第九話:東横堀の泥濘(ぬかるみ)と、二つの正義
『梅の屋:騒動記』
第九話:東横堀の泥濘と、二つの正義
「……旦那、えらいこっちゃ。東横堀、高麗橋の下に『土左衛門』でさぁ」
朝一番、辰三が息を切らして「梅の屋」に飛び込んできた。
源之丞は、松子が丹精込めて整えたばかりの藍色の小袖を纏い、出仕の準備をしていたが、その一言で顔を険しくした。
「東横堀か。……あそこは厄介だな」
東横堀川。それは西側の「町奉行管轄(市街地)」と、東側の「大坂城代管轄(武家地・城地)」を分かつ、いわば大坂の背骨のような川である。
現場に急行した源之丞が見たのは、川の真ん中に浮かび、緩やかな流れに揺れる、身なりの良い男の亡骸であった。
「……これ、どっちが引き上げるんですかい?」
辰三が、対岸の東側を指差す。そこには、大坂城から派遣された城代付の与力・**門倉平馬**が、数人の足軽を引き連れて仁王立ちになっていた。
「吉本同心。この仏は、わずかにお城側に寄っている。我ら城代の管轄で引き上げ、詮議を行う。町奉行所は手を引け」
門倉の声は、冷徹で尊大であった。
「門倉殿、お待ちを。この亡骸の足元を見てくだされ。船場の商家で使われる特注の『足袋』を履いている。これは町奉行管轄の事件に相違ない」
源之丞が理を説くが、門倉は鼻で笑う。
「お城の膝元で起きた不浄を、町の役人に任せられるか。これは城代様への不敬にも当たる。……さあ、引き上げろ!」
双方の役人が川縁で睨み合い、あわや抜刀かという緊張が走る。
そこへ、大きな岡持ちを抱えた梅子が、ひょっこりと現れた。
「……あら、皆さん、こんな朝早くから川遊び? 景気がええねぇ」
「梅子! なぜここに!」
源之丞が驚く。
「お母ちゃんがね、今日は湿気が多いから、川縁の番人は喉が渇くはずやって。ほら、冷やした『薄荷湯』持ってきたで。……ついでに、その土左衛門さん。引き上げる前に、この竹竿でちょっとだけ『匂い』を確かめさせて」
梅子は門倉の制止をかわし、軽やかな所作で川面へ身を乗り出した。
「……源之丞さん。この仏さん、お酒の匂いがするわ。それも、ただの酒やない。……西成の奥で密かに造られてる『濁り酒』の匂いや。……門倉様、お城の立派な御武家様が、そんな泥臭い密造酒の匂いがつく仏さん、引き上げはるんですか? お城の品位が汚れるんと違います?」
「な、なんと言った……! 密造酒だと?」
門倉の顔が引き攣る。城代のプライドが、不浄な「密造酒」という言葉に反応した。
「もし、お城で引き上げて、それが密造酒絡みの痴話喧嘩やったりしたら、内藤城代様にどう報告しはるん? ……ここは、町奉行所に『押し付けた』ことにして、恩を売らはるのが賢いんと違います?」
梅子の言葉に、門倉は沈黙した。やがて、忌々しそうに踵を返す。
「……吉本同心。其方の熱意に免じて、この件は町奉行所に譲る。精々、お城を騒がさぬよう始末せよ」
役人たちが去った後、源之丞は深く息を吐き、梅子に向き直った。
「……助かった、梅子殿。だが、密造酒とは本当か?」
「……ううん、あれは嘘。あの匂いは、ただの川の泥の匂いやわ。でも、あのお侍さん、プライドだけは高そうやったから」
梅子は悪戯っぽく笑い、父・源蔵譲りの「目利き」の鋭さで、仏の本当の異変を見抜いていた。
「源之丞さん。あの仏さん、首筋に『魚の鱗』がついてたで。それも、東横堀にはおらん、海の大魚の鱗や」
戦後の大坂、その水面に浮かんだ謎。
源之丞と梅子の、真の「捕物」がここから始まる。
【本日のお献立:役人のための気付け膳】
冷やし薄荷湯: 東横堀の湿気と、対立で熱くなった頭を冷やすための、お菊特製の養生水。
焼きおにぎり・大葉味噌: 現場で立ち働く同心たちのために梅子が握った、香ばしい味噌の香りが食欲をそそる一品。
【後書き:時代考証】
東横堀川の境界線:
江戸時代、川の真ん中が管轄の境界になることは多く、水死体(土左衛門)が発見されると「自分の管轄に引き入れたくない(=仕事が増える)」場合と、「手柄にしたい」場合で激しい管轄争い(境界争い)が起きました。特に大坂城のすぐ脇を流れる東横堀川は、城代(武士)と町奉行(町民)の権威がぶつかる繊細な場所でした。
密造酒と西成:
当時は幕府の許可を得た酒株を持つ者以外、酒造は禁じられていましたが、大坂周辺の農村部(西成など)では密かに酒が造られ、市中に流れていました。これは奉行所にとって頭の痛い問題でした。




