宰相:ヴィンセント・モリスの憂鬱
活動報告からの転載です。
本編より少し後の話です。子供はまだおりません。
らぶらぶ<ほのぼのより。
モリスが相変わらず不憫で、陛下が素直になりました。
薄暗く、埃っぽい資料室から外へ出ると太陽の光におもわず目が眩んだ。
右手を額の上に翳し、ちらつく焦点を必死に定める。
暫く目が慣れるのを待ち、私はその一歩を踏み出した。
陛下から直々に持ってくるよう命じられた書類は、左手に程良い重さを与える。
他国に関する資料ながら思っていたほど重要なものではない。急いではいないと言った陛下の言葉が頭を過り、少しだけその歩みを遅めた。
柔らかな日差しに、季節の変わり目特有の気だるい雰囲気に身を任せるのもいいだろうという気持ちになる。
資料室から執務室までの道のりは長くひっそりとしている為、護衛の騎士もそれ程いない。技巧を尽くしたアーチ状の回廊に沿うように、季節の花々が美しさを競い合っていた。
穏やかな陽の光は植物たちの成長を精一杯促すだろう。
盛りを過ぎ、少しだけ萎れ始めたバラがこうして季節が変わったことを教えてくれた。
あの日からもう幾日が過ぎただろうか。
陛下が王妃を伴って城に帰った時はそれはもう、大騒ぎであった。
何しろスカーレット様のことは極秘扱いにされ、私以外に事の顛末を知る物は数人であった。
その為、連日連夜その処理に追われているときに王妃の懐妊を知らされたのだ。
正直に言って、あの日から数日の記憶はすっかり飛んでいる。あまりに目まぐるしく変わっていく日常は、最早日常ではなかった。
残っていた姫君は後宮を辞し、他家へ嫁ぐか実家に帰っていった。勿論、陛下の一言で簡単に貴族たちが納得する訳がない。
一体彼らに何をしたのかその理由を聞くのはあまりに恐ろしかった為、深くは追求していない。ただ、幾人かが領地へ引っ込んだという話は時折耳に入ってくるが。
あれから陛下は変わられた。いや、陛下だけではない。王妃様も変わられた。
3年の時を経てようやく繋がった想いは変わるのに充分な理由である。
陛下の瞳は王妃様への慈愛で溢れ、その想いを受け取る王妃様の瞳は優しさで溢れていた。
また何か裏があるのではないかと初めの頃は噂になったが、数週間もするとそんなことを口に出すものもいなくなった。
今のお2人を見ればそんな気すら起きなくなるだろう。
紆余曲折を経たからこそ、結んだ想いは深く強くなっていく。国王夫妻の幸せな表情を見る度に、飛んでいる数日間の記憶など安いものだと思えるのだ。
ホンの数カ月間のことに思いを馳せている間に、重厚な執務室の扉の前に着く。
この国で最も警備が厳重な場所。この私ですら中に入る為には、扉の横に控えている騎士から念入りに検査を受けなくてはいけない。
普段は無表情で眉一つ動かさない騎士たちだが、私の姿を見るなり困ったようにお互い目を合わせた。
「なにかあったのか」
「いえ…」
訝しげにそう尋ねると、なんとも歯切れの悪い返事が返ってきた。
「その、陛下は執務室にはおられません」
「…なんだと?」
「宰相様が執務室を出てすぐでございます。それから陛下からこれを」
唖然とする私に、一人の騎士が差し出して来たのは白い封筒であった。
陛下だけが持つことの許される蝋印が押してあるそれを、半ば絶望的な思いで開ける。
私だって一国の宰相を担っている身。馬鹿ではないのだ。
この封筒の中身は恐らく…
『本日の執務は王の体調不良により午前中までとする。後のことはお前に任せた。くれぐれも邪魔はしないように』
ぐしゃり、と手の中の紙が歪む。陛下直筆のものをぞんざいに扱うなんて恐れ多いことではある。
しかし…しかし、だ。数刻前まであれほど元気だったお方が急に体調不良など、仮病以外に考えられない。いや、最後の一文が仮病であることをひしひしと伝えてくる。
わざわざ私に遠くの資料室まで書類を取らせに行ったのはこのためだったのか。
くれぐれも邪魔はしないように。
基本的に王の命令は絶対である…が、流石に今日で3回目。2回目までは目を瞑ろうと思ってきたが今日こそは執務に戻ってもらおう。なんとしてでも。
私は持っていた資料を騎士に押しつけると、踵を返した。
