肆矢
夜風を受けながら、羽扇の上で食事を済ませることにした。気分は夜間ピクニックだ。
長老からいただいたおにぎりを口にしながら、俺はしみじみと米の味を噛み締める。
十詞重の所ではろくな食事ができなかったので、その喜びはひとしおだ。
隣の澄羽子も、ウサギ林檎を美味しそうに食べている。
一瞬だけこの食事の作り手を考えたが、美味いからスルーした。
食事を終え、山を二つほど越えた辺りの上空で、やや緊張した面持ちの澄羽子に俺は話し掛けた。こちらは腹を満たしたお蔭で、やや穏やかな表情をしている。
「そう言えばアレって、誰もが見えるものなのか?」
「アレって? そんな仲じゃないから、きちんと言ってちょうだい。それとも語彙が少なくて名称が出てこないの?」
アアソウデスネ。言葉が足りなくてスイマセンデシタ。
会って二日と経たない人物に、親しげで失礼しましたよ。
「……。昼間の、鬼霊との接触で俺が見た、記憶とか言ったもののことだ」
「ああアレね。アナタが呑み込まれそうになっていたアレね」
(お前も十分、アレアレ言ってるんですけど……)
白々しく返した澄羽子の様子に、こめかみが震える。
俺は堪忍袋の緒を握り締めながら、言葉の先を黙って待った。
「誰でもってことじゃないわ。感度の問題は勿論だけど、奴らが食してないと見えないわ」
何を、かは察しておく。間違いなく、『記憶』の主のことだろう。
「特別な方法で見ようとすることはあるけど、基本的にはなかなか見えないわね。何より、ホイホイと見えたら面倒じゃない」
「じゃあ、偶然ってことか?」
「アナタの場合、私の氣の影響があるのかもね」
「ふ~ん。確かに、あまり見て気分の良いもんじゃなかったしな」
「人を食べる時の記憶なんて、毒以外の何物でもないわ」
冷めた声で澄羽子が言った。
蔑んだ視線の先に、崩れた骸が浮かんで見えた。
だがそれだけでなく、澄羽子はニヤリと口角を上げる。
「あれはね、人間の血が仲間に反応して引きずり出されると言われてるの。自分を救ってくれって、呼びかけるんですって。我侭で傲慢で自分勝手な奴が、最も弱く見える瞬間だわ」
愉悦を浮かべたその瞳が、宵闇の中に光る。
初めて見るその姿から、背筋が寒くなる美しさを感じつつ、俺はそれ以上触れる気がしなくなり、話題を変えることにした。
「えっと、そう言えば、これから会う『巫女様』ってどんな人物なんだ?」
「巫女様は、私達アシナギを統べる首領で、御自身も『鬼斬り』をされておられる御方よ」
すぐさま振り向いた澄羽子は、待ってましたと言わんばかりに目を輝かせていた。
(変わり身速ぇな、相変わらず)
「巫女って言うくらいだから、女性なんだよな?」
「当然。凛々しくて神々しくてとてもお美しい御姿の、素晴らしい女性なの」
「……今ので、お前が凄く好意を持っている方ってのは解ったよ」
「んもぅ、言葉じゃ言い表せないくらいステキな方なのよ、巫女様は」
「ウン、それは解ったから。今向かっているのは、その巫女様が居る場所なんだな?」
「ええ。アシナギの本部であり、巫女様も暮らしておられる我々の居住区でもある場所よ」
「居住区って……烏森じゃなかったのか?」
「烏森は私達が育った場所ではあるけれど、今から行く【スケクシ】には…そうね、社員寮があるようなものね」
「スケクシ……?」
「左の櫛で【左櫛】。巫女様が所有される御社の御膝元よ。そこで殆どの者が共同生活を送っているわ」
「聞いた事の無い、地名だな。やっぱり烏森みたく、特殊な結界とかしてるのか?」
「当たり前じゃない。元々はただの岩窟の一部だったんだけど、そこを切り拓いて御社を建てたのよ。ほら、見えてきたわ。あの大きな建物が【モモサ寮】よ」
澄羽子の視線が示す方向を見ると、切り立った崖のふもとに櫓にも見える木造の建物が建ち並び、その中に一際大きくコの字型に象られた建物が見えた。それが澄羽子曰く「社員寮」の【モモサ寮】らしい。
山間に突如現れたその区画は、霧の中に浮かび上がるように存在し、近付くにつれて、全ての建物が最奥の岩窟を囲むように建てられているのが分かった。
そして所々に掲げられている幟旗には、見たことの無い紋様が描かれている。
「アレ、何だ?」
「御旗よ。アシナギの象徴のひとつ。モデルは武田信玄公の風林火山」
「……アレ、文字なのか?」
「烏文字と言うものらしいわ。熊野の牛玉宝印などに使われる、神聖文字なんですって」
「因みに何て書いてあるんだ?」
「えっと……。『我、最も高潔にして最も罪深き者なり』と記されてます☆」
どうだ。と鼻を鳴らされても、その意味の凄さがピンと来ない。
むしろ結構キワドイ内容なんじゃないか?
