13:届かぬ激情
宰相、ヴィンセント・モリス視点。
かなり残酷な描写がございます。苦手な方はご注意ください。
連日の激務で凝った肩を解そうと首を回す。臣下の執務室に残っているのは私と近衛兵隊長ぐらいだ。
彼の場合、頭を使うことが少々体を動かすことよりも苦手という理由で時間がかかっているのだが。
目を通しても通しても、書類の山が少なくなる気配はない。寧ろ一刻前よりも増えているのではないか。
溜め息は苦めのお茶で濁した。
扉一枚隔てた向こう側では、私よりももっと膨大な量の仕事を抱えている陛下がいる。
今までも決して少なかった訳ではないのに、最近の仕事の量は異常だ。下手すると食事すら取ろうとしない。
理由は口に出さずとも明らかだが、一国の王として体調管理も大切な仕事である。それを知らぬ訳でもないのに、彼の人は激務に没頭することで何かを懸命に忘れようとしている。…つまり、王妃様のことを。
いつだってそうだ。あの無表情が崩れるのは王妃様が関係した時だけ。陛下ご自身は否定するだろうが、他人の目というのは案外己の気付かなかった部分まで見ているものだ。
日増しにその表情が失われていくのを勘付いている者は意外と多い。
ただその理由を知るものがいないだけで。
王妃様が王宮を去られてから1カ月と少しが経つ。
一見何事も無く過ぎているようにも思われるが、水面下では様々なことが動き出している。
元々後ろ盾が弱かった王妃様を廃そうという動きがあると最近になって頻繁に耳にする。勿論、黒幕はまだ上がってこないが大方の目星は付いていた。
こうなってくると極秘裏に王妃様を離宮へと移したのは幸いだったのかもしれない。その理由が何であれ。
あの離宮の場所を知る者はごく僅かだ。陛下が認めた者しかその位置は教えられない。国の重鎮ですらあの離宮の存在自体を知らない者は多い。
陛下にはまだ報告していないが、あの聡明な方だ。何かしら気付いておられるだろう。
現にこうして執務室に鍵をかけてまで篭っているのだから。
調べれば調べる程、紙面上には信じられないような事実が並ぶ。
それと同時に、人間という生き物は一旦甘い蜜を吸ってしまったら最後、更にその上を求めようとする心理が働くのだと思い知らされた。
しかしいくら嘘をその身に塗り固めても、必ずどこかに綻びがあるものだ。
王への、この国への反逆に等しい行いをするということは先ず自分の身を破滅させることを考えた方がいい。
今机の上にある一枚の書類。
たった一枚だが、全てを語るのには充分だ。この1カ月の間、入念に調べた結果。
時期を見計らって泳がしてはいたが、そろそろこちらからも動くとしよう。
自分がいかに愚かな行いをしているか。敵に回したのが一体誰なのか。その身を以て知って貰う必要がある。
「まあ、こんな時間に何のご用でしょうか?」
闇に閉ざされた扉の向こう。
大抵の人間は眠りについているだろうこの時間の訪問だ。侍女殿が眉を顰めるのも無理はない。
不敬を詫び、この部屋の主を呼ぶよう言う。初めは渋っていた侍女も、宰相である私がわざわざ出向いたことに何かしら感じたのか、応接間に私を通し、少し待つようにと言って別の部屋に消えた。
暫くして待ち人が来た。洗練された人間というものは足音を立てない。彼の人も例に漏れず静かに私の向かいの椅子に座った。
彼女と私の二人。
侍女たちには下がって貰った。
「宰相閣下様ですね?」
「ええ。夜分遅くの訪問、どうかお許し頂きたい」
「何かございまして?」
優雅に微笑む彼女を見て、誰もが天使を連想するだろう。そのくらいの美しさを持ち合わせた人だ。
しかしその中身は…仮面を被った悪魔だ。
侍女が持ってきた熱いお茶に口をつけ、その瞳が私に理由を問う。何も知らない無垢な目を装って。
「…恐ろしい人だ」
「え?」
「美味しいお茶ですね。甘すぎず、渋すぎず」
「え、ええ…お褒め頂き光栄ですわ」
「でも何かお忘れではないですか?」
「どういう、意味でしょうか」
「“悪魔の雫”」
その名を口にした瞬間、彼女の表情が変わったのが薄暗い室内でも分かった。
悪魔の雫 ――ある国にしか生えない植物だ。小さな花をつけ、見た目は可憐だが蜜は持たず、代わりに搾った花弁からは苦味のある毒が採れる。
少量ではそれ程の威力がない為、その花の恐ろしさを知る者は殆どいない。
しかし一度…例えばスプーン一杯程の量を摂取すると、人であれば一瞬で死に至る。
使用方法を考えればこれほど強力な武器はないだろう。
毒性と希少価値から、その植物は悪魔の雫、そう呼ばれるようになった。
私も知識としては知っていたものの、あの事がなければ口に出すことは生涯なかったであろう。
