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婚約破棄して真実の愛を選ぶそうなので、王太子妃教育で築いた十年分の成果はすべて回収させていただきます

作者: しいたけ
掲載日:2026/06/22

レイヴァルト王国の王城では、その夜も華やかな夜会が開かれていた。


弦楽の音がゆるやかに流れ、着飾った人々が杯を傾けている。誰かが冗談を言えば、令嬢が扇の陰でくすりと笑い、紳士たちはそれに合わせるように言葉を紡いだ。伯爵夫人たちは、今年の薔薇は香りが弱いだの、東の侯爵家の三男がようやく婚約しただの、さほど重要でもなさそうな話を大切そうに交わしていた。


昔は、こういう光景を素直に綺麗だと思えていた気がする。

けれど、今は少し違う。


笑顔の裏にある探り合いも、何気ない一言で傾く機嫌も、近づけてはいけない相手同士も、いつの間にか見えるようになってしまった。


だから華やかであればあるほど、少しだけ空々しく思えてしまう。


そんな、いつも通りの夜会だった。少なくとも、その時までは。


私は深い青紫のドレスの袖口を軽く押さえた。派手すぎず、地味すぎず、王太子の婚約者として来賓の視線を邪魔しない色。王宮の衣装係はそう言っていた。似合っているかどうかは知らない。ただ、長く立っていても皺が目立ちにくいのは正直助かる。


