第1話 知っている男
私の名前は、花寄さち子。
市役所勤務八年目の三十歳。
この十月で会計課の主任になった。
♡ ♡ ♡
市役所の会計課ってどこにあるか知ってるかい。
たいていは誰にも気づかれない奥まった所だよ。
だって、市の財産を管理している部署だからね。内緒で当然さ。
これは、そんな陸の孤島で繰り広げられる愛と笑いの物語である。
♡ ♡ ♡
今日も今日とて、会計課主任のさち子さんは伝票のチェックをしている。
審査担当のさち子さんは市役所の支払い全てに目を通す。
曇りなき眼で不備がないかどうか確認するのだ。
「む」
微かに声が漏れた。
さち子さんが不備を見つけた。
ポストイットを取り出して、赤鉛筆からボールペンに持ち替える。
起案者は「福祉課」主事、鷲見というハンコ。
わしみと読むのかな? さち子さんが知らない名前だった。
不備があるのは、起案ではなく添付された納品書。
請求書よりも後の日付になっている。
さち子チェーック!!
物品は、購入の意思決定の後、納品されてから請求がある。
つまり、請求書より後の日付の納品書などあり得ない。
『納品日は請求日の前にしてください』と書いて、「花寄」ハンコをポン!
課ごとの返却ボックスに入れて、やり直し。頑張ってねー。
そんな軽いエールをこめてさち子さんは次の伝票に移るのであった。
♡ ♡ ♡ 次の日 ♡ ♡ ♡
「花寄さん」
音もなく、人影がさち子さんに近づいた。
すぐ横に、若いイケメンが立っていた。
「伝票、すいませんでした」
ああ、昨日の? とさち子さんはすぐにピンとくる。
首から提げている名札に「福祉課主事」とあったからだ。
「ええっと、福祉のわしみ君?」
「鷲見です」
「あ、ごめんなさい」
「いえ」
なるほど、そう読むのか。
人の名前は難しい。さち子さんは戸籍課にいったことはないけれど、この仕事をしていればいつもそう思う。
さち子さんは鷲見君から修正済みの伝票を受け取って、その場でチェックした。
えらい! 納品書をちゃんともらい直している!
たまに修正液とかで直してくるおバカさんがいる。そんな輩は心でチョップだ。
「うん、直ってる。ありがとう。決裁に回しておくね」
「よろしくお願いします」
正しく納品書と向き合える若者は好感触。
さち子さんは笑顔で褒め称えた。
だが、鷲見君は無表情で感情の起伏も見えなかった。
イケメンなのに、随分無愛想な子だ。
おっと、イケメンだからって全部が陽キャではないか。偏見、ダメ。
さち子さんはそう自戒して、鷲見君を見送ろうとした。
しかし、彼はその場にまだ立っている。
「あの……」
「なに?」
質問でもあるのかな、いいよ、どんどん聞けばいい。若いうちは聞くのが仕事。
前のめりのさち子さん。福祉課は激務で忙しいから、同じ課の先輩に伝票のノウハウなんて聞けないだろう。
代わりに何でも教えてあげる。さち子さんはそんな気持ちで鷲見君に向き合った。
し、かーし!
若者の言動はさち子さんの想像の斜め上を行くのである。
「さち子先輩って呼んでもいいですか」
うん?
私、この子とは初対面だよね。なんで名前知ってるんだ?
あ、名札を見たのか。めざとい子だな。
距離がバグっている新人に、さすがのさち子さんもちょっと牽制。
「ええっと、下の名前はちょっと……」
「じゃあ、花寄先輩でどうですか」
「まあ……それなら……」
同じ課じゃないのに、先輩呼びしたいなんて変わった子だ。
それとも、馴れ馴れしくして伝票審査を甘くしてもらおうとしてるのか?
さち子、ナメられた!?
そんな不審な気持ちが芽生えたさち子さんに、当の鷲見君はパッと笑って一礼した。
「ありがとうございます、花寄先輩!」
イケメンの笑顔が眩しい。
鷲見君はそう言って、颯爽と会計課を出て行った。
不思議な子だったな、とさち子さんは思う。
まあいいや、次の伝票を見ようと机に向き直った時、さち子さんは気づく。
うん?
待って。
私、あの子とは今日が初対面。
なのに、どうして私の顔、知ってたの?
お読みいただきありがとうございます
感想などいただけたら嬉しいです!