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第3話:汚れた招待状と「黒い帳簿」

 バルバロッサ帝国の朝は、静寂と共に始まる。


 かつては重苦しい沈黙が支配していた黒帝城だが、今そこに流れているのは、澄み渡った湖面のような清らかな静けさだった。


 執務室の窓から差し込む朝日が、塵一つない磨き上げられた床に反射し、部屋全体を神聖な光で満たしている。空気は冷涼で、吸い込むたびに肺が洗われるようだ。


 その空間の中央、執務机に向かう皇帝アレクセイの横で、リリエルは静かに紅茶を注いでいた。


 カップに注がれる琥珀色の液体が、一度も跳ねることなく水面を揺らす。

 カチャリ、とソーサーに置く音さえも、計算された音楽のように心地よい。


「……完璧だ」


 アレクセイは書類から顔を上げ、ほうっと息をついた。

 彼が賛辞を送ったのは、紅茶の味に対してではない。リリエルが作り出す、この空間の純度に対してだ。


「君が来てから、私は偏頭痛を知らない。肌の湿疹も消えた。何より、思考がクリアだ。まるで泥沼から引き上げられたような気分だよ」


 アレクセイはリリエルの腰に腕を回し、そのエプロンの上から顔を押し付けた。

 潔癖症で知られる氷の皇帝が、幼児のように甘えている。この光景を帝国の臣下たちが見れば、天地がひっくり返るような騒ぎになるだろう。


「陛下、シワになります」


 リリエルは困ったように眉を下げるが、その手を振り払おうとはしない。

 彼女にとっても、この無菌室のような城と、自分の技術を正当に評価してくれる主人の存在は、何物にも代えがたい安息だったからだ。


「リリエル、もういっそ、このまま執務室に住まないか? 君がいない夜は、寝具の微細なダニが気になって眠れないんだ」


「毎日殺菌洗浄しておりますので、ダニは一匹もおりません。陛下の気のせいです」


「気のせいでもいい。君という精神安定剤がないと、私は呼吸困難で死んでしまう」


 アレクセイがリリエルの指先に口付けようとした、その時だった。


 コンコン、と控えめなノックの音が、平穏な空気にひびを入れた。


「……入れ」


 アレクセイの声が、瞬時に甘さを消し、絶対零度の君主のものへと切り替わる。

 扉が開き、侍従長が青ざめた顔で入ってきた。その手には、銀の盆が恭しく捧げられている。


 だが、リリエルの鋭敏な嗅覚は、その盆の上に置かれた『異物』の存在を瞬時に感知した。


 甘ったるい。

 果実が腐りかけたような芳香と、それを隠すために振りかけられた安直な薔薇の香水。そして微かに漂う、脂の酸化した臭い。


「陛下、隣国のギルバート殿下より、親書が届いております。至急、とのことですが……」


 侍従長が恐る恐る盆を差し出す。

 そこには、王家の紋章が入った封筒が載っていた。上質な紙を使っているはずだが、端がわずかに黄ばんでいるように見える。


 アレクセイの眉間に、深いシワが刻まれた。

 彼はハンカチで口元を覆い、露骨な嫌悪感を隠そうともしない。


「臭うな。……なんだその汚物は」


「は、招待状のようでございます。来週開催される外交パーティへの」


「燃やせ。今すぐにだ。私の城に菌を持ち込むな」


 アレクセイが冷たく吐き捨てる。

 だが、リリエルは静かに一歩進み出た。


「お待ちください、陛下。……私が確認いたします」


 リリエルは懐から白手袋を取り出し、装着する。さらに、細長いミスリルのピンセットを取り出すと、まるで感染性の廃棄物を扱うかのような慎重さで封筒をつまみ上げた。


 封筒の表面には、ギルバート王子の筆跡で『親愛なる皇帝陛下へ』と記されている。だが、インクの乗りが悪い。湿気を吸った紙に、無理やり書いたのだろう。


 ペーパーナイフを使わず、リリエルは指先の魔力で封蝋を溶かした。

 中から取り出した便箋を開く。


 そこには、慇懃無礼な言葉が並んでいた。


『両国の友好を深めるため、我が国で開催される晩餐会に招待したい。なお、貴国に迷い込んだ我が国の元使用人、リリエルについても同伴されたし。彼女には返却すべき備品の確認がある』


 リリエルは眼鏡の奥で目を細めた。

 返却すべき備品、か。

 よくもまあ、ぬけぬけと言えたものだ。


 文面からは、焦りの色が透けて見える。

 おそらく、今の王城は惨憺たる有様なのだろう。リリエルという浄化装置を失い、生活インフラが崩壊しつつある中で、プライドだけが高い彼らは「頭を下げて戻ってきてくれ」とは言えないのだ。

 だからこうして、外交という名の圧力を使い、リリエルを呼び戻して拘束し、再び奴隷のようにこき使おうとしている。


 浅ましい。

 そして何より、不潔だ。


「……陛下」


 リリエルはピンセットで便箋をつまんだまま、振り返った。


「彼らは、私を『返せ』と言っております」


 ドォンッ!


