12:嵐の予兆
王都から少し離れた緑豊かな地方。
小さな村々が点々と連なるその場所の、一際眺めがいい小高い丘に建つ王家の離宮。
外観はそれほど豪華には見えないが、中に入ればそこは完全に外界とは違っていた。洗練された調度品の数々。それは窓枠一つ取っても違っていた。
陛下の母君が建てた離宮。けれどそこは王宮のように冷たい感じはなく、ただ温かな家族のような空気さえ湛えているのだ。
離宮での暮らしは穏やかなものだった。
離宮で働いている城の者たちは和やかで、話好きだった。私の姿を見れば気さくに声をかけてくれるし、時には冗談さえ言う。
王宮では決して許されないことだが、私は今の雰囲気の方が落ち着くことができた。侍女たちは両親の代からこの城に仕えている為、それが普通だと思っているようだ。
朝の挨拶も、食事の時のちょっとした会話も王宮ではなかったものだ。エレナがいた頃はそれなりに会話をしていたが、常に周りの目を気にしていた。
先代の王妃様も同じ気持ちだったのだろうかと思うと、少しだけ親しみを感じる。
柔らかい色で統一された私の部屋は、昔先代の王妃様が使っていた部屋だそうだ。
肖像画でしか拝見したことがないが、艶やかで美しい方。笑えば大輪の花が咲いたようだったと、使用人たちは口々に言う。
侯爵家の出であった彼女を先代の王が見初め、結婚した。国中が祝福し、歴史を振り返っても珍しい程愛情に満ちた夫婦だったと。
この城で長年使用人を統べている老婆は、皺だらけの顔を綻ばせて話をしてくれる。
陛下も幼い頃は先代の両陛下に連れられて何度かここに来たことがあるそうだ。
「本当、あの頃は悪戯好きで。私だって何度泥まみれになったか知れませんよ」
彼女の話を聞くのはとても楽しかった。何も知らなかった陛下の幼い頃の話を、誰にも咎められずに聞くことができるから。
庭に植えてある林檎の木に登ったこと、こっそり馬に乗って行ってしまい、使用人総出で探したこと。
まるで昨日のことを思い出すように、老婆の口からは次々と話が流れ出た。
ここに来てから二度同じ話は聞いたことがないくらい、陛下の幼い頃の話は尽きなかった。今の姿からは想像もつかない腕白ぶりに、緩む頬が隠せない。
そう言えばスカーレット様が最初に王宮に入られた時も同じようなことを言っていた。陛下は苦笑いしながら「忘れてくれ」と言っていたけれど。
「そんな方が、こんなに可愛らしいお妃さまを娶られて。本当に幸せですね」
話が一旦途切れると、そう彼女は口にする。いいえ、なんてとてもじゃないけれど言えなかった。
陛下は幸せではなかった。私は決して望まれて王妃になった訳ではないのだから。
そういうときは決まって曖昧な笑顔しか返せない。彼女はそれで満足しているようだけれど。
ここの使用人たちにも、何故私がここに来ているか本当の理由は知らされてないらしい。
おおよそ体調を崩してその静養に、とでも言ってあるのだろう。
例え真実を知ったとしてもここの人たちの態度は変わらないと思うが、なんとなく伏せておいた方が気が楽だった。
だって…先代の両陛下の恋愛物語を聞いた後では、悲しすぎるから。
そうして一週間が経ち、一か月が過ぎていくと私の心も次第に落ち着きを取り戻していった。
朝起きてカーテンを開ければ、清々しい空気が窓から入ってくる。和やかな雰囲気で朝食を取り、侍女に手伝ってもらいながらドレスに着替える。
王宮にいるときと一見なんら変わりのない生活を送っているようだが、時間はゆっくりと、そして穏やかに過ぎていく。
誰の目を気にするでもなく笑い、老婆の話を聞き、天気が良ければ数人の侍女と一緒に庭へ花を愛でに行く。
完璧とは呼べなくとも、ここの庭はある程度の広さがある。観賞用の華やかな花もあれば、私の好きな野花もある。
