第一話:元和の風と、消えた祝言の鯛
『梅の屋:騒動記』
第一話:元和の風と、消えた祝言の鯛
元和六年。あの凄惨を極めた「大坂冬の陣」から数えて六年、夏の陣で豊臣の世が潰えてから五年が経った。大坂の街は幕府の直轄地となり、焦土の中から這い上がるようにして、商人の活気を取り戻しつつあった。
「……お父ちゃん。見ててや。今日は松子姉ちゃんの、一生に一度の晴れ舞台やさかい」
十六歳の梅子は、仏壇に掲げられた一幅の絵に向かって、静かに手を合わせた。
そこには、かつて大坂城の厨房で、大きな鍋を前に不敵な笑みを浮かべる父・源蔵の姿が、墨の濃淡で生き生きと描かれている。冬の陣の折、迫り来る徳川の軍勢を前にしても「飢えは人を鬼にする。わしは、最後まで飯を作るんや」と板場を離れなかった父。その誇りを胸に戦後の混乱期を駆け抜け、数年前に逝った父の、唯一の形見であった。
「梅子! 湿っぽくなってる暇はないで! 婚礼の座敷、あと一分だけお膳を左に寄せなあかんわ。……あかん、これではお菊お母様の礼法に障るわ!」
二十一歳の二姉・竹子が、生け花の枝振りを気にしながら板場へ声を飛ばす。竹子は今日、座敷の装飾と設えを一手に引き受けていた。
そこへ、一分の隙もない静かな足取りで、母・お菊が姿を見せた。
「竹子、落ち着きなさい。松子が吉本源之丞殿という立派な同心の方をお迎えするのです。私たちの役目は、養生の知恵を尽くした膳で、お相手の心身を整えること。……梅子、出汁の加減は?」
「バッチリや、お母ちゃん。真昆布の旨味に、道修町の水が合うて、琥珀色に輝いとるわ」
梅子は十六歳ながら、父譲りの「目利き」と、冬の陣の飢えを知るからこその「始末」の精神を叩き込まれていた。
だが、そんな一家の気合を打ち砕くように、表の暖簾を乱暴に撥ね退けて飛び込んできた男がいた。
「え、え、えらいこっちゃ! 梅子ちゃん、お菊さん! 堪忍! 堪忍してえな!」
雑喉場の荒くれ魚屋、甚平である。
顔を真っ青にし、手には空っぽの大きな魚籠を抱えて震えている。
「甚平さん、なんやその無様な格好は。婚礼の主役、日本一の大鯛はどうしたんや?」
梅子の問いに、甚平は板場の床に額を擦り付けた。
「盗られたんや! 日本橋の袂で、浪人風の野郎どもに……! 俺が三日三晩、寝る間も惜しんで大坂湾で一番の跳ねを競り落とした、あの真鯛が!」
「なんやて……!?」
竹子が悲鳴を上げ、お菊の眉がピクリと動く。元和の泰平が始まったとはいえ、街にはまだ「祝い泥棒」と呼ばれる、冬の陣・夏の陣で溢れた浪人崩れが横行していた。
「……甚平、その浪人ども、どっちへ逃げた」
奥の座敷から、麻裃を正した**吉本源之丞(二十五歳)**が姿を現した。松子の夫となる、大坂奉行所の若き同心である。その瞳には、すでに身内を守る男の火が灯っていた。
「日本橋から、道頓堀の方へ逃げていきよりました……。せやけど旦那、奴ら徒党を組んでまっせ!」
源之丞が腰の刀の鯉口を切ろうとした時、梅子がその前に立った。
「源之丞さん、待って。……甚平さん、その盗まれた魚籠の底、濡れてへんかったか? あの鯛は、うちが下処理のために昨日から特注の『塩』を打ってもろてたんや。道修町で仕入れた、特別な薬塩や。……うちには、その匂いがわかる」
梅子の鼻が、クンと動く。
十六歳の看板娘は、父の遺影をもう一度だけ振り返り、キリリと前垂れを締め直した。
「大坂の商人は『始末』が信条。けど、身内の幸せを掠め取ろうとする奴は、出汁の出涸らし(でがらし)より価値のないカスや。源之丞さん、行きましょか! 大坂の意地、見せたらなあかん!」
「……ふっ、さすがは源蔵殿の娘だ。甚平、案内しろ。婚礼の前に、一捕みして参る!」
こうして、松子の婚礼というめでたき日に、梅の屋一家と同心・源之丞、そして雑喉場の面々を巻き込んだ「騒動記」が幕を開けたのである。




