第二十六話:曲直瀬の若医官と、竹子の微熱
『梅の屋:騒動記』
第二十六話:曲直瀬の若医官と、竹子の微熱
上町の戦火で負った源之丞の傷は、思いのほか深かった。
肩から脇腹にかけての鋭い切り傷は、あともう数寸深ければ命に関わるほど。西町奉行所の与力・内藤が、特例として呼び寄せたのが、京都の医聖・曲直瀬道三の系譜を継ぐ若き医官、**曲直瀬 弦一郎**であった。
「……吉本殿、少し痛みますよ。我慢を」
「梅の屋」の奥座敷。
弦一郎が源之丞の包帯を取り替えるため、白く細い指先を動かす。二十代半ばの彼は、透き通るような肌に、知的で涼やかな目元を持つ、まさに「絵から抜け出してきた」ような美男子であった。
その様子を、板場の入り口からじっと見つめている者がいた。
いつもは「源三郎、飯まだか!」と威勢のいい竹子である。だが、今の彼女は、手にしたお盆を胸の前でぎゅっと握りしめ、顔を林檎のように赤く染めて立ち尽くしていた。
「……竹子姉ちゃん、どないしたん? 幽霊でも見たような顔して」
梅子が不思議そうに声をかける。
「……あ、あのね、梅子。あのお医者様……手が、すごく綺麗。……出汁を引く時みたいに、丁寧で、優しくて……」
竹子の声は、いつもの三割ほど小さくなっていた。
源三郎の熱烈なアタックには全く動じなかった竹子が、弦一郎の放つ「静謐な色気」に、生まれて初めての「岡惚れ」をしてしまったのだ。
「吉本殿。傷口の塞がりは順調です。……おや、そこのお嬢さん」
弦一郎がふと顔を上げ、竹子に向かって微笑んだ。
「……そんなに遠くから見ていないで、こちらへ。源之丞殿には、滋養のある汁物が必要です。あなたのような料理の達人の助けが、何よりの薬になります」
「……は、はいっ! 達人……なんて、そんな! すぐに一番いい出汁、引いてきますっ!」
竹子はひっくり返りそうな勢いで板場へ走り去った。
その様子を見て、寝台の源之丞は苦笑いし、隣で薬を調合していた弦一郎も、小さく声を立てて笑った。
「賑やかな妹君ですね。大坂の女性は、皆このように眩しいのですか?」
「……一人、やたらと声の大きいのがいるだけですよ」
源之丞が答えるが、その横から源三郎が飛び込んできた。
「兄上! 容態は!? ……って、貴殿は誰だ! 竹子殿が、なぜあんなに顔を赤くして走っているのだ!」
恋敵の出現を本能で察知した源三郎。だが、弦一郎は柳に風と受け流し、「私は医官の曲直瀬です」と優雅に一礼するのみ。
ここに、「直情径行な武士・源三郎」と「沈着冷静な美男子医官・弦一郎」、そして彼らを見つめる**「鈍感な料理娘・竹子」**という、事件以上にややこしい相関図が出来上がってしまった。
弦一郎は、源之丞の治療という名目で、その後も頻繁に「梅の屋」を訪れるようになる。
梅子の鼻は、弦一郎から漂う「清らかな薬草の匂い」と、彼を見る竹子から漏れ出す「恋の甘い匂い」を、呆れ半分で嗅ぎ取っているのであった。
【本日のお献立:医官に捧げる「養生」膳】
薄味仕立ての湯葉と豆腐の葛引き: 弦一郎の「綺麗な手」を汚さぬよう、そして源之丞の消化を助けるよう、竹子が丁寧にこしらえた一品。
生姜と蜂蜜の白湯: 喉を大切にする医官のために、梅子が調合した特製の飲み物。
(梅子の独白): 「……竹子姉ちゃん、煮汁に砂糖入れすぎや。それ、弦一郎さんが『甘いですね』って言うた時の顔が見たいだけやろ。……源三郎さん、泣くで、これ」
【後書き:時代考証】
曲直瀬流:
戦国時代から江戸初期にかけて、日本医学の最高峰とされた一族。織田信長や豊臣秀吉、徳川家康の主治医も務めました。彼らは「証」を見て処方する漢方の大家であり、知識階級としても尊敬されていました。
美男子と女性の自立:
大坂の商家の娘たちは、意外と積極的でした。特に料理屋を切り盛りする竹子のような女性が、自らの腕(料理)を通じて意中の人にアプローチするのは、大坂らしい恋の形と言えるでしょう。