新しく種を植えていいかと聞くと、庭師は嬉しそうに笑いながら日当たりのいい一角を私にくれた。
二週間に一度はクラウスお兄様がエレナを連れてやってくる。3人でテーブルを囲み、甘い菓子とお茶で話をするのも私の楽しみだった。
エレナは使用人だからと初めは断ったのだが、メイドたちに押し切られ遂に私たちと同じテーブルに着くことになったのだ。
王宮にいた日々などまるで夢の出来事だったかのように過ぎていく毎日。もしも王妃にならなかったら、私にもこういう時間があったのかもしれない。
こんな穏やかな日々がこの先ずっと続けばいいと思った。例え一時の夢だとしても、そう願わずにはいられなかった。
「…また笑うようになったね、サラ」
クラウスお兄様の言葉に、私ははっと顔を上げた。
お兄様の顔には慈愛に満ちた微笑みが浮かんでいる。隣でお茶を注いでいたエレナも同調するように首を縦に振った。
「そんなに酷い表情でした?」
「ああ」
「そんな…きっぱり仰らなくても」
「いや。今思えばそうだと言っているんだ。あの頃は気付かなかったが。お前は何もかもに我慢をしていたんだな」
カチャン、と茶器の音が沈黙した私たちの間に漂う。
私は否定も肯定もしなかった。そのどちらでもなかったから。
我慢をしていなかった訳ではない。王妃として振る舞うべく沢山のことを我慢した。
けれどそれが後悔かと聞かれれば違うのだ。後悔ではない。
王宮にいた時の私は息抜きを忘れていたのだ。いつも緊張を漲らせ、失敗すれば自分を責める。
例えばどこかでその緊張を少しだけ抜いて居れば、その術を知っていたなら。お兄様やエレナに「酷い表情だった」と言われずに済んだ。
今でもふとした瞬間に陛下のことを想う。
何をしていらっしゃるのか、睡眠はきちんととっているのだろうか。…スカーレット様と幸せな時を過ごしているのだろうか。
胸に刺さる小さな棘と、柔らかい気持ち。時間を重ねればいつか、私はもっと優しい気持ちで2人を祝福できるだろうか。
その時が来たら、王宮での暮らしも私の生涯の一部として受け入れられるだろう。
もう二度と近くでお顔を拝見する機会がなくても、遠く離れた土地でただ密かに歳を重ねていける。
「もうそろそろ2カ月経つが…城からの使者はまだか?」
「ええ。大変なことですもの。本来なら私がここにいることすら許されないはず」
「そうか。もしその時が来たら、これからのことは何も心配しなくていい。私が全て手配する」
「ありがとう、クラウスお兄様」
次に王宮から使者が来る時。
それは陛下と私の離婚が正式に受理された時だ。
私は「その時」をただ静かに待つのみ。
「失礼します、王妃様。王宮から使いの者がいらっしゃいました」
突然の侍女の声にその場にいた誰もが凍りついた。
城からの使者。それが意味することはただ一つ。
心臓が早鐘を打っているのが分かった。
お兄様も動揺が隠せないらしく、私を追う瞳は戸惑いに満ちていた。
一緒に行こうとするエレナを制し、ドアの外で待っている侍女にすぐにいくと返事をする。
席を立つ時も地に足が着いていないんじゃないかと思うくらい、浮遊感を感じた。
「噂をすれば、だな。まさかこんな都合よく来るとは思わなかったが」
「そうですね。けれど…これですべてが終わります」
私の言葉に相槌を打つ2人の声は重々しい。
複雑なのは私も同じだった。
全てが終わるということ。私と陛下を繋ぐものが何もなくなるということ。
それは胸が抉れるほど切ない現実だ。
笑顔を浮かべながら部屋を出るのは結構な労力を必要とした。
侍女に付き添われ太陽の光が零れる回廊を進む。王宮ほど広く壮大ではない離宮はすぐに目的の部屋へと着く。
