第2話:輝く新天地と、腐りゆく故郷
国境を越え、馬車は北の大国・バルバロッサ帝国へと入った。
車窓から見える景色は一変する。無駄な装飾を排した重厚な石造りの街並み。冷たく張り詰めた空気。だが、リリエルの目には、それが心地よい整然さとして映っていた。
やがて馬車は、黒曜石で作られたかのような威容を誇る『黒帝城』へと滑り込む。
「……降りようか、私の『女神』」
皇帝アレクセイが、まるで壊れ物を扱うかのようにリリエルの手を取った。
彼の手袋越しではない、素肌の感触。
その光景に、出迎えに並んでいた近衛兵や侍従たちが、幽霊でも見たかのように息を呑む気配が伝わってくる。
あの『触れずの皇帝』が、女の手を引いている。
しかも、あろうことか恍惚とした表情で。
リリエルは周囲の視線を意に介さず、職業柄、まず足元の環境を確認した。
黒い大理石の床。一見すると磨き上げられている。だが、リリエルの「目」をごまかすことはできない。
石の継ぎ目に溜まったミクロ単位の砂埃。
回廊の角に淀む、古びた魔力の残滓。
そして何より、城全体を覆う「主人が誰も受け入れない」という拒絶の空気。これらが微細なノイズとなって、アレクセイの神経を逆撫でしているのだ。
「陛下。……少し、歩きにくうございますね」
リリエルは静かに言った。
出迎えの侍従長と思しき老人が、ムッとしたように眉を寄せる。帝国の威信にかけて清掃は徹底している自負があるのだろう。
だが、リリエルは彼らに弁明の余地を与えない。
「失礼」
彼女は革靴の踵を、コツンと一度だけ鳴らした。
魔法陣の展開も、詠唱もない。
ただ、彼女を中心とした波紋が、目に見えない風となって廊下を走り抜けた。
――ヒュン。
音が空気を切る。
次の瞬間、回廊の窓ガラスが一斉に透明度を増した。
曇っていたわけではない。だが、「ガラスが存在しない」と錯覚するほどに、表面の油膜と魔力の濁りが消滅したのだ。
床の大理石は、天井のシャンデリアを鏡のように映し出し、石の隙間の黒ずみは白く輝く目地へと変わった。
「な……ッ!?」
侍従長が絶句し、眼鏡をずり落とす。
彼らが何十年かけても落とせなかった「城の歴史という名の汚れ」が、たった一歩で拭い去られたのだ。
アレクセイが、深く息を吸い込んだ。
「……美味い」
彼は肺の奥底まで空気を満たし、震える声で言った。
「空気が、甘い。肺に入ってくる異物が何ひとつない。……ああ、私は生まれて初めて、呼吸というものをした気がする」
アレクセイはリリエルの肩を抱き寄せ、その髪に顔を埋めた。潔癖症の彼が、自分から他人に密着する異常事態。
「リリエル。君を『国家筆頭清掃官』に任命する。権限は宰相と同等だ。城のすべての部屋、すべての人間、すべての備品を、君の基準で管理してくれ」
「すべて、でございますか? 抵抗勢力もいるかと存じますが」
「構わん。私の快適な睡眠を妨げる『埃』は、人間であっても排除していい」
リリエルは眼鏡のブリッジを押し上げ、口角をわずかに上げた。
それは獲物を前にした狩人の笑みではなく、散らかった部屋を前に腕まくりをする、職人の武者震いだった。
「承知いたしました。では、まずは手始めに――この城の『予算の流れ』から漂白させていただきましょうか。少々、カビ臭い帳簿の気配がいたしますので」
背後で数名の官僚が青ざめたのを、彼女は見逃さなかった。
***
一方その頃。
リリエルを追放した王国の王城では、夕食会が開かれていた。
第一王子ギルバートは、新聖女ミリアを膝に乗せ、上機嫌でワイングラスを傾けていた――はずだった。
