11:悲しみの別離
終わりの朝は呆気なく訪れた。
涙の染み込んだ冷たいシーツ。泣きあかした所為で瞼は重かったが、それも今までに幾度となくあったこと。別段珍しいことではない。
いつもと変わらない時間に起き、侍女に手伝ってもらいながらドレスを着替え、朝食を取る。
機械のように正確に私は一日を始めた。
ただいつもと違うのは、給仕に当たっている侍女の顔がどことなく沈んでいる事だろうか。
決して今までも和気藹藹と朝食を取っていた訳ではないけれど。
それでもいつもより大きく、食器のぶつかる音が高い天井に不規則に響いた。
自分の触れるもの、見るものが全て今日で最後だと思うとやはり胸は痛んだ。
初めに城から出して欲しいと願ったのは私なのに、感情というものは本当に不可思議だ。
優しい思い出なんて何一つなかった筈だった。毎朝同じ温度のベッドの中で目覚めて、自分の立場に苛まれて。
目に映る全てが私を否定している気がしてならなかった3年間。ただの一度だって陛下を想わなかった日はなかった。
愛し、愛される夫婦がこの時世どれほどいるだろう。殆どが陰謀と、野心という人間の醜い部分で繋がっている。それは王族ですら変わりはない。
それでも愛したいと思った。愛されたいと願った。それが生涯叶わないと知った時、せめて傍にいたいと思った。
けれど…結局私は心が壊れてしまう前に、陛下から逃げることを選んだ。
例えば、となぞられる幸せな未来はハッピーエンドだとは限らない。例えどんなに希っても。
「王妃様、宰相様がいらっしゃいました」
いつもは張りのある女官長の声も、覇気がないように聞こえる。
口にしていた紅茶をソーサーの上に置き、部屋の中に入る許可を与えた。
深く頭を垂れながら入ってくるモリスの表情もまた暗く沈んでいた。まるで言葉を出したくないかのように、真一文字に結んだ口元。
それだけで、彼がここを訪れた理由が分かってしまう。
「お食事中のところ大変申し訳ございません」
「気にしないで。準備ができたのでしょう?」
私の言葉に答えない代わりに、更に深く頭を下げる。消え入りそうな声で「申し訳ございません」とモリスは繰り返したけれど、彼が謝ることなんてなにもない。
これは私が望んだ未来だ。王宮を出て、田舎でひっそりと暮らして。ただ静かに時が過ぎるのを待つ。
私がそれを願い、陛下が叶えてくれた。感謝こそすれど、モリスを責める理由なんてどこにもない。
「顔を上げて、モリス。私は感謝しているわ。我が儘を聞いてくれてありがとう」
「いいえ…いいえ!私は結局何も出来なかったのでございます!」
「…もう充分よ」
椅子から立ち上がり、扉へしっかりと足を進めた。
コツン、コツンと規則正しく足音が鳴る。それは今までのどんな距離より遠く、長く感じた。
この扉を出てしまえば、後は指示の通り馬車に乗るだけだ。
女官長、それから数人の侍女に連れられ、廊下を歩いていく。
隣を歩くモリスからこれからの事を聞いたところによると、私が王宮を出ていくことは極秘裏に進められている事らしい。
今までに前例がなかったことから仕方がないことで、表向き私は体調を崩していることになっており、本当の事を知っているのはごくごく限られた重鎮の一部だそうだ。
その為、馬車もお付きの人間も質素なもの。不便をおかけしますが、と続いたモリスの言葉に首を振る。
元はと言えば私の我が儘から始まったことだ。本当はもっと時間をかけて計画を進めていく筈だったんだろう。
モリスの目の下を縁取る寝不足の後に、申し訳なく思った。きっと陛下にはそれ以上の迷惑をかけてしまったことだろう。
まだ朝も早い所為かシン、と静まり返った廊下はどこか寂しげに感じる。天井や壁を飾る名の通った芸術家たちの作品ですら、そのもの悲しさを拭いきれなかった。
空から降る小雨が霧のように窓を濁していた。小さな水の粒が一つ、また一つと細かい筋を作っていく。
比較的雨が少ないこの時期に珍しく、また同時に何か悪い予感を助長させるような不気味さも持ち合わせている。
