表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

2/5

第2話:輝く新天地と、腐りゆく故郷

 国境を越え、馬車は北の大国・バルバロッサ帝国へと入った。

 車窓から見える景色は一変する。無駄な装飾を排した重厚な石造りの街並み。冷たく張り詰めた空気。だが、リリエルの目には、それが心地よい整然さとして映っていた。


 やがて馬車は、黒曜石で作られたかのような威容を誇る『黒帝城』へと滑り込む。


「……降りようか、私の『女神』」


 皇帝アレクセイが、まるで壊れ物を扱うかのようにリリエルの手を取った。

 彼の手袋越しではない、素肌の感触。

 その光景に、出迎えに並んでいた近衛兵や侍従たちが、幽霊でも見たかのように息を呑む気配が伝わってくる。


 あの『触れずの皇帝』が、女の手を引いている。

 しかも、あろうことか恍惚とした表情で。


 リリエルは周囲の視線を意に介さず、職業柄、まず足元の環境を確認した。

 黒い大理石の床。一見すると磨き上げられている。だが、リリエルの「目」をごまかすことはできない。


 石の継ぎ目に溜まったミクロ単位の砂埃。

 回廊の角に淀む、古びた魔力の残滓。

 そして何より、城全体を覆う「主人が誰も受け入れない」という拒絶の空気。これらが微細なノイズとなって、アレクセイの神経を逆撫でしているのだ。


「陛下。……少し、歩きにくうございますね」


 リリエルは静かに言った。

 出迎えの侍従長と思しき老人が、ムッとしたように眉を寄せる。帝国の威信にかけて清掃は徹底している自負があるのだろう。


 だが、リリエルは彼らに弁明の余地を与えない。


「失礼」


 彼女は革靴の踵を、コツンと一度だけ鳴らした。

 魔法陣の展開も、詠唱もない。

 ただ、彼女を中心とした波紋が、目に見えない風となって廊下を走り抜けた。


 ――ヒュン。


 音が空気を切る。

 次の瞬間、回廊の窓ガラスが一斉に透明度を増した。

 曇っていたわけではない。だが、「ガラスが存在しない」と錯覚するほどに、表面の油膜と魔力の濁りが消滅したのだ。

 床の大理石は、天井のシャンデリアを鏡のように映し出し、石の隙間の黒ずみは白く輝く目地へと変わった。


「な……ッ!?」


 侍従長が絶句し、眼鏡をずり落とす。

 彼らが何十年かけても落とせなかった「城の歴史という名の汚れ」が、たった一歩で拭い去られたのだ。


 アレクセイが、深く息を吸い込んだ。


「……美味い」


 彼は肺の奥底まで空気を満たし、震える声で言った。


「空気が、甘い。肺に入ってくる異物が何ひとつない。……ああ、私は生まれて初めて、呼吸というものをした気がする」


 アレクセイはリリエルの肩を抱き寄せ、その髪に顔を埋めた。潔癖症の彼が、自分から他人に密着する異常事態。


「リリエル。君を『国家筆頭清掃官』に任命する。権限は宰相と同等だ。城のすべての部屋、すべての人間、すべての備品を、君の基準で管理してくれ」


「すべて、でございますか? 抵抗勢力もいるかと存じますが」


「構わん。私の快適な睡眠を妨げる『埃』は、人間であっても排除していい」


 リリエルは眼鏡のブリッジを押し上げ、口角をわずかに上げた。

 それは獲物を前にした狩人の笑みではなく、散らかった部屋を前に腕まくりをする、職人の武者震いだった。


「承知いたしました。では、まずは手始めに――この城の『予算の流れ』から漂白させていただきましょうか。少々、カビ臭い帳簿の気配がいたしますので」


 背後で数名の官僚が青ざめたのを、彼女は見逃さなかった。


          ***


 一方その頃。

 リリエルを追放した王国の王城では、夕食会が開かれていた。