御旗というか軍旗のようなそれに見入っている内に、入口らしき鳥居の前に羽扇が停まり、先を行く澄羽子が鳥居を潜って歩き出したので、俺は黙ってそれに続いた。
少しひんやりとした空気に包まれた左櫛は、入り口の鳥居の左右に柱を立て、篝火の代わりにランプを提げてあり、中の明かりも提灯などが目立つ。それらにもやはり幟旗と同じ様に、烏文字で記された紋様が描かれている。
一見、時代劇のセットか何かかと思う風景に、俺はきょろきょろと当たりを見回した。道らしき路は無く、周囲の櫓から零れる明かりと澄羽子のランプを頼りに進んで行く。
(そう言えば、こんなに晴れているけど、月が出ていないから暗いのか)
慣れない暗闇でも、ここまでの道中で大体は目が慣れているから、微かな明かりでも何とか歩いていられたが、それにしても暗いなと思い、空を見上げると月のない星空が広がっていた。
澄羽子は十詞重から借りた例のランプを使っているが、おそらくそれは俺のためだろう。
先程の山道でもそうだったが、澄羽子はそのランプを前に提げるのではなく、横に持って歩いている。
ついでに言えば、おそらく歩調も合わせてくれている。
首の鎖の効果かもしれないが、俺が少し足をもたつかせても、澄羽子との距離はほぼ一定のままなのだ。
(案外、良い奴なのかも……。十詞重さんの言葉が効いたのかもしれないけど)
俺は澄羽子の一面に気付いて、頬を少し緩めた。
「何?」
「別に。ってかお前、横にも目があるのかよ……」
「私達の視界は梟並みよ」
「……俺の前で、首だけは回さなくてイイから。グロイから」
「失礼ね。例えよ、例え。感知能力を使わなくたって、気配を探ればそれぐらい見えるわ」
「じゃあ、感知能力を使えば梟並みなのか?」
「能力を出して探知すれば三六〇度どころか、上下も含めてほぼ死角無しよ。鬼霊が正面からしか来ない訳じゃないんだから、当たり前でしょ」
顎を上げて自慢気な顔を見せる澄羽子に、俺は素直に感心した。
その手の能力を持つということは、突如鬼霊が襲って来たとしても、ある程度ならどちらから来るか分かるということだ。これはとても心強い。
出くわした後の腕は既に何度か目にしているから分かるが、戦う前段階における索敵能力が澄羽子の言うとおりならば、俺自身でも対応できることがあるということになる。
目下の課題は元の状態に戻ることではあるが、それが難しいとなれば現状の対策をしておく必要がある。その最重要項目こそ、鬼霊から身を護ることだ。
正直、倒せる力を身に付けることも少しは考えたが、所詮は「ぶなしめじ」。戦う以前に身を護らなければ鍛える事だってできない。
俺が気持ちを浮上させているその横で、澄羽子は少し訝しげに眉根を寄せた。その次の瞬間には突然奥から声を掛けられて首を動かした。
見れば寮のある方角から、一人の女性が肩に何か乗せて歩いて来る。
澄羽子の前で立ち止まったその人物は、着物の調の上着と肩当て、腕には長い手袋と籠手をして、それに短パンとニーハイの靴下で草履を履いている。
大人びた顔立ちで、やや垂れ目の紅い瞳とストレートの黒髪は清楚な女性を演出しているが、格好から察すると彼女もアシナギの一員のようだ。
「久し振りね、澄羽子。元気そうで何よりだわ」
柔らかい微笑みを浮かべたその女性は、耳の横で切り揃えた髪を揺らした。
対する澄羽子の表情は、珍しく固めで無理矢理な笑顔を浮かべている。
「……はい。私は任務も少なめなので……」
「そうよね。さっさと上がって来てくれないと、私も山吹も寂しいわ」
「待ち過ぎて、首が伸びちまったらどうしてくれるんだ、澄羽子」
突然、女性の肩に止まっている鳥が喋った。
体は鸚鵡のようにも見えるその鳥は、とさかと同じ琥珀色の勾玉を首から提げている。
だがその鳥が鸚鵡とは全く違う別の鳥だと知ったのは、顔がカラスのそれだったからだ。