「アリティア様」


不意に、横から声をかけられた。

でも、振り向く前に、どなたかは分かっていた。


甘い香水の奥に、少しだけ香辛料のような独特の香りがある。

この香りを使う方は一人しかいない。南方伯爵夫人だ。


「ご機嫌麗しゅう、伯爵夫人。先月お生まれになったお孫様は、お健やかでいらっしゃいますか」


夫人の顔がぱっと明るくなった。


「まあ、覚えていてくださったの」


もちろん、覚えている。

覚えていなければ、ここに立つことはできない。


私は微笑み、赤子の話を聞きながら、視線だけで広間の反対側を確認した。


広間の反対側では、ラウゼン王国の老伯爵が一人で杯を手にしていた。

そこへ、少し酔ったレイヴァルト男爵が近づいていく。


私は扇の陰で息を止めた。


あの男爵は、酒が入ると余計なことを言う。


伯爵夫人の話を切る頃合いを見計らい、私は扇を少し閉じた。


「夫人、また後ほど。今夜の蜜煮は南方の果実を使っているそうです。ぜひ召し上がってくださいませ」


南方伯爵夫人は満足げに頷き、甘味(かんみ)の皿の方へ向かった。


これで、男爵は夫人につかまる。あの男爵は伯爵夫人には頭が上がらない。老齢の伯爵は、その間に壁際の椅子へ誘導できる。


係の侍従と目が合った。


私は扇の先をほんの少し動かす。侍従はうなずいて、静かに動いた。


ひとまず、火種は一つ減った。問題は、今夜まだいくつ残っているかだ。


今夜の夜会は、ラウゼン王国との条約交渉を前にした大切な場だった。表向きは歓迎の宴。実際は、翌日以降の交渉を滑らかにするための下準備だ。


誰と誰が話したかとか、どの話題で場が沈んだかとか、誰が、どの酒に手をつけなかったかとか……。そういった細かいところを観察して、会議の駆け引きに役立てていく。


そして気づけば、その役目は私のものになっていた。十歳の頃から。


「少し、お休みになってはいかがですか」


侍女のマリナが、小声で言った。


私は笑った。


「あと半刻」


「お嬢様の半刻は、いつも一刻になります」


「今日は違うわ」


「昨日もそう仰いました」


何も言えなかった。


グラスを取り、白ワインを一口含む。悪くない香りだ。でも今夜の自分には、何の足しにもならなかった。


甘いものが、ほしい。


皿の上に、小さな焼き菓子が並んでいる。薄く砂糖をまぶしたものだ。今手を伸ばせば、手袋が汚れる。汚れた手袋で誰かと握手をするわけにはいかない。


我慢。


そう思ったところで、広間の中央が少し騒がしくなった。


ヴィクトール殿下だ。


レイヴァルト王国の王太子。金色の髪に青い瞳。よく笑い、よく喋り、人の視線を集めることに()長けている。そして、私の婚約者。

私より一つ年上で、婚約したのは十年前だった。


その殿下の隣に、淡い桃色のドレスを着た令嬢がいた。


ミリア・ローレン男爵家令嬢。


最近、王宮の慈善事業でヴィクトール殿下と親しくなったと噂されている人だ。


少女と言うほど幼くはない。

それでも、王宮の夜会に立つには、あまりにも無防備に見えた。

袖口を握る仕草。誰かに守ってもらえると、信じて疑っていない目。


私は一度、息を整えた。


ミリア・ローレンの噂は知っている。殿下の近くにいることも知っていた。

知っていたが、まさか、今夜ここへ連れてくるとは思っていなかった。


「アリティア様?」


マリナが心配そうに顔を寄せる。


「大丈夫。なんでもないわ」


いや……、なんでもある。

けれど、ここで顔に出すわけにはいかない。


私は扇を開いた。今、目を向けるべき相手はラウゼン王国の使節団だ。

明日の会談、王妃陛下への報告、殿下に渡す覚え書き。考えることは山ほどある。

感情は後回しにできる。


ミリア・ローレンのことなど、考えている場合ではない。


そう自分に言い聞かせた。

けれど、うまくいかなかった。



その声が大広間に響いたのは、夜会も半ばを過ぎた頃のことだった。


「ヴィクトール・エルンスト・レオポルド・フォン・レイヴァルトの名において、ここに宣言する」


王太子殿下は広間の中央に立っていた。隣にはミリア嬢。

国王、王妃両陛下が座る上段からは少し離れた、けれど、広間のどこからでも見える位置。


よく選んだものだと思った。

ここで宣言すれば、聞かなかったという者はいないだろう。


楽団の楽曲が少し乱れた。音楽が止んだわけではない。

けれど、演奏者たちの戸惑いはこちらにも伝わってきた。


私は動かなかった。いや、動けなかったのだと思う。


「アリティア・フォン・アーヴィング。私は、そなたとの婚約を破棄する!」


騒めきが広がるまでに、ほんのわずかな間があった。


誰かが息を呑み、誰かが私の名を呼んだ。

隣でマリナが一歩近づく気配がした。


私はヴィクトール殿下を見た。


殿下は高揚していた。恐れも迷いもあったのだろう。

けれど、それ以上に、自分はついに正しいことをしたのだという顔をしていた。


「私は真実の愛を選ぶ。これ以上、心のない婚約に縛られるつもりはない!」


心のない婚約。


その言葉だけが、妙にはっきり耳に残った。


何もなかったわけではない。

少なくとも、私はこの十年を、漫然と殿下の隣で過ごしてきたつもりはなかった。


確かに、熱に浮かされるような恋ではなかったかもしれない。手紙を待ち焦がれるような日々でもなかった。けれど、王太子殿下の隣に立つ覚悟はあった。失言を拾い、足りない知識を補い、殿下が恥をかかないように支えるくらいの情はあった。


それを心と呼べないなら、何と呼べばよかったのだろう。


そして、ミリアが一歩前に出る。


「アリティア様……」


震える声だった。


ミリア嬢の目には、もう涙が浮かんでいた。


あの顔を向けられれば、多くの人は責める言葉を飲み込むだろう。

本人が、それを意識しているかどうかは別として……。


「殿下は、ずっと苦しんでいらっしゃいました。どうか、自由にしてさしあげてください!」


広間のどこかで、誰かの扇が閉じる音がした。


私は息を吸った。ゆっくり、深く。


泣いてもよかったのだと思う。

怒鳴っても、誰かは同情してくれたかもしれない。

けれど涙は出なかった。怒鳴るための言葉も、どこにもなかった。


代わりに浮かんだのは、古い契約書の条文だった。


『王家側の都合による婚約解消の場合、教育に伴う費用および成果物の帰属について、両家協議の上で精算する』


十歳の私が、意味も分からず暗唱させられた条文だ。


いつか役に立つ、と父は言った。

嫌な予言ほど当たるものだ。


私は扇を閉じた。

広間中の視線が、こちらへ向いている。

私はその中で、王太子殿下とミリア嬢をまっすぐ見た。


「承知いたしました」


ヴィクトール殿下が、わずかに目を見開いた。

誰かが息を呑み、それにつられるように、会場のあちこちで小さな騒めきが聞こえた。


「では、婚約解消に伴う精算を始めさせていただきます」


今度こそ、広間全体が騒めいた。



「精算?」


ヴィクトール殿下の声には、はっきりとした不快感があった。


「この場でそのような話をするのか。恥を知れ、アリティア!」


「恥?」


私は少しだけ首を傾けた。


「殿下が正式名において宣言なさいましたので、公的な記録として扱うほかありません」


「記録だと?」


私はマリナから小さな手帳を受け取った。


夜会に手帳を持ち込む令嬢はそう多くはない。いや、ひょっとしたら私くらいかも知れない。だけど、私にとっては、扇や手袋と同じくらい必要なものだ。何が決まり、誰が何を口にしたか。曖昧にしておけば、あとで必ず誰かが都合よく言い換える。


