妹に婚約者を譲ったお人好しになど、なりたくありませんので
「違う、違うんだ、シャルレーヌ!」
わたくしの婚約者であるニュイ侯爵家の三男のマティス様が、プラチナブロンドをふり乱しながら、次期領主夫妻用の寝室でわたくしの妹と情事に耽っておりました。
「おっ、お姉様……! 違うわ……!」
「いいのよ、ポリーヌ。なにも言わないで」
妹は一つ年下で、マティス様はわたくしと同い年です。
「違うのよ!」
可哀想なポリーヌは、わたくしがなにかを勘違いしていないかと、不安に思っている様子。マティス様の腕に抱かれながら、菫色の目に涙を浮かべています。ポリーヌの結い上げたピンクブロンドの髪は解けかけていて、髪束が一筋、剥き出しの肩を這っています。
「お前たち、見たわね」
侍女と側近と護衛騎士が、それぞれ見たと返事をしました。
侍女が「旦那様にお知らせします」と言い残し、執事のところへと駆けていきます。
お父様は、今日は近くの友人の家を訪ねています。すぐに戻ってくることでしょう。
「待ってくれ!」
マティス様がアイスブルーの目を見開いて大慌てしておりますが、もう遅いです。
「マティス様を捕らえて地下牢へ」
護衛騎士が全裸のマティス様と少し格闘して気絶させると、肩に担いで部屋を出て行きました。その間、ポリーヌは、ずっと汚い言葉で喚いていました。
「お姉様、聞いてちょうだい! 違うわ! わたくし、襲われていたのではなくて……!」
ポリーヌは言募りながら、白い上掛けで豊かな胸を隠しました。
「わかっているからいいのよ。すぐに侍女が来るから待っていなさい」
わたくしはポリーヌの言葉を遮ると、寝室から出ました。
側近のエルマンの手で扉が閉められると、足が震えました。
「お姉様、待って……!」
ポリーヌの声が追いかけてきますが、待つわけがありません。
エルマンが片腕をさし出してくれたので、わたくしはその腕につかまりました。エルマンにエスコートされて、自室へと向かいます。
「マティス様も、ポリーヌも、なんと破廉恥な……」
二人は合意の上での情事の最中でした。こっそり恋仲になっていましたからね。ポリーヌに説明されるまでもなく、わたくしは正しく理解しています。
わたくしは先ほど二人に向かって、「ポリーヌがマティス様に襲われているわ……! なんということなの……!」と叫びましたが……。ええ、わかっています。ポリーヌがマティス様に襲われていたのではありません。
あのような下劣な者たちが、わたくしの婚約者と妹だったなんて……。許しがたいことです。
「シャルレーヌ様……」
エルマンが励ますように、わたくしの手に触れました。エルマンのわたくしへの気持ちは知っていますが、わたくしは婚約者のいる身です。応えることはできません。
「やめなさい、エルマン。わたくしまで恥知らずにしないで」
エルマンは、我がジヴレ侯爵家の寄り子オロール子爵家の次男です。ハニーブロンドに琥珀色の瞳。顔は整っていますが、少し垂れ目なせいで端正より甘いという言葉が似合います。
エルマンとは同い年なので、共に王立学園に通っています。長身で甘い顔立ちのエルマンは、少し軽い性格もあって女生徒の人気もなかなかのもの。そんなエルマンに好かれるのは、少しだけ嬉しくもありつつ、困ってもいました。
わたくしはマティス様が好きだったから……。上位貴族の子息らしい美しい所作も、王子様然とした容姿も、エスプリに富んだプレゼントも、わたくしの心を捕らえて離しませんでした……。
マティス様から贈られた冒険小説に添えられていた、黒い台紙に白い葉脈標本の栞。本を読み終えた時、その葉がなにかを知りました。大冒険を終えた英雄王が王妃と再会したのは、純白の世界樹の下。あの栞は、世界樹の葉をイメージした手作りの贈り物だったのです。