ここまでの道中で色んな人(生物含む)と出逢っているため、人語を喋る鳥に会ったくらいではさすがに声を上げることはなかったが、若干の驚きはある。
しかし考えてみれば、カラスと言うと澄羽子だって同じなのだ。
だから例え、鳥形態のカラスが喋っても……。
「おい。何だコイツ」
「うわっ!」
突然耳の近くで声が聞こえたと思ったら、人語を喋るカラスが右肩に止まっていた。
羽音も風も無かったのに、声と重さと存在が、同時に訪れた気がする。
そんな俺の動揺を他所に、澄羽子はさも平然と紹介した。
「私の下僕です」
「まぁそうなの。それじゃあご挨拶しなくちゃね。私は叉羽子よ」
「俺様は山吹だ。宜しくな、澄羽子の下僕」
しかも目の前の女性はそれをすんなりと受け入れた。
にこやかな笑顔を向けられ、肩の方からはカラスにも挨拶される。
「……朔一です」
訂正するのも面倒で、と言うよりどうでも良かったので、取り敢えず名乗っておく。
ただ叉羽子は俺の挨拶よりも外見の方に興味があるようで、その紅い眸が上から下まで何度か往復し始める。
その視線は、十詞重に向けられたものよりも検分の度合いは薄く、色具合を確かめた程度で、澄羽子へと静かに移った。
「それにしても、真っ白な人間の子ね」
「はい。このことで、巫女様にお話があって来たんです」
「そぅ。巫女様なら、【イワモト】にいらっしゃる筈よ。鬼霊の情報を聞いていらしたから」
「じゃあ私たちはそちらへ…――」
「私たちも今から行く予定だから、一緒に行きましょう?」
「え、で、でも…っ」
「ほんの先じゃない。澄羽子の扇でもちゃんと付いてこられる速さにするわ」
微笑んだ叉羽子の手には、紐の付いた扇子が握られている。
どうやらそれが彼女の移動手段らしい。
右手に握ったその扇子を左の掌で軽くパシパシと鳴らしながら、叉羽子は口角を上げる。
有無を言わせぬ視線の圧力に、澄羽子は小さく承諾を返した。
山吹を肩に乗せた叉羽子の後に続いて来た道を歩きながら、その様子を意外に思った俺は澄羽子に質問した。
「あの人って、何者?」
「叉羽姉は、私の姉弟子でアシナギの御側衆の一人よ」
「へえ、じゃあ由翬子さんと同じだな」
「……。まぁね。ついでに紹介すると、山吹は叉羽姉のペットで、戦闘に参加もする天狗の力持っているわ。本当の天狗じゃないから人の形にはなれないけど、私も由翬子も、一度も捕まえられたことがないの」
「それってもしかして凄く速い?」
「もしかしなくても、かなり速いわ。人間の言うところの、音速で飛べるらしいの」
だからさっき、気付いたら肩にいたのか。
声と存在をほぼ同時に感じた俺は妖術の類かと思ったが、あれは山吹の身体能力によるものらしい。それはそれで信じ難いものではあるのだが、澄羽子たちの戦闘や鬼霊の存在を目にしてきていたことと、科学的論拠の言葉を聞くとすんなりと受け止めていた。
それを横目に見ていた澄羽子は、面白そうに小さく笑みを零した。
気付いた俺が問い返しても、澄羽子は何でも無いと軽く首を横に振る。
含みを感じつつも、それを追求する前に鳥居の前に着いたので、ふたりは再び羽扇に乗って夜空へと浮かび上がった。
少し先を飛ぶ叉羽子は澄羽子が取り出した羽扇を目にして、一瞬だけ驚いた表情を見せたが、直ぐに自分の扇に手を掛けた。飛び始めた叉羽子の顔には、やはり変わらず柔らかな微笑みが浮かべられている。
その様子を見ていた俺は、澄羽子が「叉羽姉」と呼んでいることからも、ふたりが似た者姉妹であると思う。今のように、思ったことを口にしない辺りが特に。
(でも、澄羽子は割りと丁寧な話し方だったんだよな……。親しげというよりは避けていそうな態度だったし。むしろ由翬子さんとの方が近い感じだったような……。名前は似ているけど、顔立ちは似ていなくもない程度だし、親戚とかか?)