「私が知らないとでも思いましたか?かの国は国外へその植物の存在を殆ど知らせていませんでしたしね。無理もありません」
「何を仰いたいのか…私さっぱり分かりませんわ」
「一つ、お教えいたしましょう。お忘れのようですが我が国は列国最強を謳っています。軍事力、政治力…それと、情報力も我が国を組織する一つなのですよ。スカーレット姫」
ごくり、とその細い喉元が鳴る。
今やその顔から美しい笑みは消え、代わりに禍々しくぎらつく瞳が私を見据えていた。白い手は更に色を失くし、指先は小刻みに震えている。
「我が国、それも王宮お抱えの医師ともなればその知識はあらゆるものに精通しております。その医師が見つけたんですよ」
「…悪魔の雫を?」
「ええ。先日王妃様がお倒れになった時、香りに違和感を覚えたそうです。まだ確信の段階には至っていなかったので公にはしませんでしたが、あの時王妃様に処方された薬には解毒剤も入っていました」
「そう…香り、ね。気付かなかったわ」
「ではお認めになりますか?」
「否定したら見逃してくださるの?宰相様」
「いいえ。私がそんな弱い証拠で後宮にいらっしゃる姫君を追及するとお思いですか」
「私が甘かったのですね。あの植物さえ使っておけばと高を括って…」
スカーレット姫の言葉が不自然に途切れる。
目を見開きある一点を見つめる瞳には、驚きと恐怖も見て取れた。
その視線を追うと、この緊迫した空気にはおおよそ似つかわしくない堂々とした気を纏った人物。
侍女達が震えながら傅いている。その人は国中を探しても一人しかいない。
「陛下、」
彼女の呆然とした声にも答えず、陛下は我々の方へと歩みを進めた。
その足音はないに等しい。戦場で…敵と対峙する場では足音は命取りになる。
敵に悟られずその背後に回り、一気に首を取る。それが戦場における優秀な武人としてのあり方だ。
陛下は、この国で最も優れた武人だ。近衛兵隊長でさえ、陛下と剣を合わせたらどうなるか分からない。
平和に国を治め、その手に剣を持つことが鍛錬以外でなくなったとは言え。
「陛下!!」
滑るような動作に反応が遅れた。
次の瞬間彼女の悲鳴と私の声が重なり、室内に木霊していた。白い首筋にはまさに彼女の首を取ろうと、鋭い切っ先が牙を剥いている。
嘗てないほどに表情を消した陛下は、カタカタと震えるスカーレット様の顎を鎬でなぞった。
それは一思いに首を刎ねられるよりも恐ろしく、人間の中にある恐怖心を更に煽るだろう。
見ている私ですらぞっとするような冷たい空気が背中を駆けあがる。
「…目的はなんだ」
「……へ、いか…」
「この国か?王妃の座か?私の心臓か?」
「わ、私は…」
「答えよ!!」
それでも彼女は答えられずにいた。カチカチと歯が鳴り、繰り返す呼吸も浅い。
やがて忌々しげにスカーレット様を睨みつけた陛下は、ゆっくりとその剣を下に降ろした。
安堵の溜め息すら吐けないほど、未だに空気は張り詰めていたが最悪の結果だけは免れたようだ。
立っている事がやっとだったのだろう。陛下が離れると姫はすぐに足元から崩れてしまった。
「モリス」
「はっ」
「今すぐ近衛兵を連れてこい。姫を国に返すまで地下牢に繋いでおけ」
「地下牢、ですか?しかし一国の姫を…」
「首を刎ねられなかっただけありがたいと思え」
誰からも美しいと褒められた瞳から、涙が零れる。
きっと初めは些細な嫉妬だったのだろう。幼い頃、陛下と遊んだ記憶は大人になっても変わらずその胸に残っていた筈だ。
いつか自分がこの国に嫁ぎ、陛下の隣に立つ瞬間を夢見て。
しかしそれは、現王妃、サラ様の所為で呆気なく崩れ去った。一国の姫としての自尊心、そして淡い想いを打ち砕かれ失望し、怒りすら覚えたのかもしれない。
後宮入りの話が入った時、スカーレット様はすでに心を決めていたのだ。
悪魔の雫を使うことを。一般にすら人に使用することは重大な罪とされている中で一国の、しかもロゼ国の王妃に飲ませることを。
王妃様が口にしたお茶に入っていたのが幸いにして少量だったのは、姫の最後の良心だったのかもしれない。
「ど…して…ただ私は、陛下を愛していただけなのに!今の王妃様よりずっと私の方が相応しい筈なのに!!」
「知らぬなら教えてやろう、スカーレット姫」
激しく自分の感情を吐露するスカーレット様とは対照的に、陛下の返答は冷静だった。
彼女を見下ろす目は氷のように冷たい。
その冷静さが逆に恐ろしさを感じさせた。
「表向きは側妃としてロゼに迎えたが、事実は違う」
「え…?」
「近頃カメリア国が不穏な動きをしていると報告を受けた。同盟国へ頻繁に重役が通っていると。調べたら面白いことが分かった」
