第十五話:北浜の決闘、砕け散った鱗
『梅の屋:騒動記』
第十五話:北浜の決闘、砕け散った鱗
北浜の夜明けは、淀川から流れ込む深い霧に包まれていた。
天王寺屋の隠居所として貸し出されている一棟の蔵敷。その奥座敷に、源之丞と兵馬は音もなく踏み込んだ。
「……町奉行所の検分である。宗久、神妙にいたせ」
源之丞の声が響くと同時に、奥の御簾が跳ね上がった。
そこにいたのは、商人というにはあまりに鋭い眼光を持つ、五十がらみの男であった。彼こそが、南蛮の禁断の香「龍涎香」を操り、三河屋清次郎を魚の如く捌いた真犯人、宗久である。
「……ふん、西町の若造共か。三河屋の若旦那のように、東横堀の泥に沈みたいと見える」
宗久が懐から取り出したのは、普通のアイクチではない。
刃渡りが長く、細かな鋸歯が刻まれた、異国の暗殺術に用いられる「鱗型の短刀」であった。その刃には、清次郎を手にかけた際に飛び散った、あの鋼のような龍涎香の細工が、おぞましくも美しく光っている。
「兵馬、左右から行くぞ!」
「応!」
兵馬が抜刀し、鋭い踏み込みで宗久の右を突く。
宗久は商人の身なりに似合わぬ素早い動きでそれをかわすと、左手で小さな玉を床に叩きつけた。
パァン! と乾いた音が響き、座敷にあの「人を狂わせる香」が爆ぜるように立ち上る。
「……っ、この匂い、梅子が言っていた……!」
意識が遠のきそうになる瞬間、源之丞は懐から「梅の屋」で手渡された、一枚の布を取り出した。
それは、お菊が持たせてくれた**「薄荷と生姜を染み込ませた面布」**であった。
「……梅子の知恵を、侮るな!」
清涼な香りが源之丞の鼻腔を突き抜け、霧散しかけた意識が氷のように冷え切る。
源之丞は十手を逆手に持ち替え、宗久の懐へ真っ直ぐに飛び込んだ。
宗久の短刀が源之丞の藍色の小袖をかすめる――淀屋からの心付けで新調した、松子との絆の服だ。
「……この着物は、汚させん!」
源之丞の十手が、宗久の持つ短刀の根元を正確に捉え、力任せに捻り上げた。
パキィッ、という硬い音と共に、異国の刃が宙を舞う。
そこへ兵馬の峰打ちが宗久の肩口に炸裂し、大坂を揺るがした怪商は、無様に畳へと転がされた。
「……捕縛しろ。これ以上、この香りで大坂を汚させてはならん」
その頃、「梅の屋」の板場では。
梅子が、祈るような気持ちで、朝一番の出汁を引いていた。
ふわりと立ち上る本物の一番出汁の香りが、夜の闇を払い、新しい一日を連れてくる。
「……源之丞さん、勝ったな」
梅子は、窓から差し込む朝日に目を細め、静かに呟いた。
【本日のお献立:夜明けの勝利膳】
一番出汁の黄金雑炊: 戦いを終えて帰ってくる男たちのために、梅子が用意したもの。贅沢な真昆布と鰹の香りが、異国の香りに当てられた神経を優しく解きほぐす。
梅干しの黒焼き: お菊の知恵。毒気を払い、体内の巡りを清めるための古くからの処方。
船場の厚焼き玉子: 甘さと出汁の加減が絶妙な、梅の屋自慢の一品。
【後書き:時代考証】
北浜の貸し座敷:
当時の大坂では、豪商の敷地内に「貸し座敷」や「離れ」を設け、地方の商人や隠居した有力者が滞在することがありました。そこは奉行所の目が届きにくい「聖域」となることもあり、本作のように犯罪の温床となる危険性を孕んでいました。
薄荷の効用:
江戸時代、薄荷は気付け薬や虫除け、さらには意識をはっきりさせるための養生として広く普及していました。料理屋の娘である梅子がその効能を知っていたことは、当時の「食と医」の密接な関係を示しています。