そんなことを考えているどころではないのだが、俺は気付いてしまったふたりの様子を、密かに分析しながら夜風を受ける。
しかし三人と一羽の夜間飛行は叉羽子の言葉どおりほんの僅かな時間で、気付けば目的の場所に辿り着いていた。
降り立った場所はこれまた薄暗く、澄羽子の手にあるランプを頼りに俺はふたりを追って歩き出した。
「石がごろごろしてて、歩き難い……」
「此処は岩の原で【岩原】。その名前通りの場所だから、足元には気をつけて」
「……それは、着く前に言うべきじゃないのか?」
「でも、辺り一帯が石だらけだから、鬼霊が襲ってきても直ぐに分かるわよ」
「……ありがたい情報をドウモ」
何度か蹴躓いたところで俺が愚痴をこぼすと、地名と場所の特徴を教えられた。
着いたときにも思ったが、ここはこれまでとは一変して、宵闇に浮かび上がる周囲の様子は森の木々に囲まれたものとは掛け離れた、大きさの異なる石や岩の転がる殺伐とした場所だ。
歩く度に立つ音もジャリジャリと小石を踏むもので、固い感触が足の裏に伝わる。
しかし澄羽子の言うとおり、身を潜ませるような物が無い。こんな夜でなければ、きっと遠くまで見渡せただろうと思うくらいだ。
そうしてなだらかな斜面を登っていくと、大きな岩の辺りに明かりと人影が見えた。
直ぐに山吹の飛立つ音がして、大岩に腰を掛けている人物の側に降り立った。追うように近付くと、周囲の人の中に見たことのある顔を見つける。槍を手にした由翬子だ。彼女もこちらに気付いたようだが、何も言わずに佇んでいる。
叉羽子に道を譲られるようにして進んだ澄羽子と俺が立ち止まるのと、山吹との話を終えた人物が立ち上がったのはほぼ同時だった。
「澄羽子。どうしたんだ、ソレ?」
「私の下僕です」
(またソレかよ……)
「下僕でもペットでもいいが、手に余るぞ」
「やっぱり巫女様には御分かりになるのですね。ステキ☆」
噛み合っているようで微妙に噛み合っていない会話をして、澄羽子は目を輝かせた。
そして「巫女様」と呼ばれた女性は、ゆっくりと俺に近付く。
小石を踏み鳴らして目の前に立ったその女性の姿に、俺は目を見開いた。
ゴクリと喉が鳴る。
やわらかな橙色の光の中にして、シンと冷えた印象を携えて佇むその空気も一つの要因だったし、アシナギの首領と聞いていた割にはその格好が自分の良く見知った普通の服装であることも意外だった。
しかし何よりも、黒い縁取りから自分を射抜くその双眸の右眼が、獲物を魅了させる光を放つ満月を嵌め込んだような黄金色であったからだ。
跪かなければならない気が自分を急き立てる。
しかし俺の膝を寸でのところで、行動を抑える、頭の芯から響くモノがある。
理由は解らない。震えるのも、動けないのも。そして身体がざわつくのも。
ただ、この人物はまだ『大丈夫だ』と、体の中心で声が教えた。
「随分と面白いものを呑み込んだものだ」
少し低めのハスキーボイスが聞こえた途端、俺は現実に引き戻された気がした。
額から伝う雫と、シャツが背中に張り付くのを感じて、自分が汗をかいていることを知る。
(どうなってたんだ、俺。凄い脱力感なんですけど……)
辛うじて姿勢を保ったまま視線を足元に流して軽く深呼吸をすると、冷気が心地良かった。
何が起こったのか解らないでいる俺から、巫女の視線が澄羽子に動く。
「こうなった経緯は?」
「は、はい。昨夜、『清廉の氣』を回収中のところで、逆に取り込まれてしまいまして、このような形に変容してしまったのです」
「確か、誠実さとかの人の善なる氣だったな『清廉の氣』は」
「はい。他にも幾つか回収中でして、それらが全てこの身体に入ってしまったようなのです。元に戻す方法を考えて試してはみたのですが、変化は見られませんでした」
「十詞重には聞いたのか?」
「はい。方法を探してくれるとは言ってくれたのですが……反応は良くありません」
「だろうな。半分とは言え、人間領域の問題だろうから、これは」
言葉は渋そうなことを言っているのだが、声音も表情も少ないために本心が分からない。
実は知っているのではないかと勘繰りたくなるほど、目の前の人物は冷静だ。
後ろから歩いてきた青年に問い掛ける様子も、至って淡々としている。
「どう思う?」
「う~ん。近い氣がしなくもないが……術付きじゃ何とも言えない」
「では、外してみよう」
当然のことのように首の呪布に手を掛けられ、案の定澄羽子が慌てだす。
「お待ちください、巫女様」
「大丈夫だ」
制止の言葉を物ともしない巫女の言葉に、周囲の者達は武器を手にした。瞬時に空気が張り詰めた気がする。
澄羽子は黙って立ち止まると、拳を握り締めた。
俺もまた思わず身体を強張らせる。
布の切れる音と同時に全身を血が駆け巡る感覚に、また光が放たれるのかと緊張が走る。
衝撃のようなものは無いのだが、瞼をぎゅっと閉じる。
しかしその意に反して、微かに光が散っただけで目に見える変化は何も起こらない。
「あ、あれ?」
拍子抜けして声を出すが、巫女はあっさりとそれをスルーした。
「どうだ。何か感じるか?」
「あ~何と言うか……半分当たりっぽい」
「どういう意味だ?」
「氣は確かにあるけど、やや微妙なモノがある」
「それが半分か。澄羽子、返すぞ」
何か掴んだのか、巫女は俺を澄羽子の方へ軽く押して呪布を掛け直させる。
光は起きなかったものの、やはり何匹かの鬼が現れたようで由翬子の姿が無い。
叉羽子の肩から山吹も離れているが、辺りは風に揺れる木々のざわめきしか聞こえない。
身構えていた分、すっきりしない感覚が残る。それに少し違和感も。
(何かに吸い込まれるような感じだったけど……。弱まってきているのか?)
