第七話:淀屋の投げ文と、琥珀の静寂
『梅の屋:騒動記』
第七話:淀屋の投げ文と、琥珀の静寂
元和六年も盛夏を過ぎ、夜風にわずかな秋の気配が混じり始めた頃。
「梅の屋」の勝手口を、普段の闊達さとは裏腹に、影を潜めるようにしてくぐる男がいた。
天下の米相場を動かす豪商・淀屋の番頭、善兵衛である。
「源之丞様……お忍びにて、折り入ってご相談が」
板場に近い小座敷。梅子が控えめに差し出した冷やし飴を一口も啜らず、善兵衛は懐から震える手で一通の書状を取り出した。
「昨夜、淀屋の分家である中之島の隠居所に、これが石に括り付けられて投げ込まれまして……」
書状には、筆跡を隠した無骨な文字でこう記されていた。
『近々、蔵の宝、一分の隙もなく頂戴に参る。命が惜しくば、橋の灯火を消して待て』
「……盗賊の予告状か」
源之丞の目が、同心の鋭さを帯びる。
淀屋といえば、中之島の開拓を行い、大坂の経済を支える大黒柱。その分家に手をつけるのは、公儀に対する挑戦にも等しい。
「淀屋の旦那は、『事を荒立てて米相場に障りが出ては困る』と仰っております。されど、身内の命も捨て置けず……」
源之丞は書状をじっと見つめ、傍らに立つ梅子に視線をやった。
「梅子殿。この紙、何か匂わぬか?」
梅子は書状を鼻先に近づけ、クンと小さく呼吸を整えた。
「……源之丞さん。これ、ただの墨の匂いと違う。ほんのりと、生臭い……けど、これは魚やないわ。……『膠』や。それも、お城の普請(工事)で使うような、うんと質のええ膠の匂いが染み付いてる」
「膠……。石垣の固定や、武具の修理に使うものか」
源之丞の脳裏に、大坂城の再築工事に携わる人足たちの顔が浮かぶ。
「辰三、茂平。淀屋の分家の周り、特に中之島の堀沿いを見張れ。賊は陸からではなく、水から来る。……梅子殿、今夜は精のつくものを。淀屋の旦那衆を、心底から落ち着かせる膳を頼む」
「わかったわ。淀屋さんのような大旦那には、余計な飾りはいらへん。心に沁み入るような、琥珀の味を用意するさかい」
その夜、淀屋の分家。
源之丞と辰三たちが床下や物陰に潜む中、座敷では淀屋の隠居が、梅子の届けた「特製の養生吸い物」を啜っていた。
静寂。八百八橋を渡る夜風の音だけが響く中、不意に堀の底から、水の跳ねる音が聞こえた。
「……来たな」
源之丞が音もなく立ち上がる。
賊は、工事現場から盗み出した頑丈な「鳶口」を使い、石垣を蜘蛛のように登ってきた。だが、その手元が狂った。梅子が膳に忍ばせた、ある「仕掛け」が賊の感覚を狂わせていたのだ。
「御用だ! 淀屋の暖簾を汚す奴ら、一歩も通さぬ!」
源之丞の十手が、月光を浴びて閃いた。
【本日のお献立:安らぎの琥珀膳】
琥珀出汁の養生吸い物: 最高級の真昆布を贅沢に使い、道修町の薬種問屋から仕入れた「クコの実」を隠し味に加えた吸い物。緊張で強張った胃を温め、心身を落ち着かせる「琥珀色」の逸品。
鯛の昆布締め・煎り酒添え: 醤油ではなく、梅干しと酒を煮詰めた「煎り酒」でいただく。淀屋の旦那衆が好む、繊細で格調高い味。
胡麻豆腐のべっこう餡かけ: じっくりと練り上げた胡麻豆腐に、生姜を効かせた甘辛い餡をかけたもの。
【後書き:時代考証】
淀屋:
江戸時代初期の大坂を象徴する豪商。中之島の開発や淀屋橋の架橋など、大坂の街作りに多大な貢献をしました。米相場の始まりも彼らの店先(淀屋の庭)であったと言われています。これほどの豪商を狙うことは、当時の犯罪者にとっても「一世一代の賭け」でした。
投げ文:
予告状を石に括り付けて投げ込む手口は、当時の芝居や読み物でも定番ですが、実際には相手を脅して金品をせしめる「恐喝」の手法として使われました。