次にマティス様とお会いした時には、マティス様から葉脈標本の作り方を教わりました。わたくしはマティス様の知的で洒落た遊び心が好きでした。
そんなマティス様にとって、わたくしは退屈な女だったのでしょう。次期領主としての勉強しか知らない『堅物女』ですものね……。
「まあ、ヒイラギモクセイの葉ですのね」
とマティス様に言ったのは、ポリーヌでした。
「わかるのかい?」
「ええ、王立学園の中庭に木がありますわよね」
「その木の葉を葉脈標本にして、栞にしてみたんだ」
わたくしを置き去りにして、我が家の庭園の東屋で、二人は笑いあっていました。
ポリーヌは偶然を装って、東屋にやって来ました。ポリーヌの同席を許したのは、マティス様でした。
わたくしはマティス様に冒険小説の感想を話したかったのですが、できませんでした。二人があまりにも楽しそうに、英雄王の剣の素材がオリハルコンなのかヒヒイロカネなのかを議論していたから……。
わたくしが必死になって王家に提出する決算書類の書き方の手引書を読んだり、鉄鉱石の仕入れ値のグラフを見ていた時間は……、二人にとっては、庭園の木の種類や、存在しない鉱物のことを知るために使う方が価値があるようでした。
さらには、わたくしが、これからは我が領も武器や防具ばかりではなく、民のために農具を作りたいと思って補助金の申請書を書いていた時……、二人はこっそり歌劇を見に行き、その帰りに王都の下町の宿屋で休憩していました。
「お父様はわたくしに甘いのよ。わたくしが頼んだら、次期領主にだってしてくれるわ」
ポリーヌに付けた我が家の『影』が、二人の睦言まで、すべてを報告してくれました。
その推測は間違っていません。
お父様は、ポリーヌの願いを叶えるでしょう。わたくしが失うもののことなんて、考えもしないで……。
マティス様と結婚するのがポリーヌでも、我が家で作った武器や防具は、ニュイ侯爵家の持つ漕船で王都まで運んでもらえます。お父様は婚約者を交代させても問題ないと判断するでしょう。
お父様は、わたくしのことなど、どうだっていいのです。亡きお母様に似た銀髪に青い瞳の、わたくしのことなど……。
ポリーヌは、お祖母様似です。お父様は、自分の母親が大好きなのです。
「君と一緒になれたら、きっと楽しい人生になるのに……」
マティス様はそう言うと、ポリーヌの首筋に口付けたそうです。
『影』には嫌なものを見せてしまったので、特別手当を出しました。
なんでこんなことになってしまったのでしょう……?
「シャルレーヌ様……」
エルマンが心配そうに、わたくしを見ています。
人の心はままならぬもの……。
わたくしがエルマンを好きなら、もっと楽に生きられたのに……。
「お父様が戻ったら、ポリーヌより先に会うわ」
「わかっております」
エルマンには自室の前まで送ってもらいました。
わたくしは部屋に入ると、お気に入りの猫足の椅子に座りました。丸テーブルに突っ伏して、泣くのを我慢します。
みんな自分のことしか考えていません。
わたくしの幸せを願ってくれる人は、一人もいないのでしょうか……?
「いるわ……」
わたくしは自分に言います。
一人だけいます。
わたくしが、わたくしの幸せを願っています。
ジヴレ侯爵家の次期領主になるのは、わたくしです。
領主になるために、ずっと努力してきました。
その努力のせいで、マティス様を失いました。
この上、領主の座まで奪われるわけにはいきません。
わたくしは静かに立ち上がると、部屋を出ました。
廊下には、エルマンが立っていました。
わたくしは黙ってエルマンの前を通り過ぎ、玄関ホールに向かいます。
エルマン……、わたくしなんかを心配してくれていたの……?
『次期領主の夫』になりたいのなら、わたくしよりポリーヌを落とす方が楽だったのではなくて……?