自分の都合の良いように解釈していると、巫女と青年の声が聞こえた。
「きちんと調べてみないとハッキリしたことは言えないけど、間違いなく『白鴉』の氣だ。それだけは断定できる」
ハクアという言葉は確か前にも聞いた気がする。
聞き慣れない筈の音たちが、俺の頭の中では聞いたことのある言葉として認識されている。それが何処だったのかまでは浮かばないのだが、確かに覚えがある。
不思議に思って記憶を辿っていると、青年との話を終えたらしい巫女がこちらに向き直って声を掛けた。
「少年、名前は?」
「朔一です」
「私は與。左櫛に部屋を準備させるから、今夜はそこで休んでくれ」
「あ、俺は京って言うんだ。宜しくな」
「こちらこそ、お世話になります」
手を差し出して笑顔を向けてくる黒髪の青年―京は、明るく俺と握手を交わした。
人懐こそうな表情を見せるものの、京の目を見た瞬間に、俺は動きを止めた。
京の瞳が右は澄羽子たちのような深紅なのに対し、左眼は例の如く満月を映す黄金色だったからだ。さすがに二度目は驚きだけで済んだが、放たれる光はやはり印象的だ。
同じ色の右眼を持つ巫女様の與は、踵を返して俺から離れると、控えていた由翬子に何か伝えて大岩に置いてあった物を拾う。それが剣だと知ったのは、與が腰に差したときだった。
(そう言えば『鬼斬り』もするって話だっけ……現役かよ)
巫女という名からは掛け離れた姿に、俺は少しだけ異様さを感じた。
基本的に、巫女と名の付く人物は初詣の神社でくらいしか見たことがない。
(神聖ってより殺伐な雰囲気があるのがまず違うよな……)
話し方からして、與は女性らしさが薄い。
体型や動作はしなやかで、顔立ちも澄羽子の言葉が贔屓目ではないことを裏付けるように、綺麗な部類だ。
けれど、その身から放たれる空気が違う。例えるなら、豹のような――
「――痛っ!」
「巫女様が穢れるから、あんま見ないで頂戴」
突然首の鎖を引っ張られて、俺は無理矢理に斜め後ろを向かされた。
咎めるような視線でこちらを見る澄羽子に俺は眉を潜めて、急激な方向転換にじんじんと痛む首に手を伸ばす。
勿論、首の呪布から伸びる鎖は胸の辺りから見えなくなっているが、澄羽子の手にその先があるように見えた。
少しその姿を見ていただけでこの仕打ちは、街で他の女性を見た彼氏を叱る彼女の図と言うより、他人の彼女に手を出した男が彼氏に牽制された感じに似ている。
(アレ。それって何かおかしくないか?)
被害を受けた自分=手を出した男。という見解に至って、俺は更に眉根を寄せた。
「澄羽子、来なさい」
「はい、巫女様」
疑問符を浮かべる俺を他所に、與に名前を呼ばれた澄羽子はスキップでもしそうな勢いで、與のところへと向かって行く。
鎖の引力から解放された俺が首を回しながらその背を見送っていると、声を掛けられた。
「長老には言って来たの?」
「はい。十詞重さんの所から戻って、巫女様に会うって話を。でも、こっちにこのまま居るなら連絡した方が良いですか?」
「それはあたしから文を出しておく。暫く澄羽子は自分で手がいっぱいだし」
「え、それってどう言う……?」
「人間を巻き込んでしまったんだから、始末書を提出して処分が降るまでは動けない。アンタの面倒は別の者が見ることになるだろうしね」
「始末書?」
「アシナギは組織だ。自分の起こした不始末の責任を取るのは当然」
由翬子の口から現実的な言葉を聞いて、俺は澄羽子の方へ視線を投げる。
嬉々として向かった先刻の姿から一転して、澄羽子はしゅんと肩を落として與から話を受けている。正にお叱りを受ける部下の体だ。
数々のぞんざいな扱いを受けてきたものの、俺は澄羽子を少しだけ気の毒に思う。それくらい澄羽子の様子は意気消沈したものであった。
それと同時に、事態の重大さをひしひしと感じる。
鬼霊を相手に活動したり羽扇で空を飛んだり、しかも烏の妖霊獣であったりと現実離れした環境の中で……いや、その中だからこそ、通常の人間であった俺が巻き込まれた現状は、やはり機密事項に触れる一大事のようだ。
長老や十詞重にたしなめられたときよりも、一段と澄羽子の周りが重く暗い様子であるから、余程のことなのだと俺にも伝わってくる。しかし――
「取り敢えず、成ってしまった事はこれからの態度で責任を果たせ」
「はい! 必ず自分の手で始末は付けます。いえ、付けさせて下さい!」
(始末を付ける、だって?)
