10:解放
少しですが流血シーンがございます。
苦手な方はご遠慮ください。
コツン、と陛下の足音が広すぎるくらいの室内に響く。
「今度から口止めをするということを覚えた方がいいな。女の近衛兵が、私の執務室に飛び込んできたぞ」
「陛下…」
「さて。言い訳があるなら聞こうではないか」
それは一瞬の出来事だった。
陛下の言葉と同時に、サイモン様の首元に当てられた切っ先。
鈍い光を放つ剣は、装飾用に帯刀しているものではない。確実に敵を切る為のものだ。
その鋭く尖った剣の先は軽くサイモン様の肌を傷つけ、真っ赤な血が一本の線になって首筋を伝う。
ぽたり、と床に落ちた一滴の雫。赤黒く面積を広めながら、床を汚していった。
私はまるで人形のように立ちつくすことしか出来なかった。
目の前で起こっている事が真実なのかすら、判断できない。
サイモン様は微動だにせず陛下を真っ直ぐ見つめ、対する陛下は何の感情も宿さない瞳でサイモン様を映していた。
時が止まり、誰も彼も呼吸を忘れたかのように重苦しい空気だけが張り詰める。
その異様な沈黙を破ったのは陛下だった。
「サイモン・ノワイル。お前のことは聞いている。昔サラの婚約者だったそうだな」
「もう昔のことです、陛下」
「ほう?その割には随分親密なように見えたが?」
「恐れながら。王妃様とあらせられる方に邪な感情は一切持っておりません」
その言葉にサイモン様の首元から剣が引いていく。
しかしそれで陛下の気が逸れたわけではないのは、目を見れば分かった。
すっと細められた瞳は絶対的な圧力と冷気を纏っていた。
「…私の命に逆らってサラを城から出そうとしたな?」
「それについての申し開きはいたしません」
「王に逆らった臣下はどうなるか。…お前は知っているだろう?」
「ええ。しかし、私の首を取る前にどうか、サラ様を解放してください」
「解放、だと?」
再び陛下の剣が宙を舞う。今度はさっきのような細い傷じゃ済まない。
近衛兵であるサイモン様が陛下に剣を向けることはなく…それは、確実に彼の「死」を意味していた。
スローモーションがかかったかのようにゆっくりと切っ先がサイモン様に向かって振り下ろされる。
気付いた時には、体が動いていた。
「サラっ!?」
「王妃様!?」
カツン、と私の首を飾っていたチョーカーの宝石が床に落ちた。
陛下の剣が、私を避けきれずにそこを掠めてしまった所為だ。
重なる2人の声も遠くに聞こえる。
私は一瞬の死の恐怖を覚えていた。
視界いっぱいに広がった陛下の華美な服装も、風のように振られた剣も何度も繰り返し見た本のように思い出せる。
体が小刻みに震えたのはそれからだった。サイモン様を庇うように前に出た時は、そんなこと感じている余裕も無かった。
足から力が抜け、床に崩れ落ちる私の腕を支えるサイモン様。
そしてそんな私を呆然と見詰める陛下。
陛下の手から剣が落ち、重厚なそれは部屋中に劈くような音を響かせる。
「…何故だ。サラ…何故、その男を庇った」
虚ろ気な表情で紡がれた言葉は、弱弱しく、どこか悲しみさえ秘めていた。
何故か、なんて理由が必要なのだろうか。
サイモン様を死なせるわけにはいかないし、幾ら王でも正当な理由もなしに貴族を殺すなんて国民への不信感へと繋がりかねない。
だけど私はその言葉を口に出来なかった。未だあの恐ろしさに、唇が震えて上手く言葉にならないのだ。
窓から零れる光に反射する陛下の剣は、サイモン様の血でその切っ先を赤黒く染めていた。
王妃の部屋にはおおよそ似つかわしくない、残虐な色。それに私の血が付かなかったのは、陛下の剣の腕前なのか、奇跡なのか。
今となってはどちらとも言えなくなっている。
ゆっくりと視線を上げると、固く口を結んだ陛下と目が合った。
その瞳に一瞬、様々な感情が過る。
何か言いたいのか口を開いては、また閉じ、そして遂には私と目さえ合わせなくなってしまった。
「…分かった」
「え?」
「お前を、“解放”しよう」
サイモン様も私も、同時に息を詰める。
陛下は落ちた剣を拾うと、鞘に収め、深く息を吐いた。
閉じた瞳は何かを精一杯堪えているかのように小刻みに震えていた。
解放。
陛下の言葉をもう一度頭の中で繰り返す。
それは。それが意味するのは…