「……なんだ、これは」
ギルバートはグラスをテーブルに叩きつけた。
最高級のクリスタルグラスのはずが、指先に妙な粘り気を感じる。油だ。微かだが、確実に脂汚れが残っている。
「おい、給仕! どうなっている! グラスが汚れているぞ!」
怒鳴り声に、給仕長が蒼白な顔で駆け寄ってくる。
「も、申し訳ございません殿下! ですが、三度も洗浄したのです! なぜか今日に限って、いくら洗っても油膜が落ちず……!」
「言い訳など聞きたくない! 代わりのグラスを持ってこい!」
ギルバートは苛立ちながら、目の前のステーキにナイフを入れた。
だが、食欲をそそるはずの肉の香りに、鼻をつく異臭が混じっていることに気づく。
それは獣臭さであり、同時に、厨房の排水溝から上がってくる腐敗臭のようでもあった。
「……臭い。この肉、腐っているのではないか?」
「そ、そんなはずは! 今朝届いたばかりの新鮮な肉です!」
「ではなぜこんなにドブ臭いのだ!」
ギルバートはナイフを投げ捨てた。
彼は気づいていない。
これまでリリエルが、食材が搬入されるその瞬間に『鮮度維持』と『臭気除去』の魔法をかけ、厨房のまな板から包丁に至るまで、雑菌の繁殖を分子レベルで防いでいたことを。
彼女がいなくなった今、城は「ありのままの姿」に戻ろうとしていた。
厨房の床下にはネズミが走り、排気ダクトには煤が詰まり、食材は常温で急速に劣化を始めている。
「きゃっ!」
突然、ミリアが悲鳴を上げた。
「な、なによこれ! 私のドレスにシミができているじゃない!」
見れば、彼女の純白のドレスの裾に、じわりと黒い染みが広がっている。
床の絨毯だ。
リリエルが去ってからまだ半日。だが、長年蓄積され、リリエルの魔法で封じ込められていた過去の汚れ――ワインの零し跡、泥、そして過去の住人たちが吐き出した欲望という名の穢れが、結界の消失とともに逆流し始めたのだ。
「いやあああ! 気持ち悪い! ギルバート様、なんとかして!」
「ええい、騒ぐな! ミリア、お前の聖女の力で浄化すればいいだろう!」
「そ、そうね!」
ミリアは慌てて立ち上がり、杖を掲げた。
「聖なる光よ、不浄を払いたまえ! セイクリッド・シャイン!」
カッ、と目も眩むような黄金の光が食堂を満たす。
派手だ。演出としては一級品だろう。
だが、光が収まった後、そこに広がっていたのは――
より鮮明に可視化された、地獄絵図だった。
聖なる光は「汚れを落とす」ものではなく、「ありのままを照らす」ものに過ぎない。
強力な光に照らされたことで、テーブルの上の手垢、壁を這う蜘蛛の巣、そして天井の隅に密集するカビのコロニーが、これ以上ないほどくっきりと浮かび上がってしまったのだ。
「ひっ……」
給仕の一人が悲鳴を上げて腰を抜かす。
美しいと思われていた王城のダイニングは、実は薄汚れた廃墟同然の状態だった。
「な、なんだこれは……どうなっている……!」
ギルバートは呆然と立ち尽くした。
その時、食堂の窓の外で、ゴロゴロと不気味な雷鳴が響いた。
いや、雷鳴ではない。それは城の地下深く、巨大な下水処理施設が機能不全を起こし、逆流を始める轟音だった。
王都全体の下水を一手に引き受けていた浄化システム。
その中枢フィルターの役割を果たしていたのが、たった一人の女性の手作業だったという事実に、彼らが気づくのはもう少し先の話だ。
鼻を覆いたくなるような悪臭が、ゆっくりと、しかし確実に、王族たちの足元へと忍び寄っていた。




