06:心の棘
夜の帳がその身を横たえ、辺りが暗闇と静寂に包まれた時。それが陛下の訪れを意味する。
あの日を境に毎夜のように繰り返される行為は、ただ虚しさと悲しさを浮き彫りにするだけだった。
肌をなぞる指先も、私の名前を紡ぐ唇も偽りでしかない。
そして朝が来れば、泡沫の魔法は消え去ってしまうのだ。
ベッドは私一人の体温しか覚えない。ホンの数時間の陛下の体温など、忘れてしまう。
あとどれくらい、涙を流せばいいのか分からない。
痛む心は失くしたと思っていたのに、一夜を明かす度私の胸に戻ってくる。
涙の数だけ、陛下を想う気持ちも消えてくれたらどれほど楽だろうか。
初めから届くことはないと分かっているのに、陛下の仕草一つに簡単に傷つく自分がいる。
王妃という立場から逃れたい半面、朝起きて陛下が隣にいる日々を思い描く。なんて放漫な感情だろう。
「え?」
ぼんやりと考え事をしていた所為で、女官長の言葉を聞き逃していた。
投げかけられた疑問符に、彼女は特に顔を顰めるでもなく淡々と言葉を紡ぐ。
「スカーレット姫がお会いになりたいそうです。出来れば今日明日中にでも」
「私に?一体どうして…」
「お茶会に王妃様がご出席になられないからと、姫自ら赴いて下さるそうでございます」
「そう…」
部屋から出るなという令は、一週間以上たった今でも解けることはなかった。
暫く誰かと話すこともしていない。部屋から出なければ特に問題はないだろうと思う。
「本来なら王妃様がお茶会を主催されるべきでございますのに」
てきぱきとお茶の道具を片づけながら言う女官長の言葉には、微かな非難が含まれていた。
何度か後宮の他の姫をお招きしてお茶会を開いたことがある。スカーレット姫が城に入り、真っ先にそれをしなくてはいけなかったのは自分なのに。
城を出ることに頭がいっぱいで、そこまで気が回らなかった。
これではスカーレット姫を王妃が認めないと、変な噂を生んでしまうだろう。
自分の行動の甘さに今更ながら苦笑いが隠せない。
「ええ、そうね。気が利かなかったわ、ごめんなさい」
「臣下に謝罪は不要でございます」
「そうだったわね。姫が到着されるまでに新しいドレスに着替えます。用意を」
「畏まりました」
一人残された部屋で溜め息を吐く。
エレナがいなくなって、途端にミスが多くなった。
王妃でいることは極限まで神経を張り詰めているということ。
今まではその緊張を解く場所があった。エレナとのお喋りの時間であったり、一人ではないものの庭を散策する時であったり。
どちらの機会も失ってしまった今は、日がな一日緊張状態にある。夜でさえ、それは同じだった。
王妃になる人物は幼い頃よりそれなりの訓練を積んでいる。
民の前に出ても物怖じしない度胸と、深い教養、幅広い交友関係など求められるものは多いからだ。
そのような方たちは自分の価値を知っている。だから私のようなミスもしないし、臣下に謝ることもしない。
傲慢だとかそういうのではなく、それが求められている事だからだ。
鏡の前に立ち、自分と向き合う。
栗色の髪は真っ直ぐではなく、癖のある巻き毛だ。お兄様たちは可愛いと褒めてくださったけれど、あまり好きにはなれない。
可愛いという言葉は、「綺麗」ではないのだ。なんだか子供っぽさを強調されているみたいに聞こえてしまう。
18になったというのにあまり肉付きのない体もコンプレックスの一つ。お母様も華奢で小柄な方だったから、遺伝なのだろう。
大人になればなるほど、周りとの差を感じずにはいられなかった。
私には体の線を強調するようなドレスも、深紅の口紅も似合わない。歳を一つ重ねる度に、試してはみるものの不釣り合い過ぎた。
スカーレット姫には、さぞ似合うことだろう。
頭を過った彼女の姿を急いで打ち消す。嫌だ、こんなみっともない嫉妬をするなんて。
もう一度溜め息を吐き、鏡の中の自分に言い聞かせる。
「笑うのよ、サラ。まだ…貴女は王妃なんだから」
鏡に映った笑顔は、ひどく歪だった。
「本当に私、楽しみにしてましたのよ。王妃様とこうしてお話しするの」
