01:偽りの王妃
「まったく嫌になっちゃう!」
苛立った声に私の足は反射的に止まった。
よく知った声だったから、という理由もある。
「声が大きいわよ、サリー。聞こえたらどうするの?」
「聞こえたって構いやしないわよ。どうせあの女には何の権限も無いんだから。“名ばかりの王妃様”には」
「じゃああの噂は本当だってこと?」
「本当よ!フィオナはいいわよね。私も移動申請してみようかしら。“新しい王妃様”へ!」
重厚なドア一枚隔てた向こう側の笑い声とは裏腹に、私は足元から冷えていく感覚がした。
手の中の小さなカフス。
サリーが落としたものだと気付き、後を追ったのがいけなかったのか。
普通の良家の姫のように、黙ってベルをならせばよかったのか。
後悔するには全てが遅すぎた。
足音を立てないように、静かにその場を後にする。
扉の向こうではまさか私がこうして聞いていたなんて思ってもいないだろう。
「まあ、王妃様。そんなところで何をなさっているんですか?」
「ええ…ちょっと気分が悪いから寝室に戻るわね。誰も入ってこないようにしてくれる?」
「それは構いませんが…お医者様をお呼びいたしましょうか?」
「結構よ。少し寝てれば大丈夫だと思うから」
曖昧な笑みだけを残して、私は寝室で一人泣くしかない。
涙が枯れるまで泣いたら、また私は偽りの王妃に戻れる。
そうしてここ3年、やってきた。今日もそうすればいい。
“名ばかりの王妃”
そんな風に自分が呼ばれている事に気付いたのはいつからだろう。
最初は傷ついたりもしてみたけれど、今となってはそうすることにも疲れていた。
何せ、否定する要素がまるでない。
私が真に王妃だったことなど一度もないのだ。
列国最強と謳われる国の王妃になって3年。
他国の美姫との縁談を断って、年若く優秀な王が選んだのは私だった。
実家は零落寸前の子爵家。婚約者にさえも見放された私が王妃になるなんて夢にも思わなかった。
それまで王家主催の舞踏会で2,3度、しかも遠目でしか陛下を拝見したことはなかったし。
誰もかれもが首を傾げたこの縁談。
それでも賢帝と名高い陛下と、私の結婚は民に祝福された。
まるでお伽噺のようだと持て囃されながら。
だけど現実は童話のように甘くはなかった。
この3年。私が陛下に頂いたものと言えば、実家への莫大な資金援助と美しいドレスや宝石の数々。
お陰で子爵家は持ち直し、家を継いだ長兄は滞りなく領地を守っている。
陛下との縁談がなかったら私は年老いた伯爵の許へ嫁ぐ話さえあったのだから。
それについては陛下に幾ら感謝してもしきれない。
月が変わるごとに贈られる最高級のドレスや宝石を見て、皆は口を揃えて言うだろう。
「王妃様はお幸せですね」と。
けれど皆は知らないから。陛下が私を愛していないことを。
結婚して3年もすれば大抵の夫婦には子供が出来るだろう。
ましてや王族ともなれば、子供は重宝される存在。
私に妊娠の兆候が出たことなどない。
理由は簡単だ。陛下と私はまだ一度も交わったことがないのだ。
初夜は陛下がご自分の手に切り傷を作り、流れた血をベッドに落としただけ。
まだ15だった私は性に疎く、それが夫婦の交わりなんだと勝手に納得していた。
流石に3年経った今は分かる。
陛下は私と交わるのも厭うくらい私を嫌っていらっしゃるのだ。
どこの国にも大抵後宮というものがある。
王の血をなるべく増やす為に。
この国も例に漏れず、陛下がまだ殿下だった頃から有力貴族の娘が3人後宮に入っている。
どの姫も私なんか比べ物にならないくらい素晴らしい家柄と容姿を持った方ばかりだ。
幼い頃から王妃になるべく教養を積まれてきた彼女たちにとって、私が王妃になったことはひどく自尊心を傷つけられたに違いない。
事あるごとに向けられる冷たい視線と、心ない言葉。
何より傷ついたのが陛下が彼女たちを抱いているという事実だ。
私と形だけのベッドを共にするのは精々月に1度か2度。それもお互い背中を向けて眠りに就く。
それ以外は陛下は自室で休まれるか、後宮のどなたかの部屋で一夜を過ごす。
それでも3年、なんとか堪えてきた。
私を妻に迎えたのはあまりの不遇さに同情したからなのかもしれない。
けれど偽りでもよかった。
私にとって王妃という立場よりも、オスヴァルト・アレキサンダー・ロゼの妻であることが何よりの幸せだ。
民のことを想い、強くあり続けようとする彼を私は心から愛している。
たとえ永久に愛されることがなくても、せめて邪魔にならないような王妃でいようと決めている。
だけど…私の役目もそろそろ終わるのかもしれない。
隣国の王女様が後宮入りするのだ。
そして私を排し、彼女を王妃にするという噂が実しやかに流れている。
“新しい王妃様”、とまだ顔も見たことのない王女を一部の侍女たちはそう呼ぶ。
噂によれば、絶世の美女でありながらお心も優しくいらっしゃるそうだ。
侍女たちだって私のような平民出の王妃よりも、高貴な血筋をお持ちの王女に敬意を払って当然だ。
いつかはこんな日が来るんじゃないかと覚悟していた。
その時はなんの未練も残さず王宮を去り、どこか片田舎でひっそりと暮らそうと思っていたのに。
決意は涙となり、枕を濡らす。
思っていたよりも現実は辛く悲しかった。
王妃でなくなったら、私が陛下の傍にいる理由なんて皆無だ。
陛下。私のただ一人の愛する方。
貴方の幸せに、私は必要ない。
輝かしい未来に私はいてはいけない。
だから。最後の我が儘をお許しください。