 アレクセイの拳が、執務机を叩き割らんばかりに振り下ろされた。

 厚い黒檀の天板に亀裂が走る。


「……ふざけるな」


 アレクセイが立ち上がる。その全身から、紫色の魔力が怒りのオーラとなって噴出した。部屋の温度が一気に氷点下まで下がる。


「返せ、だと? 君はモノではない。私の誇り高い伴侶であり、この帝国の美しき心臓だ。それを、使い潰して捨てた挙句、都合が悪くなれば返せだと?」


 彼の双眸は、激しい怒りで燃え上がっていた。それは単なる嫉妬ではない。自分の大切な世界を汚そうとする外敵への、純粋な殺意だ。


「軍を出す。あの薄汚れた国など、地図から消し去ってやる。君を再びあんな汚泥の中に足を踏み入れさせるわけにはいかない」


「いいえ、陛下。参りましょう」


 リリエルの声は、氷のように冷静だった。

 興奮するアレクセイとは対照的に、彼女は淡々と手紙を「汚染物質隔離袋」へと封入していく。


「リリエル? 正気か? 奴らは君を罠に嵌めようとしているのだぞ」


「ええ、存じております。ですが、私には心残りがあるのです」


 リリエルは眼鏡を外し、懐から取り出したクロスでゆっくりとレンズを拭いた。

 その素顔が、一瞬だけ露わになる。

 美しい顔立ち。だが、その瞳の奥には、アレクセイすらゾッとするような、冷徹な職人の炎が宿っていた。


「あの城を出る時、私は掃除用具だけを持って出ました。ですが……ひとつだけ、回収し忘れたものがございます」


「回収?」


「はい。彼らが長年隠蔽し、床下に押し込んできた『巨大なゴミ』です」


 リリエルは再び眼鏡をかけた。

 カチャリ、という音が、まるで銃の撃鉄を起こす音のように響く。


「私が毎日掃除をしていた時、彼らの不正の痕跡……横領、密輸、違法な魔薬取引の証拠は、全て『汚れ』として感知しておりました。ですが、ただ拭き取るだけでは面白くありません。私はその『汚れ』を凝縮し、特殊な魔力インクとして定着させ、ある場所に保存してあるのです」


 そう、リリエルはずっと記録していたのだ。

 王子がどの商人と密会し、いくら裏金を受け取ったか。

 聖女ミリアが、聖女の活動費と称してどれだけの宝石を私的に購入したか。

 それら全てを、目に見えない文字として、城壁の内部や、王子の愛用する調度品の中に刻み込んである。


 それはリリエルという『現像液』が触れなければ見えない、不可視の裏帳簿ブラック・レジャー


「今回のパーティは、絶好の機会です。各国の要人が集まる晴れの舞台……そこで、あの城の『本当の姿』をお見せしましょう」


 リリエルは、アレクセイに向かって優雅にカーテシーを行った。

 それは、これから始まる大掃除への招待状だ。


「陛下。私の最高傑作である『汚れ落とし』のショーを、特等席でご覧に入れたいのですが……エスコート願えますか?」


 アレクセイは呆気にとられ、やがて喉の奥から愉快そうな笑い声を漏らした。


「はは……! 君という人は、本当に底が知れないな。いいだろう」


 アレクセイはリリエルの前に歩み寄り、その手を取った。


「行こう。害虫駆除の時間だ。私の軍隊も、近衛騎士も、すべて君の掃除用具として使ってくれ。あの国を、物理的にも社会的にも、真っ白に漂白してやろう」


 リリエルは微笑んだ。

 その笑顔は、聖女のように慈悲深く、そして死神のように残酷だった。


 

 出発の朝。

 帝国の正門前には、漆黒の馬車が用意されていた。

 その周りを固めるのは、帝国の精鋭部隊『鉄の掃除屋アイアン・スイーパー』たち。彼らの鎧は一点の曇りもなく磨き上げられ、殺気さえも整然と統率されている。


 リリエルは、愛用の『七つ道具』が入った鞄を確認した。

 

 ・真実を映す顕現の粉

 ・因果を断ち切る裁ち鋏

 ・そして、どんな言い訳も封じ込める契約の鎖


 準備は万端だ。


「さて、参りましょうか」


 リリエルが馬車に乗り込む際、ふと故郷の方角を見つめた。

 空は曇っている。遠く離れたその場所から、腐敗した臭気が漂ってくるのを感じる。


(待っていてください、ギルバート殿下、ミリア様)


 リリエルは心の中で、かつての主人たちに語りかけた。


(あなた方が散らかしたゴミは、分別して燃やすのも大変なのです。……少々、熱いお灸を据えることになりますが、耐えてくださいね?)


 馬車の扉が閉ざされる。

 車輪が動き出し、清潔な帝国の石畳を蹴った。


 向かうは汚濁の都。

 史上最大かつ、もっとも過激な『大掃除』が、幕を開けようとしていた。


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