「ヴィクトール・エルンスト・レオポルド・フォン・レイヴァルト王太子殿下による、一方的な婚約解消の申し入れ。理由は、真実の愛を選ぶため……でしたか? 以上、相違ありませんね」


「いちいち正式名で呼ぶな。嫌みたらしいぞ」


「殿下、これは正式な記録です」


殿下の口元が引きつった。


ミリアは、何の話か分からないという顔をしている。


その顔を見て、私は妙なことを思った。


かわいらしい。


本当に。


彼女は悪女ではないのだろう。悪意に満ちた女なら、まだやりようがある。けれど、何も知らずに善意の顔で人を刺してくる相手は厄介だった。


「婚約解消に伴い、王太子妃教育に関する費用の精算、ならびに成果物の帰属確認が必要です」


「成果物?」


「はい」


「王太子妃教育とは、礼儀作法や舞踏のことだろう」


ヴィクトール殿下が言った。


私は、少しだけ黙った。


礼儀作法と舞踏。

その二つで、私の十年を片づけられたらしい。


笑いそうになった。もちろん笑える話などではないけれど。


「殿下のおっしゃる通り、礼儀作法も舞踏も含まれます。ただ、それだけではございません。外交儀礼、宗教上の禁忌、各国要人の家系と婚姻関係。他にも過去の交渉履歴、王宮行事の運営、国賓の接遇、災害時の慈善活動に、王妃代理としての文書処理。まだございますが、続けましょうか?」


広間の奥で、宰相が目を伏せた。


王妃陛下は、動かなかった。

だが、指先だけが肘掛けを押さえている。


「それらの過程で私が作成した資料は、アーヴィング公爵家の負担と、私個人の労力によるものです。王家の所有物ではございません」


「資料など、いくらでも作り直せる」


「では、作り直してくださいませ」


私は、短く返した。

それ以上、言う必要はなかった。


ヴィクトール殿下の顔に怒りが浮かぶ。


「何を持っていくつもりだ」


「この後、予定されていたラウゼン王国との会談に関する資料。それに、来月の晩餐会の席順表と、殿下の演説草稿。贈答品の注意書き、各国要人の名簿、貴族夫人方との私的な連絡網。あとは、殿下が会談前に必ずお読みになっていた要点整理などです」


