第4話:大広間の大掃除
王国の迎賓館にある大広間は、表面上、華やかな熱気に包まれていた。
数百本の蝋燭がシャンデリアの上で燃え盛り、楽団が軽快なワルツを奏でている。着飾った貴族たちがグラスを片手に談笑し、給仕たちが盆を掲げて忙しなく行き交う。
だが、その空間には決定的な「違和感」があった。
招待客である他国の外交官や高位貴族たちは、笑顔を作りながらも、時折不快そうに鼻をひくつかせていた。
強い香水の匂い。それが、床下から漂う腐臭と混ざり合い、熟れた果実が腐りかけたような甘ったるい悪臭となって充満しているのだ。
床の絨毯は、歩くたびに微かに靴底に張り付くような粘着質を感じさせる。
壁の金箔は黒ずみ、美しい生花は、よく見れば花弁の端が枯れて茶色く変色していた。
その腐敗の中心に、第一王子ギルバートと新聖女ミリアが立っていた。
「ようこそ、皇帝陛下。そして……リリエル」
ギルバートは玉座の前で、傲慢な笑みを浮かべていた。
彼の横に立つミリアは、宝石を散りばめた純白のドレスを身に纏い、扇子で口元を隠している。おそらく、漂う悪臭に耐えられないのだろう。
アレクセイ皇帝は、リリエルをエスコートしながらゆっくりと広間の中央へ進み出た。
彼の周囲だけ、空気が凍てついたように澄み渡っている。潔癖の皇帝が放つ威圧感と、リリエルが展開する不可視の防御結界が、周囲の不浄を物理的に弾いているのだ。
「……臭うな」
アレクセイが開口一番、冷たく言い放った。挨拶も、社交辞令もない。ただの事実確認だった。
「ギルバート殿下。貴国の『おもてなし』は、客人に腐った空気を吸わせることかな?」
広間がざわめく。
ギルバートの顔が朱に染まった。
「ぶ、無礼な! これは熟成された香油の香りだ! ……それよりリリエル、よく戻ってきたな」
王子の矛先が、アレクセイの隣に控えるリリエルへと向く。
リリエルは表情一つ変えず、完璧な所作で一礼した。
「お久しぶりでございます、殿下。……ずいぶんと、お痩せになられたご様子」
「ふん、白々しい! お前が呪いをかけていったせいだ!」
ギルバートが大声で叫んだ。
その声を合図に、周囲に控えていた近衛兵たちが、ガチャリと槍を構えて包囲網を縮める。
「この城の異変は、全てお前が出て行ってから始まった! 排水の逆流、壁の腐食、そして夜ごとうなされる悪夢! 全てお前が仕込んだ『黒魔術』だろう!」
ミリアも金切り声を上げた。
「そうよ! 私がいくら聖女の祈りを捧げても、汚れが落ちないの! 貴女、どんな汚い呪いをかけたのよ! 早く解除して、ついでに私のドレスのシミも落としなさい!」
会場の招待客たちが、疑惑の目をリリエルに向ける。
――追放された腹いせに、城に呪いをかけた魔女。
そんな噂が、まことしやかに囁かれ始めた。
だが。
リリエルは慌てるどころか、小さくため息をついた。
そして、眼鏡のブリッジを中指でくいと押し上げると、憐れむような目でかつての主人たちを見上げた。
「……嘆かわしい」
その声は静かだったが、不思議と広間の隅々まで響き渡った。
「呪い? 黒魔術? ……いいえ、殿下。それは単なる『生活汚れ』です」
「な、なんだと?」
「私が毎日、人知れず拭き取り、磨き上げ、浄化していたからこそ、この城は美しかったのです。それを『呪い』と呼ぶのであれば、貴方様ご自身が、呪いの発生源そのものだということに気づくべきでしょう」
「だ、黙れ! 衛兵、その女を捕らえろ! 地下牢で拷問して呪いを解かせるのだ!」
ギルバートが腕を振り下ろす。
衛兵たちが殺到しようとした、その瞬間。
――ドォン!!