不穏な言葉に俺の耳はふたりの話から離れられなくなった。
「この後はお前も左櫛に戻り、書類を提出しておきなさい。以上だ」
(え、しかもそれだけ?)
もっと長く小言を添えて怒られるのかと思っていたのだが、與の対応は意外にもあっさりとしたもので終わってしまった。
付け加えるなら、その表情は勿論、声音も怒りを露にしたものでは全くなく、静かで普通に書類提出を求めたもののようにも聞こえる。
むしろ澄羽子の態度が過剰なだけで、実はそんなに大した事件ではないのかと思える程に。
深く頭を下げて、與の足音が遠ざかるまでじっとしていた澄羽子は、こちらに戻ってくるとやはり沈んだ表情で長い溜め息を吐いたものの、次に顔を上げたときにはいつも通りの様子で由翬子と話し始めた。
先刻までの姿は演技かと疑いたくなる程の、変わり身の早さだ。
「それじゃ、左櫛に行きましょうか」
「……ちょっと待て」
「何よ。質問なら向こうで聞くわよ?」
「質問って言うか、ちょっと聞きたいんだけど……お前、今怒られていたんだよな?」
「一言で言えばそうね」
「それにしちゃ、やけに平然としてないか?」
「失礼ね。うじうじしてキノコでも生やさないといけないの?」
「そこまでしろとは言わないけど……さっきのは演技かと…――」
「益々失礼な奴ね、ホントに。巫女様からお叱りを受けた私の気持ちは、アンタになんて解らなくて結構よ!」
腕を組んでフンと鼻を鳴らしながらそっぽを向く澄羽子に、やはり多少は凹んでいるのだと俺は冷静に観察した。
それがさらに癇に障ったようで、鼻の頭にしわを寄せた澄羽子は足を鳴らして歩き出した。
慌ててその後を追うが、少し先で羽扇を広げた澄羽子はさっさと飛立ってしまう。
「ちょ、ちょっと待てよ、澄羽子」
声を掛けると、扇を止めて振り返った澄羽子は「イ~っだ!」と捨てゼリフを残して夜空に向かって行ってしまった。
「…ったく。大人げのないヤツ」
背後から呆れた色を滲ませた溜め息と呟く声が聞こえたかと思うと、俺は襟首を摑まれて由翬子の羽扇に引き上げられた。
かくして澄羽子を追いながら由翬子の羽扇で左櫛の鳥居前に着いた俺だったが、予想通り其処に澄羽子の姿は無く、静かな夜の町がその先に広がっているだけだった。
慣れない夜道を歩く俺だったが、やはり櫓から零れる明かりだけではどうしようもなく、何度も躓き掛けては歩みを止めてしまった。いくら今は澄羽子の妖気を内包しているとは言え、常人の目には光が足りなさ過ぎなのである。
「人間って本当に不便な生き物……。はい。光度の具合は先端を回して調節できるから」
前を歩いていた由翬子が立ち止まり、差し出してきたのは細身の懐中電灯だった。
それを受け取って付けてみると、幾分か足元が明るくなる。そして言われた通りに光を放つ辺りを回してみると、明かりが大きくなった。
「ありがとうございます」
お礼を言って、歩き始めていた由翬子の後を追った。明かりがあれば、歩く速さも上がる。
由翬子は相変わらず何も話さなかったが、数歩前で揺れる長い黒髪を見ながら、俺は左櫛の夜道を奥へと進んで行く。
随分と歩いた頃、ようやく目的の場所が見えてきたようで、建物からの明かりが俺の心に安堵感を与えた。
三階建ての大きな建物は、瓦屋根に木造で昔の校舎を思わせる風体で、入り口の脇には木版に筆文字で【桃三寮】と書かれた看板が立っている。正面に並んだ格子窓からは琥珀色の明かりが零れ、中からは女性の笑い声や話し声が聞こえてくる。
上空から見たときにコの字型に建てられていた【モモサ寮】は、どうやらここらしい。
思わず立ち止まって、周囲を見たり見上げたりしてしまったが、俺は由翬子がさっさと中に入って行くので慌ててその後に続いた。
「お帰りなさいませ」
入り口のカウンターらしき所で、明るい少女の声に出迎えられた。
その奥では丁度澄羽子が鍵を受け取っているところで、一瞬だけ視線が合ったがやはり直ぐに逸らされた。機嫌はまだ直っていないらしい。澄羽子はこちらに背中を向けたまま、階段脇の石碑に右手を当てた。
