第2話 恥ずかしがる男
私の名前は、花寄さち子。
市役所勤務八年目の三十歳。
この十月で会計課の主任になった。
♡ ♡ ♡
「ねえ、畑野さん」
さち子さんの机の向かいには後輩の支払い担当、畑野が座っている。
去年入ったニューフェイス。クールなインテリ女子風の見た目で、性格もその通り。
「はい」
エクセル作業をやめず、キーボードを叩きながら畑野は返事した。うーん、クール。
「福祉課の鷲見君、知ってる?」
若い人のことは若い人に聞くのが一番。さち子さんはそう思って畑野に聞いた。
畑野はやっぱりパソコン画面から目を離さずに答える。
「知ってますよ、同期なんで」
「ああ、じゃあ彼も二年目なんだ」
「でも、鷲見くんは就職浪人したそうなので、歳はひとつ上ですけど」
補足説明助かる。だが歳が上とかはパーソナル過ぎてさち子さんの手に余る。
本人以外からそんな事聞いて良かったんだろうか。
鷲見君は去年の新人。今はもう十月の人事後である。
入って一年半以上の職員が、今更納品書の日付見落とすかな?
さち子さんは鷲見君にますます不思議な気持ちを持った。
「私、昨日初めて鷲見君に会ったかもしんないんだけど」
福祉課と会計課は同じ一階。
福祉課は伝票だってかなり多い。その課の去年の新人が、今初対面ってどういう事?
しかしさち子さんの疑問はすぐに畑野からの情報で解消される。
「そうでしょうね。鷲見くんは今月本庁舎に来たばかりなんで」
「ふえ?」
さち子、わかんない。思わず首を傾げると、インテリ畑野は無表情でまた補足する。
「鷲見くんは入ってすぐに児童センターに出向してました。十月からこっちに戻ってきて、今は介護担当です」
「おお! そういう事か!」
謎は全て解けた。さち子さんの視界はようやく明るくなる。
だが、まだ微妙に解せないことがあった。
「んん? でも、去年入ったなら全庁挨拶で見たはずなのに」
「何言ってんの、花寄さん」
「へ?」
さち子さんと畑野の机を向かい合わせた隣、いわゆる「誕生日席」位置に係長の涌井が座っている。
既婚者で子持ちの四十歳、延長保育が死ぬほど嫌いで終業時間になると脱兎の如く迎えに帰るお父さんである。
ちなみにその妻は年下なのに涌井よりも稼ぎがいいらしい。カッコ笑い。
その涌井が、あごひげをじょりじょり擦りながら二人の会話に入ってきたのだ。
ニヤニヤしながら彼が言うには。
「去年の四月一日は午前休だったでしょ」
「あ!」
さち子さんは唐突に思い出した。
去年の新年度初日から、アレルギーで病院に行ってから出勤した事を。
それにしても涌井の記憶力、恐るべし。
「そっかあ。そう言えば畑野さんの同期って、私全然知らないや」
去年の全庁挨拶を見なかったさち子さんは今度こそ全てを納得した。
向かいで畑野も苦笑している。涌井もますますニヤニヤしていた。
「会計課は奥まってるからねえ、他の課ともそんなに交流ないし」
だっはっは、と涌井はとうとう声を上げて笑った。さち子さんのお間抜けがツボったようだ。
「花寄先輩」
「──うわぁ!」
急に耳元で呼ばれてさち子さんは飛び上がるほど驚いた。
噂をすれば、鷲見君の登場である。
「す、鷲見君! 黙って入ってきたらダメでしょ!」
驚きで思わずさち子さんは大きな声を出してしまった。
「すいません」
だが鷲見君は特に傷ついた風もなく、一言もっさり謝った。
イケメンなのに、相変わらず飄々としてるな、この子は。
そう感じたさち子さんは、驚きのテンションのままちょっと叱ってしまった。
「所属課以外に入る時は、失礼しますって声かけて! 特に会計課は現金数えてたりもするんだから!」
「すいません、声かけるの恥ずかしくて」
「それが出来ない方が恥ずかしいから!」
そこまで言ってさち子さんはしまったと思った。自分の課ではない子を叱るなんてやり過ぎたかも。
恐る恐る様子を窺うと、鷲見君は俯いて震えていた。
やっべえ、泣きはしないだろうけど、やべえ。
「……鷲見くん、なんか、喜んでない?」
さち子さんが困っていると、畑野は怪訝そうにそう聞く。
何だって? 喜んでいるとはどう言う事?
「鷲見君? 大丈夫?」
さち子さんがその顔を覗き込むと、鷲見君は震える声で言う。
「……やばいっす」
「何が?」
「とりあえず、ヤバイっす」
「だから、何が?」
震えた声がちょっとうわずっている鷲見君。
さち子さんの疑問には答えず、鷲見君は口元を緩めて一礼した。
「ありがとうございました」
疑問符だらけのさち子さんを置いて、鷲見君は帰ってしまった。
何の用事だったの、あの子……
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