05:闇はまだ深く
目を開けた時、カーテンの隙間から薄らと朝陽が零れていた。
小鳥のさえずりと、朝露に濡れた花の香りが今にも窓を突き抜けて溢れそうな気がする。
いつもと同じ朝。
あと数分もすればエレナが明るい声を響かせて、扉から入ってくるだろう。
もう少し夢との狭間を行き来していたい気がするけれど、彼女はそれを許してくれない。
名残惜しく感じながらも、体を起こそうとした時だった。
「えっ…?」
まるでベッドに縫いつけられたかのように体が重い。
それどころか口から出たのも掠れた空気で、おおよそ声とは言えぬものだった。
目が冴える毎に感じる鈍い痛み。指先一つ動かすにも神経の細部までぴりぴりと痺れを覚えた。
混乱した頭で昨日の記憶を辿っていく。
確か陛下に城を去るお許しを得ようと話をして…それから…
断片的に思い出す昨夜の出来事に体が震える。
肌をなぞる指先も、かけられた言葉にも優しさなど存在しなかった。
蔑みと、果てのない憎悪。その2つだけが氷のように冷たい瞳に宿っていたのだから。
競り上がってくる痛みを何とか呑み込み、心を落ち着けようと息を吐く。
隣には誰もいない。温度のないシーツに一人、沈んでいく。
もしも肌に残された痕さえなければ、全て夢として納得していただろう。
ホンの少し、悪い夢を見たと。それだけで済んだ筈だったのに。
「王妃様」
ドアの向こうから控え目に掛けられた声に、慌ててシーツを掻き抱く。
着ていた夜着は、どこかへ消えてしまっていた。
入ってきたのは女官長と、見たことがない侍女2人だった。
侍女たちに的確に指示を出した彼女は、眉一つ動かさないまま私の肩に薄手の服を掛けた。
そこにいつものエレナの姿がない。そういえば夕食の時も彼女の姿はなかったように思う。
いつも一緒にいた所為か、違和感と不安ばかりが心を支配していく。
「このまま湯にお浸かり下さいませ。その間に朝食を用意しておきます」
「あの…エレナはどうしたの?いつも私付きだった」
「彼女でしたら、城から暇が出ましたので王妃様のご実家に戻りました」
「え…?」
「これから暫くは私たちで王妃様のお世話をいたします。必要な物がございましたらすぐにお言いつけ下さい」
質問は受け付けないと言うように、型通りの礼をした彼女は思い出したように口を開いた。
「本日はスカーレット様がお茶会を開くそうでございます」
「そう…時間は?」
「いいえ。陛下より部屋から出すなときつく申しつけられております」
「どういう、ことかしら…」
「今後も陛下の許可なく王妃様は部屋から出られません。扉の外、窓の下など全て兵がおりますのでくれぐれも軽率な考えは謹んでいただきますよう」
全身から血の気がゆっくりと引いていくのが分かった。
私には、少しの自由さえなくなってしまったのか。
絶望なのか怒りなのか悲しみなのか、心の中を渦巻く感情に名前はつけられそうにない。
ただゆっくりと心に染みてく虚無感は、確実に感情を壊している。
多くを望んだわけではない。
王妃として役目を果たせないのならせめて、ひっそりとこれからを暮らしていけたらと。
陛下を愛する気持ちだけを持ち続けられたらそれでよかったのに。
願ったものは何一つ残らなかった。
一礼して去っていく女官長の背中を呆然と見送った。
侍女たちに急かされ、浴室へと足を進める。
代わる代わる湯浴みを手伝う彼女たちにされるがままの私は人形みたいだ。
本物の人形になってしまえば、痛みを感じる心も無くせるのに。
ただの「飾り」として王妃の位に就いたままでいられたのに。
湯浴の後用意されたドレスも宝石も、全て一流品ばかり。
実家にいた頃は憧れさえ持っていたのに、今はこの身を縛る鎖にしかならない。
私の胸元を彩る10分の1の宝石でも母はとても喜んでいたっけ。
愛する父からの贈り物に大きさなんて関係ないのだ。ただ父が母を想っている、その気持ちだけで幸せだと言っていた。