「それは王宮の仕事だろ」


「いいえ。私の仕事でした」


そう言った瞬間、胸の奥が鈍く痛んだ。


うまくいけば、誰にも気づかれない。失敗すれば、真っ先に責められる。そういう仕事だった。

誰かに認めてほしかったわけではない。けれど、なかったことにされるのは、やはり少し堪えた。


「それでは本日をもって、王太子妃候補としての務めを終えさせていただきます。」


「勝手にしろ」


ヴィクトール殿下が吐き捨てた。


「はい」


私は礼をした。できる限り、丁寧に。

おそらく、この夜会で殿下に向ける最後の礼になる。


「そのようにさせていただきます」



ラウゼン側が翌日の非公式会談の延期を申し入れたのは、夜会が終わってすぐのことだった。


誰かが教えてくれたわけではない。


使者が小会議室へ向かう姿を見た。侍従が抱えていた封筒には、ラウゼンの紋章が押されていた。

それだけで、おおよその用件は察せられた。


理由はどうとでも言える。本国への確認。使節団内での協議。王宮内の事情を考慮しての再調整。

外交の場では、そういう言い方がいくらでも用意されている。


だが、本音は単純だ。

私が外れたレイヴァルトとは、予定通りに話を進められない。


ラウゼンは、そう判断したのだろう。


小会議室で何が話されたかは、思ったより早く伝わってきた。

王宮では、扉を閉めたくらいで話が消えることはない。誰かが聞き、誰かが必要な相手に伝える。


まず響いたのは、殿下が机を叩く音だったらしい。


「たかが女一人が外れただけで、なぜ会談が延期になる」


宰相は、しばらく黙っていたという。


「殿下。明日の会談に向けた根回しは、三か月前からアリティア嬢が進めておられました」


「王宮の者が引き継げばよいであろう」


「引き継ぐべき資料が、手元にございません」


「なぜだ」


「殿下が、アリティア嬢に持ち出しをお認めになりました」


そこで殿下は言葉を詰まらせたそうだ。その顔は、見ていなくても想像できた。


苦し紛れに、殿下はこう言ったという。


「ならば、ミリアに学ばせる」


ミリア嬢は、その場にいたらしい。

不安そうにしていたが、ヴィクトール殿下に視線を向けられると、すぐに笑顔を作ったという。


「はい。私、頑張ります。殿下のお役に立ちたいです」


その言葉に嘘はなかったのだろう。

だが、それを聞いた宰相は、しばらく返事をしなかったらしい。


やがて、王妃陛下が静かに立ち上がった。


「では、明朝から始めなさい。ただし、王太子妃教育を甘く見ないことです」


ミリアはうなずいた。

うなずきながら、まだ何も分かっていなかった。


私にも分かる。

十歳の私も、最初は何も分かっていなかったのだから。



翌朝、ミリアがベアトリス夫人の授業を受け始めた。


その様子を、私は直接は見ていない。

ただ、ベアトリス夫人が初日に何をするかは知っている。


ラウゼン使節団の名簿。


顔、名前、爵位、宗派、食事の禁忌、三年分の交渉履歴。


それを午前中に覚える。午後は席順。


身分の高い順に並べれば済むなら、王太子妃教育など必要ない。隣に座らせてはいけない家がある。亡くなった配偶者の話題を避けるべき方がいる。宗派の違い、過去の領地争い、婚姻関係、酒量、体の不自由がないか。


それらを全部見る。


十歳の私は、それを全部混ぜた表を渡された。

それでも私は、泣かなかった。ちがう、泣く暇がなかっただけだ。


夕方、マリナがこっそり教えてくれた。


「ミリア様は、机の端に置かれていた書類の写しを見て、手を止めたらしいです」


それは、私が王宮に提出していた控えだ。

すべてを持ち出せるわけではない。正式に王宮へ提出した写しは、当然残っている。


そこには、私の字でこう書かれていたはずだ。


ラウゼン旧領問題には触れない。相手から出されても、こちらからは答えない。殿下が冗談で流そうとされた場合、直ちに話題を変える。花の話題は避ける。庭園の話がでたら別の話に移す。……


マリナによれば、ミリアはその書類を見たまま、しばらく動かなかったそうだ。


「これを、全てアリティア様が? ……」


そう呟いたと聞いた。


私は、それに関しては何も言わなかった。


愛があれば頑張れる。彼女は、そう思っていたのかもしれない。

けれど、王太子が自由に口を滑らせれば、周りが頭を下げることになる。


その周りの中に、自分も入る。


やっと、そこに気づけたのだろう。


「私には無理です」


ミリアは夕方には、そう言ったらしい。


早い。そう思ったあとで、少し羨ましくもなった。


私は言えなかった。

十歳の私は、無理ですと言えなかった。


言ってもよかったのだろうか。


答えは出なかった。



私は、自室に残していた資料を一つずつ箱に詰めていた。


王宮で自室としてあてがわれていた部屋は、いつの間にか仕事場のようになっていた。そこには、公爵令嬢らしい物などほとんど置かれていない。机の上には書きかけの覚え書き。棚には夜会ごとの記録。引き出しには、貴族夫人たちとの手紙の控え。どれも、いつか必要になるかもしれないと思って残してきたものだ。