アレクセイが床を強く踏み抜いた。
ただそれだけで、衝撃波が走り、衛兵たちが枯れ葉のように吹き飛んだ。
「私の妻に指一本でも触れてみろ。この国ごと消し炭にするぞ」
皇帝から立ち昇る紫色の魔力が、物理的な圧力となって広間を制圧する。誰も動けない。呼吸さえも許されないほどの殺気。
その静寂の中で、リリエルが一歩、前へ出た。
「陛下、お下がりください。……粗大ゴミの処理は、清掃官の仕事です」
リリエルは懐から、一本の白い杖を取り出した。
それは攻撃用の杖ではない。先端に柔らかな羽毛のような魔導繊維がついた、特注の『はたき』だ。
「皆様、本日は外交パーティにお集まりいただき、ありがとうございます。ですが、少々会場が汚れているようですので……余興として、私が『大掃除』を披露いたしましょう」
「な、なにをする気だ!?」
ギルバートが後ずさる。
リリエルは優雅に微笑んだ。その瞳の奥には、絶対零度の冷徹さが宿っている。
「ご安心ください。私は何も加えませんし、誰も傷つけません。ただ、そこに在るものを『あるがまま』に戻すだけです」
リリエルは杖を高く掲げた。
「偽装解除・強制洗浄」
彼女の手首がしなやかに返り、杖が振られた。
パチン、と指を鳴らすような軽快な音が響く。
それを合図に、世界を覆っていた薄皮が一枚、ベリベリと剥がれ落ちた。
まやかしの香水の匂いが消え失せる。
そして、真実の姿が露わになった。
「ひ、ひぃぃッ!?」
悲鳴を上げたのは、最前列にいた貴族婦人だった。
彼女の目の前にあった豪奢なビュッフェ台。そこに並んでいた美しい料理が、一瞬にして変貌したのだ。
新鮮に見えていたローストビーフは、ドス黒く変色し、ハエがたかった腐肉へと戻った。
透き通っていたワインは、澱の混じった濁った泥水へと変わる。
鮮度保持の魔法も、見栄えを良くする幻影も、全てリリエルによって「洗い流された」のだ。
だが、それは序章に過ぎなかった。
「あ、あれを見ろ! 壁が!」
誰かが叫んだ。
黄金色に輝いていた壁の装飾が、みるみるうちに黒ずんでいく。
いや、ただ汚れているのではない。
そこに、どす黒いカビのような文字が浮かび上がってきたのだ。
『〇月×日、東方貿易商より賄賂受領、金貨三千枚』
『聖女ミリア、孤児院への寄付金を着服し、宝石店へ送金』
『第一王子、違法魔薬の密輸ルートを承認』
壁一面にびっしりと浮かび上がったのは、彼らが隠蔽してきた悪事の数々だった。
リリエルがかつて掃除をするたびに感知し、特殊な魔力インクとして「汚れ」の中に封じ込めておいた記録。それが今、洗浄魔法によって現像されたのだ。
「な、なんだこれは……! やめろ! 見るな! 誰か、壁を隠せ!」
ギルバートが半狂乱で叫ぶ。
だが、恐怖はそこで終わらない。
「きゃあああああ!!」
今度は、ミリアが絶叫した。
彼女の純白のドレスが、まるでインク壺をひっくり返したかのように黒く染まっていく。
それは、彼女が横領した金で買ったという「罪の証」だ。
さらに、彼女の白くなめらかな肌に、赤紫色の斑点がいくつも浮かび上がる。首筋、鎖骨、そして胸元へ。
それは、聖女として純潔を誓っていたはずの彼女が、夜な夜なギルバートや他の貴族と重ねてきた不貞の痕跡だった。
厚塗りの化粧と幻覚魔法で隠していたものが、全て剥がされたのだ。
「いや! 見ないで! 私は聖女なのよ!」
ミリアがその場にうずくまり、自分の身体を隠そうとするが、斑点はさらに濃く浮き出てくる。
ギルバートも同様だった。
彼の顔には『無能』『傲慢』『嘘つき』という文字が、まるで子供の落書きのように墨で刻まれているわけではないが、それと同じくらい醜悪な、過度の飲酒と薬物による肌のたるみ、目の下の隈、そして不健康な黄ばんだ眼球が露わになっていた。
若々しい王子の仮面が剥がれ、ただの不摂生な男の実像がそこにあった。
会場は静まり返っていた。
あまりの惨状に、誰も言葉を発することができない。
きらびやかだった舞踏会場は、今や悪臭漂うゴミ捨て場と化し、その中心には、醜い欲望にまみれた二人の男女が震えている。
その地獄絵図の中で、リリエルだけが一点の曇りもなく佇んでいた。
彼女は杖をシュッと振り、付着したわずかな塵を払うと、冷ややかな声で告げた。
「ご覧の通りです、皆様」
彼女は眼鏡の位置を直し、ミリアとギルバートを見下ろした。
その目は、生ゴミを見る目そのものだった。
「化粧や香水でいくら誤魔化しても、染み付いた『本質』は消せません。……これが、この国のありのままの姿。清掃完了でございます」
招待客の貴族たちが、一斉に王子たちへ蔑みの視線を向け始めた。
もはや弁明の余地はない。
壁の文字という「動かぬ証拠」と、彼ら自身の醜い姿が、全てを物語っていたからだ。
リリエルは振り返り、アレクセイに向かって微笑んだ。
「陛下。……少々、刺激の強い洗剤を使いすぎたでしょうか?」
アレクセイは満足げに頷き、リリエルの肩を抱いた。
「いや、素晴らしい手際だ。長年の汚れが落ちて、実に清々しい気分だよ。……さあ、ここから先は『廃棄物処理』の時間だ」
アレクセイが指を鳴らすと、待機していた帝国の兵士たちが、怒涛の勢いで広間になだれ込んできた。




