第十八話:雷親父の乱入と、竹子の「一献」
『梅の屋:騒動記』
第十八話:雷親父の乱入と、竹子の「一献」
「……源三郎! おるかっ、この馬鹿者がぁ!」
「梅の屋」の暖簾を、割れんばかりの勢いで撥ね退け、一人の老武士が踏み込んできた。
源之丞の父、吉本源右衛門である。
松平忠明公の代から「質実剛健」を絵に描いたような男であり、その一喝は板場の鍋さえ震わせるほどであった。
「父上!? なぜここに……っ」
座敷で竹子の給仕を受け、鼻の下を伸ばしていた源三郎は、あまりの衝撃に飯を喉に詰まらせ、顔を紫にしている。
「道場で稽古に励むと言うて、毎日このような料理屋に浸りおって! それも、兄が家を捨てて選んだような場所で、鼻の下を伸ばすとは……吉本家の恥辱なり!」
源右衛門の怒りは止まらない。背後では、父を止められなかった母・お志津が、青い顔をして手を合わせている。
非番の源之丞が慌てて飛び出してきた。
「父上、静まりくだされ! ここは町人の商う場所、武士が騒ぎ立てる所ではございません!」
「黙れ、源之丞! 貴様が軟弱な大坂の空気に染まったから、弟まで毒されたのだ。……おい、そこな娘! 貴様が我が愚息をたぶらかした料理娘か!」
指を刺された竹子は、一瞬驚いたように目を見開いたが、次の瞬間、腰に手を当てて一歩前に出た。
「……たぶらかした? 源右衛門さん、そら聞き捨てならんわ。源三郎さんは、うちの料理を『旨い、旨い』言うて食べてくれてる大事なお客さんや。うちは板前として、精一杯もてなしてるだけ。……あんた、そんなに怒鳴らはるなら、一回うちの料理、食べてからにしはったらどう?」
「……何だと!? 誰に向かって……」
「武士の意地だか何だか知らんけど、お腹空かせてイライラしてる男の話は、誰も聞かへんよ。……源之丞さん、お父さんのために、一番効くやつ、出すわ」
竹子は源右衛門の怒りを真っ向から受け流し、板場へ駆け込むと、瞬く間に一合の熱燗と、一皿の小鉢を差し出した。
それは、源蔵から受け継いだ「秘伝の粕汁」と、鯛の皮を香ばしく炙ったものであった。
「……食らえ。これが大坂の、梅の屋の『情』や!」
源右衛門は「無礼な!」と跳ね除けようとしたが、その瞬間、鼻腔を突いたのは、かつて若かりし頃、松平忠明公の陣中で、寒さに震えながら食べた「故郷の味」を彷彿とさせる、懐かしくも力強い香酒の匂いであった。
無言で、杯を干し、汁を啜る源右衛門。
座敷に、異様な静寂が訪れる。
「……ふん。出汁の引き方が、まだ甘い。……だが、酒の温度だけは、合格だ」
源右衛門は、それだけ言うと、腰を浮かせた。
「……源三郎。今日は帰るぞ。明日からは道場で、今の三倍、打ち込みを命ずる」
「は、はいっ! ……竹子殿、また、必ず……!」
源三郎は、父に襟首を掴まれながらも、必死で竹子に手を振った。
嵐が去った後の店内で、源之丞は膝から崩れ落ちた。
「……竹子殿。あんたは、本当に……怖いもの知らずだな」
「え? 喜んでもらえて良かったわ。お父さん、案外可愛いところあるやん?」
竹子はけろりと笑い、再び鍋を洗い始めた。
その傍らで梅子は、父・源右衛門が去り際に、竹子の焼いた鯛の皮を、大切そうに懐紙に包んで持ち帰ったのを、決して見逃さなかった。
【本日のお献立:雷を鎮める「静」の膳】
秘伝・酒粕たっぷりの猪口汁: 酒粕と白味噌を合わせ、生姜を効かせた濃厚な汁。頑固な老武士の心と体を、芯から温めて解きほぐす。
鯛の皮の炙り・塩山椒: 無駄に捨てるところがない「始末」の精神。香ばしさが、酒の味を引き立てる。
守口大根の粕漬け: 大坂名産。その歯ごたえが、武士の硬い意志を少しずつ柔らかくする。
【後書き:時代考証】
吉本源右衛門の性格:
徳川以前の気風を継ぐ「古風な武士」。彼にとって料理屋の娘は「身分違い」の極みですが、同時に「戦場での飢え」を知っている世代でもあります。それゆえ、竹子の出した「本物の味」には抗えなかったのです。
懐紙:
武士が懐に忍ばせていた多目的の和紙。食事の際に残ったものを包んで持ち帰ることは、料理人への敬意を示す無言の作法でもありました。