いつか、この資料を持ち出す日が来るかもしれない。

そう思って残してきたものだ。

けど、こんな形で持ち出すことになるとは、思ってもいなかった。


「こちらの帳面もお持ちになりますか」


マリナが差し出したのは、薄い灰色の帳面だった。


ヴィクトール殿下の癖をまとめたものだ。


怒ると早口になる。

不利になると冗談で誤魔化す。

年上の男性に詰められると、必要以上に強い言葉で返す。

緊張しているときは、左手の指輪を触る。


よくもまあ、こんなものまで書いたものだと思った。

だけど、必要だった。


これがなければ、会談のたびに余計な波風が立った。


殿下に悪気はない。

ただ、相手が触れられたくない話題を、軽い冗談のつもりで拾ってしまう。

それが一番困った。


だから、その一言が出る前に、話を別へ流す。そのための帳面だった。


「持っていくわ」


「かしこまりました」


マリナの目が赤くなっていた。泣かないで、と言いかけて、口を閉じた。

泣ける人は、泣けばいい。


私……、私はまだいい。今は、まだ。


その時、扉の向こうで短いノックの音がした。


「ラウゼン王国のヴィンセント殿下がお見えです」


入ってきた侍女にそう告げられて、私は一瞬だけ手を止めた。


「お通しして」


私が一人で迎えるわけにはいかない。マリナには部屋に控えてもらい、ヴィンセント殿下を通してもらう。


ヴィンセント殿下が部屋へ入ってきた。


殿下は積まれた箱を見て、軽く眉を上げた。


「十年分、というのは重そうですね」


「紙は重いものです」


「経験も」


私は答えなかった。


ヴィンセント殿下はそれ以上踏み込まず、書面を差し出した。


「ラウゼン王国は、今回の条約交渉において、アリティア・フォン・アーヴィング嬢を臨時顧問として迎えたいと考えています」


マリナが息を呑む音が聞こえた。


私は、書面を見た。

封蝋にはラウゼン王家の印章。


本物だ。


「でも、私は、レイヴァルト王国の公爵家の娘です」


「承知しています」


「それに……、昨日まで、王太子妃候補でした」


「その点も承知しています」


「では、なぜ」


ヴィンセント殿下は、少し考えた。

すぐに社交辞令で包まないところが、少し意外だった。


「あなたが作ったものは、婚約者という立場だけで作れるものではありません」


広間で聞いた声とは違っていた。

周囲に聞かせるためではなく、私にだけ届けばいいというような、低く静かな声だった。


「私は、あなたの仕事を見ていました。正確に言えば、あなたの仕事の後に、何も起きなかった場を見ていました」


私は、積まれた資料箱へ視線を落とした。


その中身を必要だと言われることには慣れている。

でも、それを作った私自身のことまで見られていたとは思わなかった。


「何も起きなかった、という結果だけを見れば、簡単に見えるのでしょうね」


ヴィンセント殿下は、そこで一度言葉を切った。


「けれど私は、そうは思いません」


やめてほしいと思った。責められるなら、返す言葉がある。

けれど、こういう言い方をされると、どうすればいいのか分からなかった。


「返事は急ぎません。レイヴァルト王国は、あなたを不要としたのかもしれません。ですが、ラウゼン王国はそう考えていない。それだけは、お伝えしておきます」


私は長く息を吸った。


「少し、考えさせてください」


「もちろん」


ヴィンセント殿下は頷いた。


帰り際、ヴィンセント殿下がふと机の皿を見た。

菓子が一つ、置いたままになっている。

まだ、手をつけていない。


「召し上がらないのですか」


「手袋が汚れますので」


「今は夜会ではありませんよ」


その通りだった。あまりにその通りで、私は少しむっとした。


「ヴィンセント殿下は、時々失礼です」


「よく言われます」


「嘘でしょう」


「はい」


認めるのか。


私は、思わず殿下を見た。


ヴィンセント殿下は、ほんの少しだけ口元を動かした。



ラウゼンとの小会談は、三日後に行われた。


もちろん、私は、そこには呼ばれていない。

もう王太子妃候補ではないのだから、当然といえば当然だ。


それでも、気にかかることはあった。旧領問題だ。


ラウゼン王国とレイヴァルト王国の間では、三十年前の条約で一応の決着がついている。

ただ、条約に署名したからといって、相手が忘れてくれるわけではない。

