第二話:道頓堀の捕物と、薬塩の香
『梅の屋:騒動記』
第二話:道頓堀の捕物と、薬塩の香
「……こっちや! 源之丞さん、甚平さん、急ぎや!」
十六歳の梅子は、前垂れを高く端折り(はしょり)、鼻をクンと鳴らして道頓堀の雑踏を駆けた。
元和六年の大坂は、戦後の復興景気で活気に満ちているが、その裏側には、冬の陣で主を失い、食い詰めた浪人たちが影のように蠢いている。
「梅子ちゃん、ほんまにこっちか? 魚の匂いなんて、この辺りはどこもかしこも生臭いで!」
息を切らして走る甚平が叫ぶ。
「ただの魚やない! うちが預けたんは、道修町の薬種問屋から取り寄せた『大和の焼き塩』を打った鯛や。ほんのり、丁子のような、清々しい香りが混ざってるはずや……。あそこや!」
梅子が指差したのは、芝居小屋の裏手に並ぶ、薄汚れた長屋の一画だった。
そこには、三人の男たちが屯し、甚平から奪った魚籠を広げていた。
「へへっ、見ろよ。立派な鯛だ。これを売り飛ばせば、今夜は一晩中飲めるぜ」
「バカ言え、こんな目立つ魚、すぐに足がつく。俺たちの胃袋に収めて、証拠を消しちまうのが一番だ」
浪人たちが包丁を取り出そうとしたその時。
「待たんかい、この泥棒猫が!」
梅子の鋭い声が響き渡った。浪人たちが驚いて顔を上げると、そこには眉を吊り上げた十六歳の娘と、怒りに震える巨漢の魚屋、そして――。
「大坂奉行所同心、吉本源之丞である。婚礼の品を奪うとは、大坂の情けを解さぬ不届き者。大人しく縛に就け」
源之丞が、抜刀はせずとも圧倒的な威圧感を持って歩み出る。浪人たちは一瞬怯んだが、数に任せて懐から脇差を抜いた。
「けっ、同心が婚礼前に血を見たいのかよ! やっちまえ!」
一人が源之丞に躍りかかる。源之丞はそれを紙一重でかわすと、峰打ちで男の腕を挫いた。
その隙に、もう一人の浪人が魚籠を持って逃げようとする。
「逃がさへんで!」
梅子が、板場で使い古した頑丈な「鉄鍋」の蓋を、ツルンと投げつけた。
ガツン! という鈍い音と共に、蓋が浪人の後頭部を直撃する。
「……あいたた! なんや、このおなごは!」
転んだ浪人から、甚平が必死の形相で魚籠を奪い返した。
「これでお仕舞いやな」
源之丞が残る一人を組み伏せ、捕縄をかける。
「源之丞さん、怪我はない? 甚平さん、鯛は!?」
「……無事や! 鱗一つ剥がれてへん! 奇跡や、梅子ちゃん!」
一同は、急ぎ「梅の屋」へと引き返した。
式に間に合わせるため、梅子は板場へ飛び込むなり、父・源蔵の遺影に向かって「借りるで!」と叫び、包丁を握り直した。
座敷では、お菊が何事もなかったかのように、凛とした佇まいで松子の身なりを整えている。
「梅子、間に合いますね?」
「当たり前や! 大坂の商人は、土壇場でこそ笑うんやから!」
梅子の包丁が、薬塩の香る鯛の身を鮮やかに開いていく。
琥珀色の出汁が張られた椀の中に、真っ白な鯛の身と、梅子が丹精込めた「紅生姜」の千切りが添えられた。
「お待たせいたしました。吉本源之丞殿、そしてお姉ちゃん。梅の屋特製、祝言の膳にございます」
父・源蔵の遺影の前で、源之丞と松子が盃を交わす。
波乱の幕開けとなった婚礼だが、その味は、冬の陣を越えてきた家族にしか出せない、深く、温かいものであった。
これこそが、後に大坂を賑わす『梅の屋:騒動記』、最初の手柄となったのである。