前を歩く女官長も同じようなことを感じたのか、「嫌な天気ですね」と言葉を紡いだ。
「王妃様、しばしここでお待ち頂けますか?」
「ええ」
連れてこられたのは裏門だった。
王宮という場所柄、警備が薄いということはないけれど正面の門よりは数が少ない。
人払いでもしてあるのか質素な馬車と2人の近衛兵が、栗色の馬に乗って私を待っていた。
「サラ」
私を呼ぶ声は懐かしい響きを伴う。
2人の近衛兵のうち1人は、アルフレド兄様だった。軽々と馬から飛び降り、私の方へと走ってくる懐かしい面影。
青い隊服から伸びる腕は待ち構えていたかのように広がり、その中にすっぽりと私を包む。
温かい体温、服越しに伝わる心音。全てが私を安心させるのに充分な力を持っていた。
クラウスお兄様には王宮を出ることを相談したけれど、アル兄様にはしていなかったから随分驚かせたと思う。
陛下の許へ嫁ぐ時も最後まで私の事を心配してくれていただけに胸が痛む。
それでも何も言わずこうして抱きしめてくれる兄様の優しさが、今の私には必要だったのかもしれない。
暫く無言で抱き合っていたけれど、どちらからともなくそっと離れる。アル兄様の固い質感の髪が頬に当たって擽ったい。
肩越しには馬に乗ったサイモン様が少し困ったような顔でこちらを見ていた。
「兄様…何故、サイモン様が?」
「ああ。俺とサイモンがお前を離宮に送り届ける間の護衛だ」
「え?」
「昨日陛下が直々に命を下さった。その時お前の決意も聞いた」
「ごめんなさい。驚いたでしょう?」
「いや、言えなくて当たり前だ。驚いたことには驚いたが。サイモンは知っていたんだな」
「ええ…先日クラウスお兄様が送った手紙で」
「そうか」
アル兄様の真剣な瞳が、不安に揺れる私の顔を映し出す。
「サラ。お前、本当にいいのか?このまま離宮に行っていいのか?」
「……」
「何もお前を責めてる訳じゃない。元はと言えば俺と兄貴の力不足が原因だ。だがこのままで本当にいいのか?」
兄様の強い瞳を見て昔を思い出した。
兄2人は過保護すぎるくらいに私を可愛がってくれたけれど、その性質は異なっていた。
優しく、一度も私を叱ったことのないクラウスお兄様と、時には厳しく叱咤するアル兄様。
例えば私が何か悪いことをしたら両親のお咎めから全力で守ってくれたクラウスお兄様に対して、アル兄様は私が謝るまで許してはくれなかった。
けれどしっかりと私の話を聞いてくれたし、何がいけなかったのかも必ず説明をくれた。アル兄様の目を見ると嘘がつけなくなる。
今のアル兄様の目はまさにそれだ。兄様の前では嘘は通用しない。例えどんなに心を偽ったとしても。
「いいの。これは私が決めたことなの」
私が出した結論はそれだった。
「そうか…お前がそう言うのなら、それでいい」
「アル兄様」
「道筋の事で少しサイモンと話をしてくる。もうすぐで出発だからここにいろ」
兄様の後姿を見送りながら、もう一度自分に問う。
本当にこれでいいのかと。けれど何度問いかけても答えは同じだった。
陛下を愛していないわけでもないし、自分自身今になってもこの選択が正しかったのかすら分からない。
それでも決めたのだ。これ以上王宮にはいられないと。私がいることで誰かを不幸にする未来などあってはならないと。
このまま王宮にいるよりは、今の決断を信じてみたかった。
雨は未だ止む気配はない。しとしとと視界に映る全てを濡らしていた。
不意に、自分が作った庭を見てみたくなった。今日が本当に最後になるかもしれない。
イザベル姫に頬を叩かれたのが昨日のことだなんて、にわかに信じられないほど長い時間が経った気がする。
高価な薬を頂いたお陰で、頬の痛みはすっかりなくなっていたけれど、また別の傷として心を疼かせていた。
やがて私の退冠が正式に決定したら、この庭にも私の気配はなくなってしまうのだろう。まっさらな更地に変わり、次の王妃様が造り出す芸術を心待ちにすることだろう。
だったら今一度だけ。私がここにいた証を見てみたくなった。
