第1話:追放と拾われる神
王城の執務室には、独特の澱みが漂っていた。
それは長年掃除されていない排水溝の奥底から這い上がるような湿った不快感であり、それを安っぽい薔薇の香水で強引に塗りつぶしたような、鼻を刺す不協和音だった。
床に敷かれた深紅の絨毯は、一見すると豪奢に見える。だが、毎日この城を磨き上げてきたリリエルの目をごまかすことはできない。織目の隙間に詰まった微細な塵、食べこぼしの油膜、そして誰かの靴底が持ち込んだ泥の粒子。
それらはただの汚れではない。この城の主たちの、心の腐敗そのものだ。
「聞いておるのか、リリエル。今日限りで、お前との婚約を破棄する」
執務机の向こうで、この国の第一王子であるギルバートが言い放った。
彼は金髪を無造作にかき上げ、自分がいかに残酷な宣告をしているか気付いていない様子で、隣に座る少女の腰に手を回している。
その少女、新しく聖女として認定されたミリアは、とろけるような甘い笑みを浮かべて王子に身を寄せていた。彼女のドレスの裾が、リリエルが今朝完璧に染み抜きをしたばかりの絨毯に触れているが、彼女はお構いなしだ。
リリエルは表情筋一つ動かさず、完璧な تعzimの姿勢のまま、静かに口を開いた。
「理由は、私の家柄でしょうか。それとも、能力の不足でしょうか」
声色には怒りも悲しみもない。ただ、業務上の確認事項を淡々と処理する事務的な響きだけがあった。
ギルバート王子は鼻で笑った。
「家柄? それもあるが、一番は能力だ。リリエル、お前の魔法は地味すぎるのだよ。洗浄? 清掃? そんなものはメイドにやらせておけばいい。ミリアを見ろ。彼女の『聖なる光』こそが、次期王妃にふさわしい輝きだ」
「そう、ですわぁ。リリエル様のお掃除は丁寧ですけれど、王族の仕事ではありませんものねぇ」
ミリアが甘ったるい声で同意する。
リリエルは眼鏡のブリッジを中指でくいと押し上げた。レンズの奥にある紺碧の瞳が、冷徹な光を帯びる。
彼らは何も理解していない。
この城がなぜ、築三百年を経てもなお新築のような輝きを保っているのか。
なぜ、地下牢の湿気が広まらず、厨房の害虫が一匹も出ず、王子の放蕩による不摂生が病に繋がらないのか。
全てはリリエルが、三百六十五日休みなく発動させている固有魔法『浄化清掃』による維持管理のおかげだということを。
リリエルにとって、掃除とは単にゴミを拾うことではない。
空間にこびりついた『穢れ』を剥ぎ取り、因果を断ち切り、あるべき正常な状態へ世界を書き換える儀式だ。
だが、その説明をするのは、泥にまみれた豚に真珠の価値を説くよりも無駄な徒労に思えた。
「……承知いたしました」
リリエルは短く答えた。
「私の掃除が不要だというのであれば、喜んでこの職を辞しましょう。婚約破棄の件、謹んでお受けいたします」
あまりにあっさりとした反応に、ギルバート王子は拍子抜けしたような顔をした。縋り付いて泣く姿でも期待していたのだろうか。
「ふん、強がりを。まあいい。荷物をまとめたらすぐに出て行け。あぁ、そうだ。これまでの業務の引継ぎ書などはいらんぞ。どうせ『ここを拭け』とか『あそこを掃け』とか、くだらないことしか書いていないのだろう?」
「引継ぎは不要、と。そのお言葉、確かに承りました」
「くどいぞ! さっさと行け! この視界の隅にあるシミのような女め」
王子が手を振って追い払う仕草をする。
リリエルは深く一礼した。それは王族への敬意ではなく、故人への黙祷に近い、冷ややかな作法だった。
踵を返す。
背筋をピンと伸ばし、足音一つ立てずに執務室の扉へと向かう。
ドアノブに手をかけた瞬間、リリエルは指先からわずかに放出していた魔力を完全に遮断した。
――プツン。
その瞬間、世界が変わった。
もちろん、王子たちには見えていないだろう。だが、リリエルにははっきりと分かった。
空気が重くなった。
窓枠の隅で息を潜めていたカビの胞子が、抑圧から解放されて一斉に舞い始めた。
絨毯の下のダニが蠢き出し、壁の石材に染み付いていた古い怨念のような湿気が、じわりと表面に滲み出てくる。
守りは解かれた。
この城は今この瞬間から、自然の摂理に従って急速に腐敗を始めるだろう。
「さようなら、殿下。……どうか、汚物にお気をつけて」
リリエルは誰にも聞こえない声で呟き、扉を閉めた。
***
王城を追い出されたリリエルは、当てもなく王都の石畳を歩いていた。
空は鉛色に曇り、今にも泣き出しそうだ。だが、リリエルの心は奇妙なほど晴れやかだった。
肩の荷が下りた、という表現では生ぬるい。
長年背負わされていた、悪臭を放つ生ゴミの詰まった袋を、ようやくゴミ集積所に投げ捨てたような開放感だ。
(さて、これからどうしましょうか)
実家に戻るつもりはない。あの家もまた、王家に媚びを売るしか能のない、薄汚れた場所だった。
どこか遠くの田舎町で、清掃ギルドでも立ち上げようか。それとも、以前から興味のあった『魔導洗剤』の開発に専念しようか。
そんなことを考えていた時だった。
大通りの向こうから、一台の馬車が猛スピードで駆けてきた。
黒塗りの車体に、金の装飾。見慣れない紋章が刻まれている。御者は焦っているようで、水たまりを避ける余裕もなく馬を飛ばしていた。
バシャッ!