大きくて、とても重い宝石。
だけどそこに想いなど入っていないのだ。
やがて身の回りの世話を終えた侍女たちは、用があったらベルを鳴らすように言い扉の向こうへ消えていった。
することも無く、ぼんやりと外を眺める。
王妃になってから、随分とこの国の歴史を学んだ。創世記から、現代史まで。
今の陛下の代になるまで実に100近くの王が、歴史にその名を連ねていた。
歴史を重ねるごとに我がロゼ国は強く、そして大きくなっていく。
戦争という手段を取っても、ロゼにあまり敵がいないのは一重に陛下の圧倒的な力の所為なのだろう。誰もがその力の前には無力になる。そして跪かずにはいられないのだ。
「随分熱心に外を見ているのだな」
突然降ってきた声に、肩が跳ねる。
そちらへ視線を移すと執務用の服を纏った陛下が立っていた。
先ほどの私の反応が気に食わなかったのか、綺麗な形を描いている眉は歪んでいた。
コツン、と陛下が一歩踏み出す毎に鳴る靴音が、昨夜の恐怖を甦らせる。
抉られた傷がまた開いていくように、ゆっくりと確実に心に痛みが走る。
今まで昼間から陛下が私を訪れたことはなかった。尤も、夜もだけれど。
昨日は薄暗く月明かりに照らされていた顔は、眩しい光の中にハッキリとその形を表す。
見惚れてしまう程整った顔が怖いと思うのは、そこに何の感情も無いから。
小刻みに震えている唇をなぞり、陛下は笑う。
慈しむようなものでも、からかうようなものでもない。
心の底から嘲るような笑み。
「私に触れられるのがそんなに嫌か」
「いえ…そんな」
「生憎執務が押していてな。お前を抱いている時間はない」
ぞく、と背中を戦慄が駆け抜ける。
壊れた機械のように昨夜の情景が何度も何度も、途切れながら繰り返し頭を掠める。
目を瞑って振り払おうとしても、まるで瞼の裏にこびり付いているかのように離れてはくれなかった。
「何か、ご用でしょうか」
精一杯自身を奮い立たせて紡いだ言葉は、情けないほどに震えていた。
陛下は私の質問に答えるでもなく、窓際に置かれた小さな丸テーブルの上に何かを置いた。
それは手紙だった。薄紅色の封筒は私が好きだったもの。
それを知っているのは実家の人間…兄とエレナだけだ。
恐る恐る陛下に視線を合わせる。
その表情からは何も読み取れない。
深海のような瞳に全て呑まれそうになり、無意識に合わせた目を逸らしていた。
「今朝実家に返したお前の侍女が持っていたものだ」
そのまま陛下の指先は、何の躊躇いも無く封を切っていく。
一度開けられたようで、綺麗に剥がれたそこから手紙を取り出す。
「私が何も知らないとでも思ったか?」
手紙には私の身を案じる言葉が連なっていた。
今まで辛い思いをさせて悪かった。城を去った時は必ず家に寄ってくれ。必要な物は全て揃える。
兄の優しさが溢れている手紙。
エレナは私にこれを渡す前に見つかってしまい、内容を知った陛下に実家に返された。
私の所為だ。エレナは何も知らなかったのに。
「随分甘く見られたものだな。楽しい計画が台無しになって悪かった、とでも言っておこうか」
「陛下っ…!!」
「なんだ。言い訳でもするか?」
どうして、という疑問符はずっと頭の中を巡っていた。
私が王妃である意味、この城に残る意味。それが一体どこにあるというのだろう。
3年、こうしてこれたのも陛下を想っていたから。傍にいるだけで幸せで、大切な時間だった。
けれどそれだけではいけないのだ。王妃としての責任は、それだけでは。
「お願いです…私を」
全てを言い終わる前に陛下の足は、既に扉の近くまで進んでいた。
これ以上言うことも許されないということだろうか。
「今宵また来る。準備をしておけ」
告げられたその一言は、暗に今夜も抱くということ。
唇を強く噛んで言葉を呑み込む。
でないと今にも堰を切ったように泣き喚いてしまいそうだった。