第十九話:道頓堀の偽り札と、消えた一等席
『梅の屋:騒動記』
第十九話:道頓堀の偽り札と、消えた一等席
夏の陽光が照りつける道頓堀。芝居小屋の櫓からは威勢の良い太鼓の音が響き、着飾った見物客でごった返している。
だが、その喧騒を切り裂くように、「梅の屋」の暖簾を割って辰三が飛び込んできた。
「旦那! えらいこっちゃ、道頓堀がひっくり返るような騒ぎになってやす!」
非番で源三郎の恋路を案じていた源之丞が、鋭く立ち上がる。
「どうした、辰三。芝居小屋で喧嘩か?」
「いえ、喧嘩どころじゃねぇ! 馴染みの茶屋が差配してるはずの『一等席』が、二重にも三重にも重なっちまってるんでさ。……こともあろうに、俺の知り合いの豪商、播磨屋の大旦那が『俺の席に、見知らぬ田舎侍が座ってやがる!』って大騒ぎで。……どうも、席の『札』が偽造されてるようですぜ」
源之丞の目が同心の光を帯びる。
道頓堀の芝居。その席順は茶屋が管理し、札(木札や紙札)は信頼の証。それを偽造し、裏で手代が横流ししているとなれば、これは単なる不手際ではない。道頓堀の興行そのものを揺るがす、大規模な詐欺だ。
「……茶屋の手代が裏で糸を引いているのか」
「へぇ。どうも、一等席の札を巧妙に偽造し、一見の客に高値で売りつけて、本物の贔屓筋が来た時には『手違いだ』と言い逃れる算段だったようですが……。重なりすぎたんですな、欲をかきすぎて」
源之丞は、板場で何か言いたげにこちらを見ている梅子に向き直った。
「梅子殿。悪いが、今回は連れてはいけん。芝居小屋の裏側は、人混みと欲にまみれた危険な場所だ。お前はここで、竹子殿の手伝いをしていてくれ」
「……わかった。でも、源之丞さん。大坂の商人は『面目』を何より大事にする。播磨屋さんの顔を立ててあげんと、道頓堀の火は消えへんで」
梅子の言葉を背に、源之丞は十手を懐に押し込み、辰三と共に駆け出した。
道頓堀、芝居小屋の裏手。
案の定、茶屋『菊屋』の店先では、播磨屋の大旦那が顔を真っ赤にして手代の胸ぐらを掴んでいた。
「おのれ、わしがこの小屋にどれだけ金を使ってきたと思っている! この札は、お前が昨日届けたものではないか!」
「へ、へぇ……それは間違いございませんが、あちらのお客様も同じ札をお持ちで……」
源之丞は人混みを割り、大旦那の手を静かに解いた。
「……播磨屋殿、そこまでに。西町奉行所の吉本である。その札、見せてもらおう」
源之丞が二枚の札を並べると、一見、筆致も木目も同じに見える。
だが、源之丞は昨日まで梅子の板場で「食材の真贋」を語る彼女の言葉を思い出していた。
『本物は、芯まで匂いが染み付いてるんや。外だけ取り繕っても、すぐわかる』
源之丞は札を鼻に近づけた。
「……辰三。本物の札は、茶屋の香香の匂いが染み付いているはずだ。だが、この偽造札からは、真新しい『膠』の匂いがする」
またしても「膠」だ。東横堀の事件、そして今回の偽造。
大坂を揺るがす悪意の影が、芝居小屋の華やかな緞帳の裏側で、再び鎌首をもたげていた。
【本日のお献立:梅の屋の留守居膳(出番なしの梅子より)】
冷やし飴の小瓶: 駆け出した源之丞の懐に、梅子が咄嗟に押し込んだもの。人混みの熱気に当てられた喉を潤す、生姜の効いた滋味。
竹子の「力」むすび: 梅子の指示で、竹子が握った特大の握り飯。具は梅干しと塩鮭。
(梅子の呟き): 「……膠の匂い? またお城の工事現場から流れてるんと違うか。源之丞さん、ちゃんと鼻を効かせてや」
【後書き:時代考証】
芝居茶屋と席札:
江戸時代の大坂・道頓堀では、芝居を見る客は「茶屋」を通して席を予約しました。茶屋は客の送迎から飲食の提供まで一手に引き受け、一等席(桟敷席など)の札は、まさに茶屋と客の「信用」そのものでした。札の偽造は、現在のコンサートチケット詐欺以上に、商人の信用失墜を意味する重罪でした。
豪商の贔屓:
播磨屋のような大旦那にとって、芝居小屋の一等席に座ることは、己の商売の繁盛を誇示する社交の場でもありました。そこを汚されることは、家名に関わる大問題だったのです。