続いて由翬子が鍵を受け取ろうとすると、次の瞬間、声の主は俺の姿に小首を傾げる。
「あのぅ…許可の無い方は…ちょっとぉ」
「巫女様から許可は頂いている。寮長に連絡が行っている筈だ」
「あぁ、それでしたら伺っておりますぅ」
「仕度の方は?」
「お部屋の準備も整っておりますよぉ。この方が巫女様のお客人ですかぁ」
「正確には、澄羽子の客人だ」
その声は確かに本人にも届いていた筈だ。おそらく由翬子にもその意図があると分かるくらいの声量だった。
しかし作業を終えた澄羽子は黙って階段を上がって行く。
無言の背中を横目に、由翬子はカウンターから鍵を受け取って歩き出した。
俺は子供染みた澄羽子の様子に溜め息を漏らしつつ、由翬子に続いて寮内に入る。
木張りの廊下を進んで外廊下に出ると、玄関のある棟の中央部分が中庭に突き出る形で円筒形の建物と繋がっているのが見えた。それを左手にして進むと、右手に大きな階段が見えた。その階段で三階に上がり、奥へと向かって歩く。
(学校みたいだと思ったけど、中は本当に寮の形だな……)
コの字型に建つ棟の通路は全て中庭側に面しており、反対側には部屋の扉が並んでいる。木製の柵と屋根はあるが壁も窓も無い外廊下と、同じ形の扉が並ぶ様はよくある集合住宅を思わせた。扉には表札のようなものが幾つか下がっており、郵便受けのような口も付いている。
人の声はあまり聞こえないが、確かな生活感は感じられた。
その中を更に進んで行き、由翬子は突き当たりを左に曲がって別棟に続く橋を渡った。
見れば棟に囲まれた岩窟の真下辺りに平屋の一軒家が高床で建てられている。
上空からでは見えなかったその建物は、寮の三階から渡り廊下でのみ繋がっているようだ。
「安心しろ。屋敷自体も結界の力を持つが、何よりも巫女様の所有地だ。そう簡単に鬼霊は攻めて来やしないよ」
前を行く由翬子が、俺が押し黙っているのを不安がっているのだと思ったのだろう。柔らかい口調で静かに言った。
「そんなに凄い人なんですか、巫女様って」
「お強い。あたしなんて足元にも及ばないくらい」
「す、凄いな……」
「剣術だけでなく妖術も体術もこなされるから、相当だな」
「さすが、首領って訳か」
「まぁ、お持ちの能力が凄いから。なんでもアリなら敵う相手はいないだろうな」
淡々とした口調だが、由翬子が巫女様である與に対して懐いている尊敬度の、かなり高いことが窺える。
何にも増して、與の武術に対する羨望が強いようだ。
「外見からじゃ、想像できませんね……」
「確かに。だが、外見の話でいけば、澄羽子だって相当だぞ」
意外な名前が出て、目を上げる。
由翬子の口から澄羽子を褒めるような言葉が出るなんて、思ってもみなかった。
「苦無や短刀の腕はまずまずだが、あの武器を握ると右に出る者はいない」
「硬鞭とかいうやつですか?」
「なんだ。知っているの」
「一度だけ、見たことがあるんで」
「そうか。アレは、獲物が大きくないと使わないから。逆を言えば大きい獲物ほど効果が出る。威力は相当らしい」
一撃で仕留めたあの一戦を思い出し、その威力に思わず身震いする。
その様は見えていない筈だったが、由翬子の口から小さな笑いが零れた。
「ふふ。アイツらしい武器だけど。それ以外にも、妖術の……特に封印と結界に関して言えば、澄羽子の腕は巫女様にも買われる程」
「その力のお蔭で、こうして動ける俺が言うのもなんですけど、そんなに凄いんですか?」
「まっとうに試験を受ければ、間違いなく御側衆に上がれる」
「それなら――」
「でも、アイツは白鴉になることを諦めない。そのために動きやすい位置で働いているらしい。本当に、莫迦な奴だ」
由翬子の声が、微かに沈んだ。
それでも口で言うほど、澄羽子を見下していないことは俺にも解った。
もし本心ならば、あれほど澄羽子の能力を知っていたり、認めたりする言葉を口にする筈がない。今現在、上司から始末書を書かされている人物に対して、だと言うから尚更だ。