裏門から庭までは目と鼻の先だ。ホンの少しこの場を離れたとしても、特に問題はないと判断した。
足元がぬかるんで若干の歩き難さは感じたけれど、それでも歩みは止まらない。
小雨に打たれた花は、小さな雨の粒を花弁に散らしていた。
せめてもの思い出にとスミレの花を一本手折る。バラのような甘い香りも、人目を引く美しさもないのに私はこの花が好きだった。
さよなら。今までありがとう。唯一私を否定しないでくれた大切な場所。
――ふと、背中に視線を感じ、後ろを振り返る。
雨の中立っていたのはスカーレット様だった。美しい髪はしっとりと雨に濡れ、更にその輝きをましているようだった。
まだ体調も万全ではないのだろう、厚手のストールを纏っている。
「スカーレット様!?一体どうしたのです!早く城にお戻り下さい」
「よかった…間に合ったのね」
「え?」
「陛下から伺いました。王妃様が城を出ていってしまうと…それで私、いても立ってもいられなくて」
「陛下、から…」
私が今日城を出ることはごく一部の人間しか知らないとモリスが言っていた。
それを陛下の口から直接聞いたスカーレット様。彼女が陛下にとっていかに重要な位置を占めているかがよく分かる。
…どうして涙が出そうになるのだろう。これこそ私が望んでいた未来。
陛下は真に愛する方を見つけ、これからを幸せに生きていくだろう。偽りの王妃とではなく。
嬉しい筈なのに、心が痛む。これ以上壊れることのないと思っていた心が悲鳴を上げる。
「こんな風にお別れとなってしまうなんて…」
「スカーレット様」
「せめてもの思い出にこれをお持ちになってください」
スカーレット様に手渡された小さな箱。
甘い香りが漂い、荒れた心を落ち着かせた。
「これは…」
「先日お茶をご一緒しましたでしょう?その時のお茶です。私何も差し上げるものがなかったので…こんなもので申し訳ないのですが」
「まあ。お気遣いありがとうございます。先日のお茶、もう一度飲みたいと思っていましたの」
「このお茶には心を静める効果があります。スプーン2杯が丁度良い美味しさになります」
「本当に…なんてお礼を申し上げていいか」
「いいえ、王妃様。どうか…どうかお元気で」
薄らと美しい瞳に浮かぶ涙。本当に、なんてお心の優しい方なんだろう。
スカーレット様ならきっと、陛下と幸せになれる。
「スカーレット様」
「え?」
「どうか、お幸せに」
遠くの方で私を呼ぶ声がする。きっともう出発の時間なのだろう。
スカーレット様に頂いた箱をしっかりと握りしめ、私は馬車の方へと歩き出す。
馬車の前には女官長を始め数人が私を待っていた。
この場を離れたことを侘び、アル兄様の手を取り馬車に乗る。
誰一人として口を開く者はいなかった。口を引きしめ、ひと言たりとも言葉を漏らさないかのように。
馬車の扉が閉まるその瞬間に、モリスが前に出て頭を下げた。
「モリス、ご苦労をかけました」
「いえ…王妃様」
「もう王妃ではないわ。だって陛下は…」
陛下は真に愛される方を見つけたんですもの。
その方こそ王妃の名に相応しい。城を去る私に、もう王妃の名を名乗る資格などない。
現に陛下はこの場にはいない。それこそが何よりの証明ではないだろうか。
しかしモリスは私の言葉を否定するかのように首を振った。
「いいえ王妃様。必ず真実を目にする時が参ります。どうかそれまでご辛抱下さい」
モリスはいつだって私を励ましてくれた。私が王妃でいられるように。
その優しさが今は悲しいだけ。
アル兄様に視線を走らせると、静かに扉が閉まる。
まだ何か言いたげなモリスの顔も見えなくなってしまった。御者の声が響き、馬車が動き出す。
これで最後。
涙が出るのはもう止められなかった。全ての思い出に、美しくて残酷で、それでも手放したくなかった陛下との思い出に。私は別れを告げる。
どうかこれからの治世が穏やかでありますように。そして心から愛される方と幸せになれますように。
私が願うのはそれだけだ。
だから知らなかった。
城の窓から苦しげにこちらを見ていた瞳のことを。
その後部屋中に響いた慟哭を。