そんなことは、資料を読めばすぐ分かることだった。

なぜなら、私の資料には赤字で書いていたのだから。


絶対に触れないこと。

相手が笑顔で水を向けても受けないこと。

自国の正当性を語る場ではない。


それなのに、ヴィクトール殿下は、相手が差し出したその話題を拾ってしまった。


その場の詳しいやり取りは、あとで宰相から聞いた。


殿下は、悪びれもせずに「些細なことだ」と、言ったらしい。


宰相は、静かに答えたそうだ。


「殿下にとっては些細でも、相手国にとっては違います。そこを大事(おおごと)にしないために、アリティア嬢は十年、先に手を打っておられたのです」


私はそれを聞いて、何も言わなかった。怒る気にも、ざまあみろと思う気にもなれなかった。

ただ、ああ、やっぱり、と思った。


それだけなのに、ひどく疲れた気がした。


会談は、一つの言葉だけで壊れるわけではない。


相手の笑みが少し薄くなる。返事までの間が、ほんの少し長くなる。同席している者が、杯に触れるふりをして目を伏せる。


そういった、小さな変化を見落としたまま話を続けると、たった一言で戻れなくなる。


だから、その前に話題をずらす。言い方を変えることもある。

殿下が気づく前に、場を元に戻す。


私はそんなことを、十年続けてきた。



ヴィクトール殿下に呼び出されたのは、それから二日後だった。


王城の応接室の空気は、どことなく冷えているように感じた。

菓子もなければ、紅茶も冷めていた。


以前なら、私が先に来て、茶器の位置まで整えていた。殿下は夕方は機嫌が悪くなりやすいので、甘い菓子を添える。そういう細かな手順があった。


今日は、どれもない。


ヴィクトール殿下は、立ったまま言った。


「戻れ」


それだけだった。


私は、ゆっくり瞬きをした。


「どちらへでしょう」


「私の隣に決まっている」


「婚約は破棄されました」


「取り消せばいい」


簡単に言う。


あまりに簡単に。


「ミリアは王太子妃には向かない。母上も宰相もそう言っている。お前ならできるのだろう」


お前ならできる。その言葉を、私は何度聞いただろう。


お前なら覚えられる。


お前なら耐えられる。


お前なら支えられる。


お前なら怒らない。


お前なら、分かってくれる。


お前なら……。


「殿下」


その声は、自分でも驚くほど冷たかった。


「私は、殿下の不足を埋めるためにいるのではありません」


「不足?」


ヴィクトール殿下が眉を上げる。


「私が必要なのではないのでしょう。殿下が必要としているのは、資料と、根回しと、失敗をなかったことにする人間です」


「それの何が悪い。お前はそれができる」


「できることと、承ることは別です」


ヴィクトール殿下が黙った。

言い返されるとは、思っていなかったのだろう。


「……私を見捨てるのか」


どの口が……だが、殿下は本気でそう思っているのだろう。


私は、少しだけ疲れて笑った。


「最初に手を離したのは、殿下です」


ヴィクトール殿下は何か言い返そうとして、結局、口を閉じた。


その顔を見て、私はようやく分かった。

もう、殿下の顔色をうかがう必要はないのだ。


「戻りません」


私は言った。


「これからは、私の力を、私のために使います」



ミリア・ローレンから手紙が届いたのは、その翌日だった。


薄い紙に丸い文字が並んでいる。何度も書き直したのだろう。ところどころ、インクの濃さが違っていた。


アリティア様。


私は、何も分かっていませんでした。


手紙は、そんな言葉から始まっていた。


殿下を自由にしてあげたいと思っていたこと。

私を冷たい人だと思っていたこと。

王太子妃教育を、厳しい礼儀作法くらいに考えていたこと。


文章は決して上手ではなかった。謝罪も、きれいに整ってはいない。

けれど、言い訳は少なかった。


最後に、一文、こう書かれていた。


殿下は、自由にしてはいけない方でした。


私は、その一文をしばらく見た。


許すかどうかは分からない。


彼女の無知で傷ついたものは、確かにある。

けれど、手紙を破る気にもなれなかった。


封筒に戻して、資料箱ではない引き出しへしまう。


仕事の書類と一緒にはしたくなかった。



三日、返事を待ってもらった。


本当は、最初から答えは決まっていたのかもしれない。

それでも、三日は必要だった。


