愛を乞う-4
静かな夜だった。
木の葉を揺らす風も、闇夜に響く鳥の声も聞こえない。私の隣で眠る小さな肩が犯した罪を詰るかのように小刻みに震えていた。
心の中に閉まった無意味な言葉は、口から零れることなくそのまま呑み込んだ。呼吸をする度に下へ下へと降りていくそれは私の中に残る僅かな良心なのか。
あの日から幾度となくサラと夜を越えた。身体を重ね、指先ですら私を感じるように徹底的に肌に教え込ませた。
だが、心の距離は一向に縮まらなかった。寧ろベッドを共にする前よりも遠くなっている。
それが何故なのかは己が一番よく分かっている筈なのに、心のどこかでまだ認めたくないと頑なに拒んでいる己もいるのだ。
初めは傍にいてくれればそれでよかった。だがいつの間にかそれだけでは飽き足らず、愛して欲しいと願うようになってしまった。
――ただの一度もそう言葉にしたこともないくせに、だ。
夜の情事が激しければ激しい程、朝を迎えるのが恐ろしくて仕方ない。もし目が覚めたときにベッドに彼女がいなかったら。もし彼女が私を見て嫌悪感でいっぱいの顔をしたら。
ひどく弱い心を隠そうと、日が上る前に自室へと戻る毎日。
結局は私のエゴだ。感情に任せてサラを突き放しては引き寄せを繰り返す。
今更後悔などしても遅いのだろう。同時に、今更サラの温もりを忘れることも出来なかった。
疲れきってぐったりとしたサラの身体を包むようにして抱き、私は目を閉じる。
まだ彼女はここにいるのだと確かめるかのように。
「最近仕事を増やされましたね」
書類の文字を追っていた視線を上げると、近くで書類の整理をしていたモリスが難しい顔で私を見ていた。
モリスが何を言いたいのか分かっていたが敢えてとぼけるように片眉を上げる。
「変なお噂が流れていますよ。陛下が王妃様を囲っていると」
――囲っている、か。違いない。自嘲気味にそう思った。
日中はサラを部屋から出さず、夜は片時も傍から離さないのだから。本来なら新しい側室を迎えた今は、しきたりに則って連日王妃主催で側妃の歓迎の茶会が開かれている筈だ。
だが私はそれすらも許していない。今日はスカーレット姫がサラの部屋を訪れると聞いて会うことは許可したが、外に連れ出すことはならないときつく言ってある。
我ながらどうかしていると思うが、サラが一歩でも部屋から出てしまえば、その瞬間彼女がいなくなってしまうような気がしてならないのだ。
この城の中で私の意に反するようなことをする者はいないだろうと思っているが、その一方でどうしてもその不安を払拭することが出来ない。
何が列国最強の王だ。このような女々しい感情を露わにして、その名が語れるわけがない。
サラを部屋に閉じ込めることで、私は己を保っているのだ。ひどく不安定ではあるが。
「…只の噂だ。放っておけ」
「王妃様付きの侍女もご実家へ帰されたそうですね」
「無駄口を叩くな。執務が捗らん」
「いえ、陛下。今日こそは言わせて頂きます。一体貴方は何をなさっているのですか?」
一体何をしているかだと?私が一番聞きたいものだ。
どうして素直に愛することが出来ないのか。どうしてたった一人の大切な妻に苦しみしか与えることが出来ないのか。
私は何度も自分自身に問うた。
彼女を愛しいと思うのなら、彼女の望みを叶えてやることこそ私にできる最大の愛なのではないかと。
くだらない噂でサラを傷つけ、身勝手な感情で振り回し、そしてたった一つの願いすら聞き届けようとはしなかった私に、愛してると言う資格はないのではないかと。
だが何度己に問いかけても、答えはいつも同じだった。
どんなに王としての理性を働かせ、一人の人間として持つ道徳心を持ち出してもサラから離れることは出来ないのだ。
手放すのではなく、私が離れられない。例えお互いの気持ちが全く別の方向を向いていようとも、私がオスヴァルト・アレキサンダー・ロゼであり続ける為には彼女が必要なのだ。
「いずれ大事なものを失ってしまいますよ」
モリスの忠告ですら私には無意味なものだった。
「失うようなものは始めから持っていない」
私たちの間には、始まりも終わりも無い。初めから私は何もかもを失っていたのだから。
本来なら築かなくてはいけない信頼を壊してしまったのは私なのだ。もしもで始まる未来など、どれほど焦れても手に入れられそうにはない。
「陛下!!」
執務室のドアが勢いよく開き、女官長が慌てて部屋に入ってきた。その顔は緊張からか青ざめており、いつもの冷静な彼女とはかけ離れていた。
これはただ事ではないと判断した私は、モリスの咎めるような言葉を片手で制し先を促した。
ぞわり、と例えようのない焦りが背中を駆け上がる。
余程急いできたのだろう、女官長の息は未だに整わず大きく肩が上下する。その間が妙にもどかしく、張り詰めた空気に汗が滲んだ。
「王妃様がお倒れにっ…!」
考えるよりも早く足が動いていた。護身用に持っている剣すら身につけることを忘れ、私の足は一心不乱にサラの部屋に向かって進んでいた。
後ろの方で護衛の騎士が慌ただしく私の後を追ってきているが、その足音すら聞こえないほどであった。
体中は温度を忘れたかのように冷たく強張っているのに、きつく握りしめた拳からは汗が流れている。無意識のうちに唇を噛んでいたのか僅かに血の味がしたが構っている余裕はない。
数メートル先に忙しなく人が出入りする部屋があった。そこで漸く自分がサラの部屋まで辿りついたのだと気付いた。
「サラ!」
大きな窓に近い場所に置かれたベッドの上で、青白い顔をしたサラが眠っていた。すぐ脇にはスカーレット姫が両手を握りしめ心配そうにサラを見ていた。
私が入ってきたことに気付くと何か言いたげに口を開いたが、それも一瞬のことですぐに目を逸らして俯いてしまった。普段の私ならば訝しげに思うだろうが、その時はそれすら気付けないほど平静を失っていた。
「妃の具合はどうなのだ」
怒鳴りたい気持ちを必死で抑え、顔見知りの老齢の医師を見た。
王宮に長年勤めている彼はもう大分白髪交じりになってしまった髪を後ろに撫でつけながら、私とは正反対のゆっくりとした口調で言った。
「寝不足と精神的なストレスからくる心労です。充分な睡眠を取っておけば問題ないでしょう」
ほっとその場に安堵の溜め息が満ちる。後から部屋に入ってきたモリスも女官長も一様に「よかった」と口を揃えて言った。
だが私は――そう思うことが出来なかった。
何がよかったものか。サラが倒れなければならないほど、心に苦痛を与え続けたのは私なのだ。
すまない、と何度言ったところで償いになるとも思えなかったが。
すっかり血色を失った顔にかかる髪を掻き上げ、私は謝罪の言葉を呟くしかなかった。
気付いていた。そして気付きたくなかった。
もう、限界なのだと。