「……」
「どうやら我が国に戦を仕掛けたいらしい」
「なっ…!!」
「嘗てカメリアの方がロゼよりも強大な国家だったからだろう。どうやら国王は昔の栄華を取り戻したいらしい」
「お父様が…そんなこと!だって私には一言も!」
「私の許へ来る前に父君から言われなかったか?ロゼの国王を虜にしろ。お前こそ妃に相応しい、と」
「なぜ、それをっ…」
「私が何もせずにただ手を拱いているだけの王だと思ったら大間違いだ。先に数人従者を忍び込ませていた」
陛下が語る真実は宰相の私ですら知らなかったことだ。
国と国との関係を危うくするかもしれない重大な事実だ。確証が持てるまで陛下が極秘裏に従者を動かしていたに違いない。
陛下だけが使える従者があると噂でだが聞いたことがあったから。
しかしせめて私には相談して欲しかったと思うのは、決して悪いことではないような気がする。
王の執務全てを制限することは出来なくとも、手伝うくらいの事は私にも出来た筈だ。
具体的に何を、と問われれば言葉に詰まるが。
姫の顔が蒼白になっていくのにも拘わらず、陛下の声は淡々と先を紡ぐ。
「なるべくなら戦はしたくない。無関係の人間を巻き込むだけの戦など無意味だからだ。そこで私は考えた」
「私を、側妃として召す口実を…ですか」
「ああ。姫がこちらの国にいる間は戦を仕掛けてこないだろう。半年以内には全てを片づけるつもりでいた」
「私は父にとっても、陛下にとっても都合のいいように動いていただけでしたのね。自分が王妃になれるだなんて愚かな夢を見続けて…」
「サラに危害を加えたことは到底許せるものではないが、カメリアの件が片付き次第国へ帰すことで不問にする。これが王として私が出した結論だ」
「王と、して?」
「サラの夫としては今すぐそなたの首を刎ね、カメリア国を焼き払っても気が済まぬ」
「そんな…」
「それともう一つ。私の妻は生涯、サラだけだ。どんな手を使おうとも、私の隣にそなたが並ぶことはない」
その言葉に私が息を呑んだのは言うまでも無い。
陛下は向き合うことにしたのだ。長年目を背けてきた自分の感情と。
しかし陛下が初めて見せた激情は、遠く離れた地にいる王妃には届かない。しかも刻一刻と離婚への手続きは進みつつある。
まだ重鎮へは知らせていないが、この件が過ぎればすぐにでも公表されるだろう。
それでも真実を言葉へ変えた。
まだ知らない、表には見えない真実も沢山あるだろう。
間に合うだろうか。
いや、私が間に合わせてみせる。
「陛下。すぐに近衛兵を呼んで参ります」
「ああ。頼む」
「それから一つお願いがございます」
「なんだ」
「どうか先ほどの言葉、王妃様に直接お聞かせ下さい」
「…いや。それではあまりにも身勝手だ」
いいえ、そう口にしようとした時だった。
俯いていたスカーレット姫の肩が不自然に震える。初めは泣いているのかと思ったがそれは間違いだった。
「…ふ、ふふっ…」
妖艶な笑みを浮かべながら陛下を見つめるスカーレット姫は、最早先ほどの彼女ではなかった。
緩んでいた空気が瞬く間にピンと張り詰める。
「もう手遅れですわ」
「なに?」
「優秀な従者を持っていたのは何も陛下だけではございませんのよ。私にも腹心の従者ぐらいおります」
「なんだと?」
「一ヶ月前、それが教えてくれましたの。王妃様が王宮を去ると」
まさか、と嫌な予感が全身を駆け巡る。
それは陛下も同じだったようでスカーレット姫を見る横顔が緊張で強張っていた。
一か月前、馬車に乗る数分前に王妃様が姿を消したことがあった。
王妃様はご自分の庭を見ていただけだと言っていたが…もしもその時、スカーレット姫と会っていたら?
もしもその時…
「サラに、何をした」
重く問う陛下に、スカーレット姫は更に笑みを深くする。
「悪魔の雫を乾燥させた物を渡しました。心を落ち着かせるお茶ですと言って」
――それからのことは私もよく覚えていない。
大声で近衛兵を呼び、スカーレット姫を拘束させた。頭は働かないのに口が勝手に動く。
立ち竦む陛下の代わりに指示を出し、直ちに数名の衛兵を離宮へと派遣する手続きを取った。
離宮からの連絡がないということはまだ最悪の結果が出てはいないということだ。出来るだけ早く悪魔の雫を見つけ出し、王妃から遠ざけなければ。
ただそれだけを思って大声を出し続けた。
ふらり、と覚束ない足取りで陛下が扉へと向かって行く。
「陛下!?どちらへ…」
「決まっている」
返事はそれだけだった。
止める衛兵を次々と薙ぎ倒し、ただ一点を目指し陛下は走って行く。
国一番の駿馬と陛下が王宮から消えたのは、その数分後だった。