朗らかに笑いながら、音一つ立てずにカップをソーサーに戻す仕草は流石に優雅だった。
「この前のお茶会も、王妃様が来て下さるとばかり思っていたから残念でしたのよ」
「申し訳なく思っています…本当なら私からお誘いしなくてはいけなかったのに」
あの後、それ程時間を置かずに訪れたスカーレット姫は相も変わらず「美しい」という表現がぴったりだった。
歓迎の宴の時はきちんとお顔を拝見する機会がなかったけれど、近くで見るとますます硝子細工のよう。
陽の光を受けて肩口を流れる髪は、更にその色の深さを増し、胸元には髪色と同じ深紅の宝石が輝いていた。
一つ一つの動作は洗練されていて、きっとあの女官長でさえ文句は言えないだろうと思う。
「まあ、王妃様が謝られることなんてございませんわ。体調を崩されたのでしょう?もうお加減はよろしいんですの?」
「ええ…お気遣いありがとうございます」
お茶会を断った口実は私の体調不良だったのかと、今更思い知る。
それにしてもなんて優しい方なのだろう。こんな風に細やかな気遣いもして下さるなんて。
スカーレット様が持ってきて下さったお茶は、初めて口にする味だった。
甘さの中にもほんのりとした苦味があり、本当に美味しい。
正直にその感想を口にすると、祖国の品だと教えてくれた。カメリア国でこんなに美味しいお茶が取れるなんて初耳だった。
少なからず隣国のことは学んできた筈なのにと、ここでも勉強不足を否めない。
「私、こんなことも知らなかったのかと思うと恥ずかしいですわ」
「このお茶は特産品ではないのです。知らなくて当然ですわ。実は私もつい最近知ったのです。内緒にして下さいましね」
「まあ…」
スカーレット様と話をする度に、どんどん自分の中で靄が晴れていくようだった。
この方に嫉妬を覚えていたなんて、自分が恥ずかしい。
「スカーレット様は…陛下と幼馴染なのですか?」
「ええ。と言っても、幼い頃年に数回会う程度でしたけれど。子供って無邪気でしょう?あの頃は恐れ多くも名前でお呼びしてたのですよ」
「仲がよろしかったんですね」
「そうですわね。懐かしい、思い出です。十数年ぶりにお会いしましたけれど、お優しいところはちっとも変わっていらっしゃらないわ」
遠くを見つめる視線は、誰を想っているのかすぐに分かった。
きっと私もこのような瞳で陛下を見つめているのだから。
スカーレット様は陛下を想っていらっしゃる。それも、幼い頃から。
陛下は…どうなのだろうか。
あの夜、スカーレット様がお持ちになっていた香水を残していたことは未だに根深く記憶に残っていた。
今日もスカーレット様はあの甘やかな香りを身に纏っている。
それに、先ほどの言葉。優しいところはちっとも変わっていないと言っていたところからして、陛下はスカーレット様を大切に思っていらっしゃるのだろう。
その事実が切なく胸に棘を残す。
「それより王妃様こそ教えてくださいな」
「え?」
「正妃様なんですもの。私の知らない陛下のことをご存じなんでしょう?」
ちくり、ちくりと胸を刺す痛み。
とてもじゃないけれど、言えなかった。
陛下は決して私を愛していないのだと。私が知っている事など何もないのだと。
私には胸を焦がす思い出も、心を躍らせるような未来も陛下との間には存在しない。
ただ3年間、言ってしまえば肩書きだけにしがみ付いていただけ。
スカーレット様が知っている優しい顔も、言葉も私は知らないのだ。
知っているのは氷のような眼差しだけ。
「あ…それ、は」
「まあ王妃様、勿体ぶらずに教えてください」
「私…」
一体どうしたというのだろう。
さっきから体が熱くなったり、冷たくなったりを繰り返している。
頭もくらくらして酷く気分が悪い。
お茶を飲もうとカップに伸ばした手は、ひどく痺れて力が入らなかった。
それでも何とかカップに触れた瞬間。
目の前がぐらりと揺れた。
「王妃様!?誰か!王妃様がっ…!」
遠くで悲鳴とカップの割れる音が聞こえる。
沢山の人の足音と、私を呼ぶ声。
全身に力が入らなくて何も答えられない。
割れるように痛む頭を忘れるかのように、私は静かに目を閉じた。