自分の人生を、自分で選んだのだと、せめて自分には分かるようにしておきたかった。


私は父にすべて話した。


父、アーヴィング公爵は、最後まで黙って聞いていた。


王家を責める言葉も、ヴィクトール殿下を罵る言葉もなかった。

私が話し終えたあと、少しだけ目を伏せて、それから言った。


「お前の人生は、お前のものだ」


私は、膝の上で握っていた手を少しだけ緩めた。


ヴィンセント殿下が正式な使者を伴って公爵家を訪れたのは、四日目の午前だった。


私はアーヴィング公爵家の応接室で、ヴィンセント殿下を迎えた。

王宮で向き合ったときとは違い、背後には見慣れた壁紙と、幼い頃から使っている茶器棚がある。


それだけのことなのに、肩に入っていた力が少し抜けた。


「お返事を伺っても?」


「お受けいたします」


そう答えると、ヴィンセント殿下は一度だけ、深く頷いた。


大げさに喜ぶことはなかった。

それが、少しありがたかった。


「ラウゼン王国は、あなたのために席を用意します」


「王弟殿下の隣に、ですか」


少し意地の悪い言い方だったかもしれない。その自覚はあった。


ヴィンセント殿下は笑みをたたえながら答えた。


「その案も魅力的ですが、まずは、交渉役の席についていただきます」


私は、返事を忘れた。


「……ずいぶん、目立つ席ですのね」


「その方が、発言を聞き逃されません」


「私が失敗したら?」


「そのときは、あなたの名で叱責を受けることになります」


私は顔を上げた。


「もちろん、うまくいったときも同じです」


慰めではなかった。むしろ、厳しい言葉だ。

けれど、その厳しさの中に、私を一人の実務者として扱う響きがあった。


失敗まで私のものにしていいのだと、そう言われた気がした。


成功も、失敗も、自分のものになる場所。

そんなものを、私はいつから欲しがっていたのだろうか。


「ありがとうございます」


声が少しだけ掠れた。


ヴィンセント殿下は、気づかなかったふりをした。そういうところは、本当に抜け目がない。


代わりに、全く別のことを言う。


「ところで、ラウゼンの焼き菓子には粉砂糖を使うものが多い」


「……今、その話ですか」


「大事な話です」


「外交よりも?」


「少なくとも、私にとっては同じくらいには」


私は呆れた。

呆れたのに、口元が緩みそうになる。


「では、手袋の替えを、多めに用意しておきます」


「それは残念です」


「残念?」


「困った顔を見る機会が減ります」


「性格が悪いですわ」


「否定はしません」


「そこは否定してくださいませ」


ヴィンセント殿下は、少しだけ笑った。


その笑みがあまりに自然だったので、私は一瞬、言葉を探し損ねた。


「……私が困っているところをご覧になって、楽しいのですか」


「いいえ」


すぐに返ってきた。


「楽しいのではなく、安心します」


「安心?」


「あなたにも、困ることがあるのだと分かるので」


その言い方は、ずるいと思った。


私は王太子妃候補として、困った顔をしないことには慣れていた。


分からなくても、迷っても、まず笑う。疲れていても、背筋を伸ばす。

それを十年続けていれば、たいていの人は本当に平気なのだと思ってくれる。


この人には、そう見えていなかったのだろうか。


「……ヴィンセント殿下は、時々、人の痛いところをお突きになりますね」


「申し訳ありません。そのようなつもりはありませんでした」


ヴィンセント殿下は、少しだけ目を伏せた。


そこで引くのかと思えば、そうでもなかった。


「ですが、本音です」


「……やはり、失礼です」


「では、次はもう少し慎みます」


「次があるのですね」


「ラウゼンまでの道中は長いですから」


何と返せばいいか分からず、私は机の上の菓子へ視線を逃がした。


ヴィンセント殿下も何も言わない。けれど、困っている様子でもなかった。

むしろ、こちらが返事に詰まったことを、少し楽しんでいる気配がある。


それが分かって、私はとうとう笑ってしまった。


堪えようとしたが、無理だった。



出発の日、空はよく晴れていた。


王宮からの正式な謝罪文は、すでにアーヴィング公爵家へ届いている。補償交渉は父と法務官が進めている。ヴィクトール殿下の王太子としての資質を問う声も、宮廷のあちこちで上がり始めたと聞いた。