口を開いたら、エルマンの気持ちを貶めてしまいそうでした。
八つ当たりなんてみっともないことを、淑女はいたしません。
自分さえ楽になれば良い、なんて思いたくありません。
わたくしは彼らとは違うのです。
背筋を伸ばして、あごを引き、まっすぐに前を見ます。
ドアマンに玄関の両開きの扉を開けさせて、馬車寄せでお父様を待ちました。
外の風に吹かれていると、心が少しずつ落ち着いてきます。
もうすぐ秋になり、王都での社交シーズンが終わります。
空は晴れていて、庭園の木々は美しい形を保っています。
しばらくすると、鳥の声や噴水の水音に混じって、馬車のやってくる音が聞こえてきました。
我が家の馬車が止まり、お父様が青い顔をして下りてきました。
「お父様……、ポリーヌが……、ポリーヌがマティス様に襲われたのです……」
わたくしはお父様の胸に抱きついて静かに泣きました。
涙は、この時のためにとっておいたのです。
「おお、なんということだ……、シャルレーヌ……」
お父様は、まだマティス様とポリーヌが恋仲になっていることを知りません。『影』に調べさせたところ、二人は子供ができてから、お父様に言うつもりでいました。
「可哀想なポリーヌ……。マティス様が、わたくしの妹を傷つけるなんて……」
わたくしは肩を震わせました。
「落ち着きなさい、シャルレーヌ」
「お父様、やさしいポリーヌは傷物にされたのに、マティス様を庇うのです……。哀れでなりません……」
わたくしはお父様を見上げました。
「あの子は……、そういう子だ……」
お父様の目にも涙が浮かびました。その青い目は、現実ではなく、お父様の見たいものしか映さない欠陥品ですが……。
「そうですわ、お父様……。あんな良い子を傷つけて良いはずがありません……」
「次期領主夫妻用の寝室でだったか……」
「はい……。マティス様は自分こそ次期領主だと勘違いしたのですわ。わたくしを正妻に、ポリーヌを妾にするつもりだったに違いありません。わたくしという婚約者がいながら、ポリーヌにも手を出したのです。そういうことですわよね?」
実際には、わたくしとの婚約を解消して、ポリーヌを新たな婚約者に据えたかったのですけれど……。
「ああ、そうだな……。その通りだ」
「きっとマティス様はポリーヌを力づくで自分のものにしたら、ポリーヌも逆らえないと思ったのですわ……」
「なんと卑劣な! ただではおかんぞ、マティス! ニュイ侯爵家!」
「お父様、ポリーヌはきっと……、もうマティス様と結婚するしかないと諦めています……。どうか助けてあげて……」
わたくしはお父様の胸に顔を埋めました。
お父様がわたくしを抱きしめてくれます。ああ、こんなことは、いつ以来でしょうか……。
「もちろんだ! もちろんだとも!」
「非力な女にとっては、男性に襲われるなんて、本当に恐ろしいことなのです……。ポリーヌも、どれだけ恐ろしい思いをしたことか……。今は侍女にポリーヌの世話をさせています……。今日のポリーヌの護衛騎士が、女性で良かったですわ……」
「そうか……」
お父様はポリーヌのために号泣していました。完全に雰囲気に流されています。
「お願いです、お父様……。ポリーヌが取り乱しても、どうか怒らないであげてくださいませ……。きっとポリーヌは……、心にもないことを言ってしまうと思うのです……」
「ああ、ああ……。大丈夫だ。安心しろ、シャルレーヌ」
お父様はわたくしの両肩をつかみ、力強く請け合ってくれました。
「わたくしたちは、お父様だけが頼りなのです……」
「わかっている。わかっているとも」
普段はわたくしに冷たいお父様ですが、まるで別人のようです。
お父様は、わたくしの涙をご自分のハンカチで拭ってくれました。
「行くぞ、シャルレーヌ」
「はい、お父様」
わたくしはお父様にエスコートされて、館に入りました。
お父様はマティス様のいる地下牢に行き、力の限りにマティス様を罵倒しました。マティス様の話なんて聞きません。
続いて、わたくしとお父様はポリーヌの部屋に行きました。
ポリーヌはドレスをきちんと着て、丸テーブルとお揃いの猫足の椅子に座っていました。
侍女が二人、ポリーヌの後ろに立っています。二人ともポリーヌ付きの侍女ですが、すでにわたくしが買収しています。
「ポリーヌ、マティスに襲われたそうだな!」
「違っ、違うのです、お父様……!」
ポリーヌは慌てて椅子から立ち上がりました。
「お父様、ポリーヌは、まだ現実を受け入れられないのですわ……」
「そうか、そうなのか……」
お父様は身体の横で拳を握りしめました。
「わたくしとマティス様は愛しあっているのです……!」
「無理することないのよ、ポリーヌ」
わたくしが労わると、ポリーヌは「違うわ!」と顔を醜く歪めました。わたくしにはポリーヌが怒っているとわかりますが、お父様にはどう見えているでしょう……?
