不可視の眼差し
満月の明かりが森を淡い金色に染めるたび、村から誰かが姿を消した。
彼らは闇の中で喉を引き裂かれて悲鳴もあげられず、翌朝には食い散らかされた骸だけが村に投げ返された。
殺戮の痕跡を陽光が照らし出す。
村人たちは災いが己の身に降りかからぬよう太陽を乞い、月が満ちるたびに恐怖に震えた。日が沈めば家の戸を固く閉ざして祈ることしかできなかった。
村に漂う恐怖を嗅ぎ取り、人狼は終わらない渇きを癒していた。
喉を潤す血の温かさ、肉を裂いて、断末魔を啜る悦楽。満月の夜がくるたび彼は本性を解放し、獲物を狩るのだ。
そして昼間は何食わぬ顔をして人間の姿で村を歩き、次の獲物を選んでいる。誰も彼の正体に気づかない。
しかしある日、人狼は彼女を見つけた。
村外れの古い教会の前に赤い頭巾の小柄な少女が立っている。一房、さらりと垂れた白髪が季節外れの雪に似ていた。
顔には襤褸切れのような包帯が巻かれて瞼を覆い、差し出した両手でおそるおそる辺りを探っている。盲目なのだ。
見るも柔らかな肌、細い首、寄る辺のない無防備な姿。食欲にも似た何かが背筋を駆け抜ける。
人狼は、彼女を次の獲物にしようと思った。同時に彼女を殺すことはできないと感じていた。
そこにいるのが村人を食らい続ける怪物だとは知らず、赤頭巾の少女は彼の手をとって存在を確かめるかのように自分の頬に当てた。
仄かに冷たく、頼りない感触に心臓が跳ねる。
彼女の名はネージュ。生まれつき目が見えず、病を疑う村人からは疎まれているという。
「私を連れ出してくれませんか」
彼の手のひらに頬を寄せたままネージュが囁いた。
「ここは明るすぎて息苦しいの」
雪のように儚げで、陽光に当たっては消えてしまう、そんな弱さが夜の生き物である人狼の心を捉えた。
その夜、二人は手を取り合って村を去った。村人たちは少女が消えたことを惜しみもしなかった。
日が射さない森の奥に人狼の棲み処がある。苔むした石造りの廃墟で二人は暮らし始めた。
彼が抱きしめればネージュは微笑む。
「私の手はあなたのぬくもりに触れるためにある」
彼が花を摘んで帰ってくるとネージュは手探りでそれを飾った。
「私の鼻はあなたがくれた香りを嗅ぐためにある」
彼はネージュのために野草を集めて料理を作る。
「私の口はあなたが作るごちそうを味わうためにある」
そして彼は村から本を盗み出しては、夜毎ネージュに物語を語って聞かせた。
「私の耳はあなたの優しい声を聞くためにある」
人狼は初めて、殺戮以外の喜びを知った。彼女の笑い声が廃墟に響くたび、獣の心が柔らかく溶けていくのだった。
次の満月の夜が訪れ、人狼は再び本性をあらわした。
明らかに変わり果てた気配にもネージュは怯えを見せなかった。
「私の目は見えないけれど、瞳に映るあなたの本当の姿を感じているわ」
あの喜びの正体を人狼は理解した。ネージュはようやく見つけた“仲間”なのだ。孤独に悶えながらも決して人の世界に交わることのできない異端の同志。
だからこそ、彼女は彼を選んでくれたのだと。
人狼は小柄なネージュの前に跪いた。そっと抱きしめ、誓いを交わすように彼女の唇に口づける。
ネージュは嬉しそうに微笑み、ゆっくりと顔の包帯を解いてゆく。
彼女が瞼を開いた瞬間、人狼の心臓が止まった。
冷たく輝く銀の双眸。それは彼を射抜き、魂ごと打ち砕く破魔の弾丸。
人狼の体が崩れ落ち、灰となって少女の足元に舞った。もう彼の心のどこにも痛みはなかった。
虚ろに視線をさまよわせる少女のもとに、軽薄そうな声がかけられる。
「ひどいやつだな、アルジェン」
月光が照らす廃墟の入口に人影が立っている。万が一のためにと銃を背負った少女の相棒の狩人だった。
「最後に素敵な夢が見れたじゃない。私は優しいでしょう?」
白髪は芯から鋭い光を放ち、もはや儚さなど欠片も見当たらない。銀の名を持つ盲目の少女に、相棒の男はわざとらしくため息を吐いた。
「何が“ネージュ”だよ。嘘つき冷血女め」
慣れた仕草でアルジェンは包帯を巻き直し、赤い頭巾で髪を隠した。
悪態をつきながらも相棒が差し出した手をとると、少女は暗闇の世界を慎重に歩く。
「人の皮を被っていても、血の匂いは隠せない。嘘つきはあちらのほうよ」
「満月まで騙しておく必要があったのか?」
「人間だったら私には倒せないじゃない。何のためにあなたがいるの」
そう、敵が人狼ではなく“ただの殺人鬼”だった時のため、狩人は万が一の備えに過ぎなかった。
「東の村でも吸血鬼の噂があるってよ」
「では行きましょう。次の獲物を狩りに」
偽りの名を持つ狩人は振り返りもせず廃墟を去る。夜空に浮かぶ満月も彼女の瞳には光を落とさない。
孤独な獣の灰は冷たい夜風に吹かれ、すぐに誰にも顧みられずに消え失せた。