それにここまで澄羽子の力について話してくれたのは、この場に本人が居ないからだろう。
普段は聞けないであろう、澄羽子に対する由翬子の気持ちが聞けて、俺はふたりを少し羨ましく思う。
先に進んだ者、夢を追うために止まった者。現在のふたりの立ち位置は、この形だ。
しかし両者の雰囲気に目上・目下の空気は感じられない。
友達同士の相関位置の方がピンとくる様子で、澄羽子もまた、由翬子の力を認めて頼りにしている部分があるから、結局は似た者同士なのだ。
若干、澄羽子の方がコドモではあるけれど。
俺は先刻目にした澄羽子の様子を思い出し、軽く息を吐く。
丁度その時、由翬子が立ち止まった。
「着いたぞ」
鍵を開け、扉を開いて中へと促される。
部屋の中はベッドと木製のテーブルに椅子。正面には障子戸と窓、サイドテーブルには鏡、その脇には簡易クローゼットがあり、扉の横にはユニットバスも備え付けられている。これでテレビと冷蔵庫でもあれば、完全な宿泊施設と言える。
外観の割にはホテル並みの設備で、俺は思わず声を上げてしまいそうになった。
「部屋の中は好きなように使って良い。鍵はここに置いて行くが、一人で部屋を出るのは覚悟を決めてからにすること。何か質問は?」
「いいえ。十分で……」
ぐぅ~。
返事の途中で腹の虫が鳴った。
空気を読まないやつだ。穴があったら入りたい。
第一、主である俺ですら忘れかけていたのに、その存在を主張するなんて図々し過ぎる。
由翬子は一瞬だけ眉を動かしたが、溜め息を一つ吐いて扉に向かった。
「食事は持って来る。他に必要なものがあれば、考えておいて」
「お手数をお掛けします」
静かに扉が閉まると、俺は一人になった部屋の中で障子戸を開けた。
眼前には夜空と桃三寮の正面棟。そして円筒の建物の建つ中庭が広がっている。
見たことの無い風景に、来た事の無い場所。
深呼吸をしてみれば、木の香りが冷えた空気と共に体の中を通っていく。
頭の芯がはっきりして、こちらに来てから初めて独りになったことを肌に感じると、俺は障子戸を閉めた。
そこへ、扉を叩く音と由翬子の声が聞こえた。
「食事を持ってきた」
意外と早く用意してくれたことに驚いていると、更に驚く言葉がその口から告げられた。
「澄羽子が、先に食事の用意を頼んでいたらしい」
きっと、俺たちの心に浮かんだ言葉は同じだ。
素直じゃない。
でもやっぱり憎めない。
少し苦笑しながら、由翬子はテーブルに食事を並べてくれた。
釜飯に漬物と味噌汁というシンプルな内容だが、木蓋を開ければ湯気と食欲を誘う香りが鼻腔をくすぐった。
「食事が済んだら、廊下に出しておいて。後で片付けの者が来るから」
「分かりました」
「他に必要なものは?」
「特にはありません。大丈夫だと思います」
「そう。明日、巫女様からお話があると思うけど、その前に食事を持って来るから、今夜は早目に休みな」
「はい。何から何まで、ありがとうございます」
俺が頭を下げて礼を言うと、由翬子は静かに部屋を出て行った。
また独りになった部屋で、温かな食事を摂り言われた通りに食膳を廊下に出すと、俺は満腹感と同時に襲った睡魔に従うように、ベッドに倒れ込んだ。
少し硬めの布団からは微かに太陽の匂いがして、忘れていた疲労感もやんわりとくるまれていく気がする。
今日一日で、本当に色々な事があった。
突然連れ出されて、しかも脳天に鎌を突き立てられて全身が白くなってしまった。
生まれて初めて扇に乗って空を飛んで、妖霊獣である人物とも言葉を交わした。
その上戻る方法は見つからず、更には鬼霊という見たことの無い生物に襲われるらしい。
兎にも角にも、考えることは山ほどあるが、今夜はゆっくり眠ろう。
俺は薄れ行く意識の中で、今日の出来事を断片的に思い出したが、静かに瞼を閉じる。
(朝起きたら、いつも通りだったりして)
ふとそんなことを期待しながら、眠りの海へと漂い始めた。