「ポリーヌを苦しめおって! マティスめ、殺してやる!」
どうやら苦悶の表情に見えたようです。
お父様はポリーヌの部屋を飛び出していきました。
「貴女も、マティス様も、もう終わりよ」
わたくしはポリーヌの前で、勝ち誇った笑みを浮かべてみせました。
ポリーヌは奇声を発しながら、丸テーブルの上に置いてあった水差しを投げつけてきました。取り乱した状態で物を投げたって、当たるわけがありません。水差しは壁に当たって砕けました。
お父様が駆け戻って来て、ぶるぶると震えているポリーヌと割れた水差しを見比べました。
「こんなことをする子ではなかったのに……」
わたくしの言葉を聞くと、お父様は無言で部屋を出て行きました。
「ポリーヌ、どうなるか覚悟しておきなさいよ」
わたくしは言い捨てると、お父様の後を追いかけました。
本当にマティス様を殺させるわけにはいきませんからね。
「シャルレーヌ様は恐ろしい方ですね」
エルマンが後ろから話しかけてきました。
「……幻滅したかしら?」
「まさか。青い血の美しさを褒めたのですよ」
青い血は、高貴なる貴族を意味する言葉。エルマン、こんな褒め方もできる男だったとは……。少し評価を改めなければなりませんね。
お父様は地下牢には行かず、玄関ホールで執事にニュイ侯爵家に使いを出すよう命じていました。
「さっさと来ないとマティスを殺すと伝えろ!」
執事はお父様に「承知いたしました」と応えると、執事見習いに向かって、馬丁に馬の用意をさせるよう命じました。どうやら執事が自分で伝えに行くようです。
「お父様、わたくしの同級生に辺境伯令嬢がいます。辺境伯家の領地には、有名な女子修道院があるのです。ポリーヌのような災難に遭った令嬢が多くいて……」
わたくしはそこで言葉を切り、自分のハンカチで涙を拭いました。
「辺境伯家にも使いを出せ。女子修道院の資料を譲ってほしいと伝えろ」
侍女長が「わたくしが参ります」と言って、使用人出入口の方へと足早に去っていきました。
「お父様……」
「大丈夫だ」
お父様の言葉は、とても力強いものでした。
「頼もしいですわ……」
わたくしはお父様を称賛の目で見上げました。
ああ、お父様は、なんて気分が良さそうなのでしょう……。
そうですわよね。頼りにされて、褒められたら、力が漲ってきますわよね。
「お父様、お医者様はどうしましょう……。ポリーヌの名誉のことを考えると……」
「そうだな……」
「もしも……、マティス様の子ができていたりしたら……。ポリーヌは狂ってしまうのでは……」
わたくしは俯きました。
「ごめんなさい、お父様。本当は、こんなこと言いたくなかったのです……。でも……」
「ああ、わかっている」
お父様は硬い声で言うと、わたくしに自分の部屋に戻るよう命じました。
わたくしはエルマンを引き連れて、自室に向かいます。
「どうなるのかしら……」
わたくしの口から、言葉がぽろりとこぼれ落ちてしまいました。
上手くいくのかしら……?
お父様が落ち着いてしまって、マティス様やポリーヌと冷静に話し合って、事実を知ることになったら……?
わたくしはポリーヌにマティス様と次期領主の座を譲ることになってしまうかしら……?
すべてを失って女子修道院に送られるのは、わたくしの方……?
