03:朧月
宴は時間を追うごとに華やかさを増していた。
その間にも陛下と私の下へは入れ代わり立ち代わり貴族が現れ、王女の美しさを褒めた。
王室を始め、力のある貴族は妾を持つことが当たり前。
それを認め、妾にも優しくするのが正妻の在るべき姿とされている。
だからスカーレット様を褒める言葉が溢れていても、私は黙って微笑まなくてはいけない。
どんなに心が悲鳴を上げても、大声で泣くことは叶わないのだ。
「お綺麗ね、スカーレット姫は」
「本当に。この国には珍しい深紅の御髪が宝石のようだわ」
「それに比べて王妃様の凡庸なこと」
「まあ、聞こえますわよ」
さして遠くない場所にいた貴族の姫の言葉は、針のように鋭く私の胸を刺していく。
取り柄のない王妃は、美しい姫の姿に霞んで見える。そう、言いたいのだろう。
スカーレット様の周りは、まるで太陽が落ちてきたかのように明るかった。
あの陛下との気軽なやり取りで、国中の貴族の心を掴んだのだ。
嫌な顔一つせず、笑顔で会話を進めていく彼女はやはり素晴らしい女性なのだろう。
何より陛下と並んでも全く見劣りしない華やかさ、一国の王女としての気品。
私が持っていないものを、彼女は持っている。
嫉妬というよりは諦めに近かった。
この3年、陛下に相応しい妻になろうと頑張ってきたことが無駄だとは思わない。
けれどどんなに努力を積んでも生まれだけは変えられないのが事実なのだ。
少しでも頭を切り替えようと、テラスの方に足が向かった。
「王妃様、どちらへ」
「モリス…驚いたわ。ちょっと夜風に当たろうと思って」
「一人になるのは危険でございます。誰か呼んで参りますので」
「いいえ!誰かの手を煩わせるのは嫌なの。テラスに出るのは諦めるわ」
「王妃様…貴女はもう少し我が儘になるべきです。聞き分けが良すぎるのも問題ですよ」
「いいの。これが私なんですもの」
そうなのだ。
どんなに願ったところで私は私。
臆病で弱虫で、実はとんでもなく意地っ張りなサラなのだ。
自分を嫌うことなんて誰に出来るというのだろう。
せめて自我だけはしっかり持っていないと、足元から崩れてしまいそうだ。
一際美しい笑い声が広間に響く。
どうやら臣下の一人が冗談を言ったらしく、スカーレット姫は楽しそうに笑っていた。
陛下は少し離れた場所で重鎮と何か話していたが、その笑い声に釣られ頬を緩めた。
スカーレット様…本当に貴女は素敵な方。
私の前で陛下があのように笑ったことなど一度もないのに。
貴女の明るい声は、陛下のお心でさえも掴むのね。
きっと貴女なら…素晴らしい王妃様になれる。
「スカーレット姫は大人気ですね」
「ええ、本当に。あの方なら立派な王妃になれますわ」
「王妃様!一体何を…!」
厳しく咎められたけど、それが私の本心だった。
この国が、何より陛下が幸せである為に私は最善を尽くそう。
たとえそれが身を引き裂く程辛いことでも。
「モリス、伝言を頼めるかしら」
「え、ええ。なんなりと」
「今夜、兄のクラウス・ハークネス子爵と話がしたいの。陛下に許可を頂けるか聞いて下さる?」
「畏まりました。ハークネス殿には」
「兄には私の侍女から伝言が行っているわ」
私はもう一度会場に視線を向けた。
華やかで美しい世界。
魔法は、間もなく解ける。
「私は部屋に戻ります。モリス、頼みました」
「王妃様…貴女は何も分かっていない」
「真実は常に目の前にあるものよ。私はきちんとそれを見たの」
「しかしっ…!」
「モリス」
「申し訳ございません」と頭を下げたモリスは、そのまま陛下の下へ向かった。
近くにいた侍女を呼ぶと彼女はすぐに2人の兵士を連れてきた。
囲まれるようにして部屋へと歩みを進める。
回廊を通り抜ける夜の風が、頬に当たって気持ちがいい。
熱気に包まれていた広間にいた所為で、体は火照っていようだ。
満月の淡い光に照らされた廊下は幻想的な美しさを醸し出していた。