 第一王子ギルバートは、新聖女ミリアを膝に乗せ、上機嫌でワイングラスを傾けていた――はずだった。


「……なんだ、これは」


 ギルバートはグラスをテーブルに叩きつけた。

 最高級のクリスタルグラスのはずが、指先に妙な粘り気を感じる。油だ。微かだが、確実に脂汚れが残っている。


「おい、給仕! どうなっている! グラスが汚れているぞ!」


 怒鳴り声に、給仕長が蒼白な顔で駆け寄ってくる。


「も、申し訳ございません殿下! ですが、三度も洗浄したのです! なぜか今日に限って、いくら洗っても油膜が落ちず……!」


「言い訳など聞きたくない! 代わりのグラスを持ってこい!」


 ギルバートは苛立ちながら、目の前のステーキにナイフを入れた。

 だが、食欲をそそるはずの肉の香りに、鼻をつく異臭が混じっていることに気づく。

 それは獣臭さであり、同時に、厨房の排水溝から上がってくる腐敗臭のようでもあった。


「……臭い。この肉、腐っているのではないか?」


「そ、そんなはずは! 今朝届いたばかりの新鮮な肉です!」


「ではなぜこんなにドブ臭いのだ!」


 ギルバートはナイフを投げ捨てた。

 彼は気づいていない。

 これまでリリエルが、食材が搬入されるその瞬間に『鮮度維持』と『臭気除去』の魔法をかけ、厨房のまな板から包丁に至るまで、雑菌の繁殖を分子レベルで防いでいたことを。


 彼女がいなくなった今、城は「ありのままの姿」に戻ろうとしていた。

 厨房の床下にはネズミが走り、排気ダクトには煤が詰まり、食材は常温で急速に劣化を始めている。


「きゃっ!」


 突然、ミリアが悲鳴を上げた。


「な、なによこれ! 私のドレスにシミができているじゃない!」


 見れば、彼女の純白のドレスの裾に、じわりと黒い染みが広がっている。

 床の絨毯だ。

 リリエルが去ってからまだ半日。だが、長年蓄積され、リリエルの魔法で封じ込められていた過去の汚れ――ワインの零し跡、泥、そして過去の住人たちが吐き出した欲望という名の穢れが、結界の消失とともに逆流し始めたのだ。


「いやあああ! 気持ち悪い! ギルバート様、なんとかして!」


「ええい、騒ぐな! ミリア、お前の聖女の力で浄化すればいいだろう!」


「そ、そうね!」


 ミリアは慌てて立ち上がり、杖を掲げた。


「聖なる光よ、不浄を払いたまえ! セイクリッド・シャイン!」


 カッ、と目も眩むような黄金の光が食堂を満たす。

 派手だ。演出としては一級品だろう。

 だが、光が収まった後、そこに広がっていたのは――


 より鮮明に可視化された、地獄絵図だった。


 聖なる光は「汚れを落とす」ものではなく、「ありのままを照らす」ものに過ぎない。

 強力な光に照らされたことで、テーブルの上の手垢、壁を這う蜘蛛の巣、そして天井の隅に密集するカビのコロニーが、これ以上ないほどくっきりと浮かび上がってしまったのだ。


「ひっ……」


 給仕の一人が悲鳴を上げて腰を抜かす。

 美しいと思われていた王城のダイニングは、実は薄汚れた廃墟同然の状態だった。


「な、なんだこれは……どうなっている……!」


 ギルバートは呆然と立ち尽くした。

 その時、食堂の窓の外で、ゴロゴロと不気味な雷鳴が響いた。

 いや、雷鳴ではない。それは城の地下深く、巨大な下水処理施設が機能不全を起こし、逆流を始める轟音だった。


 王都全体の下水を一手に引き受けていた浄化システム。

 その中枢フィルターの役割を果たしていたのが、たった一人の女性の手作業だったという事実に、彼らが気づくのはもう少し先の話だ。


 鼻を覆いたくなるような悪臭が、ゆっくりと、しかし確実に、王族たちの足元へと忍び寄っていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