第八話:中之島の静寂(しじま)と、三姉妹の春
『梅の屋:騒動記』
第八話:中之島の静寂と、三姉妹の春
中之島の夜は、堀を渡る風が葦の葉を鳴らす音だけが支配していた。
淀屋の分家に忍び寄った賊は、梅子の「匂いの目利き」と源之丞の「一閃」によって、一人の怪我人も出すことなく捕縛された。賊の正体は、工事現場から資材を横流しし、さらに欲をかいた人足の端くれであったが、淀屋の威信を守り抜いた源之丞の功績は、翌朝には淀屋常安の耳に届いていた。
数日後。
西町奉行所の長屋に、淀屋の番頭・善兵衛がひっそりと姿を現した。
「源之丞様。これは先日の、ほんの心付けにございます。旦那が申すには、『大坂の安寧を守るお役人様が、お身内のことで心を砕く暇もなきは、街の損失である』と。どうか、お納めくださいませ」
差し出されたのは、ずっしりと重みのある包みであった。
源之丞は一度は固辞しようとしたが、善兵衛の「これは淀屋の暖簾を守っていただいた礼にございます」という真剣な眼差しに、ついに折れた。
実を言えば、源之丞の石高は低く、最愛の妻となった松子に、祝言以来新しい着物の一枚も買ってやることができずにいたのだ。非番のたびに梅の屋で料理を馳走になるのも、実は家計の苦しさゆえの甘えであった。
その日の夕刻、源之丞は「梅の屋」の座敷に、松子、竹子、そして梅子を呼び集めた。
「……松子。これを受け取ってくれ。淀屋の旦那からの心付けだ。これで、三姉妹お揃いの着物を新調するといい」
「えっ……源之丞さん、そんな大層なもの……」
松子が目を丸くする。竹子と梅子も、顔を見合わせて驚きに包まれた。
「竹子殿も、梅子殿も、いつも俺を支えてくれている。特に梅子殿。お前の鼻と知恵がなければ、今回の解決はなかった。……三人で、一番似合う色を選んでくるがいい」
お菊が、奥から静かにその様子を見守っていた。
「源之丞殿。武士の誇りと、家族への慈しみ。どちらも欠かさぬそのお心、亡き源蔵もきっと喜んでおりましょう」
梅子が、弾けるような笑顔で源之丞の手を握った。
「やったぁ! ほな、私は淡い梅色の小袖にしようかな! 竹子姉ちゃんは若草色、松子姉ちゃんは……やっぱり、源之丞さんが好きな落ち着いた藍色がええんちゃう?」
板場には、いつもの琥珀色の出汁の香りが漂っている。
だが、この日の「梅の屋」の空気は、新しい着物を心待ちにする三姉妹の華やいだ声で、まるで一足早く春が訪れたかのような明るさに満ちていた。
【本日のお献立:喜びの祝い膳】
祝儀の真鯛の姿煮: 淀屋から届けられた、跳ねのいい真鯛。梅子が「始末」を忘れず、頭から尾まで、生姜の効いた甘辛い煮汁でふっくらと炊き上げた。
小豆御飯: 「めでたい日にはこれ」と、お菊が炊いた艶やかな赤飯。
蛤の潮汁: 三姉妹の仲の良さを象徴する、身の厚い蛤の吸い物。
【後書き:時代考証】
西町奉行所と同心の懐事情:
元和年間、大坂奉行所の同心の給与(石高)は決して高いものではありませんでした。まして戦後の混乱期、物価の変動が激しい大坂で、武士が家族を養うのは至難の業でした。豪商からの「心付け」は、公的な賄賂とは別に、街の有力者が治安維持の功労者に贈る一種の「寄付」のような性格も持っており、それによって武士と商人の共存関係が保たれていました。
呉服の流行:
大丸や三井(越後屋)などの大呉服店が船場に軒を連ねるようになると、大坂の女性たちの装いはさらに華やかになります。三姉妹が選ぶ「梅色」「若草色」「藍色」は、当時の大坂で好まれた、自然の美しさを取り入れた色彩です。