ミリアは王太子妃候補から外れた。そもそも、初めから候補ですらなかったのだ。


ヴィクトール殿下からは、何も届いていない。


届かなくていい。


私は馬車の前に立った。


荷物の中には、資料箱がある。


十年分の紙。


夜会の記録。国賓の好物。禁忌。席順。話題の避け方。手紙の控え。誰にも見えないところで拾ってきた小さな失敗の跡。


夜会のたびに書き足した字も、殿下の失言を消すために引いた線も、誰にも気づかれなかった修正も、全部そこに残っている。


一度は捨てようかと思ったが、結局捨てられなかった。捨ててしまえば、この十年の自分までなかったことになる気がした。


マリナが手袋の入った箱を差し出す。


「多めに入れておきました」


「そんなに汚さないわ」


「そうですか?」


マリナはそう言って笑みを浮かべた。


完全には信用されていないみたい。


箱を受け取ったところで、ラウゼンの紋章が入った馬車の方から、ヴィンセント殿下がこちらへ歩いてきた。


ヴィンセント殿下が近衛に短く指示を出した。


「国境までは予定通りに」


その声を聞いて、私は手袋箱を胸元に引き寄せた。


「準備は宜しいですか?」


ヴィンセント殿下がこちらを見る。


「手袋はお持ちになりましたか?」


「え? ……ええ、持っております」


「では、菓子は?」


「流石にそのような物は用意しておりません」


「では、国境を越える頃に用意させましょう」


「殿下。仕事の話をしてくださいませ」


「では仕事の話を。到着翌日の午後、会議があります。勿論、あなたには交渉役の席についていただきます」


交渉役の席。


すぐに胸を張れるほど、私は強くない。

だからと言って、避けていたらこの十年の意味が軽くなる。


「承知いたしました」


「それから」


「まだあるのですか?」


私がそう言うと、ヴィンセント殿下は、私の手元の箱を見た。


手袋の入った、小さめの箱。


「粉砂糖の多い菓子は、避けさせます」


「お気遣い、痛み入ります」


「ただ、少しだけ残しておきます」


「なぜです」


「全部避けると、あなたは結局、手を伸ばさないでしょう」


私は返事に詰まった。


そういう言い方をされると、困る。


仕事の話なら、返せる。礼儀の話なら、間違えない。

けれど、気を張っているかどうかなど、見られると思っていなかった。


「……そのようなところまで、ご覧になるのですね」


「そう思っただけです」


「それを口に出されるとは思いませんでした」


「失礼でしたか」


「少し」


正直に答えると、ヴィンセント殿下は短くうなずいた。


「では、次からは控えます」


それで終わると思った。

けれど殿下は、馬車の荷台へ運び込まれる資料箱を見た。


「ただ、菓子を前に迷っているあなたは、少し見ていて飽きませんでした」


返す言葉に困った。


仕事の評価なら、礼を言えばいい。

けれど、これはそうではない。


「……やはり、少し失礼です」


「申し訳ありません」


謝罪の形はしていた。

けれど、殿下の声には、わずかに笑みが混じっていた。


「お嬢様、馬車へ」


マリナが小さく促した。


そうだった。いつまでも出発前に話しているわけにはいかない。


私は馬車に乗った。


資料箱は座席の下に収められている。手袋の箱だけは、すぐ手が届くよう隣の座席に置いた。


扉が閉まる前、ヴィンセント殿下が一歩だけ近づいた。


「アリティア嬢」


「はい」


「国境を越える頃、焼き菓子を用意しておきます」


「……仕事には必要なさそうですね」


「仕事には必要ではありません」


殿下は、そこで少しだけ間を置いた。


「ですが、あなたにはあった方がいい気がします」


それはずるい。


仕事でも、儀礼でも、命令でもない。

必要だからではなく、あった方がいいから。


そんなふうに何かを差し出されることに、私は慣れていなかった。


「では」


私は手袋の箱に視線を落とした。


「汚してもよい手袋を、一組だけ出しておきます」


ヴィンセント殿下が笑った。


声に出して笑ったわけではない。けれど、目元が少しだけ緩んだのが見えた。


「楽しみにしています」


何を、とは言わなかった。


焼き菓子のことか。会議のことか。

それとも、私が手袋を汚すところか。


聞けばよかったのかもしれない。けど、聞かなかった。


今はまだ、そのくらいでいい。


ヴィンセント殿下は扉から離れ、自分の馬車へ戻っていった。


やがて、馬車列が動き出す。


王宮の塔が、少しずつ遠ざかっていく。


心が軽くなったわけではない。


私は、座席の下にある資料箱に目をやった。全てを引き上げたつもりだったけど、それで何かが軽くなった気はしなかった。

役目も、覚悟も、飲み込んだ言葉も、汚さないように我慢してきた手袋も、結局そこに残っている。


けれどその重みは、もう誰かの隣に立つためだけのものではなかった。


馬車の揺れに合わせて、資料箱の留め金が小さく鳴る。


私は窓の外を見た。


馬車列は、すでに王都の門を抜けていた。

窓の外を、石造りの家並みがゆっくり後ろへ流れていく。


ヴィンセント殿下は、前方の馬車にいる。


そう考えたとき、先程の殿下の言葉が脳裏に浮かんだ。


「……あの方は、余計なところまでよく見ていらっしゃるのね」


つい、小さく漏れた。


向かいに座るマリナが、笑いをこらえるように目を伏せる。


「よいことではございませんか」


「少し困るわ」


「困るだけでございますか?」


返事に迷った。


その間に、馬車が小さく揺れる。手袋箱の中で、替えの手袋がわずかに擦れた。


「……今は、困っているだけよ」


そう答えると、マリナはそれ以上何も言わなかった。私は膝の上の手袋箱を押さえた。


国境を越える頃に、焼き菓子を。


少しくらいなら、汚してもいいかもしれない。


手袋も。

菓子一つ食べることまで我慢してきた、自分のことも。


窓に映った自分の口元が、少しだけ緩んでいた。

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