「シャルレーヌ様がお命じになるなら、私はなんでもいたします」
エルマンが小声で言います。
「なんでも……?」
「お望みとあらば、マティスに自害させてみせましょう」
ああ、エルマン、なんということを……。誰かに聞かれたらどうするのです……。
わたくしは廊下でエルマンに向き直りました。
エルマンは悲しそうな顔をして、わたくしを見ていました。
「そんな必要ないわ」
「私では、なんのお役にも立てませんか……?」
いくら辛そうにほほ笑まれても、人を殺すよう命じるなんてできません。
わたくしのような小心者には、人に勘違いさせて陥れるのが限界です。
今だって、不安に押し潰されそうなのです。
「一緒にいてちょうだい……」
考えるより先に、口にしていました。
「もちろんです」
ああ、エルマンを好きになれたら良いのに……。
幼い頃に母が亡くなると、わたくしを心から愛してくれる人はいなくなりました。わたくしは父に自分を見て欲しかったのです。ずっと手に入らない愛を求めながら生きてきたのです。自分でも、わかっています。マティス様に惹かれたのは、マティス様がわたくしよりポリーヌが好きだったからです。お父様と同じように、ポリーヌの方が好きだったから……。
恋愛なんて下らないものです。
人の心だって下らないです。
わたくしには恋も愛もわかりません。
わたくしは、ただ、手に入らなかったものを求めているだけなのです。そういう習性を持った生き物だから……。こんなわたくしは、野山に生きる獣と同じなのではないでしょうか……?
わたくしはエルマンを見つめました。
「どうしました?」
やさしい声でした。
エルマンは、いつまで、こんなわたくしを好きでいてくれるのでしょう……?
わたくしは、いつかエルマンの心さえ失うのでしょうか……。
手遅れになりたくない、と思いました。
ポリーヌになんて見向きもしないで、わたくしを一途に想ってくれている人……。
「なにか言って……」
頼んでから、恥ずかしくなりました。なにかって、なんなのでしょう? 漠然としすぎです。
「シャルレーヌ様が好きです。ずっと好きでしたし、これからも好きです。シャルレーヌ様が次期領主の座を追われて、領地に幽閉されたとしても付いて行きます。女子修道院にだって付いて行って、下男でもなんでもやります。一緒に逃げてくれと言うなら、喜んでどこまでだってお供します」
エルマンは、なんでこんなにわたくしを好きなのでしょうか……。どんな幼少期を過ごすと、こんな風になるのでしょう……?
もしかして、わたくしがマティス様を好きで、エルマンの方を見なかったから好きだったのでしょうか……?
エルマンも、わたくしと同じ需要と供給を恋愛に求めているとしたら……? わたくしが手に入ったら、わたくしに興味を失ってしまうのではなくて……?
ああ、そうなったら、きっとわたくしは、心からエルマンを愛することができるわね。
それはそれで良いのではないかしら……?
◇
「シャルレーヌ様を愛しているのです」
私が告げた時、シャルレーヌ様の青い瞳が伏せられた。
「エルマン……。なにか言えなんて、おかしなことを言って悪かったわ……」
詫びの言葉には、どこか切なげな響きがあった。
シャルレーヌ様を手に入れる方法ならば知っている。
『お父様はね、お月様と同じなの。ポリーヌしか照らさない、冷たいお月様』
幼い頃、シャルレーヌ様は寂しそうに言いながら、ジヴレ侯爵家の領地館の庭で夜空に向かって両手を伸ばした。
私には、長らくその言葉の意味がわからなかった。両親や兄弟姉妹に愛されて育った、私には……。
意味がわかったのは、シャルレーヌ様がマティス様に好意を抱いた瞬間を見たからだ。
マティス様は、ポリーヌ様と東屋で語り合っていた。肩を寄せ合い、髪と髪とが触れる距離で。
私は慌ててシャルレーヌ様の横顔を見た。シャルレーヌ様は、マティス様を恋焦がれる瞳で見ていた。それまでは、そんな目で見ていなかったのに。
マティス様が『自分を照らさぬ月』なのだと……。
幼い頃から欲していた『ポリーヌ様しか照らさぬ月』と同じなのだと……。
シャルレーヌ様は気付いたのだ。
「わたくしも愛して! わたくしのことも見て!」
そう泣き叫んでいた子供の心を、シャルレーヌ様は王立学園に通うような年齢になっても、まだ胸の奥底に抱えていたのだとわかった。
私がポリーヌ様に惹かれるふりをしたら、シャルレーヌ様は私にも目を向けただろう……。
