第二十話:緞帳裏の毒、散りゆく偽り札
『梅の屋:騒動記』
第二十話:緞帳裏の毒、散りゆく偽り札
道頓堀の芝居小屋「中の芝居」。
櫓の上で打ち鳴らされる「一番太鼓」の音が、源之丞の耳には、事件の幕開けを告げる警鐘のように聞こえていた。
「……辰三。播磨屋殿の札と、あの田舎侍が持っていた札。どちらも膠の匂いがする。それも、ただの膠ではない。……東横堀の仏や、道修町の蔵で嗅いだ、あの忌々しい『宗久』の一味の匂いだ」
源之丞は、茶屋『菊屋』の騒然とする店先を離れ、客を装って建物の裏手へと回り込んだ。
芝居茶屋の裏側は、迷路のように入り組んでいる。役者の出入り、弁当の運び入れ、そして秘密の「密談」にふさわしい小部屋がいくつも並んでいた。
「……旦那、あそこの物置小屋、妙に番の男が立ってやすぜ」
辰三が、低い声で指差した。
その物置小屋からは、わずかに火を焚く匂いと、そして鼻を突く「膠を煮る匂い」が漏れ出していた。
源之丞は十手を抜き放ち、合図と共に扉を蹴破った。
「西町奉行所の検分である! 動くな!」
中には、茶屋の筆頭手代・長吉と、数人の胡散臭い男たちが、まさに木札に巧妙な細工を施している最中であった。机の上には、本物と見紛うばかりの「一等席の札」が数十枚、乱雑に積まれている。
「……吉本同心か! おのれ、あと一歩で播磨屋の財を、根こそぎ奪い取れたものを!」
長吉が叫ぶと同時に、奥から現れたのは、あの宗久の残党と思われる屈強な浪人であった。
「宗久様が捕らえられた報復だ。まずはこの道頓堀の信用を地に落とし、大坂の商人を疑心暗鬼にさせてやる。……死ね、若造!」
浪人の太刀が狭い小屋の中で閃く。
源之丞は身を翻し、木札が積まれた机を盾にした。飛び散る偽造札。
それは、大坂の「信頼」という名の、無残な紙片の雨であった。
「……信頼を売る茶屋が、嘘を売ってどうする! お前たちが汚したのは、播磨屋殿の席ではない。この大坂の、商いの魂だ!」
源之丞の十手が、浪人の手首を強かに打った。
「ぎゃああっ!」
刀が落ちる音と同時に、辰三たちが一斉になだれ込み、手代の長吉と浪人たちを取り押さえた。
事件が収束に向かう頃、源之丞は播磨屋の大旦那の前に戻った。
本物の札を渡し、深々と頭を下げた。
「播磨屋殿。……お騒がせいたしました。この一等席、改めてごゆっくりお楽しみくだされ。大坂の法は、あなたの『顔』を、決して汚させはいたしません」
大旦那は、源之丞の毅然とした態度に感服したように、黙って頷いた。
夕刻。「梅の屋」に帰り着いた源之丞を待っていたのは、梅子が用意した、疲れを吹き飛ばすような「熱い出汁」の匂いだった。
「……おかえり、源之丞さん。道頓堀の火、消さずに済んだみたいやね」
梅子は源之丞の顔を見て、すべてを察したように微笑んだ。
その手には、捕物で汚れた源之丞の藍色の小袖を拭くための、温かい手拭いが握られていた。
【本日のお献立:道頓堀の露払い膳】
揚げ出し豆腐の葛餡かけ: 外はカリッと、中はふわっと。偽りだらけの事件の後、本物の食感と出汁の味が心に沁みる。
茗荷と胡瓜の土佐酢和え: 道頓堀の熱気を冷まし、偽造札の不快な匂いを鼻から追い払うための、爽やかな一皿。
鯛飯の折詰: 播磨屋の大旦那から「礼」として届けられた最高級の鯛を、梅子がさらに美味しく炊き上げたもの。
【後書き:時代考証】
茶屋の手代:
芝居茶屋の手代は、今で言う「イベントプロデューサー」のような存在で、大きな権限を持っていました。それゆえに、裏で悪い組織と繋がれば、今回のような興行全体の信用を失墜させる不祥事が起こり得たのです。
中の芝居:
道頓堀にあった五つの大芝居小屋(道頓堀五座)の一つ。元和年間、大坂の芝居文化が花開く中心地でした。




