第十七話:堅物源三郎、恋の乱心
『梅の屋:騒動記』
第十七話:堅物源三郎、恋の乱心
「……あ、あの、竹子殿。その、今日の『炊き合わせ』も……実に見事であった」
北浜の騒動が嘘のように穏やかな昼下がり。
「梅の屋」の板場に、場違いなほど背筋を伸ばし、額に汗を浮かべた**源三郎(二十二歳)**の姿があった。彼はここ数日、父・源右衛門に「兄の様子を探ってくる」と嘘をついては、毎日この店に通い詰めている。
「あら、源三郎さん。まだ食べてる途中やない。そんなに褒めてもろたら、出汁に砂糖入れすぎてまうわ!」
二十一歳の竹子は、火の粉を散らすような勢いで大きな鍋を振っている。彼女にとって源三郎は「源之丞さんの可愛い弟」であり、その熱い視線は「よっぽどお腹が空いている」のだと解釈されていた。
「竹子殿! 砂糖などは不要だ! 貴殿の……貴殿の、その、包丁を捌く指先さえあれば……っ!」
「指先? 霜焼けでも心配してくれてるん? 優しいねぇ、源三郎さんは!」
竹子はガハハと笑い、源三郎の肩を景気よく叩いた。武家の作法では考えられない接触に、源三郎は耳まで真っ赤にし、魂が口から抜け出たような顔で固まっている。
その様子を、板場の隅で梅子が冷ややかに、かつ興味津々で見つめていた。
「……源之丞さん、見て。あの弟さん、完全に『あっちの世界』へ行かはってるわ」
非番の源之丞は、眉間を指で揉みながら溜息をついた。
「……源三郎。父上がお前の不在を不審に思い始めているぞ。今日も道場へ行くと嘘をついてきたのだろう。武士が色恋に現を抜かしてどうする」
「あ、兄上! これは不義理な色恋などではございません! 私は……私はただ、大坂の『食』という文化を、その、民俗学的に、深く……!」
「嘘おっしゃい。竹子姉ちゃんが通るたびに、目が盆踊りみたいに泳いでるやん」
梅子の容赦ない突っ込みに、源三郎は「ぐぬぬ」と呻き、逃げるように飯を口に放り込んだ。
しかし、恋は盲目。源三郎の「岡惚れ」は、もはや誰にも止められない。
彼はついに、家宝の脇差を質に入れようかと悩み始めた。竹子に「何か気の利いた贈り物」をするためである。その必死さは、かつて松平忠明公の軍中で鍛えられた忠義の心を、すべて一人の料理娘へと注ぎ込んでいるようであった。
「……竹子殿。明日も、私は来る。……例え、父上に手打ちにされようとも!」
「はぁ? 手打ち? 蕎麦でも打つの? 源三郎さん、おもろい人やなぁ!」
竹子の無邪気な一言に、源三郎は再び絶頂の喜び(と絶望)を感じながら、千鳥足で店を後にした。
それを見送るお菊は、ふっと遠い目をして呟いた。
「……若さとは、毒にも薬にもなりますこと。……源之丞殿、そろそろ『大嵐』が来ますよ。御父上が、黙っておられるはずがありません」
源之丞は、弟の背中を見送りながら、東横堀の捕物よりも厄介な予感に、深いため息を漏らすのであった。
【本日のお献立:恋煩いの源三郎膳】
冷やし冬瓜の蟹餡かけ: のぼせ上がった源三郎の頭を冷やすための、梅子の配慮。冬瓜の冷たさが、彼の恋の熱を一時的に鎮める。
山椒の効いたピリ辛蒟蒻: 竹子が「根性を入れ直せ」とばかりに味付けした一品。源三郎はこれを「竹子殿の情熱」と勘違いして涙を流して食べた。
麦飯・とろろがけ: 「精をつけなさい」という竹子の勧めで、源三郎は三杯もお代わりをした。
【後書き:時代考証】
岡惚れ(おかぼれ):
他人の恋人や、全く脈のない相手に一方的に惚れること。江戸時代の通俗小説や落語でもよく描かれるテーマですが、源三郎のような「堅物な武士」が陥るほど、その反動は大きく、周囲には喜劇的に映りました。
家宝の質入れ:
武士にとって刀は魂。それを色恋のために質に入れることは、本来ならば切腹ものの不祥事です。源三郎がいかに正気を失っているかの象徴です。