車輪が大きな水たまりを轢き、泥水が扇状に跳ね上がった。
運悪く、その軌道上にいたのは、豪奢な外套を纏った長身の男だった。彼は馬車を止めようと、ちょうど車道に降りたところだったらしい。
避けられない。
誰の目にも、泥水がその美しい銀髪の男を汚す未来が見えた。
「――失礼いたします」
リリエルの身体が勝手に動いていた。
それは思考よりも速い、プロフェッショナルとしての条件反射だった。
彼女は懐から真っ白なハンカチを取り出すと、男と泥水の間へ滑り込むように踏み出した。
物理的に防ぐのではない。
そんな小さな布で防げる水量ではない。
彼女が発動させたのは、概念への干渉だ。
「消去」
涼やかな声と共に、ハンカチが一閃される。
刹那。
空中で静止したかのように見えた泥水が、一瞬にして蒸発――いや、存在そのものを抹消された。
水滴ひとつ、塵ひとつ残らない。
男の外套には、汚れどころか、湿り気すら付着していなかった。
周囲の時が止まったかのような静寂。
リリエルは何事もなかったかのようにハンカチを畳み、一礼した。
「お怪我はありませんか。……少し、空気が汚れておりましたので」
男がゆっくりと目を見開いた。
氷のように冷たく、それでいて吸い込まれるような紫水晶の瞳。
彼は自分の身体を見下ろし、次にリリエルの顔を凝視した。その視線は、獲物を見つけた猛禽類のように鋭い。
「……今、何をした?」
低く、威厳のある声だった。だが、そこには明らかな動揺が含まれていた。
「ただの掃除です」
リリエルは簡潔に答えた。
「掃除? これがか?」
男はおもむろに手袋を外し、素手でリリエルの頬に触れようとした。
周囲の護衛騎士たちが「陛下! 素手は危険です!」と叫ぶが、男は制止を聞かない。
男の指先が、リリエルの頬に触れる。
リリエルは身じろぎもしない。
「……痒くない」
男は信じられないものを見る目で呟いた。
「私は極度の潔癖症でね。他人が半径一メートル以内に近づくだけで吐き気がし、肌が触れれば蕁麻疹が出る体質なのだが……君だけは、平気だ」
男は恍惚とした表情を浮かべた。まるで砂漠で数日ぶりに水を飲んだ遭難者のように、リリエルの存在そのものを渇望する目つきだ。
「その清浄な空気。塵ひとつない魔力。君は……まるで『無菌室』そのものだ」
「はぁ」
リリエルは相槌に困った。無菌室扱いされたのは人生で初めてだ。
男はリリエルの手を取り、その甲にうやうやしく口付けを落とした。
「私の名はアレクセイ。隣国バルバロッサの皇帝だ」
皇帝。
その言葉に、周囲の通行人たちが息を呑む。バルバロッサ帝国といえば、冷酷無比な武力と経済力で大陸を支配する最強の国家だ。その頂点に立つ『氷の皇帝』が、まさかこんな所にいるとは。
アレクセイは、リリエルの目を真っ直ぐに見つめて言った。
「君をスカウトしたい。給金は言い値で払おう。地位も名誉も、望むものは全て用意する」
そして、獲物を逃がさない捕食者の笑みを浮かべ、甘く囁いた。
「私の城に来てくれ。そして、私の世界を――隅々まで『掃除』してくれないか?」
リリエルは眼鏡の位置を直した。
どうやら、新しい就職先はすぐに見つかったらしい。しかも今度の主人は、前の愚かな王子とは違い、掃除の価値を正しく理解できる人物のようだ。
「承知いたしました、陛下。私の仕事は完璧です。どのような頑固な汚れであっても、跡形もなく消し去って差し上げましょう」
リリエルは優雅に微笑んだ。
それは、これから始まる大掃除への、静かなる宣戦布告だった。