そこに着くと、数人の見知った侍女たちが扉に耳をつけながら何やら話していた。
小声で何か言ったかと思うと、一人が顔を赤くし、あとの二人はくすくすと笑い合う。
が、私の足音に気付いたのかもう一人が顔を青くして慌てて腰を折った。
「さっ、宰相様!」
その声に反応した三人も各々表情を変え、頭を下げる。
「顔を上げなさい。それよりも、ここは王妃の部屋の前だ。王妃付きの侍女ともあろう者たちが揃いもそろって何をしている」
「申し訳ございません!」
「謝る様な事をしていたのか?」
「い、いえ…」
ますます身を縮こませる侍女たちに、それ以上追及するのは止めた。
大体の予想はつくが、職務を放って、しかも王妃様の部屋の前で盗み聞きなど本来ならば許されることではない。
あまりきつくならない程度に女官長に窘めてもらう必要がありそうだ。
「それより陛下が来なかったか?」
「は、はい。つい一刻前にいらっしゃいました」
「そうか。分かった」
そうと聞けば話は早い。
一刻も早く陛下には執務に戻っていただく。ここ数日で溜まった書類が、あれ以上増えない為にも。
そう思い、私が扉を叩く為に右手を上げると侍女たちの「あっ!」という小さな悲鳴に止められた。
「なんだ。何か不都合でもあるのか」
「あの…差し出がましいことと存じますが、その、今は扉を開けない方がよろしいかと」
「どういう意味だ?まさか…」
「いいえ!」
一瞬頭を過った有り得そうな事態を、侍女たちは全力で否定した。
そして口々に、もう少しお待ち下さいと言うだけ。
しかし私にも都合というものがある。今日だけは今日だけはと甘い顔をしていてはいつまで経ってもきっかけは掴めないだろう。
物事にはここぞという瞬間があるのだ。
侍女たちの制止を振り切って、ドアをノックする。
中からの返事はないが、いた仕方ない。王妃の部屋を返事を待たずに開けるなど言語道断ではあるが、これも国の為。
「陛下?いらっしゃるのは分かっております。申し訳ありませんが、失礼いたします!」
私も男だ。少しぐらいの罰ならば甘んじて受け…
「モ、モリス…!?」
王妃様の声で、ドアを開けた姿勢のまま固まっていたことを知った。
不自然な程体が動かない。いや、動くことすら脳が拒否しているのかもしれない。
――そこには、有り得ない光景が広がっていた。
先日陛下が懐妊された王妃様の為にと理由を付けて買ったカウチソファ。
座り心地がなんとも柔らかで、何時間座っていても体に負担を掛けない物をと陛下直々に店に赴いて買い付けたものだ。
まさか一国の王がやってくるとは思っていなかっただろう店の店主は、こちらが見ていて可哀想なほどに緊張していた。
売り物の家具に何度足を引っ掛けて転んだか…その度口の端を引き攣らせながら笑いを堪えていた陛下を見て、店主に深く同情した。
繊細な花が描かれているそれを、王妃様はとても喜んで愛用されていると聞き私も嬉しかった。
そのカウチソファで、まだ下腹部に膨らみのない王妃様は読書をされている。
それはいい。問題なのはその膝の上に陛下の頭があることだ。
いつも帯刀している剣は無防備にもカウチソファの下に置かれ、その上には数枚の書類が散らばっている。…一応、国家重要書類なのだが。
私と目があった王妃様は、初めこそ状況が掴めていなかったらしいが、私と同じように徐々に今の恰好に気付き始め瞬く間に頬を染めていく。
両手に本を持ったまま、どうすることも出来ずに。
しかし、この異様な雰囲気の中で陛下だけは冷静であった。
ホンの少しだけ王妃様の膝から頭を上げると鋭い瞳で私を睨み、そして言った。
「邪魔をするなと言っておいた筈だ。即刻立ち去れ」
――次の瞬間には私は後ろ手に扉を閉め、侍女たちの憐みの籠った視線を一身に受けていたのだった。
「陛下っ…もう充分でございましょう!」
「まだだ」
「モ、モリスに見られてしまいましたわ!」
「構わん。見せつけてやれ」
「陛っ…!」
暫く続いていた甘やかな会話の途切れた理由など、考えたくもない。
今私にできることは、出来る限りの早さでここから立ち去り、今日中に纏めなければいけない書類に判を押すことだけだ。