昔読んだ童話の挿絵に似ている。
ただ空想の世界に憧れていたあの頃は、王子様と結婚する王女様になりたいと思っていたっけ。
「ありがとう。悪いけれど席を外して頂戴」
侍女達が部屋から出て行くのを見送ってから、窓の傍まで近づく。
ここから見える景色はなんて美しいのだろうと、王妃になって初めての日に思った。
陛下が治める愛すべき景色。
美しいからこそ、私には重過ぎた。
やがて控えめなノックが聞こえ、私は知らず知らずのうちに流れていた涙を拭った。
そこには一年ぶりにみる兄の姿。
私と同じ髪の色、同じ鼻の形、見知った笑顔。
泣きそうになるのを必死で堪え、子供の頃のように抱き着いた。
「久しぶりクラウスお兄様」
「ああ。会えて嬉しいよ。もっとよく顔を見せて」
胸に埋めていた顔を上げると、途端にお兄様の顔が綻ぶ。
「綺麗になったね、サラ」
「お兄様は少しお年を召されたみたいね」
「ははっ…当たり前だけどそこは格好良くなったと言って欲しかったな」
からかうように片目を瞑って見せたお兄様は、私に促されて椅子に座った。
侍女に用意してもらったティーポットからお茶を注ぐ。
アル兄様と違ってクラウスお兄様は甘党だから、砂糖は2杯と少し。
微妙な匙加減はお前にしか出来ないと笑った。
「そういえばアルは来ないのか?」
「ええ。今日はお兄様に大事な話があって」
「大事な話?まさか子供が出来たとか?」
「ううん…違うの」
「何だろう。まさか私の結婚相手を紹介する訳じゃないよね?まったく最近親戚が五月蝿くて仕方ないんだ」
「私、ここを出ようと思うの」
楽しいことを想像していた兄に告げるのは心苦しかった。
きっとこんなことを告げられるなんて思ってもみなかったんだろう。
案の定、兄の喉を潤す筈だったティーカップは不自然な位置で止まっている。
もう一度、と兄の瞳が言う。
「王妃を辞めようと思うの」
ガシャン、と派手な音を立ててカップが床の上に落ちた。
バラバラになった欠片は四方へ飛び散る。
お茶を少し被った筈なのに、そのことに気付かないようで、兄はただ呆然と私を見ていた。
「なん、だって?」
「驚かせてしまってごめんなさい」
「どうして…またそんな。陛下に何かされたのか?」
「…いいえ。何も」
そう、何もされてはいない。
始まりすらなかった夫婦生活に終わりもない。
私は用意された舞台から離れて行くだけ。
ただ、それだけのことなのに。
どうして…どうしてこんなに涙が出るのだろう。
「サラ…お前は幸せじゃなかったのか」
「いいえ、お兄様。幸せでしたわこの3年間」
「しかし」
「私よりも王妃に相応しい方にその役目を譲るだけ」
「…スカーレット王女か」
低く呟くようにそう言ったお兄様は、私の肩を優しく抱き寄せた。
幼かった頃、怖い夢を見る度にそうしてもらった。
その頃の記憶と安心感で胸が一杯になり、泣くことを止められなかった。
「分かった。お前が王妃を辞めた時には必ず力になる」
「我が儘でごめんなさい」
「何を言ってる。元は俺の責任だ。ちゃんとお前の幸せを考えてやれなかった」
許してくれた嬉しさと罪悪感が入り混じって言葉にならなかった。
そんな私の背中をお兄様の手が何度も往復する。
「陛下にはもう話してあるのか?」
「明日、話そうと思ってます」
「そうか」
王妃が退冠するのは決して簡単なことではない。
様々な手続きと退冠式への準備、私付きだった侍女の次の就職口などやることは沢山ある。
それに元王妃の肩書きは生きている限り纏わり付くだろう。
好奇の目や中傷にも耐えなくてはいけなく、今よりずっと辛い生活を強いられる。
何より陛下に面倒を掛けてしまうことが申し訳なかった。
けれどこうするしかなかった。
辛い現実から逃れたいのかもしれない。
モリスが言っていたよりずっと私は我が儘なのだ。
明日私はこのきらびやかな世界に、愛する人に別れを告げる。
3年間の思い出を置き去りにして。