人も、俺のように戻る方法とかを探しているんですか?」
「……少し誤解を招く言い方をしてしまったようだな。残念ながら、その件に関しては戻る方法が既に知られている。なった経緯が違うと言っただろう。そのためだ」
「じゃあ……俺がその方法を取るというのも……?」
「無理な事だ。期待を抱かせるような話をして、すまない」
じゃあ、何でそんな話をしたんだ。
俺は唇を噛み締めた。
「君自身にとっては何の進展にもならないかもしれないが、我々には君のような存在に対応する手段があるという事を伝えておく。つまり、無駄な制約などはしないという事だ」
変わらず平坦な口調の與の言葉に、俺は顔を上げられなかった。
ただ今後の生活を聞こうと思って追い駆けたのだが、偶然とは言え新たな手掛かりを見つけたと思った。
先刻の口振りでは自分が特異的な存在であると言い含められて、孤独感が無かった筈がない。
そこへ似た状態を持つ人物の存在を知らされれば、誰だって希望を抱きたくなる。
しかしそんな俺の気持ちを打ち払われたんだ。
浮き上がった気持ちを再び沈められて、なかなか言葉を受け止められない。
俯いたままの俺に、與は溜め息を一つ吐いて静かな声で、言い聞かせるように声を掛ける。
「君の中に『白鴉』の性質がある以上、我々としては最善を尽くしたいと考えている。だから、せめてここに居る間は、自分のことこそが最重要事項として考えてくれて構わない」
俺には頷き返すことしかできなかった。
口にしたい言葉はたくさんある。でも言う相手が違う気がする。だから唇を噛む。
握り締めた拳が震えて、この場から離れようと思ったその頭上に與が息を吐く。
「言いたいことがあるなら言え。お前の口は飾りか?」
まるで吐き捨てるかのように向けられた言葉は、與から発せられたとは思えないほどに低く、俺の胸の中に響き渡る。
そのやけに冷静な声音が、一気に俺の感情の箍を外した。
「知ったようなことを言うなっ!」
カッとなって顔を上げると、やはりそこには平然とこちらを見返す與の顔がある。それが更に俺を苛立たせた。
「あんたは鬼霊と闘える力を持って、支持する仲間もいる。それらの存在に対してだってそれなりに受け止められているだろうけど、俺は突然連れてこられたばかりの普通の人間なんだ。外見は変えられるし、全く違う環境に居なくちゃならなくなった不安だってあるに決まってんだろ。しかも自分の命が狙われる状況だって言われて、誰が「はいそうですか」って納得できるんだよ。んな訳ないだろっつうの。物分かりが良いようにしておけば、それ以上のバッシングがないだろうっていう処世術の一つだ。建て前だよ。実際は、受止め切れてなんてない。完全に俺のキャパ超えちゃってんだよ。そんな俺の気持ちがあんたに解るのかよっ!」
吼える俺を前にしても、與は至って静かにその言葉を聞いている。
響き渡った大声に澄羽子と京も部屋から飛び出してきて、何があったのかと驚いているが、俺にはどうでも良かった。
一度に捲くし立てたせいで息が上がり、血が昇った頭はがんがんと鳴り響いているような錯覚を与えてくる。
眉を吊り上げて與を睨み付ける俺の肩に澄羽子が手を伸ばしたが、與が片手を差し出してそれを止めた。心持ち顎を上げて與は俺を眺めた。
「他に言いたいことは?」
「……大体は、言った」
「そうか。君の本心が聞けて良かった」
意外な言葉に今度は俺が驚く番だ。まじまじと與を見詰めてしまう。
「はっきり言って、あの説明を静かに聞かれて私は驚いていた。疑っていたと言っても良い。一般人が動揺を見せないなど、有り得ないからだ。だが今の言葉を聞いて安心した。正常な感覚を持っていると知ることができたからな」
僅かな笑みが與の顔には浮かんでいる。
「これからも言いたいことは言ってくれて構わない。君の中には『真実を告げる者』の素質があるのだからな。欲しいものを欲しいと言えない子供は損をするぞ」
直ぐには與の言っている意味が解らず、目を瞬かせてしまう。
逡巡して自分の非礼を流してくれているのだと気付いて、俺の体から力が抜ける。久し振りに声を荒げたこともあり、膝から崩れそうになったところへ首を中心に引き上げられた。
「ちょっと。アンタねぇ…――!」
和らいだ空気も寸秒の内に澄羽子の声が破った。
あ、ものすごいヤバイ。鬼の形相が差し迫ってくる。
「澄羽子。書類は提出したのか?」
胸ぐらを掴まれて、目の前に角でも生やしていそうな澄羽子の顔が向けられたが、與の声に割り込まれて澄羽子は直ぐに手を離した。
怒りに堪えるように歪めながら。
「い、いいえ。まだです、巫女様……」
「ならばさっさと仕上げなさい。それから君に一つ話しておくことがある。付いて来なさい」
しょんぼりとする澄羽子の横を抜けて、俺は與の後を追って縁台に続く場所まで来た。
後ろを見れば、京に肩を叩かれて励まされている様子の澄羽子が見える。
気の毒に感じたのはほんの僅かで、俺は殴られなくて良かったと心の底から安堵した。
眼前で拳を握りこまれた時には、自分の言葉を呑み込みたいと本気で思ったのだ。
これまでの闘い振りを目にしている俺にとっては、澄羽子の拳は避けるべき対象だ。
歯の一本くらいでは済まなさそうな睨み具合でもあったので、なおさらだ。
あのまま殴られていたら、いや、殴り飛ばされていたらと思うと、俺は無意識に両肩を抱いていた。それを一瞥して與は縁台に進み出る。
「今後の君の生活についてだが、念の為に監視を付けさせてもらう。澄羽子はあの調子だし、人が出払っているから山吹を付けておく」
「宜しくな澄羽子の下僕」
屋根の上で出番を待っていたらしい山吹が突然現れ、柵に止まって挨拶した。
「朔一です。こちらこそ、宜しくお願いします」
最初の時にも名乗った筈で、小さな悪意も感じられたが、もう一度自分の名を教える。
次に言われたら、トリ頭でも忘れないようにしてやる。絶対に。
顔上げた内心で決意しながら、俺の肩に移動する山吹に笑いかけた。
「社内の案内も任せてあるから、気が向いたら回ってみると良い。君は少し外に出て運動した方が良さそうだから」
「……色が白いのは元からで、血色状態も多分良好です……」
盛り上げようとする自己意識に追い討ちを掛ける與の一言に、俺は静かに訂正した。
その横では山吹が笑いを堪えている。
「ま、澄羽子の務めが終わるまでは俺様が相手をしてやるって話だ」
「気を遣っていただいて、ありがとうございます」
「巫女様はおやさしいからな。少し変わってても、ちゃんと客としてもてなしてくれるのさ」
気になる言葉が聞こえたが、俺は與に深く頭を下げた。