その間も心臓が痛いくらいに鳴っていた。
誰も入るなと言われているのか、侍女は扉の前でその歩みを止めた。
ドアノブに手をかけ、ゆっくりと扉を開ける。
部屋の中に満ちた光に一瞬だけ目が眩む。光の中にいたのは、サイモン様だった。
「お久しぶりです王妃様」
私の姿をその目に捉え、深く頭を下げる。2か月前より少しだけ伸びた髪は柔らかい光を放っていた。
「わざわざいらしてくれたことに感謝します」
「いえ…そのような」
向かい合って座ればサイモン様の瞳の戸惑いの色が濃くなる。
その手には王室でよく使われていた封筒がしっかりと握られていた。その封を閉じているのは王の紋章。
つまり、陛下以外使うことの許されない封蝋。
ゆっくりとそれが私の許へと渡ってくる。
私の指は震えずにそれを取れたのかすら分からなかった。
『全ては万事滞りなく進んでいる』
陛下の直筆でたった一言、そう書かれていた。
まだ離婚を伝える旨ではなかったにしろ、時間の問題だと告げる手紙。それも、恐らくすぐ傍の未来。
心が翳るのは、目頭が熱くなるのは我が儘過ぎる。必死で涙を堪え、サイモン様にお礼を言おうとした時だった。
ふわりと香る、甘い匂い。
サイモン様に抱きしめられていると気付いたのは、それからだった。
「サイモン…様?あの…」
「もし。もし陛下との離婚が成立したら…その時は私の屋敷にこないか?」
「え…?」
サイモン様の言葉を頭の中で繰り返す。
「私はまだ君を愛している。婚約が勝手に解消された時どれ程父親を恨んだか…」
私を抱きしめる腕はどんどん強くなっていく。
混乱して言葉が紡げない。
何を…言っているのだろうか。一体、何を…
きっと4年前だったら嬉しかった言葉は、私の心に響いてはくれなかった。
サイモン様を慕う気持ちは今も変わらない。けれどそれはクラウスお兄様やアル兄様に感じるような、家族愛に似ていた。
「止めてください…」
「サラ」
「お願いです!!」
すぐ近くにあったサイモン様の表情が苦痛に歪む。
私の体は彼を拒むかのようにサイモン様から離れていた。
それからのことは記憶が曖昧だ。ただひたすらサイモン様から離れることを思い、部屋から飛び出す。
後ろから侍女の慌てた声が聞こえたけれど構っていられなかった。
自室に入り、中から鍵をかける。扉を叩く音、クラウスお兄様とエレナの心配そうな声。
何もかもがまるで何かを隔てたかのように遠くの方から聞こえた。
涙が後から後から頬を伝う。止めることもしないまま、私はベッドに伏せた。
サイモン様の言葉が胸に刺さる。
私はただ、静かに暮らせればそれでよかったのに。
嗚咽が指の間をすり抜け、シーツの中に沈む。
ふと、スカーレット様の言葉を思い出した。
スカーレット様から頂いたお茶には心を静める効果があると言っていた。
今はとにかくこの気持ちを落ちつけたかった。そうできるのなら全てに縋り付きたい気持ちだった。
急いで引き出しを開けお茶の箱を取り出す。
夜中にお茶を飲みたくなったとき侍女を起こすのが忍びなくて、寝室には常にティーセットが置いてある。
震える手つきでカップの中に茶葉を入れ、お湯を注ぐ。
ぐらりと揺れる視界。必死に息を整え、カップを持つ。
涙が一滴お茶の中に零れた。
出来るのなら、何も知らなかった頃に戻りたい。そして全て初めからやり直せたら。
陛下と結婚する前に、サイモン様を知る前に、まだ無邪気だったあの頃へ。
私はそれでも同じ道を選ぶのだろうか。
だってこんなに頭が混乱しているのに、陛下の声だけは今でもすぐ傍に聞こえる気がするのだ。
二度と会わない覚悟で王宮を出たのに、陛下の声が、温もりが欲しくて仕方がないのだ。
切ないくらいに、こんなにもまだあの方が恋しくて苦しいのだ。