「王都の端に、昔母上が建てた離宮がある。サラ、お前の実家から馬で数時間もあればいけるところだ」
「陛、下…?」
「離婚は出来ない。色々と準備もあるからな。手続きが済むまではそこに住むといい。少なくとも2カ月かかるだろうが、全てが終わったら…」
――その時は、必ずお前を王妃という立場から解放しよう。
噛み締めるような声で呟かれた言葉。
王都の端、離宮、離婚、王妃。断片的に理解できた言葉を頭の中で繋いでいく。
城から出られる。その答えに行きついた時、胸の奥がどうしようもなく痛んだ。
自分から望んだ筈の結末なのに。このまま王妃を辞め、片田舎でひっそりと暮らしていく。それがあの日陛下に望んだことだったのに。
嬉しいという感情は全く湧いてはこない代わりに、痛みだけがその存在を主張していた。
「王妃様!アメリアから聞きました!お怪我は…」
「ご無事ですか王妃様!!」
けたたましい音を立てて、乱暴に開いた扉から現れた女官長とモリス。
2人は私、サイモン様、そして陛下と順に視線を巡らせ、お互いに顔を見合わせた。
その後ろから事情を話したであろうアメリアが、私たちの奇妙な表情に眉を顰める。
「あの、陛「モリス」
「は、はい」
「サラを城から出す」
「は?」
「一先ずは母上の離宮へ身を置くことになりそうだが。必要な書類があれば早急に用意し、今夜までに私のところへ持ってこい。いいな」
「陛下!なにをっ…!」
「出来れば明日、サラを城から出したい」
「陛下!!」
モリスの静止も聞かず、陛下は扉へと足を進める。そして、今まさに出ようとしていた時、思わぬ言葉が陛下の口から零れた。
「…すまなかったな、サラ」
私が口を開くより早く、重厚な扉は完全に閉じていた。
微妙な沈黙を置いて女官長が慌てたように私に駆け寄る。怪我の具合はどうかと問われるも答えることは出来ず、代わりにサイモン様が2、3日で治る事を告げた。
モリスは神妙な顔で私を一瞥すると、陛下の後を追うように扉から出て行った。
繰り返し頭の中で響く声。すまなかった。陛下はそう言った。
何に対してだろう。
私を城から出さなかったこと?部屋に閉じ込めたこと?私を王妃にしたこと?
それとも…私を愛せなかったこと?
サイモン様と女官長に支えられ、椅子に腰を降ろした時もその考えで頭が一杯だった。
様々な感情が平行したり、交わったり。結局自分が何を考えているのかさえ、上手く分からなくなった。
混乱している。きっと。
明日になれば私は王妃という立場から一歩退く。
手続きの都合で時間はかかると言っていたけれど、陛下は必ず私を王妃ではなくしてくださると言っていた。
夢は夢のままで終わる。3年間の魔法は、今夜目を閉じれば解けるのだ。
サラは何も持たない娘に戻り、田舎でひっそりと暮らしながらこの夢を思い出すだろう。
私のことを心配し色々と気を利かせてくれる女官長に、今日は疲れたからという理由で退出してもらった。
寝室への扉を開き、一度だけ大きく呼吸した。
豪華な調度品、柔らかなシーツに、淡い色のカーテン。改めて自分がいた場所が、どれ程凄い所か身に染みる。
初めてこの部屋に通された時も圧巻のあまり、声も出なかった。
最後まで慣れないと思ったものだけど、こうして見るとやはり私にしっかり馴染んでいた。
3年間、数える程しか陛下と寝台を共にしなかった。殆どが私の泣く場所だった。
王宮の厳しさに何度涙を流しただろう。
そして、陛下と同じ朝を迎えた時のシーツの冷たさにも。
私が去って、新しく王妃として迎えられる方にはそのような想いはさせないだろうか。
それとも私と同じように枕をしっとりと涙で濡らすのだろうか。
これが最後。ここで泣く最後の時だ。
初めてしたときと同じように枕に顔を埋め、思いっきり泣いた。
声が掠れても、涙が枯れても構わずに。
そうしてどれ程の時間が経ったのだろうか。
泣き疲れて眠る私の髪を撫でる優しい指先。
頬を伝っていた涙の跡をなぞり、額に落とされた唇。
それらが与える感触はあまりに心地よくて、覚めない夢の中を私は温かい気持ちで歩いていた。
声が聞こえた。
初めはくぐもっていて何を言っているのか聞きとれない。
しかし、足を進めるごとにその声が次第と大きく、ハッキリと聞こえてくる。
「愛してる、サラっ…愛しているんだっ…!」
幸せな夢の中で、声の主はそう言っていた。