だが、そんなものは愛ではない。
私はシャルレーヌ様のそばにいて、己の捧げられるものを、私が愛だと思うものを、ただまっすぐに捧げ続けるのみ――。
シャルレーヌ様は妹と婚約者が恋仲であることを知ると、少しずつ変わっていった。そのことにご自分で気付いているのか、私にはわからないが……。
ポリーヌ様とマティス様は、シャルレーヌ様の変化に気付かなかった。
以前のシャルレーヌ様ならば、あの二人の情事を見たら、泣きながら大人しく身を引いただろう。そういう方だったのだ。
ポリーヌ様は、シャルレーヌ様が館にいるのに、マティス様を次期領主夫妻用の寝室へと誘った。シャルレーヌ様に二人の仲を見せつけるつもりだったに違いない。自分がマティス様と次期領主の座を手に入れるには、それが最も手っ取り早いと勘違いしたのだ。
シャルレーヌ様がポリーヌ様とマティス様を責めたら、旦那様はポリーヌ様とマティス様の味方をしたに決まっている。
「お前は姉なのだから、ポリーヌに譲ってやりなさい」
旦那様がシャルレーヌ様を叱る姿が見えるようだ。
シャルレーヌ様も、それがわかっていたから、別の道を模索したのだろう。
「お父様……、ポリーヌが……、ポリーヌがマティス様に襲われたのです……」
シャルレーヌ様は旦那様の胸で静かに泣いていた。
その静けさとは裏腹に、望む未来を手に入れるため、力づくで現実を捻じ曲げていた。
かつてのシャルレーヌ様ならば、黙って己の運命を受け入れていただろうに……。
東方の蓮という花は、泥の中で美しく咲くという。
シャルレーヌ様は、汚泥の中で、強く、美しく、やさしい姉を演じていた。
◇
わたくしはエルマンを伴侶として、今もジヴレ侯爵家の次期領主として働いています。
窓の外では、雪がすっかり溶けて、春の花が咲き始めていました。
もうすぐ社交シーズンが始まります。
そろそろ王都に向かわなければなりません。
「シャルレーヌ」
お父様が、わたくしの名を呼びながら、執務室に入ってきました。
「どうなさいました?」
わたくしが笑いかけると、お父様は答えることなくソファーに腰を下ろしました。
「シャルレーヌ、お前も座りなさい」
「はい」
わたくしはお父様に素直に従いました。
「そろそろポリーヌを修道院から戻そうと思うのだ」
ポリーヌは以前からお父様に『帰らせてほしい』という手紙を送ってきていました。
「大丈夫なのですか……?」
「本人が、もう修道院にいるのは限界だと言っている」
一年半ほどで音を上げるとは、ポリーヌも情けないですね。
「可哀想なポリーヌ……」
わたくしは小さな声で言います。
お父様も貴族。わかるでしょう。
わたくしはマティス様との婚約を解消すると、すぐにエルマンと婚約しました。
マティス様はニュイ侯爵家の領地の片隅にある小屋に幽閉され、ポリーヌは女子修道院に送られました。
社交界では、マティス様とポリーヌの間に、『なにか』が起きたのだろうと噂されています。
マティス様が婚約者の妹を襲って傷物にしたとか……。
ポリーヌが姉の婚約者を寝取ったのだとか……。
わたくしは誰に真相を問われても、ただ憂い顔を見せるだけ……。
「マティスめ、やはり殺してやりたい……!」
お父様は膝の上で拳を握りしめました。
「いけませんわ、お父様……」
わたくしは、か細い声で訴えます。
「邪魔をしたな。今の話は忘れてくれ」
ポリーヌを守るには、ずっと女子修道院にいてもらうしかないのです。王都に戻ってきたところで、社交界にはポリーヌの居場所など、もうないのですから……。
お父様が執務室から出ていくと、エルマンが紅茶を淹れてくれました。
「エルマン、わたくしが恐ろしい……?」
わたくしは夫に問わずにはいられませんでした。
「まさか」
エルマンは肩を竦めると、わたくしの隣に座ります。
「どんな貴女も愛していますよ」
甘い口調で言いながら、わたくしをうっとりと見ています。
まるで美酒にでも酔っているよう……。
エルマンが幸せそうなのを見ていると、なんだかほっとします。
まるで日溜まりにでもいるような心地良さがあるのです。
エルマンに抱きしめられると、なぜか小さな子供に戻ったような気持ちになります。
「わたくしも愛しているわ、エルマン」
きっと人々は、この穏やかな時間を愛と呼ぶのでしょう。
わたくしは、ずっと欲しかったものを手に入れたのでした。




