02:深紅の宴
その日は城全体が浮足立っていた。
無理もない。夕方には隣国から王女が到着し、今夜は宴が開かれるのだから。
私は王妃として、その方を迎えなくてはいけない。
笑顔の仮面をつけて、最大限の威厳を持たなくては。
子爵家にいた時から私の世話をしてくれている侍女のエレナは、早朝から私を磨くことに余念がなかった。
櫛で何度も少し癖のある髪を梳かれ、肌に良いとされる香油を塗られ、夜会の為のドレス選びにも時間をかけていた。
まるで子供の頃遊んだ人形のようだと心の中で笑う。
エレナだけはずっとそのままだ。
子供の頃からの付き合いということもあり、相変わらず私のことを「サラ様」と呼び、言葉にも遠慮がない。
けれどそれが逆に心地よく、安心すら覚えていた。
「サラ様。今夜は特別念入りに準備いたしましょうね!王から先日新しいドレスを頂いたばかりですから」
「どんなに着飾っても顔は変わらないわ」
「またそんなことを仰って!少しは自信というものがないんですか?サラ様は充分お綺麗ですわ。なんて言ったって王妃様なんですから」
王妃。
その地位はやがて私のものではなくなる。
ただのサラに戻り、今まで以上に価値がなくなってしまうんだろう。
「ねえ、エレナ」
「はい?」
「もし…私が王妃でなくなっても、あなたはそのままでいてくれる?」
「え?」
「…ごめんなさい。なんでもないの」
その時私は今と同じように笑えるのだろうか。
エレナもこうして、笑ってくれるのだろうか。
思うだけで心に影が落ちる。
エレナのことを誰よりも信頼している筈なのに、「もしも」を考えずにはいられないなんて。
「今夜はクラウス様もいらっしゃるそうですね」
「お兄様が?」
「ええ。貴族は殆ど招かれているみたいですよ。クラウス様にお会いするのはいつぶりになるでしょうか」
「1年…と、少しかしら。会ったと言っても言葉は交わしていないけれど」
父に似て優しかったクラウスお兄様。
次兄と歳の離れた私をとても大切にしてくれた。
陛下の許へ輿入れが決まった時も、「それでお前は幸せなのか」と何度も聞いてくれた。
懐かしい思い出。裕福ではなかったけれど温かい家庭だった。
今は立派に領地を治めていると、近衛兵となった次兄がエレナを通して教えてくれたっけ。
夜、時間を頂けたら兄と話がしたいと思った。
悲しいけれど今の私に一人で暮らしていけるような生活力はない。
兄ならきっと城を去った後、暫く人並みに暮らしていける場所をどこか紹介してくれるだろう。
「陛下に、兄と2人で話が出来ないか聞いてみるわ」
「そうですね。久しぶりに兄妹の団欒もいいかもしれません。アルフレド様はお呼びしなくてよろしいんですか?」
「今回はクラウスお兄様とお話ししたいわ」
「まあ。アルフレド様がお聞きになったら悲しみますわ」
そうね、とエレナと顔を合わせて笑う。
アル兄様はクラウスお兄様よりも気性が激しい。
だから近衛兵としてやっていけるのかもしれないけれど。
だけど今回のことでアル兄様の立場をあまり悪くはしたくない。
なるべく穏便に、かつ冷静に話を進めていくのにはクラウスお兄様が一番なのだ。
勿論、時期を見てアル兄様にも話そうと思っている。
「出来ましたわ。王妃様」
エレナに促されて大きな鏡の前に立つ。
毎日この場所に立っているけれど、流石に今日の自分には目を見張った。
美しい宝石と煌びやかなドレスに包まれたのは、18歳のちっぽけな女なのに。
この国では珍しくも無い栗色の髪の上に輝くティアラが、重すぎるほどにその存在を示していた。
初めてこれを頭に載せた時のことは、緊張の所為でよく覚えていない。
鏡の中のサラが、悲しそうに微笑む。
あと何回、こうしていられるか分からないけれど。
少なくとも今夜いっぱいは王妃なんだと実感した。
陽が沈む少し前に、王女が到着したと連絡が入った。
あと1時間程で歓迎の宴が始まる。
広間には陛下と並んで入らなくてはいけない為、こうして早めに支度を済ませた。
短いノックの後に、この国の宰相のヴィンセント・モリスが恭しくお辞儀をし入ってきた。
「王妃様。王は執務が押しておりまして、今少し時間がかかるそうでございます」
「そう…」
宰相の言葉に、少しだけ胸に暗い翳が落ちたけれど勤めて冷静に返した。
広間に入る少しの間が、陛下といられる貴重な時間だった。
中に入ってしまえば陛下の傍には入れ替わり立ち替わり重鎮たちが列を作るだろう。
ましてや今日の主役はあくまで王女様だ。
私の一存で陛下を引き留めておくことは出来ない。
「代わりにはなれませんが、階下まで私がお供いたしますがよろしいですか?」
「ええ。ありがとう、モリス」
まだ年若い宰相のモリスは、陛下が即位すると同時に宰相になった。
実家は名門の侯爵家でありながら次男として育てられた彼は、朗らかで人がいいと評判だ。
しかし決断力はあり、他の大臣なら躊躇うであろう改革も積極的に行ってきたと聞いている。
陛下もとても信頼を置いていて、外交など国を左右するような重要事項は先ずモリスに相談しているそうだ。
私も何度も話す機会があったけれど、彼の知識と話の豊富さに毎回驚いている。
きっと今日も階下に着くまで、彼の持っている話を面白おかしく聞かせてくれるのだろう。
そう思うと、心が晴れた。
もう一度身支度を確認し、ドアのところで待つモリスの腕を取る。
「緊張されてますか?」
「どうしてそう思うの?」
「いつもより笑顔が少ないですから」
「そうね、少し緊張しているわ。しなかったことなんてないもの」
「それでは力不足かと存じますが、最近耳にした間抜けな話で王妃様を笑わせて差し上げましょう」
「ええ。お願い」
モリスの話はとても面白かった。
あまりに面白くて笑い声が隠せず、前を歩いていた女官長に眉を顰められた程。
階下までの道のりは決して短くはないのに、私にはあっという間に感じてしまった。
「着いてしまいましたね。私の役目はここまでです。王妃様、広間でまた」
「ありがとう。余計な仕事を増やしてしまったわね」
「いえ、お陰で退屈な準備を他の者に任せることができました。感謝いたします」
「まあ」
腕が私の手から離れていく瞬間、彼は酷く真剣な眼差しでこう言った。
「王妃様、どうか今回のことでお心を痛めませんよう。王が愛しておられるのは貴女お一人です」
今回のこととは、きっと王女の後宮入りのことだろう。
モリスは私に嘘を吐いたことはない。
けれどそれは、真実をしらないから。
違うとも言えず、私はただ曖昧な返事しか出来なかった。
やがてモリスと入れ替わりに階段を下りてくる人が見えた。
沢山の近衛兵に守られながらも、圧倒的なオーラは隠せない。
この国で最も高貴な人。
「すまぬ。遅れた」
「いえ、お気になさらないでください。お仕事お疲れ様でございました」
「ああ」
たったこれだけの会話でも、私は心が震えることを止められなかった。
久しぶりに拝見したその姿は、覚えているよりもずっと素敵で頼もしかった。
シルバーブロンドの髪は照明に照らされてキラキラと輝き、見る人全てを魅了する。
軍事力で列国最強を誇るこの国の王もまた、一武人で。
繊細な中にも荒々しく、確固たる存在感を周りに植え付ける。
「サラ、手を」
「ええ。陛下」
広間はすでに贅の限りを尽くしたもので溢れていた。
その中でも隣国の特産品の、珍しい宝石が七色の光を放ちながら人々の称賛を集めていた。
陛下と肩を並べ、玉座に座る。
大勢の人々の視線が宝石から私たちに移る。
やがて上品な音楽が会場を包み、別の扉が開かれた。
玉座へ続く赤い絨毯を一歩一歩進む女性に、誰もが言葉を失う。
一瞬、辺りが水を打ったように静かになった。
静寂をものともせず、堂々と歩む様はまさに王族だった。
艶のある深紅の髪が、腰の辺りまで真っ直ぐ伸びている。
やがて玉座の手前の階段まで辿りついたその人は、優雅に腰を折り、挨拶をした。
「カメリア国第一王女、スカーレットにございます」
「そんな硬くならなくてもいい。幼い頃は共に遊んだ仲だろう」
「まあ、覚えていてくださったんですか?時々思い出しますのよ。陛下が前国王の寝台にこっそり蛙を忍ばせていた時のことを」
「…頼むから忘れてくれ」
王女様と陛下の親しそうな会話に、広間に集まった貴族も笑った。
私は陛下の幼い時の話を聞いたことがなかったので、スカーレット様に少なからず嫉妬を覚える。
嫌だ。こんな風に思ってしまう自分が。
どうして余裕を持って、彼女を迎えてあげることが出来ないのだろう。
「王妃様、お初にお目に掛かります。これからどうぞよろしくお願いいたしますわ」
「ええ。スカーレット様。こちらこそよろしくお願いします」
宴は始まる。
偽りの国王夫妻と深紅の美姫を迎えて。